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家畜化と確信犯 [霊的存在]

しばらくぶりです。
相変わらず私は母親の面倒などで身も心も縛られた日を送っています。
これも負のカルマの清算と受け止めています。

では、積極的な使命に対してどう心得るのかということですが。
どうやら私は分類上『改革派』ということになりそうです。
少数派であることはもとより、今の日本において1割にも満たない、というより1割の中のさらに少数派ということになると、改革派として後述のヤコブ・モルガン氏から「期待」されるには、あまりにも荷が重いと言えます。
再三言うように、私は人類全員を直接どうしようなどと思っているわけではなく、わかる人たちだけを対象に啓発するのが使命だと心得ているからです。
ただ、霊的自覚を持った少数派の人たちが統率する世界になればよいとは思っています。
まあ異星人のような私が日本人に生まれてきたのも、使命を果たすためだと思えば腑に落ちますし、微力ながら人生も充実したものとなりましょう。

今回は、日月神示を研究されているある人(名前が不明)のブログに中矢氏の著作が紹介されていて、その中でヤコブ・モルガン氏の著作が紹介されているという複雑な関係のもとでの発信ですが、モルガン氏が日本および日本人を冷静に分析していて、私の見立てと合致するところが多く、私の活動と繋がっているので、取り上げた次第です。
もちろん、鵜呑みにするわけではありませんし、すべてを受け入れるわけではありません。
もともと私は世界情勢や政治経済そのものに疎く、地上的な力関係には関心がありません。
なので、それは正しいけどこれは間違いだ、とか言える観点がありません。
賛同する点は、無関心派が家畜化されているということと、国際派が確信犯だということです。
特に確信犯に関しては、私は学校組織の内部に入って肌で感じて知っていることなので断言します。
それは知性を使ってはいるものの、使い方が極めて地上的だということ、つまり、
「考えている」のではなく「解決している」
ということです。
【当ブログ〈いま学校では(2016・1)〉〈『必要無駄』再考(2018・8)〉を参照】
無関心のみならず、そういう確信犯を含めて、私は「思考停止」と呼んでいるのです。

ヤコブ・モルガン氏のことはご存じの方もいらっしゃると思います。
なお、以下の引用文があまりにも長いので、適当に流してください。

【引用❶】
中矢伸一氏は著書である『生尺 日月神示』の中で、このように言われています。

 だが、人によって手応えがまったく違うのには時々驚かされる。宗教などとはそれまで全然無縁であった人でも、日月神示に出会ったら何の抵抗もなくスーッと「神の道」に入れたという人もいる。また、何をいくら言っても、サッパリ埒があかない人もある。いやむしろ、そうした人の方が世の大半を占めていると言ってよいだろう。
 問題意識も何も持たず、スポーツに浮かれ、レジャーやグルメに時間を費やすことに忙しい人たちというのはたいてい、日月神示は勿論のこと、拙著も理解出来ない。
 面白いものである。何故ならわれわれは、スポーツにもレジャーにもグルメにも、まったく興味がないのだから。【*1】
 同じ日本人であっても、どうしてこう価値観が違うのだろうか、と思う時がよくある。おそらく、相手にとってもこちらは単なる"変わりもの"と映ることであろう。
 一連の著書においてユダヤ、フリーメーソン謀略説を展開し、日本人に警鐘を打ち鳴らしておられる「ヤコブ・モルガン」氏は、現在の日本人を思想的に五種類に類別している。同氏の論点は明確に「反ユダヤ」であり、ここのところには補足的説明を要するが、これが非常に興味深い(図参照)。

 同氏によれば、「現在の日本人には五種類の種族が存在する。大きく分けて、日本人を愛し、日本精神と日本国家の繁栄を願う『民族派』と、国際ユダヤの軍門に下り、ユダヤの膝下で生きのびることだけを考える『国際派』、そして大多数の『無関心派』である。図はこうした日本人の思想的判別図である。この図で見る限り、日本の国家中枢は『国際派』で占有されている。90パーセントを占める『無関心派』は、精神的にすでに家畜化されている」(『最後の強敵日本を撃て』35頁)
とのことである。

「ユダヤ」という表現はともかく、こうした分類の仕方には私も同意するところが大きい。同氏は「無関心派」が九割を占めていると述べているが、その数字は、日本国内に住んでいる者として、ほぼ的を射ていると思う。
 ということは、「国際派」「民族派」は合わせて一割ほどしかいないわけである。さらに、今は「国際派」の時勢であるから、「民族派」は極めて少数となってしまう。この図で言えば、われわれは「民族派」の中の「改革派」にあたる。「原理派」は、完全に右翼である。

「ヤコブ・モルガン」氏が、日本を立て直す最後の望みとして大いに期待をかけているのが、われわれ「改革派」なのである。

『日本国民の大別』(ヤコブ・モルガン氏の分類)
(1)民族派
●原理派: 選民意識、日本精神美化、天皇崇拝、(反米、反ユダヤ、反西洋、反アジア)
✪改革派: 現状憂慮、民衆啓発、日本精神復活、親アジア、真の国際化
(2)国際派
●協調派: 国際協調、アメリカ礼賛、西洋崇拝、日本精神軽視、新世界秩序、アジア軽視
●従属派: ユダヤ代理人、フリーメーソン社員、日本従属化推進、敗北主義
(3)無関心派(90%を占める)
●大衆:  政治的無関心、拝金主義、享楽主義、視野狭窄、無知・従順、無気力  

悪魔(ユダヤ)からの最後通告
『混迷日本にとどめを刺せ』 
〔ヤコブ・モルガン・著 第一企画出版1995年刊〕
【引用❶終】

【*1】「われわれ」とはどのへんを指すのかわからないのですが、私はそれらに興味はあります。子供の頃は野球選手になりたかったですし、絵や音楽に関しては趣味ではなく余技であって、ひと頃はそれを仕事にしようとも思っていました。今もグルメです。

【引用❷】
〈日本ではこの重要6ポストがフリーメーソン〉

日本では戦後連綿として首相、外務大臣、大蔵大臣(財務大臣)、
文部大臣(文部科学大臣)、防衛庁長官、日銀総裁の6ポストは
フリーメーソンまたは無能で都合のよい人材によって占められてきた。

日本が罠にはめられて戦争を始めざるを得ず、しかもその戦争を
指導した軍部や政府の中枢がユダヤ・フリーメーソンであり、
最初から日本が負けることを想定し、負けるために多くの作戦行動
を行ない、意図的に途方もない犠牲者を出し、敗北したあと、
戦争を忌み嫌う国民に「平和憲法」を押しつけ、
戦後の日本を軍事的に無力化することが目的であった。

「日本が太平洋戦争に敗北することがあらかじめ予定されていた」【※】
という事実を証明する出来事がある。
上野の東京国立博物館理事長の奥村英雄氏は、
日本がアメリカと戦争を始める前に、

つまり、真珠湾攻撃をするはるか前に、
日本政府のある筋から、
東京はやがて空襲されるので、
あらかじめ博物館内の貴重な展示品を全国各地に疎開させておくよう指示され、奈良や東北地方に移動させたことを証言している。

駐留米軍の役目は非常時日本を占領すること

日本にいる米軍は何のためにいるかというと、日本で不穏な動き、
例えば民族主義に基づくクーデターなどが起こったとき、
それを制圧するためであり、日本に反米的政権が誕生したとき、
首相官邸と国会議事堂を占領するためである。

日本を戦後サンフランシスコ体制に組み込み、米軍の駐留を許し、
半独立国としての卑しい地位におとしめたのは
フリーメーソン首相・吉田茂であった。

そして、米ソの冷戦という虚構のもとに日米安全保障条約を締結、
日本に米軍が駐留する大義名分を与えたのは、
売国政治家・岸信介である。

国家としてまともな軍事力を持たない日本は戦後の国際政治
において常に二等国扱いをされてきた。
政治力は適切な軍事力によって裏打ちされる。
日本が国としてまともな大局観や戦略、そして危機管理を持たないのは、
国防という大事な能力と機能が欠落し、
独自の情報空間を持たないからである。

軍事力と情報力は表裏一体である。
日本はアメリカ軍によって列島を占領されながら、
アメリカからは大事な情報は何ひとつとしてもらっていない。
アメリカは無数の軍事衛星を打ち上げ、宇宙空間を制している。
今や月や火星にまで軍事基地を作ろうとしているのだ。

アメリカ本土の主要都市には、地下シェルターが張りめぐらされ、
地上からの核攻撃にも耐えられる体制をしいている。
アメリカは恐るべき軍事国家である。
日本はそのアメリカによって、
いつもこめかみに銃口を当てられているのだ。

この大がかりな日本破壊計画に早く気づけ

いまユダヤ国際金融財閥を中核とする
「世界支配層」イルミナティ・フリーメーソンは、
地球支配に向けて最後の仕上げをしている。

明治・大正・昭和・平成と時代は変わっても、
日本は絶え間なく外国勢力(ユダヤ)によって影響され、
国内の協力者の工作によって間違った方向へと導かれてきた。

やがて日本が日本でなくなる日が来る。
このまま手をこまねいて何もしなければ、
日本は本当にそうなってしまうのだ。

日本の心ある人たちはこの陰謀を見抜き、
国を売る者たちに鉄槌を下さなければならない。

戦後50年が経過し、日本人はその本来的徳性を失い、
醜悪なる姿へと変容した。利益至上主義や拝金主義である。
敗北によって日本人は高貴なる国体を失ったばかりか、
その精神まで堕落させたのである。

とりわけバブル崩壊後の日本は国家としての理念を失い、
国民も長期化する不況の中で目標を失い無気力そのものである。

ところが日本人は、このようになった原因は日本人自身にあると考えている。
日本人特有の自虐性がそうさせるのであろう。

だが、一時の経済的成功は別にして、
日本人がかくも弱々しい国民になった最大の原因は日本人の中にだけあるのではない。
日本人をそうさせるための大がかりな仕組みがあるのである。

日本経済が崩壊する日が目前に迫っている

日本は、日中戦争・太平洋戦争へと突き進んでいった
あの暗黒時代と極めて似た歴史を歩もうとしているのである。

だが、今の相手は「中国」の代わりに「アメリカ」、
「アメリカ」の代わりに「世界支配層」である。
そして、日本は再び敗北することになるであろう。

バブル経済の発生やその崩壊は仕組まれたものであるが、
俗悪な日本の政治家は
日本を再び太平洋戦争を上回る大波乱に導き、
その息の根を止めてしまうだろう。

日本は「悪魔に魂を売り渡した政治家たち」によって、
再び同じ歴史を繰り返そうとしているのだ。
「世界支配層」イルミナティ、ユダヤ・フリーメーソンの代理人たちは、
日本を今度こそ本当に奴隷国家に仕上げるための画策を行なっている。
そしてそれは、最終段階に入っている。
賢明な日本人は、このような謀略を決して許してはいけない。

潜在的闘争心を抜き取られた日本人
「潜在的闘争力を奪うための手段」には次のようなものがある。

● 麻薬など、習慣性の強い薬物を大量に供給して、健全なる精神と肉体を破壊する。
● ポルノや風俗産業を拡大して性的快楽を大量供給する。
● スポーツや映画、音楽等の娯楽を大量に与える。
● 男子を軟弱化し、女子の闘争心をあおる。【*2】
● マスコミを総動員して愚民化をはかる。
● 輸入食品の中に特殊な薬品を混入して肉体の虚弱化をはかる。
● 公害など環境汚染を促進して肉体の破壊を促進する。
● 新興宗教の信者としてマインドコントロールする。

そして、もうひとつの「反対勢力構築の方法」は次の通りである

● フリーメーソン組織を強化・育成する。
● 政党を結成して国政奪取の機会をうかがう。
● 戦闘的宗教集団を設立して、組織拡大および武装闘争を行なう。
● 犯罪集団、マフィアを拡大強化する。
● スパイ組織を構成して情報収集を行なう。

日本では、以上述べた手段や方法は、すべて実行されている。
特に、日本のように一度世界大戦で敗北したような国は、
「世界支配層」にとって何をするにしてもほとんど自由である。

それは闘争心の劣化や反対勢力の構築に加えて、
体制側すなわち権力側にも言うことをきく人材を
自由自在に配置できるからである。

日本では、政治、経済、知識人、マスコミの中枢は
ユダヤ・フリーメーソンとして「世界支配層」にいつでも奉仕している。

日本の歴代首相、外務大臣、大蔵大臣、文部大臣、防衛庁長官、日銀総裁などのポストは
すべて秘密組織のエージェントでなければ座ることができない。

経済界もしかりである。経団連や日経連、経済同友会、日本商工会議所の財界4ポストは、普通の人間ではよほどのことがない限り、なれないであろう。
大企業のトップもそうである。
 
学者や知識人、ジャーナリストも、テレビや新聞、各種雑誌に多く登場する場合、
たいてい「世界支配層」のスポークスマンを務めている。
彼らが実力だけで有名になることはあり得ない。
マスコミに登場するのは、
繰り返し「世界支配層」に都合のいいことを並べ立てているからである。

真実を述べる者は言論界から抹殺される。【⁂】

おわりに21世紀に日本が生き残るために

日本は常にだまされ、そして「世界支配層」はだます側である。
日本は徹底的に利用される。日本が生み出す膨大な富は、
巧妙なやり方で吸い取られるのである。

かつて大英帝国の繁栄を支えたのは植民地インドであり、
イギリスはインドの富を吸い上げたが、
今それと同じことが日本で起きている。
日本の富は、米英仏蘭露などに君臨する「世界支配層」によって吸い取られているのである。

日本がそのことに協力的であり、おとなしい存在であるかぎり、
日本の生存は許される。
だがひとたび日本が歯向かえば、
徹底的に攻撃され、その存在を脅かされるのである。【*3】
 
この戦いは日本が無条件降伏するまで続くのである。
これは第二次太平洋戦争であるが、
今度の敵はアメリカを主力とした黒幕「世界支配層」である。
はたして日本がこの戦争に勝つ見込みはあるだろうか。

それはある。
日本が敵の正体と意図を見抜き、
その攻撃に対する防備の充実と同時に有効なる反撃をすることである。

●日本国内のユダヤ・フリーメーソン勢力を一掃する。
●アメリカの理不尽な要求に対しては毅然とした態度で外交交渉に臨む。
●日米安保条約を廃棄し、
アメリカ駐留軍(その実態は日本監視軍)をすべて引き上げさせる。

日本がまともな国になるための障害は多い。
なぜなら以上述べたことはすべて「世界支配層」にとっては
実現してはならないことばかりであり、
これを阻止するための網の目を日本国全体に張り巡らしている。

政治家の多くは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソンの手先である。
官僚・財界の中枢も腐っている。

ジャーナリズム、知識人も敵側の代理人だ。
多くの国民は無気力、催眠状態であり、日本の状況は絶望的である。

けれども希望を失ってはいけない。
天が日本に与えた高貴な使命を考えるとき、
日本はどのような困難をも克服しなければならないのだ。【*4】

『混迷日本にとどめを刺せ』
〔ヤコブ・モルガン・著 第一企画出版〕
【引用❷終】
【*2】日月神示にある「悪平等」であり、SDGsにも顕れています。TVやマスコミも煽っています。男は「天」(霊の部分)であり女は「地」(身体の部分)を司るのが神の意思です。
【*3】それゆえ「確信犯」なのですが、これは組織の中の個人にも当てはまります。はっきり言えば奴隷であり、今や日本では「出エジプト」の覚悟がなければ解放されません。しかし霊的自覚を持てば敢えて脱出するでしょう。
【*4】モルガン氏が働きかけて25年以上経っています。個人的にはともかく、「日本」が絶望的なのに「日本の使命」とはいかに。
【⁂】以前にも言ったように、フリエネルギーを開発する人も、死なない薬を開発する人も消されるのです。
【※】私が中学生の頃、父が中学生だった戦時中の初期のことを話しました。
「ある日、乗合バスに乗っている時、そこに居合わせた少し年上の中国人青年に、『この戦争負けると思うよ』と言ったら、『そのとおりだ、君は偉い』と言われたよ」
大局を掴むことに長けていた父とその青年は、もしかしたらこのことを言っていたのかもしれません。

【引用❸】
《政府の要人(トップ)は全員「世界支配層」の使用人》

この超国家組織は、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアなど有力な国家を操り、世界を意のままに動かし続けてきた。民主主義とは美名であるが、これは同時に「多数決による暴力装置」である。国民を愚民化し、比較多数の票で選ばれた悪質な政治家は国家・国民のためではなく、「世界支配層」の利益のために政治を行なう。
 国民には良い政治家と悪い政治家の区別はつかない。愚民化され、愛国心を失った国民の選ぶ政治家は、それがたとえ民主主義的制度で選ばれた者であっても、民族・国家の利益のためには決して動かない。ばかりか、国家の中枢に入り、国益を損なうことばかり画策するのである。【*5】
 アメリカ、イギリス、フランス、ロシアなどの政府要人はすべて「世界支配層」の忠実なる下僕である。大統領や首相、大蔵大臣、外務大臣、中央銀行総裁など国家の主要な権力ポストはすべて売国奴たちによって占拠されている。
 アメリカ政府とアメリカ国民は似て非なるものだ。アメリカ政府はたとえそれが共和党であれ民主党であれ、アメリカ国民のための政治を行なうことはない。「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソンは、アメリカという世界最強の軍事力と経済力を「世界の警察」として利用しているだけである。
 それが証拠に、アメリカは年々衰退し、犯罪は増加、中産階級は激減して、今やひとにぎりの富裕層と大多数の下層階級に分化している。アメリカの富はすべて「世界支配層」によって吸収され尽くしたのである。アメリカ政府の行なう政治は一部の大企業の保護であったり、「世界支配層」にとって都合の悪い政策に口をはさんだりすることばかりである。アメリカ大統領と議会は常に「世界支配層」の意のままに動いているのだ。
 第二次世界大戦の敗北によって政治的に無力化した日本でも、同じようなことが起こっている。日本の政治家の質は極めて悪い。多くの政治家は無能か、さもなくば確信犯かのどちらかである。「確信犯」とは、言うまでもなく「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソンの忠実なる手下である。

 日本ではこの重要6ポストがフリーメーソン

 日本では戦後連綿として首相、外務大臣、大蔵大臣(財務大臣)、文部大臣(文部科学大臣)、防衛庁長官、日銀総裁の6ポストはフリーメーソンまたは無能で都合のよい人材によって占められてきたが、田中角栄だけは例外だった。田中首相は「世界支配層」が予期しない日本の総理大臣だった。【⁑】
 田中角栄は民族主義者であった。日中国交回復をなしとげ、独自のエネルギー政策をとろうとした田中首相は「世界支配層」にとって大変危険な政治家と映ったのである。
 「世界支配層」の狙いは、日本と中国を永遠に分離、敵対させることだった。そうすればアジアの二大国が結束して強大なアジア圏ができることを未然に防げる。また石油のない日本を米英系の石油メジャーの傘下に組み込んでエネルギーという強力な武器で日本を恒久的従属下に置くことができる。この両方に挑戦したのが田中角栄である。
 この精力的かつ国民的人気を持った首相をこのまま存続させては、日本に民族主義が芽生え、日本という国を服従させることが困難になる。このため田中角栄を倒すためにさまざまな手が使われた。
 ジャーナリストを使っての金脈問題暴露記事や、アメリカ発のロッキード事件発覚である。ロッキード事件は田中角栄を倒すために仕組まれた陰湿なる謀略である。5億円のワイロはあらかじめ計画されたシナリオに沿って田中首相筋に渡された。そのために多くの人や商社が介在し、大がかりな贈収賄工作が行なわれたのである。
 ロッキード事件では日本側に多くの逮捕者・犠牲者が出たのに比べ、アメリカ側で刑事罰に処された者は誰もいない。このことはロッキード事件なるものが、日本の政治を混乱させ、「世界支配層」にとって望ましい方向に軌道修正するための謀略であったことを示している。
 田中角栄を失った日本は政治的無能状態になり、その後は「世界支配層」とアメリカに忠実な政治家によって政権交代が行なわれた。日本政府中枢にはフリーメーソンが多く巣くったのである。
【引用❸終】

【*5】愛国心とは表面的に外国と戦うことではなく、自国の問題点を是正することです。民主主義は多数派の愛国心がない人による多数決なのです。再三言うように、民主制からは霊的指導者である君主は生まれません。昨今、ある大富豪が買収を始めたようですが、このように民主主義はみなさんが懸念される地上的な独裁者が生まれる温床なのです。
【⁑】それゆえ田中角栄氏は、霊界の高い層にいると言われています。改革が成功したか失敗したかではないのです。魂を売らずに純粋に行動できたか否かなのです。

それでも、「改革してどうなるんだ?」とか「楽しく過ごせばいいではないか?」などと言う義のない人たちもいることでしょう。
このような状況下で、なお損得勘定と自己保存だけの思考や行動がいかに危険なことか、義に生きることがいかに大切か、特に霊的自覚をした人にはわかるはずです。
結果的に地上を変えられたか否かではなく、地上的な損得や善悪に終始することなく超越できるか、それがこの混迷の時代に生を受けた私たちに課せられた試験なのです。
目的は霊的向上なのです。

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神盲信と無神論 [霊的存在]

いつもいただく幸福の科学の冊子の中にこういう個所がありました。
国際問題については、バイデン氏が主張する、
「〈民主主義国家〉対〈専制国家〉」
ではなく、
「《神仏への信仰心を持つ国家》対《無神論・唯物論国家》」
の対立として考えれば「勝てる可能性がある」と指摘。
神を信じているプーチン氏を西側に引き込むことの重要性を説きました。
〔2022年1月9日時点〕

今生きるみなさんは、
「あれっ?『勝てる』って、どこに対して?」
「プーチン?なに寝言を言っているんだ」
と、首をかしげるかもしれません。
もちろん、時期から言って、わざとコロナ感染させたと目の敵にする「中国」に対してですけれど。

ご存じのように私は以前から、「民主が善、専制(独裁)が悪」の判別が当たり前のように世間に浸透しているのが気になっていて、もっと霊的視点を設けるように促していました。
「民主vs専制」という地上的様式の対立で、どっちが良い悪いと白黒つけるのではなく、「霊的に高いか低いか」で、指導者が君主か否かを判断することが必要だと再三言ってきました。
今般、私が言うのではなく、影響力のある大川氏が言ってくれたことで、たくさんの人が考えるきっかけとなって、世の中が平和へ向かう突破口となるのかなと一瞬思いました。
ところが、地上世界はご覧のとおりです。
ウクライナ侵攻を見れば、プーチン氏が霊的に高い指導者でないことは明らかです。
完全に見込み違いであって、「神を信じていること」が、けっして「霊的に高いこと」ではないということがわかります。
この手の「神を信じる」は完全に盲信であって、霊的に高くありません。
深信は「神を知る」です。
あくまで「知」と「信」は一体です。
かりに盲信者が信仰心のない者をやっつけても、霊的に何も偉くありません。(同じ穴の狢ですから)

今起きている戦争は、専門家によればどうやら「ロシア正教会」が大きく関わっているようで、大まかに言うと、「ウクライナ正教会」の独立を認めるとか認めないとかで、以前から「ロシア正教会」と確執があるということです。
【引用】
教会の独立は、地域を管轄する教会の承認が必要となりますが、モスクワ総主教庁の管理下に置かれたウクライナ正教会は、何度交渉しても承認しないモスクワ総主教庁を飛び越えて、コンスタンティノープル総主教庁と交渉します。先述の通り、コンスタンティノープル総主教庁はその歴史的な経緯から正教会の代表格とされていますので、第一人者と交渉しようとしたわけです。(本来どこにもその独立の正当性を認める組織が存在しないのですが)
【終】
そのほかに、ある組織がロシア正教会を政治利用しているとも言われます。
詳しい人の情報を知る限り、力関係とか駆け引きとか、とにかく、思考が極めて「地上的」であって、地上の攻防に終始し、霊的思考など入り込む余地はありません。
これではとても平和など望めません。

それから、中国が無神論・唯物論国家だと大川氏は以前から言っていますが、私が知る限り、首脳はともかく一般の中国の人は信仰心があると思います。
ただ、「神」という言葉は彼らはほとんど使わないかもしれません。
一つの理由は、孔子の教え「論語」が浸透していて、以前にも触れた、
《民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく。知といふべし》
が根底にあるからだと思います。(またか?)
神仏を崇拝するにしても、地上においては、地上で為すべきことを為すと教えられていると思います。

【再び引用】(既読の方はスルーしてください)
樊遅(はんち)知を問ふ。
子曰く、「民の義を務(つと)め、鬼神(きしん)を敬して之(これ)を遠ざく。知と謂(い)ふ可(べ)し」。
仁を問ふ。
曰く、「仁者は難(かた)きを先にして獲(う)ることを後にす。仁と謂ふ可し」。
〈解説〉
樊遅が知とは何か、と孔子にたずねた。
「われわれは、ややもすれば人間を超えた存在に頼る気を起こしがちだ。
しかし、まず人間としてやらねばならぬことは何かと考えること、それが知だ」
樊遅はさらに仁についてたずねた。
「人間として正しいことは、たとい労多くして功少なしと知っていても、
あえて実践する態度、それが仁なのだ」【終】

また、老子の思想「道(タオ)」も浸透していて、
〈何をするにも、まずは腹を満たして身体を整えてから〉
と考える習慣があるようです。
実際、私もうまくいかないときに、知り合いの中国人にそのように忠告されことがあります。

【引用】『タオ』(加島祥造)
世間が頭のいいやつを褒めるもんだから、ひとはみんな利口になろうとあくせくする。
金や宝石を大事にするから、盗人がふえる。
世の中が生きるのに必要のないものまでやたらに欲しがらせるから、みんなの心がうわずってしまうんだ。
だから道(タオ)につながる人はあれこれ欲しがる心を抑えて、飯だけはたっぷり喰う。
野心のほうは止めにして、骨をしっかりこしらえるんだ。〔以下略〕【終】

この唯物論は、以前にも言ったと思いますが、「方便」であり、
「健全な身体に健全な魂が宿る」(健全な魂が健全な身体を作るとも言える)
という「方法論」であって、彼らはけっして、死んだら終わりとか、働かないで生活ができるなら遊んでいていい、などということは言いません。

それから、前回、前々回同様、言葉の欺きもあります。
「~主義(~イズム,…ism)」という言葉がどうも厄介で、地上的方便なのか、霊的に健全か病気か、2つがあってそれがゴッチャになっているのもあります。
一般の中国人の「唯物主義」は地上的方便であって、「拝金主義」や「エゴイズム」や「rheumatism」のような病気のことではありません。
「神を信じている」という意味が「盲信」を含むならば、
「無神論者は信仰心がない」
とは言えないようです。

どうやら大川氏は、中国憎さからか、
「神を信じる=信仰心がある=霊性が高い=平和的」
「無神論=唯物論=信仰心がない=霊性が低い=攻撃的」
という一面的な思考に陥っていると思われます。

では、神など存在しないと断言する筋金入りの「無神論者」で本当に「信仰心がない人」はいないのでしょうか?
当然、たくさんいます。
その手の無神論者たちは、
「神というのは、人を支配するために人が都合よく作ったものだ」
「そして、人を束ねて戦争を起こすんだ」
と口をそろえて言い張ります。
たしかに形骸化した宗教組織は結果としてそういう事実もあり、間違いではありませんが、自発的に菩提心を起こすことなく、霊的自覚することがないため、形骸化した組織の弊害の面だけを見ているからです。(そういう人は、儒教でさえ、「過去に戦争に利用されたから危険だ」と言う短絡的な思考回路なのです)
それは「神盲信者」の対極にある地上にへばり付いた同一直線上の延長上の「無神論者」の言うことです。
というより、そもそも「神の存在」を履き違えているのです。
もちろん、いくら省察を促しても聞く耳を持ちません。

ではもし、その手の無神論者から、
「それなら神の存在を証明して見せろ」
と問い詰められたら、あなたはどうするでしょうか?
(私の経験上、「物ではないから『証明』とは無縁だ」と言っても無駄です)
答えられなければ、その手の無神論者はそのまま先程のことを言い張ります。

今の私なら手っ取り早い方法としてこう言います。
「では、あなたは存在しますか?」
もし、
「見ての通りここにいますよ」
と答えたら、
「いえ、あなたの肉体ではなく、あなた(の世界)が存在するという自覚がありますか?」
と問い直します。
もし、
「はい、たしかに私は存在します」
と答えたら、
「だから神は存在するのです」
「なぜなら〈あなた〉が神だからです」
と言います。
ヤケクソのようですけど、これしかありません。

【※以下は何度も繰り返し言っていることなので、見なくても結構です】
私たちはみな神の子です。
神の側面、分霊です。
私たちの霊の集合体、母体、本源が神です。
なので、神と呼ばなくてもよいのです。
神を「信じる」のではなく、「知る」のです。
自分がどういう状態かではなく、〈自分がいること〉が神秘的なのです。

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教員不足 [中庸]

今回も言葉の欺きです。
みなさんは新聞やネットの見出しに「教員不足」を見ることがあると思います。
でも現場にいる私からすると、そのような感覚は微塵もありません。
たしかに、専任の先生たちは、私の若いころとは比べものにならないほど、量的にも質的にも負担が多く、本当はもっと人手が要るように思われます。
それでも相変わらず講師室には30代前後の若い人が何人も5年ぐらい非常勤のままでいますし、少子化が止まらず1人当たりの持ち時間も年々減っています。

「これはいったいどういうことなのか?」
「マスメディアの教員不足とは公立だけのことを言っているのか?」

そのへんのことを、詳しい人に聞いてみようと、いま同じ講師室にいる2歳上の国語の先生に尋ねました。
すると、
「これはむしろ私立の方が深刻だと思いますよ」
「要するに国からの助成金が下りないからです」
「なので、不足しているんですけど、『採用』がないんですよ」
とあっさり返ってきました。
私は腑に落ちたのと同時に落胆しました。
「なんだ、結局我々教員が不遇な思いをしているのは、国が教育機関にカネをかけていないからなのか」(小泉政権の時にそれまでの3分の2になったようです)

大学はもっと酷くて、今始まったことではなく、あの隣の席にいた「物理学博士」がずっと講師でいる(手当てが交通費程度で生活できない)ことが象徴しているわけで、日本が昔から文化国でないということに尽きます。

みなさん、どうぞ誤解しないでください。
近頃は世間で、いろいろな意味で「学校はブラックだ」と言われて、教員志願者が減っているために、なり手がいないと思っている方がいらっしゃるでしょうけど、それは間違いです。
教員のなり手はたくさんいます。
ただ、学校側が教員を雇うカネがないだけです。
外部の人たちの中には、
「採用基準が下がると、質の悪い教師が増えるのではないか」
と懸念する人が結構いますが、心配には及びません。
基準は下がりません。
それに質がいいとか悪いとか、どういう意味で言っているのかはっきりしませんし、だいいち、採用がきついか緩いかに関係ありません。(もしあるとすれば、父兄や世間一般の学校評価という観点で都合がいいか悪いかでしょう)

ともあれ、教員不足は資金不足が大きな理由なのですから、新規採用がないだけであって、その分、内部では専任教師がたいへんな思いをしているわけです。
マスコミは目に見える状況だけを取り上げて、「ブラックだ」と報道しているのです。

まあこの資金不足は、他の業種でも同じことで、非正規雇用者が4割(?)を占めているのも同じ理由かと思います。
以前にも言いましたが、ひとえに働く人口が多すぎるのです。
それをマスコミは「人手不足」にすり替えるのです。
現に今年から、年金受給者の働いた分を足した収入の限度額が28万円から47万円に引き上げられると、上述の先生から聞きました。
個人の事情からすれば助かる人も多いかもしれませんが、全体的に見れば、税収も確保できて支配者層や政治家が潤う一方、庶民の所得の価値が下がるばかりです。
どうやら恐れていたワークシェアリングが実行されそうです。
かく言う私も、最低限の物質生活確保のため、「有り難いことに死ぬまで働くことができる」かもしれません。

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啓発 [霊的存在]

ずっと以前からですけど、近頃は特に言葉の一面性や不完全性をつくづく実感します。
世の中の人はあまりにも言葉に頼りすぎているように思います。
それによって無理解や要らぬ争いをわざわざ起こしているように見えます。
私個人の物質的生活のことや、世間の無理解や無関心に疲れ果てましたが、私の目的は平穏すなわち真の平和ですから、少しだけでも言わせていただこうかと思います。
今回は前回、前々回(常見と断見)の補足のようなものです。

『因果応報なるが故に来世なきにあらず、無我なるが故に常有にあらず。』

ある聡明な仏教者は、
「仏教では、死んだら無になるわけでもないし、固定不変な霊魂が続くのでもない」
と、訳しています。
ただ、霊魂という言葉をどう取るか、取り方しだいで面倒なことになるのではないかと懸念します。
もちろん、「固定不変な霊魂」というのは、今の意識を持続した自我ということですが、この「固定不変」を除いた「霊魂」とはどういうものなのかという疑問が残ります。
ところが、「赤い夕陽」のように夕陽にすでに赤いという意味が含まれる場合や、「円いボール」のようにボールにもともと円い意味が備わっている場合があります。
すなわち、同じ「固定不変な霊魂」でも、「霊魂」にはじめから暗黙の裡に「固定不変」の意味が付随していて、そうでない人と会話していることも考えられます。
そうなると厄介なことが起こります。
スピリチュアリズムでは「霊(霊魂)」といえば、(地上的に)固定不変ではない実体を指すのですが、いくら高級霊の通信で霊が永遠不滅だと知らされても、特に断見の仏教者は、
「霊魂なんかないんだ!」
「そんなのインチキだ!」
と怒り狂うのです。

要するに、言葉に囚われないで他の様式に理解を示すか、言葉に囚われて他を否定するか?
それは、もともと自分で考えて菩提心を起こして道を行く人なのか、誰かに啓蒙されて入信し団体の人や経典の表現を再生する人なのか、で分かれます。
断見外道に陥る人とは、後者です。(考えている人は断見はないはずです)

仏教では、基本的に霊魂や神という表現はないので、死んだ後もずっと続いていく永遠の生命として『阿頼耶識』を用いるのが妥当です。
それをバラモン教(ヒンドゥー教)では「アートマン」と言い、スピリチュアリズムでは「霊」と言っているだけのことです。

聖書の「蛇のように賢く」を後世の世俗的な誰かが「蛇のようにずる賢く」と解釈してしまったり、昭和一桁の日本人にとって悪い意味が全くない「三国人」に、後世の一部の輩が勝手に侮蔑や迫害の意味を付随させて、「三国人」と言った人を非難したりします。

要するに、考えている人から考えていない人に伝わるときに、言い換えると、知と信が一体の人から知と信が分離している人へ伝えられるときに、起こります。
それは、霊的なものを表すには不完全な地上の言葉を介するからです。

このように地上の人間の言葉というのは、デマに代表されるように、暗黙の裡に勝手な意味、価値、条件、地上的善悪などが付随して、そのまま人から人へ伝わるので、理想化されて肯定か否定になってしまい、ついには争いになってしまうのです。
それではどうしたら言葉による無益な対立や諍いを避けることができるのでしょうか?
要は常に考えていること、本質を見極めることに尽きるのです。

補足します。
少し前、朝のTV番組で、林先生が「啓発」の意味(啓蒙との違い)を解説していました。
これは論語のある言葉で、
「自発的に考えて行動する人以外には教えない」
という意味だということでした。
これに対して何とも思わない人もいるでしょう。
また、「教える対象限定とはどういうことか?」がわからない人もいると思います。
私はこれを聞いて、
「ああ、孔子らしいな」
「やはり聖人なんだな」
と思いました。
要するに産婆術なのです。
イエスも聖書の中でしきりに、
「聞く耳を持つ者は」(鵜呑みにしない者は)
と限定して前置きをしています。
釈迦もソクラテスもそうです。
わかる者だけを対象にしていたようです。
それ以外の者に教えるというのは「盲信者」を作るだけだということがわかっていたのでしょう。
それに聖人たちはみな、時代が下ると教えが「正法→像法→末法」というように形骸化することを見抜いています。
ここに来てくださるみなさん!、繰り返しますが、私たちは所詮「少数派」です。
そろそろ方舟を造りましょうか。
下から2番目の修行の場でもある地球上の人間全員を「啓蒙」して仏国土を作るというのは、無茶というよりむしろ間違いだといえるでしょう。

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死んだら何もない?(2) [霊的存在]

石原慎太郎氏は晩年のインタビューで、
「死んだら何もない」
「天国も地獄もない」
「だって今の意識がないんだから」
のようなことを言っていました。
このとき私はハッとしました。
「あれっ?たしか15年前に古書店で買って読んだ霊界の本の帯に、石原さんの推薦があったはずだけど」
そう思って本棚を探してみると、たしかにありました。
宮沢虎雄編著『死後の真相』(1976年)
カバーを見るだけでもわかると思いますが、霊界の上層部から下層部までの様子や輪廻転生の仕組みなどが事細かく記されています。

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石原氏がどういう理由で推薦文を載せたのか、もちろんわかりません。
頼まれてしぶしぶ引き受けたのか、名前を貸しただけなのか、単に後年に心境が変化したのか、いずれにせよインタビューでの発言からは想像がつきません。
ただ、発言の意味は「断見」ではなさそうです。
石原氏は、本人も言うように歴史の岐路に立つことができて、正直に生き、義に生き、やりたいことをすべてやり尽くしたように思えます。
そのためもはや地上の執著がないのでしょう。
釈迦ほどかどうかはともかく、毒矢を抜いてしまったので、死後は幽界や霊界の下層部を突き抜けて、高い次元の層に直接行くのかもしれません。
そしてもう地上には転生しないのかもしれません。
もしそうならば、霊界の上層部や神界は地上の意識では量れないのですから、それを「何もない」と表現してもおかしくはありません。
しかし、けっして自分の実体がなくなるとは言ってないと思います。
もしかすると、石原氏は『死後の真相』の内容を覚えていたからこそ、自分はもう霊界の上層に行くと悟ってそう言ったのかもしれません。

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無我=断見? [霊的存在]

正月になってから墓参りに行くというのは生まれて初めてですが、それは母親の身体が不自由になってきたために暮れに行けなかったからです。
それに母自身がそれを気にして毎日口に出すので、無理やり連れてタクシーで行ったわけです。
そのときに寺の奥さんから渡されたいつもの教化冊子『真宗の生活』を、通勤中の電車の中でいつものように私はパラパラめくってナナメ読みしました。
すると、8月の〈お盆〉の所の某寺住職で某大学名誉教授の記述が目に留まりました。

【引用】
日本では、昔からある庶民の仏教行事として、お盆が大切にされてきました。
一般的には、亡くなったご先祖の霊魂がこの世に戻ってきて、わが家では盆を過ごし、またあの世へ帰っていくと考えられ、そのご先祖の追善供養として送り火や迎え火が焚かれるのでしょう。
私が育った地域では、〔中略〕私自身もそうした光景を見るのは嫌いではありません。
〔中略〕しかし、そうしたお盆の行事が本当の仏教の教えを表しているかというと、そうとはいえないように思います。
古代インドに仏教以前からあったバラモン教の教えでは、すべての現象の背後には永遠不滅の実体である「我(アートマン:霊魂)」が存在し、それが輪廻転生を繰り返すと考えられてきました。
それは、いまもヒンドゥー教の文化圏に根強く影響が残るカースト制度のように、差別的な身分制度の基本にある考えです。
それに対して、お釈迦様の教えの根本には「無我」という思想があります。
つまり、肉体が滅んだあとに転生を繰り返すような「我」などは存在しないという考えです。
そして、ありもしない「我」が存在していると思い込み、それに執着することが人間の苦しみの原因だとされているのです。
昔から浄土真宗のご門徒は、亡くなった方を、私たちに「真実に目覚めよ」と呼び掛けてくださる仏さまとして仰いできました。
真宗門徒にとってお盆とは、その呼びかけに応え、本当の教えに耳を傾ける機会にしていくことが願われている行事なのです。
【終】

どうでしょう?
お盆のあり方どうこうの問題と、霊の存在をごっちゃにしていますね。
たしかにお盆の儀式は釈迦の教えとは無関係でしょうけど、我(アートマン)と輪廻転生は釈迦の教えの根本のはずです。
この住職はどこでどう釈迦の教えを知ったのでしょう?
だいいち、肉体が滅んだあとではなく、肉体が滅ぶ前の自分がどうして他の人ではなくて自分なのか、考えたことはあるのでしょうか?
それに、
《亡くなった方を、私たちに「真実に目覚めよ」と呼び掛けてくださる仏さまとして・・・》
と言っているその仏さまは「霊的存在」ではないのでしょうか?
また、
《ありもしない「我」が存在していると思い込み、それに執着することが人間の苦しみの原因・・・》
と言っていますが、「我」(アートマン)と「執着すること」とは別ではないでしょうか?
『順世派』に代表される断見は今の唯物論に当たりますが、現に、死んだら終わりの唯物論者たちには、「執着」に満ちている人がたくさんいます。
「人間、どうせ死ぬんだから」
と言って、無責任な振る舞いを平気でする人がたくさんいるのです。
同じ「人間、どうせ死ぬんだから」を、この住職のように地上の執著を捨てる方に考える人はまだいいのですが、そういう人はむしろ少ないと思うのです。
一般に〈断見〉というのは危険なのです。
むしろ、〈常見〉(我:アートマン・輪廻転生)は、そういう無責任な思考や行動を内側から食い止めてくれます。

仏教というのは釈迦の教えのはずです。
にもかかわらず、実体や輪廻転生がないという意味の「無我」が一部の住職や仏教関係者に受け継がれているのいうのは驚きです。
というのも、釈迦はハッキリと輪廻転生を説いているからです。
事実、『ブッダの言葉』には、
「この人はあと一回転生して解脱する」
というような言葉があります。
ということは、その前提となる実体(アートマン)を認めているということです。

「霊」という不滅の実体があることはスピリチュアリズムでは当然のことですし、エドガー・ケーシーもそのリーディングにおいて、
「人間の実体は霊である」
と言い切っています。
これは仮に地上に生を受けることが一回きりであっても、霊という自体はあるということを意味します。
いつものようにくどいのを承知で「断見」の人に問いますが、
「今居る貴方は、なぜ貴方でなければならないのですか?」
「なぜ他の人に生まれなかったのですか?」

ではなぜ「無我」を曲解したのでしょうか?
どうも伝道の途中で、「我」を肉体の欲求と関係する「我執」にすり替えてしまったからだと思われます。
「自分の状態」と「自分の存在」を混同して一緒くたにしてしまったのでしょう。
我執(地上的な執著)がなくなることで、我(アートマン)もなくなるのだということ。
どちらかというと「言葉」に欺かれてしまった感じがします。【*】

私が習っていた中国整体の学校に、張先生という気功の名人がいて、気功にとどまらず深い修行を実践していました。
その先生は私たちに、
「本当に肉体の感覚がなくなるよ」
と言っていました。
ということは、そういう境地の自分が居るということであって、実体がなくなるわけではないということです。
解脱して地上の執著がなくなって、地上に生まれなくなっても、霊は滅することはないのです。

たしかに死後の世界、殊に高い領域の霊界(生前も同時に居る、また、寝ている間に行っている世界)に関しては、エドガー・ケーシーは、
「肉体を持った者にはわからない」
と言い、ヴィットゲンシュタインは、
「生の経験ではない」
と言い、釈迦は、
「妄想だ」
と言って、口を閉ざします。
つまり、「無い」のではなく、時間や空間を前提に語る地上の人間には「語り得ない」というだけなのです。

夜ぐっすり眠れるときは、夢も見ずに、気がついたら朝だったということがあります。
全身麻酔で手術を受けると、気がついたら終わっていたということがあります。(私も6年前に経験しました)
寝ている間に旅しているはずの霊界のことは全く覚えていません。
それは、起きてからは地上の感覚では表現のしようがないからです。
死んで霊界の高い所へ行けば、逆のことが起こるでしょう。
でも、実体(アートマン)がなくなることはありません。


【*】(前回の引用から再度)ヒンドゥー教では永遠不滅・独立自存の個我、個人の本体としてのアートマンの存在を信じ、これを輪廻の主体と考える。ここで言うアートマンは、単なる個人の我としての「自我」ではなく、世界に対峙する個人の我としてのアートマンであり、よって個我と訳される。無我という言葉はウパニシャッドの atman(Sk.語 アートマン)に否定の接頭辞 an- を付けたもので、アートマンの否定の形になっているが、釈迦はウパニシャッドの形而上学的な梵我一如思想に対抗して無我(非我)を説いたのではないと考えられており、釈迦の無我説はアンチ・アートマン思想ではない。
なお、ある人はアートマンの代わりに「阿頼耶識」を当てます。
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アートマン [霊的存在]

諸行無常、諸法無我と言って、どうやら仏教関係者にも自分という存在は「実体」がないとする人たちがいるらしいのです。
いつか友人が寺で「霊なんかないんだ」と怒られたという話をしましたが、霊という用語が仏典にないだけなのか、それとも「無我」の解釈がそうなのか、私はどうも気になってしかたがありませんでした。
また、「自我は後から生まれる」とか「霊や神など人が作った幻想だ」と言い張る人たち〈TM族*〉がネットでも見られ、その人たちはもしやその手の仏教関係者なのかとも思ったので、さっそく「無我」について調べてみました。

【引用】(Wikipedia)
釈迦が教えを説いた当時のインドでは、バラモン教(ヒンドゥー教)の哲学者たちは、我の実在の有無を始めとする形而上学的な論争をしていた[5]。
初期仏教においては、物事は互いの条件付けによって成立し存在し(縁起)、無常であり変化し続けるため、「われ」「わがもの」などと考えて固執(我執)してはならず、我執を打破して真実のアートマン、真実の自己を実現すべきとして、「我でない」(非我)と主張された[6]。
これは、「我がない」「主体がない」「霊魂がない」ということではなく、「アートマン」「我」「真実の我の姿」「私のもの」という観念が否定的に説かれたと考えられている[6][5]。

しかし、その後「我がない」(無我)という解釈に発展し、人無我と法無我の二つが考えられた[7]。人無我とは、人間という存在(有情、衆生)は五蘊が仮に和合した無常なるものに他ならないから、恒常不滅なる自我の存在、実体的な生命の主体というようなものは無いということ[4][7]。
法無我とは、あらゆるものは縁起・因縁によって仮に成り立っているものであるから、そのものに恒常不滅なる本体、本来的に固有な独自の本性(自性)はないということである[4][7]。
これは大乗仏教にも受け継がれて、般若思想では「無我」は「空」と表現された[7]。

ヒンドゥー教では永遠不滅・独立自存の個我、個人の本体としてのアートマンの存在を信じ、これを輪廻の主体と考える[8]。
ここで言うアートマンは、単なる個人の我としての「自我」ではなく、世界に対峙する個人の我としてのアートマンであり、よって個我と訳される[9]。
無我という言葉はウパニシャッドの atman(Sk.語 アートマン)に否定の接頭辞 an- を付けたもので、アートマンの否定の形になっているが、釈迦はウパニシャッドの形而上学的な梵我一如思想に対抗して無我(非我)を説いたのではないと考えられており、釈迦の無我説はアンチ・アートマン思想ではない[10]。
仏教では、個我を個我たらしめる要素としてのアートマンの実在を、縁起の道理によって否定し、輪廻から解放される解脱への道を示した[8][11]。
中村元は、初期仏教では実体としてのアートマンは認めなかったが、倫理的実践的な意味におけるアートマンはむしろ認めていたと述べている[12]。

輪廻の主体については、ヒンズー教、ジャイナ教、無我を主張する仏教では見解が異なっているが、しかし仏教を含むこれら3つの宗教は共に生まれ変わりを信じており、以前のインド哲学の物質主義派とは違って、道徳的責任をさまざまな方法で強調している。
インド哲学での唯物論者(たとえば順世派)は、死が終わりであるとするため終末論者と呼ばれ、死後の世界、魂、再生、カルマなどはなく、死とは生き物が完全に消滅して霧散した状態であるとしていた(断見)。

釈迦は、再生とカルマを否定した唯物論的・断滅論的な見解を批判している。
釈迦は、そのような信念は道徳的無責任と物質的快楽主義を奨励しているから、不適切で危険だという。
アナッター(無我)とは、死後の世界、再生、カルマの異熟がないことを意味するものではないから、釈迦は断滅論者とは対照的である。
しかし、釈迦はまた、それぞれの人間の中には、不滅で永遠の精神的実体(アートマン)が存在するとし、この精神的実体は生物・存在・形而上学的現実の性質の一部であるとする(常見)ことで、道徳的責任を支持する他のインドの宗教とも対照的である。
【終】

【引用】(『神秘のあんみん』さんより)
それは、肉体にある間の肉体に起因する感覚や感情、認識は、肉体にプログラムされたものから生じているので、本来の私たちの意識とは違い、架空のものだという事です。
それに心の働きや心についてもやはり肉体に囚われているという意味での錯覚に起因しているので、やはり幻想であるという事なのだと思います。
だから、最初の「色蘊(しきうん)」とは、肉体や、その他の物質のことなので、当然実体のない「空」ですが、さらに「受蘊(じゅうん)」感情と「想蘊(そううん)」認識や思考は、肉体に起因するボディマインドの事でこれも本来「無」であるという事です。
そして、「行蘊(ぎょううん)」心の働き「識蘊(しきうん)」心そのものも、囚われたマインドにつながっているので、やはりこれも本来「無」であるという事です。
しかし、これに対して絶対的な意識というものが存在する事もまた真実だという事です。それが私が言ってきた「絶対意識」だという事です。
もちろん仏教の解脱というのは、その絶対意識として覚醒する事と同じ意味だというわけです。
【終】

いわゆる『霊』とは、アートマンのことです。
(仏教では阿頼耶識に相当します)
永遠不滅の実体(絶対意識)であって、生成も消滅もしません。

この時点で、霊や神を脳由来で(あってもなくても)、「生後何年か経ってから生まれる人が作った幻想」として実体を認めない人たち〈TM族〉の言うことは「間違い」となります。
彼ら〈TM族〉の言う自我とは、よく話を聞いてみると、どうやら地上道徳的または心理学的な意味での《己が己であること、他者ではないこと、の自覚》にすぎないようです。
学校の社会科や道徳の時間に出てくるいわゆる反抗期のような「自我の目覚め」のことでしょうか。(なんだ、そんなレベルかと、がっがりしました)
それなら生まれてまもなく自覚するはずです。
いずれにしても地上的でピントがずれています。

私たちスピリチュアリズムに生きる者のいう自我とは、「霊=アートマン」であり、《己が己の肉体そのものではないことの自覚》であって、肉体を超えた独立してはじめから存在する実体です。
「自分と他の子どもたちは別なんだ、自分は自分だ」
ではなく、
「なんで自分しか動かせないんだ?なんで他の子どもを動かせないんだ?理由がわからない、自分の身体に身体でない何かがここにある」
です。〔この霊的自覚を私は3歳頃にしました。10年前、幸福の科学の信者の女性2人にこの話をしたら、「ああ、あなた菩薩様なんですね」と言われました〕

彼ら〈TM族〉の思考は常に「肉体」という絶対空間における客観的な物質(顛倒妄想)が先立っているので、
「なぜあなた(の自我)は他の人(の自我)になれないのですか?」
と、いくら問い掛けても、肉体を超えた視点に立てない(立つ気がない)ので無駄なのです。

では、「無我」とは何か?
仏教でも上述の「順世派」ように、「我」は「主体がない」として、輪廻もなく、霊もないとする派もあります。
どうもこの無我の取り方で、話がこじれているようです。
たしかに、「縁起」の道理によってアートマンの実在を否定し、輪廻から解放されて解脱することを考えれば、「我」は主体がないものとも取れます。

このことは、スピリチュアリズムにおける「集合霊と分霊」に通じます。
輪廻転生するのは特定の分霊ではなくて、それぞれの側面を持った分霊が交代交代で転生し全体の集合霊の霊的進化を促し、解脱に向かうというのです。(アートマンがブラフマンにヨーガする)
ある分霊が一回しか生を受けないとしても、霊的自覚は可能であり、それが本来の「断見」ではないかとも思われます。
もしそうならば、スピリチュアリズムとも融合します。
初期仏教において「無我」を「実体がない」と解釈したのは、そういう意味だと取れなくもありません。
では、一つの分霊が役目を終えて集合霊と一体になり転生しなくなったら実体がなくなるのかといえば、そうではないらしいのです。
これは、以前にも言った臨死体験したある人の証言、
「何とも表現し難いが、強いて言えば『人はみな繋がっている』」
に表れていると思われます。
つまり、我執(エゴ)は消えてもアートマンという実体は消えないということです。

【*】顛倒妄想族(私が勝手に作りました)

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反戦と平和 [中庸]

ある僧侶が言っていました。
「『戦争と平和』と言うけれど、《反戦(運動)》というのは戦争と同じであって、平和ではありません」
「平和というのは、心の平穏なのです」

反戦は地上の攻防あるいは解決であり、そこには「緊張」が持続しています。
均衡を保つだけで精一杯であって、「平穏」を実現するだけの思考の余裕がありません。
いわゆる「霊的な思考停止」になってしまいます。
反戦がまったく意味がないとは言いません。
核には核、銃には銃もそうですが、地上の善悪や損得に対する仮初めの「地上的思考停止」を作ることによって、仮初めの「安堵・余裕」を得るかもしれません。
でも「反戦がそのまま平和をもたらす」と思うのは間違いです。
やはり地上を超越する霊的視点を設けること、すなわち「中庸」が前提として必要なのです。

これは平和に限らず、自由や幸福も同じことです。
利便性や経済力などを、地上的感覚的なもの以上ではないことと覚ることが肝心なのです。

かつて大阪万博の時、反パク者の岡本太郎は、
「機械の進歩は人間の進歩ではない(退化だ)、機械の奴隷になるだけだ」
と言いました。
パソコンやスマホが普及した今、文化的活動や利他的活動をするほど仕事が楽になったでしょうか?(支配者たちが仕事を増やしていませんか?)
また、逆にそれらの機械に縛られてはいないでしょうか?(まさに今私は悪戦苦闘しています)

万博と同時期に、経済一辺倒となった日本を憂いて、三島由紀夫が演説や対話を重ねた末に割腹自殺しましたが、当時の中曽根長官は、
「(その一連の行動に対して)『三島、よくやった』っていうヤツいないだろ?」
と言って、戦後日本がやってきたことを正当化していました。(ほとんど多数派による同調圧力が理由でしょうけれど)
もし中曽根氏の言う通りならば、それだけ日本の病は重症だということです。
それで今どうでしょう?
経済の進歩によって、日本人はカネの奴隷になっていないでしょうか?

これらはもちろん本人次第ではありますが、為政者にも原因があります。
「地上的思考停止」が出来て国民はむしろ楽だということで、今地上の半数以上の国が「専制政治」ですが、ご存知のように為政者が霊的な人間でないとかえって悲劇になります。
では日本人の多数派に支持される「民主政治」はいかがなものでしょうか?
思考が反戦一色ではないでしょうか?

今世界中の為政者たちが試みている計らいはどうでしょう?【※】
地上的な計らいだけになっていないでしょうか?

人類の平和の実現には是が非でも《霊的指導者=君主》が必要です。


【※】SDGsやCOPなど国連が掲げているものは、みな地上の解決です。
たしかに、核廃棄物や分解しないプラスチックゴミなど、負の遺産の処理は必要ですが、解決だけでよいのでしょうか?
また、その根底には「人類存続」という一面的な動機があります。
良く見積もっても、人類の義で止まっています。(一つのエゴ)
喩えれば、解熱剤、鎮痛剤、興奮剤という西洋の薬を同時に飲んで、健康な身体を作ろうとするようなものです。
私も普段やっている対症療法は不可欠であり、ストレスを回避し、結果的に延命にはなり得ますが、健康になるかどうかは別です。
度が過ぎると、管で繋がれて苦しいままベッドに横たわる病人になります。
押したり引いたりと圧力をかけ合って均衡を保つことだけで平和な社会が実現するのでしょうか?
いえ、そこには緊張しか残りません。
必要なのは「中庸」なのです。
外側からの圧力ではなく、意識を上に持っていくことで内側からの推進力を減退させることです。
これは決して一面的な肉体の延命ではなく、霊的に健全な生命を実現することであり、人類の義にとどまらず神の義です。

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信仰=洗脳? [中庸]

幸福の国ブータン王国の子供たちに、日本における「いじめ」の事実を伝えると、
「そんなことをすれば、自分が幸せになれない」
と、驚いたように言うのです。
もしかすると、日本人の多数派は、
「それは生まれた時から仏教が心身に刻み込まれているからだ」
という為政者による「刷り込み」または信仰の[強要」を理由にするかもしれません。
とりわけ実在論者の中の唯物論者に言わせると、宗教においては、
「信仰=洗脳」
と決めて、あたかも、自分たち宗教に無縁の人間こそがまっさらで「健全」であるかのように思い込むわけです。

そこで私は、数か月前、ネットにおけるその手の実在論者の「信仰=洗脳?」という問題提示に対して、遠回しに応えたのです。
《現代人のほとんどは、生まれた時から『幸福=社会的成功』と刷り込まれています。もしそれに疑問を抱かないならば、すなわちベリアル教というカルト教に洗脳されているということです。
そういう人が宗教団体に入れば、間違いなく『信仰=洗脳』となります。
でも、もしそういった地上的な執著を哲学的省察によって超越(止揚)することが出来れば、それがそのまま真の信仰に繋がります。
そういう人が宗教団体に入っても、洗脳されることはありません。
というより、宗教そのものは不要になるでしょう。》

日本のみなさんに問いますが、「自分は健全な思考をしているから危険はない」と思っているでしょうか?
もしや、「いじめ」に対して、
「少なくともいじめる側は、征服感と優越感に満たされて幸福を『感じる』」
などと言うのでしょうか?
いくらブータン王国でも、悪やエゴがないわけではないでしょう。
ただそれをどこかの先進国のように地上の押し合い引き合いで解決することで幸福を得られると思っていないはずであって、中庸によって推進力を上に引き上げて幸福を得ているのです。

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唯物論者の闇(改) [中庸]

「自我(霊も神も)は脳の産物だ」とする唯物論者が後を絶たないので、堪りかねて前回、ここでもネットでも実在論の誤謬を徹底的に指摘しましたが、それでもなお食い下がる唯物論者がいるのです。
「脳の状態はその人の行動や性格に関係する」
というように。
まるで、脳が先に出来てその人が作られるという「因果関係」であるかのようです。
まったく絶対空間なる「顛倒妄想」から抜けられていません。
脳と行動は対応関係であり、脳で行動を説明はできます。
しかし、脳が自我(霊)を生むわけではありません。

自分が自分だという顕在意識は、記憶で成り立っています。
どこで生まれ育って、どういう経験をして、それによって他の人ではない自分は作られます。
境遇はたしかに、肉体の場所や時代に大いに関係します。
なので、かりにもし、自分が翌日突然他の誰かになったとしても、自分は以前からずっとその人だと思っていることでしょう。
ではなぜ今の自分はこの自分なのでしょうか?
それとも、自分の肉体や脳を構成する炭素原子や酸素原子に自分の名前でも付いているのでしょうか?

脳と人のあり方は、音楽に喩えれば、楽譜と楽曲の関係です。
楽譜があっても、それだけでは曲は流れません。
演奏者がいて、演奏して初めて曲が成立するのです。
たしかに楽譜でその曲を説明はできます。
しかし、楽譜が音楽を生むわけではけっしてありません。(逆も然り)
また、楽譜が演奏者を生むわけではありません。(お互いに選ぶことはあっても)
楽譜と楽曲はあくまで対応関係であって、因果関係ではありません。
そして、演奏者はそれらに関係なく、はじめから独立して存在するのです。
楽譜を脳に、楽曲を人の活動に、演奏者を自我(霊)に置き換えるとわかると思います。

以前から自然科学では、
「宇宙が開闢してから今に至るまで」
をともあれ説明できるけれど、
「宇宙がどうして在るのか」
は説明できないと言われています。
ヴィットゲンシュタイン流に言えば、
「宇宙がどのようであるか(在り方)が神秘的なのではない。宇宙が在ること自体が神秘的なのだ」
そこでさらに、「世界とは自分の世界である」を組み合わせると、
「自分がどのようであるか(在り方)が神秘的なのではない。自分がいること自体が神秘的なのだ」
となります。

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