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《善》とは [中庸]

先日のこと。
混雑している地元の駅の『スタバ』に入り、1つだけ空いていた2人用の席にカバンを置き、カウンターでコーヒーを受け取って戻り、ゆっくりと飲んでいました。
「これからどこへ行くでもなく、1人だし、家に帰ってからまた夕食に出かけるとするか」
そんな感覚で時間を過ごしていると、そこへ、50代ぐらいの男性が入ってきて、私と同じように店内を見渡し、席が空いていないことを確認して、出ていこうとしました。
そこで私は咄嗟に立ち上がり、幸いその人がこちらを向いたので、今居た席を指差し、無言で「もう出るからどうぞ」と、意思を示しました。
私はカップの底に残っていた微量のコーヒーを飲み干し、カバンをもって立ち去ろうとした時、その人は、
「ご親切にありがとうございます」
とお礼を言いました。
私はただひと言、
「ええ、もう終わりますから」
と小声で言って、出ていきました。
まあ、よくある日常のやり取りなのですが、もし私が底に残っていた微量のコーヒーを飲むという「自分の都合」でその場にとどまって、その男性を追い遣ったとしたらどうなったのかと、思い返したのです。
ふと8年前のことを思い浮かべました。
「カネを使うと、なぜかカネが入ってくるんだよ」
とM親分に言ったら、
「そう、それ不思議だよね」
と返ってきました。
景気の好循環はこれに尽きるのですけど、自分一人がやってもすぐにどうなるわけではありません。
ただ、この世界は「五次元世界」です。
みな「自分」なのです。
みな繋がっているのですから、何らか影響を与えていることは間違いないでしょう。
今回も私が席を譲ったからといって、すぐに世の中が動くわけではありませんが、積極的に働きかけることで、何らかの形で結果となって表れるはずです。
そんなことを思い巡らせていました。
でも、「結果」を期待するのは、なにか変です。

その男性の言った
「ご親切に・・・」
そこで思い出しました。
3カ月ほど前のこと、空き時間に外に食事に行く途中、いつもの道を歩いていたら、向こうから歩いてきた60歳前後の男性が私に会釈をしました。
知り合いかと思って私も咄嗟に会釈をしましたが、そうではないらしく、どうも駅へ行く道がわからないので教えてほしいということでした。
私は「えーと」と辺りを見渡した後、「ああ、こっちです」と言って道案内することになって、脇道に入って一緒に歩き始めると、その男性は言いました。
「わざわざご親切に」
「何か信仰していらっしゃるんですか?」
と聞くので、私は事情を説明しようか一瞬迷いましたが、もしも宗教団体の人だったら、かえって面倒なことになるので、
「いえ、まあ日本人はみんなそうじゃないですか?」
「どうせこっちに用があるので」
とはぐらかし、大通りに差し掛かった角で、右手で指し示して、
「ここを真っ直ぐ行けば駅です」
と言って別れました。
それにしても、「親切にする」というのがそんなに特別なことなのでしょうか?
私は当たり前だと思っていたのですが、どうもそうではないらしいと今さらながら知りました。
【すべてはみな繋がっていて、世界=自分の世界=自分そのもの】
そのような私の省察が行動に顕れているのか、その男性がその筋の人だったのか、いずれにしても《敬虔さ》を見破られてしまったわけです。
おそらく、私は霊的自覚を通して、エゴを「消す」ことはできなくても「エゴイズム」には陥らなくなり、それが「親切な行為」となって顕れているのかもしれません。

この「自発的な衝動」が『性善説』や『善知識』の《善》に当たると考えればよいでしょう。
神仏の光とか、慈悲とか、愛とか、どう表現してもいいと思います。
反映として現れる地上道徳的な善行(小善)ではなく、根源にあるものです。
それは霊的自覚や諦観によって体得されるものです。

神仏の「光(愛・Agapē)」が地上の人間に当たって、その人や集団の価値観やその場の事情によって「明と暗」に分かれ、世間一般では「情愛(Affection)=明・非情(Heartless)=暗」、ある場合(職人の師弟関係など)には「情愛(Affection)=暗・非情(Heartless)=明」となって顕れます。(厳しさが優しさ、愛の鞭)
私の場合はほとんど前者ですが。
世間一般の“間違い”は、この地上における「影」の〈小善〉を『性善説』の《善》だと受け止めてしまうことです。
私が再三言う〈『性善説』の履き違え〉とはこれです。
ソクラテスの「善く生きる」というのは、価値観によって変わってしまう地上の〈小善〉ではなく、地上を超越した《大善》のことであって、「諦観」をもって生きること、真の意味で「幸福」であることを知って生きることと言えます。

いずれにしても地上にへばり付くことが《大悪》であり、〈エゴイズム〉とは自分のエゴを超越(諦観)できないことによる《大悪》です。
地上の〈小悪⇔小善〉を超越すること、
田坂広志氏の言葉を借りれば、
「エゴがある自分を認めて、もう一人の自分を設けて、静かに見つめること、諦観すること」
が《大悪》から離れること(荀子の『性悪説』の真意)であり、それがすなわち《大善》なのです。
三木清が言った、
「他人に施したから幸福なのではなく、幸福だから人に施すことができる」
というときのこの「幸福」とは、「霊的自覚」あるいは「霊性を得ること」と言えます。
つまり神仏の「光」に気付くことです。
そのように振り返ると、私がスタバで席を空けて譲ったことも、結果を想定した「計算」ではなく、(雑毒の善であったとしても)ふと自発的に出た行動だと自覚できるわけです。
この自発的な部分、純粋な部分に着目していただきたいのです。
順番を考え直していただきたいのです。
地上の「小善⇔小悪」を超えた《善》が孟子の伝える真意です。

《聖人や賢人またはスピリチュアリスト》が言う【善悪】とは、《大善⇔大悪》〔神のもの・天国・極楽浄土〕のことであり、地上の〈小善⇔小悪〉〔カエサルのもの・地獄〕を含んではいるものの、「仮のもの」であると知るため白か黒かに終始せず、諦観をもって超越しています。
なお、地上的な「正当・不当」に関しては、〈実利害損得〉のみ問題にし、世法をもって処理するだけで、それ以上は追及しません。
それに対して、〈多数派である地上の住人たち〉が言う【善悪】とは、〈小善⇔小悪〉〔カエサルのもの・地獄〕のことでしかないため、小善、偽善の延長に「本物の善」を追い求めてしまって、対極の〈小悪〉をすべての元凶として駆逐しようとするため、価値観の違いで争い事が絶えず起こり、時には自分自身を攻撃してしまいます。(まさに地獄です)
なお、聖人や賢人の「小悪を含んで超越するあり方」を「悪を“正当化”している」と受け止めるのです。

*昨日は『バーミヤン』で、隣にいた親子(父母と小学生の女の子)が帰ろうとした時に、座席に何か黒い衣類のようなものが見えたので、最後に去ろうとした女の子に、
「あっ!忘れ物かな?」
と声をかけ、事なきを得ました。
女の子は、「ありがとうございます」と言って軽く会釈をして去りました。
⁑今日は夕飯に行く途中、駅近くで自分の前を歩いていた若い女性が、カギを落としていったので、すぐに私は拾い、追いかけて声をかけました。
「鍵を落としましたよ」
それでも一向に振り向かないので、速足で近くまで行って声をかけましたがやはり振り向かず、たまたまそこにいたお巡りさんが、女性の肩を叩いて気付かせて、ようやく鍵を渡すことができました。
「ああ、ありがとうございます」
と言う日本語からして、どうやらその女性は中国の人でした。
お巡りさんは私に、
「ご苦労様!」
とひと言いました。
何の変哲もない日常の営みの中に、実は重要な意味が含まれているのです。

【※参考】〔『太陽の法』より引用〕
古来から、善悪二元論については、様々なことが言われてきました。その根本問題は、人気のつくられた世界に、なぜ、悪が存在するのか、悪とは、仏自らのなかにひそむ性質なのかということでした。しかし、悪は、もちろんのことながら、仏自らの性質、すなわち仏性ではありません。悪とは、仏の大願成就を阻害することです。あるいは、仏から自由を与えられた者同士の相剋、お互いの自由と自由がぶつかりあって、一定の時間、ゆがみなり、ひずみが、心の世界に、あるいは、現象世界にあらわれているものにすぎないのです。つまり、(叡智界・実存界における)根源的存在論としてではなく、(地上現象界・差別界における)機能論、行為論として悪(小善に対する小悪)はあるのです。〔日月神示:弥勒は悪を抱いて参る〕

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小悪が大悪を防ぐ [中庸]

★サッチャー元首相の言及。
「確かに戦争は悪です。しかし、その戦争によってもっと巨大な悪をストップせねばならぬこともあります。もし連合国がヒトラーをストップしなかったら今頃世界はどうなっていましたか」
【私のコメント】
確かに戦争は悪(小悪)です。しかし、その戦争によってもっと巨大な悪(大悪)をストップせねばならぬこともあります」
(小悪によって大悪を征す)
・・・・・教師の「体罰禁止」をさかんに唱えて、教師を「銃や警棒を使えない警官」にして、面白がっている輩に聞かせてあげたいね。
「確かに体罰は悪です。しかし、その体罰によってもっと巨大な悪(悪魔・モンスターの活躍)をストップせねばならぬこともあります」ってね。
自分が平穏であっても、相手が攻撃しないとは限らない。
好戦的な輩は必ずいる。
地上の人間には「知性」があり欲があるからだ。
特に、思考が地上的で「感覚の目」だけ捉える人は「強欲・貪欲」が尽きない。

戦争は誰もしたくない。
でも広い意味での「防衛」は平和実現の〈方便〉として必要だ。
小悪は大悪を防ぐ。
弥勒は悪を抱きて参る。(日月神示)
戦争の対は平和ではなく、非戦だ。
〈戦争(小悪)-非戦(小善)〉という一本の地上の直線を超越してこそ、《平和(大善)》を実現し、地上の直線にへばり付く〈地獄(大悪)〉から抜けられる。

★「言葉そのものにはじめから絶対的な正や負の価値がある」
と思い込まされるというのは、意外と深刻なことであって、省察しないと、他人を理解し無益な中傷誹謗を回避するうえでかなり障害になるのです。
たとえば、「勤勉と怠惰」です。
日本人のほとんどは「勤勉=善、怠惰=悪」と幼少から教え込まれているでしょう。
ところが欧米では「勤勉=悪、怠惰=善」が一般人の価値観なのです。
「そんなバカな!」
とほとんどの日本人は言うかもしれません。
「勤勉は確かに考えようで、日本人でも、健康面を考えれば必ずしも善とは言えない」
「でも、怠惰は怠惰であって、良いわけがない」
「それは〈怠惰〉ではなく他の言葉が使われているに違いない」
ときっと思うでしょう。
実は私も「怠惰=善」というのは違和感があります。
良い意味で使われることがほとんど見当たらないからです。
でも人生で一回だけ経験しました。
イラストの師匠、清藤先生の言葉、
「怠けようよ・・・」
です。
絵を描くうえで、「手を抜く」ということは、むしろインパクトや強調効果を考えた場合に必要なことで、「必要以外に描き込まない」のが鉄則だからです。
欧米人にとって、「生活」よりも「人生」を充実させるためにむしろ「怠惰」が重要だということです。
日本人は、
「今日できることは今日のうちに済ませろ」
と刷り込まれていますが、欧米人は、
「明日できることは明日に回せ」
と刷り込まれているようです。
「待ち合わせは、最後に来た人に合わせる」
「自由に仕事し、いつでもサボる」〔『最後はうまくいくイタリア人』より〕

それでも、日本人の中には、
「欧米人は、必要ないからやらないだけであって、それは怠惰ではない」
「必要なのにやらないから怠惰なのだ」
と食い下がる人もいるでしょう。
ところが私たち日本人は、「怠惰」という言葉のうちに暗黙のうちに「あってはいけないこと」という負の価値がはじめからあると思い込んでこの言葉を使っているのです。
(〈考えていない日本人〉の【差別】と同じ)
私も日本人だからその気持ちはわかります。
なぜそうなるのでしょうか?
欧米人は(清藤先生も)必要か必要でないかはともかく、「怠ける」とか「サボる」という行為に対して、「後ろめたさ」などの負の感情はないと言います。
「手を抜く」という肉体的表面的な〈行動〉をただ「怠惰」と表現しているだけなのです。
もう一度取り上げますが、
日本人は、
「今日できることは今日のうちに済ませろ」
欧米人は、
「明日でもできることは明日に回せ」
言い換えれば、
日本人は、
「出来るのなら『必要がなくてもやる』のが望ましい」
欧米人は、
「出来ても『必要がなければやらない』ほうが望ましい」
です。
それに加えて、日本人は「必要なのにやらない」という道徳的に負の価値をはじめから付随しているものとして「怠惰」という言葉を使うため、上記の、
★『必要がなくてもやる』という〈道徳的必要性〉
に反すると、
☆「後ろめたさ」という〈負の感情〉
が働いて、それを【怠惰】と表現するのです。
〈負の価値そのもの〉が【怠惰】になってしまっているのです。
〔思考停止した日本人の【差別】も同じ原理〕

*左寄りの日本人にとって〈地上的道徳〉は絶対であって、守らなければ人間失格であり、怠惰はその〈道徳心〉に反するからです。
地上の〈(小)善・(小)悪〉に思考がへばり付いているからです。(ユリゼンの僕)

⁑右寄りの日本人は〈権力〉に対して絶対視し、一方的な思考が働きます。
私は散々経験しましたが、右寄りの人は権力に「従わないこと」ではなく、権力に
【媚びないこと】
を悪とするのです。(ベリアルの子)
「なんで媚びないんだ」
「順応しなきゃだめじゃないか!」
という具合に。
順応性の高い女性はもとより、中学生までもが言うのです。
私にはそれは、
「この町の人はみなコレラに罹っている」
「だから、あなたもコレラに感染しなければならない」
というように聞こえるのです。(何度も言いましたけど)

※池波正太郎が言っていた戦後日本の、
「白だ、でなければ黒だ」
とはこれです。
まったく、頭がおかしくならない方がおかしいのです。

組織内部では、前述のように、
「プライド(自尊心)は余計なものだ」
「言い訳をしてはいけない」
などと、従業員同士で言い合っているのです。
これでは日本人は幸せになるはずがありません。
物質的生活の確保のためとはいえ、「権力」と「地上道徳」に帰依して「思考停止」してしまっては、霊的に言って進歩がなく、地上人生の意味がありません。
それを「我を捨てている」と美化する寺の住職もいるというのだから呆れます。
我(欲)を捨てているどころか、我(欲)があるからこそ「魂(なくてはならないプライド)」を売ってしまっているのです。
自らが奴隷となって身の安全を確保し安堵を得るという「奴隷意識」です。
それを「お国柄だ」(思想、様式の違い)と言って誤魔化す人もいます。
もちろん、欧米人にはそんなものはありません。(あっても嫌います)
むしろ真逆です。(アメリカの脱走の映画を見よ)
「プライド(自尊心)は必要なものだ」(冒頭のサッチャーの言及)
「言い訳をしてもいい、むしろ言い訳をしなければやっていけない」

そのため、それを「思想の違い」として片付ける人が多いのですけど。
様式の問題ではありません。
日本は病気なのです。
そういう人たちは、そうでない人に対して、
「あんたは外人なんだよ」
と言って、ノケモノにするだけなのです。
〈様式〉の(違いの)問題ではなく、地上の仮のものである「思想」にへばり付いて一方的にしか思考が働かない《状態》が霊的に大問題なのです。
地上の善悪に対して、〈白〉か〈黒〉なってしまっているのです。
超越して高い視点(霊的視点)に立てないのです。
《大悪》なのです。
霊的病気なのです。
「権力(ベリアル)」も「地上道徳(ユリゼン)」も〈仮の掟(偽神)〉であり、あくまで〈秩序〉を保つために方便としてあるものであって、帰依するものではありません。
帰依したからといって、社会が《平和》になるわけでもなく人間が《幸福》になるわけでもありません。
今の日本は、それを省察する習慣も切っ掛けもありません。
私自身はというと、ともあれ権力には「従う」けれども、「媚びる」ことはありません。
私がそんなことを言うと、
「それは逃避だ」
「逃げ口上だ」
「自己弁護だ」
という人が必ず現れます。
私は「魂の奴隷」になることから逃れているだけなのです。

これもまた話は同じで、「逃げる」という言葉に、はじめから「負の価値」が付随しているという前提で言うのです。
ならば、その人は在宅中の自宅が火事でも逃げないのでしょうか?
日本中、今はまさに自宅が家事なのです。
まさに『(天山)遯』の状態なのです。
その人たちは、「地上の掟に帰依している」というまさに「火事の状態」だということが分かっていないのです。
実際に私はそれで《人間》が崩壊した人をたくさん知っています。

【差別】も同様に本来は表面的な「行動」を言うのです。
〈言葉〉とはあくまで客観的な行動を指すもので、人によって正負・善悪・損得が曖昧なこと、すなわち「善悪の意識」にやたらと使うものではありません。
それを破ってしまったから日本人はおかしくなったのです。
それで〈野暮〉が蔓延しているのです。

最近、
【生徒の英語に「garbage〔ゴミ〕」発言 外国籍の教師“アメリカンジョークだった”】
という見出しがありました。
〔私のコメント〕
「温室育ち」を「腫れもの扱い」し、
学校側も
「不適切なものだった」
と「自己保身」を図る。
(仮のものである)地上の道徳や法律、コンプライアンス等で、自分や他人を縛り付けているのが今の日本。
これじゃ「幸福度が低い」のは当たり前。
どこに「人間」があるのかね?
〔[↑]1 [↓]3〕

【福岡・宮若市長「女は子供を産んで初めて女になる」…新たな不適切発言が発覚し陳謝】
〔私のコメント〕
「不適切」かどうか、そんなのとり方次第でしょ?
この件に限らず、こんな議論もうやめな!
〔[↑]23 [↓]34〕

言葉そのものに「誰にとっても絶対的に決まった正負の感情や価値」が予め付随していると思い込んでいるのです。(思考が地上にへばり付いた唯物論・実在論)
そのような人が日本に溢れているのでは、今にどんな【言葉】も使えなくなってしまいます。
結果的に、そのような人たちは、「あんたは偉い!」などと言って【ほめ殺し】をする輩に軽くひねられてしまうのです。

一方で、近頃こんな記事がよく見られます。
【「心の病」で休職した公立教員、過去最多 前年度比10.9%増】
〔私のコメント〕
日本そのものが〈精神疾患〉なのだから、教員が〈精神疾患〉になるのはむしろ正常な反応だ。
ならない人は「鈍感」と言える。
作家の池波先生が、
「戦後の日本人は、〈白だ〉でなければ〈黒だ〉と言う」
「頭がおかしくならないほうがおかしい」
と言ったのが、まさにこれなのだ。
[黒ハート]1 〔[↑]7 [↓]0〕
要するに、日本がおかしくなっていることは、実はほとんどの人が認めているのです。
ただ、その原因やメカニズムが解っていないのです。
多数派が、その原因と対策を〈制度〉とか言葉の〈表現〉とか、「末端のもの・地上的なもの」に求め、そしてまた白か黒かと地上的に「解決」しようとしているのであり、ピントがずれているということです。
胃腸炎の患者に、医者が風邪薬を処方して、余計に悪化しているという具合です。

★以前にも取り上げた、
「スピリチュアリズム普及会による『シルバーバーチの霊訓』の翻訳」
においても顕れています。
キリスト教でも仏教でも、人の死そのものを忌み嫌うことはありません。
誰もがみな死ぬのですから。
(☆社会通念としてある死を忌み嫌う思想は、殺人が横行しないように、秩序を保つために仮に置くものです)
それはまた、「自分=自分の肉体」ではないこと、自分が霊的存在であることを自覚することでもあります。
むしろ肉体の死は人生の完成(目的)を意味し、霊的観点からすれば祝福すべきなのです。
だからと言って、『愛する人の死を悲しむのはいけない』ということではないのです。
誰だって愛する人が死ねば悲しいに決まっています。
地上の人間には地上の事情があるわけであり、それを酌むのが聖人の教えです。
愛する人の死に際して悲しむのは、たしかに「自己憐憫」です。(シルバーバーチはそれだけを言っているのです)
ところが、スピリチュアリズム普及会の人の言い方からすると、実際に愛する人に死に際して「自己憐憫」で悲しんでいるのは、
「死んだ人を憐れんでいるのだ」すなわち「霊界の真理を知らないからだ」
と決め付けるような解釈なのです。
それならば、学校の卒業式で泣く人は、バラバラになる友達の卒業や門出を祝福しないというのでしょうか?
いささか短絡的な思考法です。
そうではなく、「自己憐憫」は「自己憐憫」でよいのです。【カエサルのものはカエサルに】
肉体を持っているのですし、感情もあります。
意思疎通ができなくなって、ショックを受けるのは当然です。
だからと言って、誰もが死んだ人に「不幸」をなすり付けているわけではないでしょう。
もちろんスピリチュアリズムの真理を弁えていれば、悲しみに「のめり込む」ことはないということです。【神のものは神に】
それだけのことです。
(*再三登場モーツァルトが友人Hが亡くなった時に記述した、「Hを気の毒だとは思いませんが、残された家族が気の毒でなりません」がすべてを物語っています)
スピリチュアリズム普及会の人間とあろう者がこのような思考であることに、むしろ私は嘆きます。
スピリチュアリズム普及会の人たちも、やはり今の日本人なのでしょうか。
ハッキリ言って、「地上の道徳」に毒されています。
概して地上の掟にのめり込むと、〈差別〉や〈怠惰〉の例のように、思考が白か黒かになって「寛容性」を失います。

「勤勉=善、怠惰=悪」という〈刷り込み〉は、偏った思想すなわち地上の道徳であり、日本という独特な国の秩序を保つための方便として必要ではありますが、あくまで「仮のもの」であって、それを省察抜きに「帰依」してしまうと危険なのです。
イエスやブッダなど古今東西の聖人たちはこれ(仮のものだということ)を言っているのであり、その点で今の日本人は道徳律を司る〈偽神(ユリゼン)〉に帰依してしまっていて、霊的に最悪の状態なのです。
つまり地上の道徳の〈(小)善・(小)悪〉に思考がへばり付いてしまって超越できないのです。
カエサルのものを神(偽神)に返しているのです。
これが《大悪》と呼ばれるものです。
専ら戦後の左翼思想に因るかどうかは微妙ですが、再三言う〈性善説の履き違え〉が原因です。
〔※性善説の善は、地上の〈小善〉ではなく、〈小善⇔小悪〉を超越した《大善》です〕
〔※昨今の著名人や有名人が、道徳に反することをしたとかで、プライベートなのにもかかわらず吊るし上げて仕事から排除するのも、その反映です〕

上述のイタリア人をはじめとする欧米人の価値観は日本人と真逆でしょう。
地上の価値観(仮のもの、小善・小悪)なので、どちらが良いとか悪いとか決めることはできません。
「価値観(の違い)」の問題ではないのです。
ただ、その真逆の思想があることを知って、自分たちの思想が地上における〈仮のもの〉であることを《省察》するきっかけを与えてくれるのです。
まさに「〈小悪〉によって、《大悪》を防ぐ」のです。
そして、〈小悪〉によって地上の善は〈小善〉と覚り、《大悪》から逃れて《大善》に向かうのです。
〈荀子〉を理解することによって、《孟子》を真に理解するのです。
地上(現象界・差別界)にいる人間は〈影〉しか追えないけれど、それを知ることで、全速力で〈影〉を追わなくなります。
〈第一の絶望〉を認めることで、《第二の絶望》に陥ることから逃れます。
そして聖人たちの言うように《善く生きる》ことができます。〔この善は大善のこと〕

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いま日本で何が起きているのか? [霊的存在]

いま、日本は暗いニュースで溢れて、嫌になっている人も多いと思います。
何が原因なのでしょうか?
どうすればいいのでしょうか?
おかしいとは感じているでしょうけど、何がどうなのかわからない人も多いと思います。
どうやら、外部ではなく、人の内部に原因がありそうです。
私に言わせれば、思考に原因があります。
対策とは解決ではなく思考の「明透化」、そして「解消」です。

★では、いま日本で何が起きているのか?
例を挙げるとこうです。
ゴルフ場のティーグラウンドは男性に比べて女性用は前にあります。
れっきとした〈差別〉です。
男女の身体的特性に合わせた「必要な差別」です。
ところが、女性はむしろ優遇されているにもかかわらず、
「女性を侮辱している」
と取る人がいるのです。
そして、それに反応して騒ぎ立てる変な第三者、その中に影響力を持つ要人や為政者がいます。
これが今の日本のすべてです。

〈平等〉という劇薬の副作用であり、〈女尊男卑〉になることさえあります。
問題にしなくていい差別や、必要な差別に対してすら、
「どう思ったか」
を問題にする輩が多いのです。
厄介なのは、そういう輩は、
【悪く思うこと】が【差別】だと言うのです。
その輩は、人が良かれと思ってした行為に、『負の価値』を勝手に付随させて非難するのだからたまったものではありません。(もちろん「思う」だけなら「問題」にすることはないのですが)
おまけに、「ティーグラウンド」を男女に分けたこと自体は【差別ではない(区別だ)】と言い出すのですから呆れます。
もっとも、話にならないから取り合わずに放っておけばよいのですけど、そういう輩に乗っかって一緒に問題にして非難する〈性善説〉を履き違えた左系の変な「第三者」がたくさんいるのも事実です。
この第三者が、いつも言う「何も考えていない人」です。
そういう輩が活躍すると、為政者などの影響力のある人たちが動き出し、まともに【言葉】が使えなくなり、世の中が息苦しくなり、他人と関われなくなるのです。
これでは社会が硬直しやがて崩壊します。
そして、賢人は隠遁します。
地上の法は、何かトラブルが起きた時にスムーズに「解決」を図るために「予め」決めておくものであって、けっして起きる前から「意識」して行動するためのものではありません。
地上の道徳は、トラブルがなるべく起こらないように、予め用意した偏った思想であって、むしろ「無意識」に行動できるのが望ましく、単に秩序を保つための方便(仮のもの)だということを省察する必要があります。
それがわからないのが(考えていないのが)、今の日本人の多数派です。
地上の〈仮の掟〉に帰依してしまって「野暮」が蔓延しています。
〔*言い訳をしてはいけない、プライド(自尊心)があってはならない、と「使われている者同士」が言い合っているとか、キリがありませんが〕

★今年の正月に古い友人の所へ行った時のこと。
法学部出身の友人が、未必の故意など、お得意の話をしていた時に、私はトイレに行く途中で、彼に問いかけました。
「死刑執行人は殺人罪にならないの?」
すると彼は、
「それは、手術の時に執刀医がメスで身体を切るのと一緒だ」
と答えました。(なぜ単刀直入に「立場が違うから」とか「はじめから偉い人がいなければ社会が成り立たないから」と言わないのか?)
私がトイレに行くので、途切れてしまいました。
その続きはありませんでしたが、彼に訊くつもりでした。
「じゃあ、執刀医は傷害罪にならないの?」
「なんで?」
おそらく、彼はこう答えたでしょう。(答えたがらないかもしれません)
「大義名分だよ」
そうです。
死刑も禁錮刑も、物質的には「殺人」や「監禁」と同じ行為です。(「いや、死刑は殺人ではない」と言い張る人もいます)
殺人や傷害、監禁も、物質的に同じ行為であっても、立場によって全く別の評価(言い方)になるのです。
つまり社会には「義」において必要な「悪」があるわけです。
ついでに言うと、「はじめから偉い人」がいなければ社会は成り立たない(秩序を保てない)ということです。
それを認めることです。(民主主義病、悪平等に冒された日本人には抵抗があるようですが)
「差別」も同じことです。
〔もちろん、秩序を保つことは平和や人間の幸福のための方便であって、平和や幸福そのものではありません〕
それがまったくわからない人が日本人にたくさんいます。
というより「何も考えていない人」が溢れています。
「平等だ!平等だ!・・・」
と地上的思想(小善)の一点張りで。(偉い人はみんなが決めるんだ!・・・と左翼系が)
その根源はやはり絶対的客観的なもの(適切か不適切かなど)があるという前提で思考や議論を始める「唯物論(実在論)」です。

*今、性加害が取り沙汰されているけど・・・。
両者の言い分が食い違い、「訴訟合戦」に及んでいます。
これもまた、ひとつの物質的事実に対して、特に初めに訴える側に、〈意識〉においても客観的絶対的なものがあるという前提(唯物論・実在論)が頭にこびり付いているということの顕れです。
〔*進化論を絶対的なものと見なし、生物が進化して人間が生まれた(物質の運動から知性が生まれた)というのは「事実なんだから」と言い張る共産党員を思い出します〕

★〔ネットの記事〕
【米兵に体を売る「パンパン」を笠置シヅ子は差別しなかった…夜の街に立つ娼婦とも友人づきあいをした情の深さ】
〔ある人「Iさん」のコメント〕
職業に貴賎なしと言いますが、昔も今も「大あり」だと思いますけどね。(個人の感想です)
〔それに対する私のコメント〕
自分が思うことはともあれ
「語り得ること」
客観的絶対的なものがあるとするのは
「語り得ぬこと」
ただそれだけ。(内側から境界付ける)
〔▲9 ▼0〕
*この場合も、「差別しなかった」ではなく、「侮蔑・排斥しなかった」と言うべきでしょう。
「パンパン」という職業に対して、誰でも何らかの思い(善悪・優劣などの価値)はあるはずです。
現象界・差別界ではともあれ「差別」をしているのです。
「言葉」で分けているのですから。
でも、それに対するその人の思いや扱いは人それぞれであり様々であって、優劣・貴賤・善悪およびその度合いはその人次第です。
そして、くどいようですが、扱いによる「実利害」が生じた場合にのみ、当事者同士が問題にしたり訴えたりして、裁く人が裁くことがあるだけです。
コメントの「Iさん」は、「個人の意見です」と言いながらも、自分が貴賤を決めているというよりは、客観的絶対的な貴賤がある、言い換えれば「(唯物論的に)職業そのものにはじめから貴賤が付随している」という前提で「大あり」と言っているような表現なので、私がコメントしたのです。
つまり、Iさんは「内側から境界付けていない」のです。
語り得ぬことを語っているのです。
この国に唯物論(実在論)的思考が蔓延しているようです。

※『5次元世界への超扉』の著者エハン・デラヴィ氏が、
「日本人に必要なことは、唯物論(実在論)を克服することだ」
と言っているように、とにかく、客観的絶対的なもの、特に「客観的絶対的時空」を前提にしないこと、早急にそれらを超越して、高い視点、霊的視点を設けることが必須なのです。

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外国人差別? [中庸]

★数か月前のこと、行きつけの中華居酒屋で、隣のテーブルに座っていた4人の男性がなにやら仕事の話をしていました。
よく見ると、そのうちの1人は東南アジアの国の人らしく、英語は話せるようでしたが日本語があまり話せないようでした。
向かい側の日本人男性が新しい仕事と職場のことを伝えようとしていましたが、
「(外国人)差別がない」〔というより本来は(国籍)差別がない〕
ということを英語でどう言っていいかわからない様子でした。
次に、職場の「雰囲気」は良いと伝えたいらしいのですが、英語がわからず、咄嗟に横にいた私に、
「雰囲気」って英語で何て言うんですか?
と振ってきました。
私は、
「『atmosphere』だったと思いますけど」
と答え、ついでに先に言った「差別がない」を英語で、
「『no discrimination』と言うんです」
と教えて、直接その東南アジア人の男性に言いました。
伝わったようでした。
この話はまさしく〈差別〉なのです。
この場合の国籍差別は、日本においては日本人に比べて外国人を冷遇するという〈利害〉が付随しますが、当事者の外国人たちが「問題」にしなくていい差別なのか、国家の義において「必要」な差別なのか、というところでしょう。
この〈差別〉には、特に「侮蔑」や「迫害」の負の価値の付随はなく、いやあっても、それをどうこう言うのではないのであって、ただ単に、「言葉や慣習」などにおいて日本人ほど「期待できない」から給与が安いなど冷遇されるわけで、当の外国人たちの中にも「不当」だと思っていない人もいるでしょう。
もちろん「不当」だと言う人もいるでしょう。
いずれにせよ、ここは日本であって、日本人が仕切っているわけであるから、日本人の都合で決めているのであって、言っても仕方ないと諦めているのかもしれません。

〔ネットの記事〕
【人種や国籍、肌の色だけを理由に職務質問を行うのは差別で違法だ】
〔私のコメント〕
そりゃどこの国でも、よそ者に対しては「偏見」があるよ。
実際、扱いが変わる。
すなわち「差別」は付き物だよ。
ただそれを
「問題にするかしないか」
「訴えるか訴えないか」
「解決するかしないか」
だけのことだよ。
履き違えないでもらいたい。
「差別そのもの」
が違法なのではない。
〔[↑]39 [↓]6〕

【因みに】
間違えてはなりません。
日本で「肌色」という言葉(差別・区別)が使われなくなったのは、ひとえに国際化のためです。
白人や黒人などの外国人が日本にたくさん住むようになったために、ただ「不都合」が生じるからであって、(排斥するとかしないとかという意味での)肌の色の違う人たちへの気遣いではありません。

⁂という言葉です。
かつて石原都知事が街頭演説で使って、日本に住む中国人や韓国人から非難を浴びたことがあります。
もちろん、その世代の日本人は「三国人」(第三の国の人)という言葉に特に負の価値は持たせていません。
私の親は今でも使います。
私の親たちは昔から、中国人や韓国人は同じ日本人に比べて、価値観や生活習慣が違うことから、やはり見方や扱い方を変えていたようで、何らか分け隔てをしていたのでしょう。
日本の中で日本人が言うのですから。
ただ分けるというのはなく、そういう価値を伴うからこそ言葉で分けるのであって、だからこそ「三国人」という言葉を使っていたはずなのです。
戦前生まれの人にとっては何気ない言葉でしょうけど、よくよく振り返れば、やはり「よそ者扱い」というのは否めないのです。
何らかの優劣が含まれているのはむしろ自然です。
つまり、「言葉」そのものが差別・区別なのです。
この現象界・差別界では、人は誰でも「差別」をしているのです。
どんなに言い張ってもみなが差別をしているのです。
それをまず認めてもらいたいと思います。

ただ、優劣や善悪は、する側もマチマチであり、受け取る側も様々なのですから、言葉そのものに絶対的客観的な優劣や善悪があるとするのは唯物論から来る〈妄想〉です。
よく言われる、ある人の表現が「適切か不適切か」などと言って議論するのは、まったく論理の使い方の間違いなのです。

もちろん、以前から一般の日本国民がそれを言っても、誰も問題にしませんでした。
なぜなら、利害損得がほとんど生じないからです。
ところが、政治的影響力のある石原都知事が言うとなると、これは中国人や韓国人たちにとって、「排除」を意味し、実利害が生じる可能性があり、「死活問題」になるのです。
それで〈当事者〉たちが問題にして抗議したまでのことなのです。
もっとも、それを言ったら、日本において石原都知事が、「中国人」、「韓国人」、「外国人」と言っても、同じことでしょうけど。
なので、石原都知事は、不適切だと認めたのではなく、
「話しても分からないから、無駄だから」
と言いう理由で今後「三国人」という言葉を使わないと決めたのです。

どんな場合も、(当事者たちにとって)問題にする必要があるのは客観的な【実利害】であって、けっして「意識」ではありません。
そこを一般人は履き違えてはならなりません。

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差別はあってはならないものなのか? (2) [中庸]

★記憶に新しいと思いますが、未だに、ある政治家が、
「差別をなくす」を「不当な差別をなくす」
に変更したことに対して、非難する人が大勢いました。
断言しますが、後者のほうが「真っ当」なのです。
なぜなら、
?地上の人間はみな【差別】をしているからです。
「えっ?」と思われるかもしれませんけど、社会とは何か、人間とは何か、言葉とは何かを例を挙げて省察すればわかります。
〔*もっとも、「なくす」というのは無理です。交通事故と同じでなくなりません。その都度「解決する」だけです。冷遇されている当事者が「不当だ」と訴え、裁くものが裁いて、解決して、平穏と秩序を回復するだけです〕
ハッキリ言って、上述のように非難する人は「何も考えていない」のです。
そういう人たちというのは、どうやら、
「不当なもの」を〈差別〉
と言い、
「不当でないもの」は〈差別ではない〉
と言うらしいのです。
単純に言えば、「侮蔑」や「迫害」を〈差別〉と呼んでいます。
それで、非難するのでしょう。
でも、「不当か不当でないか」を誰が決めるのでしょうか?

★もっとも、「侮蔑」や「迫害」または「排斥」でも、不当とは限らないはずです。
そうされても仕方がないとか当然だという輩がいるのではないでしょうか?
誰にでも一人ぐらいは思い当たる人がいるはずです。

日本人は狂ったのでしょうか?
地上の人間社会は、〈現象界・差別界〉と言って、あらゆるもの人間の都合で〈差別〉しているのです。
そのときの道具として「言葉」があるのです。
*まずそれを認めることです。
思い当たりませんか?
たとえば、自分が「外国人」と言った場合、外国人とそうでないものを分けるのは、自分の都合で見方や接し方を変える必要があるからであって、何らか偏見を持っているはずです。
★ある有名な弁護士が、◯◯人を誹謗中傷する人とケンカして、
「〈◯◯人〉と一括りにするな!」
と言っていました。
たしかに余計な属性は付加しないに越したことはありません。(オッカムの剃刀)
しかし、私たち人間は地上という〈差別界〉で社会生活をしているのであって、何事も「一括り」した言葉を使って、偏見と差別(区別)によって秩序と流動性を保っているのです。
「一括り」がいけないのであれば、「男は」、「女は」とか、「老人は」、「子供は」とか、「日本人は」、「中国人は」などと、言ってはいけないことになり、使える言葉がなくなってしまいます。
言葉そのものが「差別・偏見」なのです。
つまり、社会は「差別」や「偏見」で成り立っているのです。
「なくて済めばないほうがよいものがあるのが社会」
「しなくて済めばしないほうがよいことをするのが人間」
〔ジャコウネズミの小父さんとスナフキンの対決〕
私たち地上の人間は、【矛盾】の上に生きている、ということを胸に刻んでほしいのです。

もちろんそこで、◯◯人も様々であって、「不当だ」と問題にする人が現れます。
しかし、不当かどうかは、当事者が訴えて、裁く人が裁くのであって、第三者が訴えるのは筋違いなのです。
〔?客観的絶対的に不当なもの、不適切なものはないのです。それは唯物論から来る妄想です。〕

よく考えると、差別そのものは、優遇されるものと冷遇されるものがセットになっているはずであって、〈負の価値だけ〉というのはあり得ません。
本来は、男女差別であって、女性差別はおかしいのです。
同じく、年齢差別はありますが、老人差別は成り立ちません。
同じく、人種差別はありますが、黒人差別はありません。
これらは、権限のある方、優位に立つ側、多数派、牛耳っている人たちが言うことから、一方的な(上から下へ侮蔑する)言い方になるわけです。
〔*まれに下から上へ尊敬する言い方になることがあります〕
〔*アメリカにおける人種差別は本来は「白人と黒人」を差別するのであって、「黒人」を差別するというのは適切な言葉の使い方ではありません。しかし牛耳っている白人が言うので、それを日本人は「黒人差別」と表現するのです〕
〔*なにか、「差別」という言葉や行為に、勝手にはじめから前提として「負の価値」を付随させて話をしているようです。そうなる原因の一つは、優位に立つ側が、劣位に立つ側に対して冷遇し、たいがい「冷遇される劣位の側」が訴えるからでしょう〕

アメリカなどの人種差別(人種区別とは言わなかったこと)が原因なのか、本来は、
「Cが、AとBを差別(区別)する」
という言い方が正しいのですが、ある国における外国人を扱う時に、
「Cが、CとBを差別(区別)する」
事情ができて、それを、
「Cが、Bを差別する」(Cが、Bを区別するとは何故か言わない)
という言い方に変えて、それが定着して、〈差別〉が、上から下に「侮蔑」する意味になってしまったと思われます。
そういう事情で、日本語の【差別】と【区別】の意味が勝手に分離してしまったものと察します。

〔ネットの記事〕
【聖マリ医科大の入試「合理的理由なく女性を差別」 地裁が賠償命じる】
〔私のコメント〕
大学側は「理由(合理性)」があって差別したんだよ。
でも学生側は、「合理性がない」すなわち「不当な差別だ」と訴えたわけだ。
日本人のみなさん、【差別】には、
「問題にしなくていい差別」や「必要な差別」
があるということを知ってもらいたい。
そして、その差別が、
「正当か不当か」
は、当事者同士が主張して、裁く人が裁いて決めることだということ。
(絶対的客観的に不当(正当)な差別などありはしないのだ)
(絶対的客観的なものあるとするのが〈妄想〉であり、日本人の多数派が克服すべき〈唯物論〉が根底にあるのだ)
間違えないでほしい。
差別は「侮蔑」や「迫害」や「排斥」を伴うことはあるが、
「侮蔑」、「迫害」、「排斥」そのものではないのだ。
〔[↑]3 [↓]1〕

少し前、こんな記事がありました。
【「人殺しの息子」と石を投げられ16歳でホームレスに…「加害者家族」として差別され続けた男性の23年間の苦悩とは】
毎日、どこかで起きている様々な犯罪。加害者が罪を償うのは当然のことですが、同時に加害者の家族が差別や嫌がらせなどの被害に遭っているという現実があります。
「加害者の息子」として、そして同時に母親を殺された被害者として生きて来た男性の、20年以上にわたる苦悩と現実に密着しました。
父親が母親を殺害「人殺しの息子」として社会から排除される日々・・・・・

これって、〈差別〉なのでしょうか?
厳密には、〈迫害〉や〈排斥〉でしょう。
もちろん、言葉で「加害者」と「加害者でない」に分けているのですから、たしかに〈差別〉はしているのですけど。(差別が迫害や排斥になるとは限りません)
(本来は、「加害者でない」人たちと、セットで「差別」なのです)
ともあれ、当事者の「加害者家族」が扱いを「不当」だと訴えるかどうか。
それとも、「仕方がないこと」と受け止めて我慢するかどうか。
ということは、「問題」になるかどうかは当事者しだいではないでしょうか?
第三者が「問題」にするのはいかがなものでしょうか?

元来国語辞典には、「差別」に負(-)の意味はありません。
「区別」や「差異」と同義です。
それに対して、
「今は違うんだ」
「人間に対して『侮蔑』や『迫害』や『排斥』を【差別】と言うんだ」
「それ以外を【区別】と言うんだ」
と言って、居直る人たちが必ず存在します。
しかし、先人の作った言葉を勝手に捻じ曲げてよいという道理はありません。
それは冒涜です。
現に今でも、「商品の差別化」とか「無差別殺人」とか「無差別級」などと言う場合があり、その「差別」に負(-)の付加阿値はありません。
むしろ、正(+)の付加価値さえあります。
「人間に対して」という限定もありません。
単に分け隔てるだけで、「区別」や「差異」とほとんど同じ使い方です。
★この時点で、「今は今だ」という人は【間違い】です。
甚だ遺憾です。
実際、困るのです。
(*以前、日本における「トルコ風呂」を知って、怒ったトルコ人が呼び名を変えさせた事実がありますが、「同じもの」を「違う言葉」で表したり、「違うもの」を「同じ言葉」にしてしまうと不都合が生じるのは当然です)

〔※もう一度まとめて言います。〕
昔の辞書の表現を借りれば、先人たちはこの地上の人間社会を〈現象界・差別界〉と言って、人間の都合で、あらゆるものを〈差別〉しているのです。
その道具が「言葉」なのです。
社会は「差別や偏見」で(やっと)成り立っているのです。
そのために「言葉」が必要となるのです。
すなわち「言葉そのもの」が「差別・区別・差異・判別など」です。
当然、差別にせよ区別にせよ判別にせよ、人間の都合で分けているので、その人たちにおける善悪、損得、優劣といった「価値」が付随します。
もちろん、様々な価値観の人の都合で分けているため、そのときに当然「利害」が発生することがあります。
というより、何らかの利害が付随します。
みな「都合」で分けているのですから。
でも、たいがいは「問題」にしません。
いずれの場合も、それを基本的に当事者が「問題」にするかしないかだけです。
いずれの場合も、その問題を当事者同士が「解決」するかしないかだけです。
第三者が介入することではありません。
また、自分の価値観で分けているので、そのときに〈言葉そのもの〉に暗黙のうちに「正・負の価値」が付随します。
もちろん自分がある言葉に正や負の価値を付随させるのは「任意(勝手)」であるから、誰も問題にしませんが、そのことを《自覚》していないと、誰にとっても同じ正や負の付加価値を伴うものと決め付けてしまい、それによって「言葉そのもの」に正や負の価値が付随しているものだと思い込んでしまうのです。(客観的絶対的なものを前提とする唯物論)
結果、他人が同一の言葉を使った時に「悪く言った」と勝手に決めつける愚行が起きます。
「考えていない現代人」が使う〈差別〉という言葉がそれです。
それをする人は往々にして、自分の利害に関係ない「第三者」なのに、憤慨したり非難したりします。

とかく現代人は〈唯物論・実在論〉に侵され、《性善説》を履き違えています。
絶対的客観的な物や事が前提にあって、皆がそれを同様に感じているはずだ、という思い込みで、人と接しているのです。
ですから、言葉そのものにその「絶対的客観的な価値」が付随しているという思い込みから抜けられないでいるのです。
〔★〕「人は他人のことを良く思えば人間の中身が良くなる、良く思えるようになる、そうすれば世の中が清浄になる」と思い込んでいる人は、(性善説を履き違えた)〈ユリゼン信仰者〉です。
そういう人は、思考が〈地上〉にへばり付いているのです。(大悪・地獄)

そこから抜けるには、即座に省察が必要です。
地上の人間は、【小悪⇔小善(偽善)】の直線から逃れられません。
地上道徳によって人間の中身が良くなることはありません、他人を良く思えるようになりません、世の中は清浄になりません。
人の言動や行動は、所詮は偽善(小善)であり、偽善の延長上に本物の善はありません。

〔★〕私は処世術を言う柄ではありませんが、今の日本の状態を見かねて言わせてもらいます。
とりあえず他人があなたのことをどう言っているか気になったら、
【人は他人のことを良く言わないもんだ】
【他人は自分のことを良く言わないもんだ】
くらいに思っておけばいいでしょう。

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思考停止〔2〕 [思考実験]

昨年の〔ネットの記事〕にこんなのがありました。
【東大生が断言「行列店ではないラーメン屋の味をどう評価するか?」で”地頭の良し悪し“がわかる】
 結論から言えば、“行列店ではない(人気店ではない)ラーメン屋でも味の良し悪しを自分で判断できる人”は「地頭がいい」と思います。
 他人からの情報抜きでも本質的な味の部分を、きちんと自分の頭で評価できるのか。これはなにもラーメン屋に限らず、焼肉屋やイタリアンレストランでも同じです。
 大前提として、人間は事前に与えられた情報によって、大きく認知が左右される生き物。
基本的に他人任せなので、誰かの言ったことや、ネットに書いてある情報に従うしかできないはずです。
 ラーメンのような日常のささいなことからでもいいので「他人の評価や情報をあてにせず、自分の頭で考えてみる」ということを習慣づけてみるようにしましょう。
 ちいさなことの繰り返しによって、徐々に人生全体を通して「自分の頭で考えて行動できる人間」に近づけるはずです。

★みなさん、どうでしょうか?
言っている意味は分かりますよね?
さほど目新しい内容でもないですし。
でも、何か変ではありませんか?

もう気が付いた方もいらっしゃるでしょうね。
私はこの記事に対して速攻でコメントしたのです。
〔私のコメント〕
【東大生が断言】っていうのも、この話と一緒じゃないのかな?
〔[↑]64 [↓]4〕
〔私のコメントに対するコメント〕
このコメント天才!!
〔[↑]11 [↓]3〕
久々のヒット、大受けでした。
投稿した人は、
「他人の評価や情報に頼らないで自分の頭で考えろ」
と言っている人(東大生)の〈権威〉を利用して、その気にさせるのですから、結局は〈思考停止〉を促していることになるわけです。
実際、「天才!」とまで言われて、私がコメントするまで誰も気が付かなかったのですから、おそろしいと思います。
よく日本人は権威に弱いと言われますが、なにか、日本における宗教が〈カルト化〉するメカニズムが見えます。

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義理と人情 [中庸]

周知のとおり、近頃の日本はハラスメントだのコンプライアンスだのと、とかく野暮が蔓延しています。
まるで、法的な「不正」をなくしさえすれば、社会が清浄になり人々が幸福になると思い込んでいるようなのです。
「道徳や戒律では世の中清浄にならない」(ブッダの言葉)
をまったく弁えていないようです。
私に言わせれば、いつも言うようにそれは「唯物論(実在論)」に由来する「性善説の履き違え」なのですが、ますます深みに嵌まっているようでもあります。
私もつい最近、仕事のことでそういう目にあったので、たまらず取り上げました。

【*】
数年前、スカパーの時代劇専門チャンネルを観ていたら、たまたま初期の頃の『座頭市』(映画)を放映していました。
あまりにも印象が強かったので、今でも頭から離れません。
そこには、忘れられた日本人の義理人情が映し出されていました。
あらすじを掻い摘んで言います。

ある一家の男が旅路の座頭市に仇討ちを申し出た。
一家の男:「オレはおまえに恨みはねえ」
「だがなあ、仲間を殺されたヤクザの意地ってもんがあるんだ」
「こちとら、おまえの居合にやられて死ぬ覚悟はとっくにできているんだ」
「勝負しろ!」
市は堅気になって一緒になるつもりの若い女と並んで正座して言った。
市:「このとおり、あっしは、もう堅気になるんだ」
「許しちゃくれないか?」
一家の男:「ちぇっ!座頭市がなんてザマだぁ」
「よーし、それじゃ賽の目で決めよう」
「おまえが勝ったら、許してやる」
「オレが勝ったら、おまえの腕一本もらっていく」
「それでいいな?!」
一家の男が連れの女に結果を見届けるように言ってツボを振る。
市:「丁」
一家の男:「半」
ツボを上げると、どうやら半の目だ。
一家の男はやや躊躇いながらも、ゆっくりと片方のサイコロに指を置いて90度倒し、丁の目に変えた。
一家の男:「市、おまえの勝ちだ!」
「もう会わん」
そう言って、立ち去った。
市は低い声で連れの女に聞いた。
市:「半目だったんじゃないんですかい?」
女:「ええ」
市:「いい人ですねぇー」

一家の男は義理あるいは意地で仇討ちに来たのであって、勝ち負けではないのです。
そこで、市の片腕を持ち帰っても誰のためにもならないことは承知なのです。

【★】
ちょうど30年前のある日、仕事の後に私を含めて同僚10人ぐらいで、近くの中華屋さんで食事をし、そのとき私は紹興酒のボトルを一本空けてしまいました。
クルマで通勤していましたが、なんとか酔いが醒めた頃にクルマを運転して自宅に向かいました。
自宅まであと30秒という所で検問にかかり、酒気帯びでクルマを停めさせられ、降りて事情を訊かれました。
私がしっかりとしていたためでしょう。
警察官:「酒に強い方ですか?」
私:「はい」
警察官:「家は近いんですか?」
私:「はい、すぐそこです」
警察官:「職業は?」
私:「教師です」
すると、警察官は「にやっ」として、
警察官:「いろんな人が見てるから、気を付けてくださいよ」
「今日はいいですから、行ってください」
と言って、許してくれたのでした。
仕事(ノルマ)でやっているのであって、そこで私を捕まえたからといってどうなるわけでもないことは重々承知の上なのです。
当然ですけど、店が並ぶ繁華街で検問するほど警察は本来は野暮ではないのです。

【⁑】
昨今の政治家のパーティ券裏金の件で、亀井さんが検察官たちに苦言を呈していました。
「あんたたち、仕事でやってるんだろ?!」
「他人のアラばかり探るんじゃないよ!」

要するに、歯止めをかけるために業務として形式でやっているのであって、積極的に徹底してやれば世の中が良くなるというわけではないのです。
ともあれ正義を考えるなら、裁かれる側は、どんな悪法であっても罪を犯せばただ裁きを受け入れなければなりません。
でも人々の幸福を考えるならば、裁く側は、積極的に権力を行使するものではありません。
かつての日本人は、それを弁えていたのです。

日本はもう灰色が許されなくなったようです。
根本的な構造を変えないで、そのうえで、本来問題にしなくていい地上的な「不正」を問題にするようになりました。
義理人情が消えました。
日本列島は野暮天島になりました。
人間復活が望まれます。

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無償の愛 [霊的存在]

年末年始も病院は面会可です。
昨年6月頭から私は毎日、一日も欠かさず母に会いに行っています。
7カ月です。(ギネスブックに載るのではないか?)
もちろん母は調子の良い時と悪い時があり、月に一回ぐらいは感染症で熱が上がり、3日間は意識朦朧で話しができません。
今は食事も一日三食から一食へ。
少しづつ衰弱していきます。
母が入院してから1年と2カ月が経ち、途中、3月の下旬に老人ホームに移って10日でまた別の病院に救急車で搬送されて入院したのですが、実を言うと救急車を待っている間の応急措置のとき私は一度覚悟しました。(これで終わるのかな・・・)
以来私は9カ月間覚悟している状態です。(えっ?)
退院して家に帰る可能性も施設に移る可能性もなくなりました。
それでも私は、仕事の帰り、あるいは自宅から、猛暑でも極寒でも雨でも風でも、暗くなっても、病院に通い続けています。
面会の時間は30分と決められています。
その限られた時間で何をするかと言えば、まず、「抑制」という点滴を外さないように両腕を縛っている輪っかの紐を緩めて顔が痒い時に掻けるようにしてあげてから、枕を外して頭を抱えて、ブラシで髪をとかし頭の痒みを取り除いてあげます。
母は意識がはっきりしている日は必ず、
「ああ、気持ちいい」
と言います。
それから、足のマッサージをします。
足三里、三陰交、足裏・・・。
最近は退屈しのぎにと思って、最後にテレビをつけます。
4人部屋なので、イヤホンを耳に付けます。(外れないように、粘着テープを貼ります)
もちろん、そうしている間に会話をします。

私が到着すると、母は決まって、
「ああ、帰ってきたの?よかったぁ」
「やっぱりあなたがいるといい」
「どこ行ってたの?」
などと言います。
私は当然、
「自宅から来たんだよ」
とか
「仕事の帰りだよ」
と事実を言います。
途中の会話はその日によって異なりますが、いちばん多いのは以下です。

母:「死んだらあなたと会えなくなるのがイヤ」
「一緒にあの世へ行こう」
私:「一緒には行けないけど、行く所は一緒だからね」
「あとで一緒になるよ、20年かな、わからないけど」
「それより、先にあの世へ行った人たちがいるでしょ?」
「田島のお母さんやお父さん、伸悟叔父さん、竹下の伯母さん、おとうちゃん、おかあちゃん、・・・」
「そういう人たちが導いてくれるから、言うこと聞いて、ついていくんだよ!」
「あの世ではみんな一緒、というより一体だから」
「絶対にこの世に未練を残しちゃだめだよ」
もっとも、すぐ忘れるので、何度も繰り返し言います。(何十回言ったことか)
時間が来て、帰ることを告げると、決まって言うのです。
母:「どこへ帰るの?」
私:「自宅だよ」
母:「自宅って?」(母は病院にいる自覚がないので)
私:「ここは病院だよ」
母はとりあえず納得すると今度は、
母:「自宅に誰かいるの?」
私:「誰もいないよ」
母:「じゃ、つまんないじゃないの」
私:「つまんないって言ったってしようがないよ、誰も来てくれないんだから」
「そうじゃなくて、病院の決まりがあって、面会の時間が30分って決まっているから」
母:「ああそう、私も一緒に行こうかな」
私:「あのね、一緒に自宅に行っちゃうと、すぐ「キューッ」ていっちゃうの」
「看護師さんもいないし、お医者さんもいないから、何かあっても対処できないんだよ」
「大金持ちなら、専属の医者と看護師を雇って、一緒にいられるかもしれないけど、うちは大金持ちじゃないから」
私は何度もそう言い聞かせてなだめます。
それで、最後に、
私:「また明日来るからね」
「毎日来てるんだから」
「必ず来るんだから心配しないでね」
「もうこれしか方法がないんだから」
「これが最善の策なんだよ」
「というより、これがすべてなんだよ」
母:「うれしい・・・」
そう言って、なんとかその場から離れます。
帰り際に、看護師さんに、
「テレビがつけっぱなしなのでよろしくお願いします」
と断って、病院を離れます。

私は時々自分の日課を振り返ります。
毎日こうしていても地上的には進歩はなく、母が元気になって退院することはないし、私自身も明るい未来があるわけでもありません。
傍から見ると、カラクリ時計の人形のようにただ決まった行動を繰り返すだけです。
それに、終わったら終わったで、厳しい現実が待っているでしょうし、いずれは私も老いて死を迎えます。
その中で唯一、生産的で「生きている」と感じるのは、
「母と会って話したり髪をとかしたり足をもんだりすること」
です。
今の私にとっては、それが「すべて」なのです。
「私の前半生では、母が私に愛を注ぎ、母の後半生では、私が母に愛を注ぐ」
よく言われるのは、結婚して家庭を持って、
「家族に《無償の愛》を与えることによって《霊的進化》を促す」
ということですが、私には妻子がないので、その代わりが母だということです。
「肉親だから出来るのではないのか?」
と思われるかもしれませんが、無償であることことに変わりはなく、それが他の人や他の事に対する「愛」に繋げるようになれば、更なる霊的進化が望めるはずです。
いわゆる《スーパーラブ》です。
それがどの程度のことかわかりませんが、『ヘミシンク』の坂本氏によれば、《スーパーラブ》を実践できなければ、輪廻を克服することはできないと言います。

7年前にM親分がうつむき加減に私に残した真摯なメッセージ、
「お母さん(を)、大切にしたほうがいいよ」
の意味がやっと分かった気がします。
人間とは、
「自分が周りからどれだけ勝ち取るか」
ではなく、
「自分が他人や世の中にどれだけ施すことができるか」
ということです。
それが人生なのだということを、私の今の体験は教えてくれます。

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神の存在の〈証明?〉 [霊的存在]

いきなりですけど、
「あなたがロボットでないことを、私に証明してください」
と、ある人に言われたら、あなたはどうしますか?
証明出来ますか?
〔またまた難しい話がオッパジマッタってか?〕

ネットを見ると、物理学者たちは、未だに地球外生命を発見しようと、他の星を探索しています。
でもなぜか、地球に環境が近い星だけにしか興味がありません。
そのへんをもし私が指摘すれば、人はたいがい、
「地球型生物ばかりでなく、まったく違う構造の可能性もあるだろうと思うだろうが、それは見当をつけるのが難しいから、(プロの学者の事情もあって)可能性の高い地球型を探すというのが当然だ」
と答えるでしょう。
とりあえず納得がいきます。
しかし、論点はそこではないのです。
地球に環境が似ているところを探すということは、とりもなおさず、
「地球の物質と環境が《生命》を生んだ」
ひいては、
「地球の生物の進化によって、人間(知性、意識、精神、自我、霊)が生まれた」
という『前提』で、探しているということです。
(例外的に、霊的存在が宿るに適する身体や環境を探すと考える人もいます)
それは、「唯物論」が蔓延しているということに他なりません。
ひいては、その根源に当たる「実在論」(時空が絶対的客観的にあって、それを見ている、主客分離)に陥っていることを意味します。
このことは根っ子が深く、これを克服しないことには、何も進歩がありません。
〔【実在論】については、当ブログの『実在論』を見てください〕

よく、ある人が臨死体験をして、自分が肉体ではなく《霊》だとわかったということが度々報告されます。
ある脳生理学者は、自分が臨死体験をしている間、脳の機能が停止していたことを知り、肉体の働きと自分の存在は別だと覚ったといいます。
さらにその脳生理学者は、臨死体験中に出会った若い女性が、幼い頃に生き別れて若くして亡くなった妹と判明し、死後の世界の存在を確信したといいます。

でもそれは、どんなに言い張っても「他人」の体験です。
聴く側はどうあがいても、それを「信じるか信じないか」だけに留まります。
自分という存在が《霊》であることは、神の存在と同じく、唯物論を前提とする「存在証明」とは無縁であり、いくら自分が自らの臨死体験で覚っても、他人を説得できません。
霊や神の存在は【自覚】でなければ意味がありません。
そうかと言って、誰もが臨死体験をして生還できるわけではありません。
誰でもヘミシンクで成功するとは限りません。
では臨死体験をしないで【自覚】することはできないのでしょうか?
実はその唯一の方法が《省察》なのです。
理性によって、霊や神を知る道です。
特別な修行は要りません。
自分の思考を反省するだけです。
そして、その手助けをするのが私の仕事です。

「《世界》とは「自分の世界」のことである(ヴィットゲンシュタイン)」
「《自分》とは「自分の世界」のことである」
すなわち、
「自分の身体から宇宙の果てまで《自分》である」
「あなたの身体から宇宙の果てまで《あなた》である」(主客合一、絶対矛盾的自己同一)
「あなたも私も、はじめから在る」
エドガーケーシーのリーディングに、
【ある時点で、神はご自身の中から一斉に魂を放出された。どの魂が新しく、どの魂が古いというのではない。同時に宇宙で存在を得た】
【我々自身が小さな創造主そのもの、クリエーター(創造主)である】
とあります。
あなたも私も、それぞれ一つの世界を形成し、神〔大霊〕の側面であり、独立しているのですが、一体であり、神との共同参画の一翼を担っているのです。(ワンネス)
こういうことは、特別な人たちに頼らなくても【省察】することで覚ることができるのです。
私はひたすらにそれを勧めます。

存在とは〈自分(その人)にとっての存在〉です。
誰にとっても存在するという絶対的客観的存在は、語り得ぬことを語る【顛倒妄想】に他なりません。
社会的活動をするために仕方なく『実在』としているだけです。
〈妄想〉があって社会が成立しているのですから、〈妄想〉があってはならないとは言いませんが、物事を理解するには、〈妄想〉であることを《省察》する必要があります。

「生命は地球の物質から生まれたのではない」
とか、
「我々人間のような知的生命または霊的存在は生物の進化から生まれたのではない」
「はじめから在るのだ」
などと言うと、唯物論者たちは例外なく、否定する根拠もないのに否定します。
そこで、彼らに、
『ではあなた自身は、地球の物質から生まれたと思いますか?』
と問い掛けると、本当はそう思わないのに、
「その疑問を解決するために、どうしても神の存在を認めたくなるのだろうが、云々」
と、敬虔な人に向かって、頭が弱い人が「在りもしないもの」に拠り所を求める愚行だと決めつけて言うのです。
そして、最後には、
「では、どうぞ神の存在を証明してください」
と言うのです。
まったくピントのずれた言動です。
まったく困った人たちです。
なぜ困った人なのかというと、《神》とは何かが分かっていないからです。
また、〈存在証明〉とは何かが分かっていないからです。
根っ子の深い、凝り固まった〈実在論者(唯物論者)〉です。
そもそも〈存在証明〉というのは、誰にとっても客観的に存在するものを示すことですから、「実在論(唯物論)」という【妄想】を前提とするのであって、《神》や《霊》とは相容れないのです。
なぜなら、〈実在論(唯物論)〉という妄想を克服した暁に、《霊的自覚》すなわち『神や霊』を「体感」できるからなのです。
神や霊は「証明」ではなく、【省察】によって体得するのです。

くどいのですが、言ってみれば、
「神(霊)の存在を証明してください」
というのは、語り得ぬことを語ることであり、(ロボットに自我がないと仮定すると)
「あなたがロボットでないことを私に証明してください」
「あなたの歯の痛みそのものを、今すぐ私に体感させてください」
と言うのと同じなのです。
たとえば、あなたが腹痛の時であっても、他人から、
「本当に腹が痛いのか?」
「そう言っているだけじゃないのか?」
「おまえはアンドロイドかもしれない」
と言われたらどうするでしょうか?
いくら言っても、言い負かすことはできないのですから。
それでも、あなたは自分に意識があることは自覚しているはずです。
でもどうやってそれを他人に証明するというのでしょうか?
出来るでしょうか?
〈証明〉はできません。
〈証明〉ではなく、《自覚》あるのみです。
「神(霊)の存在を証明してください」
という人たちは、そもそも《神(霊)》とは何かがまったく分かっていないということです。
確実に言えることは、外界のもの、どこかの空間を占めて、「自分の外」にあるものと思っているということです。
(光あれ、エイ、ヤーと言って・・・でもそれは神ではなく魔人です)
それは、「外界」という〈時空〉が自分の視点に関係なくはじめから前提としてあるという〈実在論〉(唯物論)そのものなのです。
そういう人たちのうち、神や霊を信じるという人が「(神)盲信者」です。
信じない人というのが「唯物論者」と言われる人です。
神盲信者は神がいる方に賭けているだけであって、頭の片隅に疑いは残ります。
「でも、居るか居ないかのどちらかであって、自分はいると思うから、神を拝んで救われるんだ」
という姿勢なのです。
まったく心得違いです。
聖人たちの言う《神(霊)》の存在とは、〈信じる〉(賭ける)のではなく、《知る》(体感する)のです。
一人ひとりが独立した霊であり、神の分霊であり、自由意志を持ち、神の側面を担い、神と世界を共同制作しているということです。
人間のレベルの霊にだけ、自由意志が与えられています。
〈人間に自由意志があるとすると、その人の未来を神は知らないことになり、神の全知全能性に反するのではないか〉
と、以前私は思ったものですが、自分が神の側面であり共同制作者だとすれば、合点がいきます。
肉体の死後、集合霊に組み込まれても、自分という実体(アートマン)はあり続けます。
(*よく、断見の人が輪廻転生を否定するときに「流転する」ということを理由にしますが、「何」が流転するのか(?)という主語の「何」が不滅だからこそ流転の意味があるのであり、不滅なものがなければ、単なる「別個」のものにすぎません)
【人間に与えられた特権の中で最も重要なものは、自由意志だ(エドガーケーシー)】
【Be yourself, yet One with ALL「あなたはあなたという自分を失うことない、しかしながら全体とひとつである(エドガーケーシー)」】
【私たちは創造エネルギーそのものであり、どんな人にも自分の核自我(コアセルフ)がある(ロバート・モンロー)】
【★】理解し難い『モナド(単子)』も、このように『実体(アートマン)』としてみれば、辻褄が合います。

繰り返しますが、インドの修行者に、「神はいるか?」と聞くと、自分の胸を指して、「ここに居る」と言います。
神は各人の中にあり、物質的に見れば、すべての人を包み込みます。
時空における森羅万象は神の反映です。
《内包》かつ〈外延〉です。

いわゆる「異星人」は、我々の同朋であり、
「人類」ではなく、
【人間】という霊的グループなのでしょう。〔フォーカス35〕
今の地球人類は、もともと他の星から来たもので、もっと『波動(物理学者は認めませんが)』が高かったのですが、〔ムーの頃〕訳があって人類に入り込んで〔アトランティスの頃〕波動が低くなったようです。
結果的に、他の星の宇宙人は今の地球人より波動が高くて普段は見えなくなっているけれど、まれに遭遇する「宇宙人」は、波動を落として人類に接するため、見えるということなのでしょう。
よって、
我々人類は地球で生物が進化して生まれたのではなく、他の宇宙人もその星の生物が進化して生まれたのではないようです。(他の天体で微生物を探しても波動が違うから無駄です)
【人間】は最初から「在る」のです。
〔ある時点で、神はご自身の中から一斉に魂を放出された。どの魂が新しく、どの魂が古いというのはない。同時に宇宙で存在を得た(エドガーケーシー)〕

〔【★】HITOPEDIA[ヒトペディア]より抜粋〕
ライプニッツの哲学において、あらゆる事物を構成する究極的要素となる、分割不可能の単純な実体をさす。モナドは、ギリシア語で一をあらわすモナスに由来し、能動的な活動性を持つ力の中心で、空間的な広がりを持つ物体的な原子(アトム)とは異なる。モナドの能動的な力は、物体を表象する精神の力となってあらわれ、モナドは、表象の明晰によって、暗い無意識な無機的物質から、明るい意識を持つ理性、さらには最高の神までの段階がある。モナドは、外部と交渉を持たない「窓のない」独立した実体であるが、個々のモナドの表象が一致して宇宙の調和的秩序が存在するように、神によってあらかじめ定められている(予定調和)。無数のモナドは、独自に全宇宙をみずからの内にうつし出す生きた鏡。宇宙全体を表象する小宇宙にたとえられる。

ライプニッツによる実体とは、単純にして広がりのない、不可分なものであり、その本質は作用する生き生きとした力であるとした。それはあらゆる有限的事物の根底に存在し、そしてみずから働くものであある。この点でデカルトやスピノザが考えた実体が単なる幾何学的・機械論的であったのに対して、ライプニッツは、生物学的・目的論であるといえる。そして、ライプニッツはこのような実体をモナド(MONADE)と名付けた。

「すべての被造物が各々の被造物と、また各々の被造物が他のすべての被造物とこのように結びつき対応しあっているということは、それぞれの単純な実体が、他のすべての単純な実体を表出する様々な関係をもっていること、したがって、単純な実体は、宇宙を映し出す永遠の生きた鏡であるということを、意味している。」

【モナドには窓がない】
モナドは無数に存在して全宇宙の根本本質になっている。一切のものはモナドによって成り立っているが、原子(アトム)のように空間的に満ちているものではないく、空間規定を超えた非物体的な実体、いわば形而上学的な点である。空間的な物体はモナドの働きによって生じた存在によって成り立っている。モナドは不可分で独立しており、永遠的なものであって生成・消滅することはできない。また、それは非空間的であるから、外部から影響を受けることができない。従ってモナドはそれぞれ独立的であり、相互の間には何ら因果関係が存在しない。「部分もなければ、ものがでたり入ったりできるような窓もない単純な実体であり、モナドはただ自己自身の働きによってその諸状態を変えていく。

【モナドは宇宙全体を映し出す鏡】
モナドの本質をなす働きとは、精神の働きからの類推による表象である、といえる。そしてその表象されるものは宇宙全体である。モナドは決して同一の仕方で宇宙を表象するのではなく、それぞれの立場からあるものは明瞭に、またあるものは、不明瞭に宇宙を表現するのであるが、とにかく宇宙全体はモナドの中に表現されているのであり、モナドは宇宙の全体を映し出している鏡であるといえる。

【神と予定調和】
モナドは相互に独立的であり、それぞれ自己の内部のちからによって表象を発展させてゆくのであるが、独立的なものが相互に対応するように調和させられている。これこそが神の働きによるものであり、神が予め各々のモナドをしてそれぞれの立場から宇宙を反映するように定めておいたからこそ、各々のモナドをしてそれぞれの立場から宇宙を反映するように定めておいたからこそ、各々のモナドの間には何の作用も属しないにもかかわらずお互いに調和を保っている。宇宙が神に寄って創造され、予め『予定調和』があるとすれば、世界に悪はなく最善でなければならない。悪を形而上学的悪、自然的悪、道徳的悪の三種類にわけているが、(*)このような悪は積極的な意味を持たず、完全性の欠如にすぎない。完全性の欠如により悪があるかのように思われるが、全体としては最善なのであり、(⁑)小さな悪はより大きな悪を防ぐべきものである。

(*)荀子の『性悪説』と孟子の『性善説』に相当します。
(⁑)日月神示の「ミロクの道は悪を抱き参らせてこそ進む」に相当します。

みなさんどうでしょう?
ネット民を見てわかったのですが、世間に蔓延る〈唯物論(実在論)〉に疑問を抱く人は意外と多いのです。
【自分=自分の肉体】ではないことを漠然と認めている人は多いのです。
半数を超えています。
ところが、それをどう表現したらいいのか、また唯物論者をどう説き伏せたらいいのかがわからないでいるようです。
このまえ、教え子の女生徒たち数人に、試験前の次週の時間に、《神》について上述のような《産婆術》を披露したしたところ、
「ハッセー、イエスのレベルじゃないの?」
「こんな所に居ちゃいけないよ」
「聞けて良かった」
なんて言って、感動していました。
ここに来てくださる皆さんにとっても、少しでも力になれば幸いです。

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ピアノ演奏〔3〕 [音楽]

今回は1曲だけです。
既述の通り、昨年11月に私の母が入院して、1人暮らしが始まってひと月経った頃、土曜日の朝の有名な音楽番組で、ある若手の男性ピアニストが弾いていたのが、ブラームスの『幻想曲集 作品116の4』でした。
早速、私は練習を始めました。
もちろん私は以前から知っていましたし、CMにも使われていたのを覚えています。
10年前に、私は一度、116の1〜3を弾いていたのですが、なぜかそこでやめてしまいました。
その4番目の「Intermezzo」はブラームスのピアノ曲の中では『118の2』と並んで美しい曲として知られています。
ただ、聞いていると易しそうなのですが、弾いてみると意外と難しく、未だに1曲通して弾くと、必ずどこかでミスります。
ブラームスは、演奏効果を狙った音楽を極力嫌ったと言われます。
その分「音楽そのもの」にこだわったので、かえって弾きにくいのでしょう。

116.jpg116-4.jpg

https://photos.app.goo.gl/46SD5UDBhTPUqHJZ8

では私がなぜこの曲を弾くようになったか?
その音楽番組の中で、
「ブラームスが歳を取って、仲間が次々と亡くなっていく」
「そのときの心境を表した曲だ」
という説明があり、私もちょうど、同級生が亡くなり、1つ下の従兄弟が亡くなり、母親も家に居なくなり、そのような心境に達したからです。
おまけに私の場合は、独身であり、理解者も少数派、今後20年も生き長らえて果たして良いものか(?)、何の意味があろうかと思い、近頃いやに孤独を覚えるのです。
歌の場合と違って、ひたすら孤独を噛みしめながら弾くのです。
演奏効果の低い曲を「ただ自分のために」弾くだけです。
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