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質素とは [中庸]

今日、高1のあるクラスの授業に行くと、いつも黒板をきれいにしてくれている学習意欲満点の男子生徒が、興奮気味に言いました。
「先生の本届きましたよ。めっちゃ面白いですね。最近読んだ本の中でいちばん面白いですよ」
私は意外な反応に少々戸惑いましたが、
「ああ、それはよかった。いやあ、9割の人は沈没するんだけど」
と返しました。
その生徒は、首を横に振りながら、改めて、
「いえ、そんなことはありません」
と言うと、持ってきた現物を出して、
「あとでサインしてください」
と言い、とりあえず授業に入りました。
5年前の最新著作は、苦心した割に売れた形跡はなく、周りの反応がイマイチで、失望しかけていたのですが。
今日の出来事で、私はいかに勇気づけられたことか。
「スピリチュアル」ではなく「スピリチュアリズム」
たとい少数派ではあっても、わかる者はわかるんだということが判明しました。
今後の活動に光が見えました。
どのような形であれ、責務を全うしようと思います。

話は飛躍しますが。
「今の人間は、『自由』を『(強)欲を満たす(追及する)こと』だと思っている」
先日、朝のTVで有名なウルグアイの大統領ホセ・ムヒカ氏が言っていました。
それに関しては、私も20年以上前から言っていることで、著作や当ブログでもたびたび触れました。
「私が両手を広げても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように地べたを速く走れない」〔『鈴と小鳥と私』より〕
「人は歩いているとき自由だが、空を飛びたいと思ったときに自由を失う」
分を超えずに行動すれば自由(不自由を感じない)であり、分を超えることをしようとすることで即、自由ではなくなります。(不自由を感じる)
分を超えることをしたいと思うのが強欲であり、それを満たしたときの「感覚」(自由の影)を「自由」だと履き違えているのです。

ムヒカ氏は、「世界一貧しい大統領」として紹介されていますが、本人は「貧しいのではない、質素なのだ」と言います。
貧しいというのは、「金持ち―貧乏」というカネに執著した者の観点からの言い方であって、満たされている者、足ることを知る者にとっては、裕福でも貧しくもないのです。
ともあれムヒカ氏は、今の資本主義、すなわち大量生産と大量消費が、人々から幸福を奪い、地球を蝕むことを懸念しています。

もっとも、ムヒカ氏は伴侶もいますし、地位もあり、9割寄付するだけの金銭的余裕もあります。
自分の意志で質素な生活をしているのです。
つまり、足ることを知るだけの最低限の物質的条件が備わっているのです。
そして、この文明を根本的に見直す精神を発信し、その活動を世界に影響を与えるだけの立場にあります。
だからこそ世界が注目するのですけれど、でもそれが「本物」と言えるかどうかは微妙です。 
なぜなら、本当に物質的になくなって困るかもしれないという「恐怖」がないからです。
かつて私の同僚に、「カネを使わないのがオレの主義だ」と言う貧乏が道楽の資産家がいましたが、それと同じで、私から見ると「余裕を感じている」ようにも思えるのです。

一方私はというと、そういった物質的条件がなく、魂を売らずに毎月赤字で貯蓄が減るだけの生活を余儀なくされているニコヨン貴族です。
つまり、意志ではなく、質素倹約を実践するように迫られているわけです。
逆説的に言うと、その恐怖を克服する(消すのではなく自分のやることに集中することによって超越する)のが本物の「清貧」のはずです。
逆手にとって、そのお手本を示すのが私の役目なのですが……
あいにく、若い頃のブルジョワ的生活が染みついているためか質素倹約ができておらず、当然の報いとして、常に物質生活破綻の恐怖が付きまとうのです。(小学5年の頃から、母の仕事の親玉である司法書士と私の家族がプライベートで一緒のなる時間が長くなり、いわゆるブルジョワの生活を経験することになりました。ゴルフ、クルマで旅行、美食など、庶民ができないことをたくさんさせてもらいました。今の家も3分の2はその司法書士が出して建てたものです。すべては母の美貌の賜物か?)

まあ、それからすると今の境遇は自然状態から見れば明らかに方輪であり、「当たり前のこと」が出来ていないわけですから、私が著作やブログでどんなに「足るを知る」が幸福だということを人々に発信しても、多数派の人には説得力がありません。
むしろ絶望感を与えるかもしれません。

【余談ですが、先日行ったマッサージ店の中国女性との会話です】
小姐「你结婚了吗?」
私「没有」
小姐「为什么?」
私「因为我没有钱」
小姐「没关系」
〔この最後の言葉(関係ないよ、気にしないで、大丈夫)がいったいどういう意味なのか?どなたか建設的な解釈ができる方がいらっしゃいましたら、お知恵をお貸しください〕

話を戻します。
昨日、いつものように一人で買い物に出て、夕飯の弁当と翌朝のパンを買い、帰り際に家の近くのスーパーで、必要と思って、「缶ビール2本と御菓子2個」(914円)を買って袋に入れました。
でも、よくよく振り返ると、最後のスーパーの物はなくても生活できるのではないか?こういうのを削ると毎月3万円ぐらい浮くのではないか?とふと思ったのです。
夜、電話でかの友人にそのことを話すと、
「ハセガワさん、そう思えるようになったってことは、ここで成長したんだよ」
とよくわからないことを言われました。
地上的な思考を強いられるようになっただけであって、成長なんて言えるものではありません。
これは地上生活における試練であり成長の糧はありますが、「浪費と吝嗇」は一体で執著です。
あまりどっぷり浸かると「地上の住人」になってしまいます。
試練を受け止め、これを克服(超越)してこそ(霊的)成長です。
とりあえず物質的な習慣を変えて、意識しない状態にしたいものです。

冒頭にも示したように、やはり自分の仕事(責務)を主に生きることが幸福をもたらすことになりそうです。

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温暖化 [霊的存在]

2か月空いてしまいました。
何かあったんじゃないか(?)、あるいは忙しいんじゃないか(?)と思われるかもしれません。
まあ、ある意味忙しいとも言えますが、何もしていません。
暑くて何もできなかったのです。
それに、仕事も意外と過密で、派遣講師の身でありながら今年は種類が多く予習も必要で採点などの雑用もあります。(ニコヨン風情が何をぬかすか⁈)
勤務の日は、行きも帰りも炎天下のアスファルトの上を歩き、帰りに夕食と次の日の朝のパンや果物、紙類、仏壇の花など足りなくなった物などの買い物をして、定期的にクリーニング屋に寄ったり、訪問医の処方箋を薬局に持っていったりと、毎日のように重い荷物を肩にかけて帰宅します。
それも、マスク着用の上ですから。
暑さを癒すために入浴後の夕食の時にビールを飲むので、体がだるくなって夜はほとんど活動できなかったというのが事実です。(又熱又累!)

母親の状態が頭も体もますます老化に向かっていて、常に動悸とめまいを訴え、1分も経たないうちにまた同じことを聞くので、私が声を荒げると、それに対して怒ったり嘆いたりして、私は心身ともにくたびれ果てています。
いつもの保険屋さんから言われました。
「それで鬱になった人がいますから、あまり無理をしないでくださいね」
「お姉さんに少し助けてもらってはどうですか?」
私も、
「ええ。と言っても姉は普段仕事に行っていますから、日曜日に来ることが多いので、その時に代わりに食事の面倒を見てもらって自分は自由に外出するんです」
というのが精一杯なのです。

話を暑さに絞ります。
母親は洗濯機は使えるものの、運べないので、私が洗濯物をカゴに入れて2階に持って行きます。
ところが夜ベランダに干そうと思っても、窓を開ければ即熱風が吹き込んでくるので躊躇し、遅くなってから、決死の覚悟でベランダに出て干すわけです。
結果的に寝る前にまたジトッとした汗が噴き出て、とりあえずエアコンで乾かし、翌朝シャワーで洗い流すことになります。

今年はついにエアコンをつけっぱなしで寝る習慣がついてしまいました。
もちろん去年も何日かありましたが、今年は1週間ほど昼も夜もぶっ通しでつけっぱなしでした。(みなさんはどうでしょうか?)

朝出勤前に、2階のエアコンをわざと消さないのというのは、一つには1階に居る母親の熱中症対策であって、暑さを感じない母親が1階のエアコンを消しても、2階から涼しい空気が下りてくるので、私が外にいる間もさほど心配が要らないからです。

現に、姉の主人の母親が熱中症で運ばれて、以後体調が戻らず、そのまま施設に入ってしまいました。〔遺族年金受給のため入れるだけの費用があるからです。私の母の場合は、施設に入るだけの費用がないので、はじめからその選択肢がありません〕

ここで、地球温暖化と人間による対策について考えてみましょう。
みなさんもご存じのように、エアコンから出る冷気と室外機から出る暖気を足せば、差し引きで暖気が勝り、近所の家、いや全国の家がそれをやれば当然全体として地球が温暖化するわけです。
それでも、その暑さに負けないようにと、またエアコンをつける悪循環です。
じゃあ、そうかと言って自分がやめたら自分が熱中症になるだけなので、やむなくつけ続けることになります。
振り返ればそれはどんなに言い張ってもエゴイズムによるものであり、「銃には銃」や「核兵器には核兵器」と同じで、結局私も人類の破滅に助力していることに変わりありません。
苟もスピリチュアリズム普及を勝手に「責務」とする私としては、何らかの形で人々に働きかけなければなりません。
消極的ではありますが、少なくともエアコンの必要がない所へ移住してこの霊的不正から脱しなければならないはずです。
それに、人類の存続だけの問題なのだろうかと考えてしまいます。
そう言うと、
「えっ?それってエアコンどうこうの問題なの?」
「地球温暖化の原因は、おもに森林伐採や化石燃料の消費や牛のゲップなどによる二酸化炭素の排出であって、エアコンの影響なんて微々たるもんだよ」
と言う人もいると思います。
もしかするとそうかもしれません。
でも、それは「感覚(快楽・影)だけを追う地上物質的な欲望」に変わりはないのであって、私たち一人ひとりの課題でもあります。
まず自分にできることは何かと考えます。

一方で、以前から世界中の要人たちが地球温暖化対策を打ち立てています。
たとえば今、水素エネルギーが使用され始めています。
でもどうでしょう?
うまくいくと思いますか?
うまくいってもいかなくても、その目的が専ら「人類存続」あるいは「人類にとっての住みやすさ」ではありませんか?
それに、我々人類の生活に影響がないとしたら、真面目に考えるでしょうか?
もしかすると対策などまったく考えないのではないでしょうか?
もしそうなら、やはりそれは「エゴイズム」であって、
「死んだら自分には関係ない」
と言う唯物主義者や、
「もうすぐ涼しくなるから(忘れる)」
と言うどこかの大統領とあまり変わらないでしょう。
また、唯物論者でなくても、
「死んでも生まれ変わるかもしれないから考える」
というのは同じくエゴに変わりありません。
現に私たちも、秋が来れば一時的に忘れて、その場しのぎの安堵を得ているのではないでしょうか?

もちろん、未来の地球が、人が住めないほど暑いのなら、生まれて来ないのだから、問題ないでしょうし、自然科学的に言って、いずれ地球上の人類は絶滅するでしょうし、地球自体も無くなります。
スピリチュアル的に言っても、その頃は他の天体に生まれる時なのでしょう。
また、修行者にとって、転生した地球が暑くて辛うじて住めるほどであれば、
「何のカルマがあってこんな環境に生まれて来なければならなかったのか?」
と(今もそうですけれど)人生を振り返り受け止めるだけのことです。

結局、地上にいる間、人間の都合ひいては個人の都合で思考し行動しているということです。
そうかと言って、「地球にやさしく」とか「地球を労わる」とか言うと、「何様だ⁈」となるでしょう。
では温暖化対策の目的はいったい何でしょうか?

私が先ほど勢いよく言った「責務」とはいったい何なのか(?)と自分で反省せざるを得ません。

ひとつ気になることがあります。
自分とそれ以外(人類とそれ以外)を分けて考えているのではないか(?)ということです。
そうすると、すべてが「自分に関係あるから」とか「自分に返ってくるから」という発想になってしまいます。

しかしここで、
「自分と自分以外は一体だ」(実際にその境地に達しなくても)

とするとどうでしょうか?
自分の都合による思考や行動がすべて自動的に消えます。
たとえば、自分の身体が火照ったときは、冷やすとか水分を取ったりして調節を図ることでしょう。
でもそれは、「自分に関係あるから」とか「自分に返ってくるから」という理由ではありません。
一体なのですから。

エドガー・ケイシーのリーディングに、
「インドの修行者は、自己実現に終始し、愛がない」
と、欠点を指摘したものがあります。
スピリチュアリズムでは、「カルマの解消」のほかに「利他業」があります。
それも同じように考えることができます。
以前も取り上げましたが、キリスト教ヒューマニズムにおける「霊長として地球を管理する」ということも、人間を異物と見るのではなく、一体だという前提で表現していると捉えれば、充分理解できると思います。

そう捉えれば、地球温暖化に対する一人ひとりの計らいも、けっして烏滸がましいことではないはずです。
私はその中の一つの「因子」として、このような活動を通して調和を図っているだけです。

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清藤先生 [中庸]

私のイラストの先生(清藤宏)死去の知らせのハガキが届きました。
奥さんの文章で、5月20日の検査で末期の肺がんとわかり、6月28日に亡くなったということです。(享年83歳)

最後に会ったのは、去年の11月に横浜馬車道のJIC展に行った時で、会うなり、
「待ってたのよぉ」
と、いつもの女性口調で私を迎えました。
というのも、その頃ちょうど某小学校でのいじめの動画が取り沙汰されていて、清藤先生もいささか呆れていて、学校の現場を知る私にひとこと言ってもらいたいというのもあったからです。
このことに限らず、かなり以前から先生は箍が外れた現代の日本社会を嘆いていて、私がここで使わせていただいた表現もいくつかあります。

「人間おかしくなっているから…、こんなに媚びてちゃねえー」
「義」に生きることを忘れて損得勘定や自己保身に走る、「お客様は神様」を履き違えて自ら進んでカネの奴隷になる、要するに「魂を売ること」を良しとする風潮が蔓延しているのとを先生はひどく憂い、腹を立てていました。

「投票に行かないのも一つの選挙なのよ」
自分は政治に関心を持ってやることをやっているんだ、選挙に行かない者は文句が言えない、と言って勝手に決めつけて自分に強みをつくっている人が増えたということ、これも自己保身の一つで、「おかしいことをおかしい」と言わずに守りに入ってしまった日本人に対する先生の寸鉄と言えるでしょう。

そういうわけで、先生自身は絵やイラストや絵本を通じて、子どもたちの想像力を育てようと、制作に励んでいたのです。
また、同じ「義に生きる人間」と認めて私に接してくれていたのです。
実は、一昨年の11月も同じ展覧会の同じ会場に行きました。
先生が、
「ボク、何歳になったと思う?」
と聞くので、私はとっさに、
「81ですか」
と答えました。
まあ、あらかじめ計算していたのですぐ答えられたのですが、正直あと何年かなという心配はありました。
先生自身も同じことを思っていたのでしょう。
その時は、私の3作目の著書を先生に贈呈し、私も先生の最新の著作をいただきました。

seitouhiroshi(hyoushi).jpg

ここで、清藤先生の昔のイラストの先品をいくつか勝手に紹介させていただきます。
古い人は見たことがあるかもしれません。

seitouhiroshi koruto.jpg
seitouhiroshi yamatesen.jpg
seitouhiroshi tora.jpg
seitouhiroshi kodomonokuni(2).jpg
seitouhiroshi igaku.jpg

私が清藤先生と出会ったのは、26年前の10月。
四谷にあったJICアートスクールに入った時で、その時先生は今の私とだいたい同じ歳でした。
私を含めて学生たちに向かって、
「もう少し待ってね」
と言いました。
バブルがはじけて3年が経った頃で、10年もすれば景気が回復して、イラストの仕事も来ると思ったからです。
周知のように、あいにく景気は回復せず、失われた10年が失われた30年になってしまいました。
そうしているうちに、手描きの絵は機械の絵にとって代わられ、特に私が目指していた図鑑や科学雑誌の手描きの挿絵は需要も価値もなくなりました。
結果、仕事になったのは、教育書の表紙2作と私製の絵ハガキ一枚だけです。

実は私が清藤先生に会ったのは、26年前ではなく、38年前、私が大学生の頃だったのです。
大学のサークル「美術集団」の属していたのですが、駿河台の画廊で展示会を開いていたある時、中年から初老のアインシュタインのような風貌の人が入ってきて、展示された絵を一回りして眺めて、最後に出入り口付近に掛けてある私の自画像を2秒ほど注視した後、関心なさそうに目を切って、名前を書かずに出ていきました。
それが先生に似ていたので、私がそれを先生に言ったところ、どうも本人らしいことが判明したのです。
当時先生はあの東京デザイナー学院で教えていて、時折近くの画廊に見学に行くという習慣があったらしいのです。
そんな深い縁があるくらいなのですから、先生の意志を継いで、私も少なくともあと一つ、厳しい状況ではありますが、絵と文章の作品を世に出したいと思っています。


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量子論とスピリチュアル [霊的存在]

先月、科学雑誌Newton(2020.6)『哲学』を買って、パラパラと捲りました。
途中に、決定論「未来は決定されている」と経験論「扉の向こうの椅子は存在しない」、「『条件が同じなら結果は同じ』は幻想」、さらに、哲学におけるコペルニクス的転回「私たちの認識が世界をつくっている」などがありました。

一面的な観念論では、見ているもの、聞いているもの、感じているものはすべて『幻』だと言い通すことができます。
物があるというのも、それを感じているだけと言えるのです。
しかし、よくよく振り返れば、「幻」だということは、あくまでも前提に「幻でないもの」があるのです。
その幻でないものとは、「物自体(時間空間)」です。
物自体がはじめから前提にあって、それを何らかの理由で私たちが感じているのだと「暗黙の裡に」考えているからであって、その観念論者から感じているものを取り除けば、頭の中に残っているのは物自体です。
つまり実在論と観念論は同じ直線上のものです。
ただその省察(即非)だけでは、まだ主客は完全には一体化しないでしょう。
広がりとか時間の流れという純粋な時空に関しては、一体感を覚えるでしょうけれど、好むと好まざるにかかわらず物質はそこにあるわけですから、どう考えても、ゆるぎない時間空間がはじめから用意されていて、その中に自分や他の人がいて営みをしているという感覚から逃れられません。
また自由意志があるといっても、それは機械論決定論的に物理法則に繋がれたものと感じられ、自分が世界を創っているなどとは到底思える余地はありません。
そうやって共有の時間空間を前提にして、普段、人は社会生活をしています。
そうでなければ他の人と共同作業ができません。
はじめから宇宙空間がなければ古典物理学は成り立たちません。
はじめから過去と未来がなければ歴史や地質学は意味がありません。

しかし、量子論はその前提を覆しました。
物が在るか無いかは、観測されることで確定します。
これは迷える観念論者や実在論者に完全な「主客合一」のきっかけを与えてくれました。

もちろんそれより以前から、一部の哲学や宗教ではその省察を実践しています。
例えば、円周率(π)を小数で表した場合の末端の数は、未だに明らかにされ続けています。
それらは、はじめから定まっているとも言えますし、創っていくとも言えます。
主客合一やいわゆる「普遍論争の終結」は省察を実践すればできます。
でも物質となると、よほど深い悟りに達しないと難しいでしょう。
しかし、量子論は物質に関して実証してくれました。

「知覚されるまでは、神の観念(イデア・『空』)として存在している」〔バークリー・今回のNewtonから抜粋〕

では、それで何が変わるのか?
人が感じているものそのものはけっして幻ではなく、れっきとした存在となります。
「はじめから在る(無い)」という「思い込み」が『幻』になるのです。
以前、無限に遠い所や無限の過去未来について、省察を実践することで主客合一を体得することができると言いました。
同じように、すぐそこに見える有限に離れた所や、覚えているぐらいの過去と予想できるぐらいの未来についても、自分が創っていると言えるのですが、けっして幻なのではありません。
はじめから在る(無い)という思い込みが幻なのです。

そこで、それを最近の『スピリチュアル』に応用してみます。
『スピリチュアル』では「今ここを生きる」をよく言います。
禅僧も言います。
「今やっていることを一生懸命やれ」
今というのは、「目先の未来を含む立場や役職上の業務」ではなく、「只今」のことです。
「もし今、お茶を入れているのなら、お茶を入れることに専心しろ」
ということです。
一瞬一瞬が「空」であり、自分の未来は「今」の集積で作られます。
「今」を疎かにして、過去を悔いたり、ただ良い未来を期待するのではなく、「今」を良く生きることによって良い未来が現実として引き寄せられるといいます。

近頃いろいろなスピリチュアリストたちが共通して言うことは、
「今が満たされていることを発見すること」
です。
例えば、
「今こうして生きていられるのは、自分を取り巻く人たちのおかげだ」
という風に、何でもポジティブに。

でも、それは所詮やせ我慢ではないでしょうか。
なぜなら、人には「欲」があって、消えることはないからです。
なので、私は常々、
「満たされていることは、感覚の目では捉えられず、ただ魂の目で捉える」(足るを知る)
と、言うわけです。
それによって、欲を消すことはできませんが、超越して「貪欲(強欲)」の発動を避けることができます。
私自身いろいろなことで満たされていることは10年以上も魂の目で捉えているはずですが、特に目立って良いことは起きていないように思います。
これはどうしたことか?
もしかしたら、冷めた目で「足るを知る」だけではなく、「素晴らしいことだ」と感動する必要があるのかもしれません。
今が冷静ならば、未来も冷静であって、今がワクワクしたり感動すれば、未来も感動することが起きるのだろうと。(でも、やせ我慢をワクワクに持っていくのには無理があると思いますが)
この前、TVで木久扇師匠が、
「ワクワクすることを常に作ってください。何でもいいんです。明日おいしい中華料理を食べようかな。そんなことでもいいんです」
みたいなことを言っていました。(それなら私はしょっちゅうやっています)

要するに、未来のことであっても今のことであっても過去のこと(?)であっても、「今」がワクワクすればよいわけです。
明るい未来と暗い未来などのように、パラレルワールドは量子論にもスピリチュアルにもあります。
自分の心のあり方次第で、思う世界に飛び移ることはできるかもしれません。

でも、一つ疑問があります。
そんなに感動するほど良い未来が、道を行く者にとって、地上経験において必要なのでしょうか?

私はあくまでも地上経験を霊的進化のためと心得ています。
好ましい出来事や人に出会うのも、好ましくない状況や人に悩まされるのも、みな自分が招いていることだと受け止め、霊的成長の糧とするだけです。
良い未来にしても悪い未来にしても、執著を残すほど極端な方へ行くのを避けることが道だと思います。
まあここが今流行りの「スピリチュアル」と本来の「スピリチュアリズム」の違いかと思います。

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少数派と霊力 [霊的存在]

昨年だったか、例の友人が電話で唐突に伝えました。
「今日、不思議なことがあったよ」
「知らないおばさんがオレの顔を見て、『あんたが30代の時に新しい友達ができたでしょ。その人はすごく霊力が強い人だよ』って言ったんだよ」
「だって、それってハセガワさんしかいないじゃん」
(事実、例の友人と私は同い年で、共に36歳の頃に某芸能学校で知り合いました)
私は彼にこう言いました。
「そういうのが見えちゃう人っているんだよ」
「いわゆる霊媒体質の人なんだけどね」
以前にも言ったように、彼はキリスト教の(盲)信者であり、通っている教会で、「霊媒師というのはみな低級なものあるいはインチキだ」と固く教えられているのです。
先の運命学と同じ扱いで、聖典にないから「否定する」という原理主義です。
それが、霊媒師らしきおばさんに過去の自分の経験をズバリ言い当てられて、しかも、その霊力の強い人というのが、よりによって思考を預けている(盲信している)教会の敵である私なのですから、二重のショックだったと思われます。
ともあれ信念が自身をもって崩されたようなものですから、盲信から抜けるいい切っ掛けになると思ったのですが・・・。
前回の通り、「ずる賢く生きよって、聖書にも書いてあるよ」と言う始末です。 
それにしても、霊能者でも霊媒体質でもないこの私が「霊力が強い」とは、いったいどういうことなのでしょうか。

記述のように、私は物質的な境遇や社会的立場という点では、けっして少数派ではありませんが、霊的にはどう見ても少数派のようです。
まあ、それが友人の言う「霊力が強いこと」になるのかということです。
今回はそのへんを絡めて、「民主」について、冗長覚悟の上で述べてみたいと思います。

今朝TVで、池上氏が古代アテネの民主主義をお手本として持ち上げていました。
でも、今のアメリカの人種差別社会や日本の文化の消えた格差社会を見て、それでもなお民主主義がそんなに良いものだと言うのでしょうか?
古代アテネは民主制だからこそソクラテスやプラトンが生まれたのです。
彼らにとって民主制は君主制の堕落にすぎません(霊主肉従→肉主霊従)
ヒトラーは民衆が作ったのです。
また、学校がブラックだの何だのと言われて何年も経ちますが、マスコミで取り上げられているのは、勤務時間とか重労働とか、要するに目に見える「待遇」の面ばかりです。
しかしそれは、突き詰めていくと、教師の権威や権限が奪われたことの反映です。
私はたまらず口をはさみました。
そこで、今回はある方々の投稿を使わせていただきます。
最初の題材は、周知の事情で、もう半年近く前のネットの書き込みになります。

【A氏の投稿】
ここまでブラックな職業も凄いね。先生を敬わない国に未来があるかね?
㊤3748 ㊦298
それに対して、私は返信しました。
【私の返信】
教師は「道徳的に立派だから敬われる」のではありません。
初めから敬われる「立場」なのです。
でなければやっていけません。
儒教のように幼少期に刻み込められるべき「折り目」があってこそ、人は考える「余裕」が生まれるのです。
「民衆が偉い人を決める」というのは民主制の最大かつ致命的な欠点です。
なぜなら民衆の多くは地上的な善悪を持ってのみ人を評価するからです。
㊤12 ㊦33
【B氏の返信】
教師だからといって尊敬しなければならないというわけではないが、少なくとも尊重すべきでしょう。昔は教師は立派な学士様だったが今は保護者のほうが高学歴で教師を下に見る。家庭でするべきことを学校に丸投げ、子供の前で教師の悪口を並べ、子供は教師をバカにするようになる。学級崩壊はそうやって起こる。教師を大切にしない国に未来はない。
㊤9 ㊦2
【C氏の返信】
学校の先生を尊敬するべきは、まず親。
でなければ、子どもが先生を尊敬するはずがない。
そして、学校の先生が尊敬されていない社会は、早晩瓦解する。
誰もが誰も尊敬できない社会の帰結は、他者の排斥しかないから。
㊤12 ㊦4
【D氏の返信】
儒教に触れてる方がいたが、儒教は徳川家が封権社会を作るために林羅山を起用し広めたのであって、あまり好きでない。為政者の都合の良い社会を作りたいのならば、儒教を広めればいい。それこそ、考える機会を失わせ、陰で悪事を働く老人であっても若者は敬い、犯されていく社会になろう。
㊤38 ㊦2
〔投稿終わり〕

D氏及び賛同する方たちは、神道が国の軍に利用されて戦争を起こしたから、またはカルト教団が生まれてテロを起こすから、宗教はいけない、という短絡的な思考の人と同じ思考回路です。
宗教が組織に利用されるのは、いつの世もどこでもあることで、今もそうですし、盲信の一つですから、もちろん私も盲信を排除すべく活動しています。
儒教(論語)も同じです。
しかしだからといって、宗教や儒教が危険だとか必要ないということになるのでしょうか?
いえ、盲信でない限り必要不可欠です。
C氏が言っていることがまさに儒教(論語)なのです。
戦後生まれ、今の50代ぐらいまでの日本人が当たり前のように刻み込まれていた思想で、特別なものではありません。
今も中国人や韓国人に浸透していて、私が知る限り、普通の人が良く考えています。
最近は私が授業で担当する学級に、一人ぐらい中国人の生徒がいることがありますが、学業が優秀かどうかはともかく、みなきちんと話を聞き、しっかりした考えを持っています。
周りの大方の日本の生徒のような「この先生の前では自分が勝手な行動ができるかどうか」と人を見る幼稚な思考は微塵もなく、中学生でも高尚な話ができます。

それに対して、D氏及び賛同する方たちは、間違いなく今の日本の学校の現場を知りません。(体験者以外は言ってもわからないので詳細は控えます)
勾配のないどぶ川を想像してみてください。
折り目や落差がない状態というものが、いかに自己防衛で思考に余裕がないか、また、知恵を授ける者や考えるきっかけを与える者がいないか、すべてにおいていかに物理的に事が運ばないか、この方たちは身に染みて知ることがありません。(もっともそれを知る人は限られていますが)
だいいち、「考える機会」と言いますが、私が再三言う「考える」とは全く別です。
地上的な悪事を撤廃するとか、そういう地上的な「解決」ではないのです。(性善説の履き違え)
考えるとは、地上道徳的なことを超越して、霊的視点で社会や人生の意味を捉えることです。
為政者というのは、まさにそういう霊的存在であるべきで、例えば昔の日本の政治家などは、地上的に悪いこともしたかもしれないのですけれども、一本通ったことをしていました。
今の日本国民も、そういう高い視点で政治家を見るべきではないでしょうか。
それを思うと、D氏の賛同者が多いということは、現在の日本人の多数派がいかに「考える」ということを履き違えているかが窺えます。
それから、
「そうは言っても現実に儒教や武士道が浸透していないのだから、それなりに別の方法で対処すればいい」
という人もいるでしょうけど、それは、
「秩序が崩れているのだから、自己防衛のために銃を持つ」
という自己責任の発想と一緒で、永遠に平和は訪れません。(アメリカを見ればわかると思います。そしてそれを学校に置き換えてみてください)

〔話題が変わります〕
次に、つい最近、自粛が緩んで老人たちの間にクラスターが発生したことに対して、ネットでは話がそれて老人たちに矛先が向けられ、さらに選挙や政治家がどうこうと話が発展していました。

【甲氏の投稿】
結局高齢者なんだよなあ
若者よ、選挙いこう。結局、若い人が選挙行かないから、選挙に行く高齢者向けの施策ばっかりやる政治家が溢れてるんだよね。
若年層の投票率が上がれば、自分達が住み良い日本に変えられるんだから。
㊤5892 ㊦301
【私の返信】
話題がそれていますが、毎回のように言わせていただきます。
自分に有利な人に票を入れる。
それで多数決。
そんなことをしていたらいつまでたっても少数派は浮かばれません。
全体の和を唱える候補者に入れるべきです。
上に立つ人とは、けっして能力のある人ではなく、欲のない人です。聖人や哲人でなければなりません。
いいことを言って自己中の国民の票を集める人であってはいけません。もしそういう候補者がいないのなら、選挙に行かないほうがよいでしょう。これが民主制の末路です。
今の若者は少数派ゆえに、常識の罠にはまらず、その点を冷静にとらえることができるのです。
㊤4 ㊦10
【乙氏の返信】
日本の国会議員はヒドイからな。
市議だって汚職まみれだし。
若い人達が政治に興味がわかないのも
仕方ないよ。
ただ、政治を知ろうとしなければ
汚職まみれで老人天国なのは
解消されない、って思うよ。
㊤6 ㊦0
【丙氏の返信】
年寄りの年寄りのための政治になってるからね。彼らは次の世代のことなんか考えてない。今の自分のことだけ。選挙に行かなきゃ食いつぶされちゃうよ!
㊤10 ㊦5
【丁氏の返信】
年金カットしてどうするの?
それで困るのは貯蓄の無い老人とそれを支える子供世代でしょ
そして将来自分の手でカットした年金で生活する子供世代を支える孫世代って感じで負の連鎖になる可能性高いけど大丈夫?
若者の投票率増加で貧困の連鎖起こすことが望みなの?
㊤5 ㊦5
〔投稿終わり〕

どうでしょう。
概して、他の投稿者たちは、力には力という地上的な攻防に終始していて、自分たちが有利になるにはどうするかというあくまで自己中心的な思考に留まっているようです。
そしてそれに賛同する人のほうが多いというのが事実です。

わかる人はわかると思いますが、私はどんな場合でも「霊的視点」に立って投稿しています。  
そして、霊的視点をいかに設けることができるかを考えているのです。
もちろん、少数派です。
わかる人はわかるのですが、少数派です。
なので、ご覧のような評価を受けます。
ここに来てくださる皆さんも、おそらく、何らかの機会に少数派の評価を受け、もどかしい思いをされたことがあると推察されます。
でもそれは、霊力の強い少数派ゆえの宿命です。
以前にも言いましたが、多数の㊦に絶望するか、少数の㊤に光を見るか。
当然後者です。

昨今の人種差別に対する抗議運動を見てもわかると思います。
目に余る暴動行為に対して、殺害された人の弟をはじめ、黒人たちの中にも、
「こんなことをしても何の進歩もない。別の方法を考えるんだ」
と仲間に訴えかける人が増えています。
また、白人の間でも、人種差別に対してもっと高い視点で解決する必要性を称える人たちがたくさんいます。(でもまだ少数派です)
要するに、「力に対して力」では何の進歩もないということです。
それは選挙でも同じことです。
繰り返しますが、「自分にとって有利か不利か」の思考や行動では、同じことの繰り返しであり人間社会に何ら進歩をもたらしません。
特に為政者はそれを超越した高い視点すなわち霊的視点で物事を考えて行動するのが前提であり、為政者を選ぶ国民もそういう霊的視点を設けて行動しなければ何も変わりません。
けっして地上的に立派な人間の模範ではないのです。
地上道徳的な善悪にのみ焦点を当てて人を非難するのはもうやめませんか。
そうでないと上に立つ「先生たち」は身動きが取れません。
これでは成熟しない民主制社会のままです。
高い視点に立つ人が少数派のままで、それで多数決では変わるはずがありません。
私が選挙に行っても意味がないと言っているのはそういうことで、民主主義そのものに反対しているわけではありません。(実際選挙に行くことがよくあります)
ただ、「民主」が「肉主」になってしまっているのです。
今のままでみんなが選挙に行って投票しても何も変わらないと言っているのです。
まず、為政者も一般国民も、すべての人間の意識が進化する必要があります。

私の活動は、どこかの団体のように政治的地上的な力を方便とすることはなく、一人一人に問いかける理性を介したスピリチュアリズムです。
ある科学者が言うように、真理はいつも少数派から生まれます。
役割を自覚して続けていきます。

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コーランについて(再) [霊的存在]

4年前に読み始めた『コーラン(上)』〔岩波文庫〕は、内容に変化がなく一本調子なので、途中でやめてしまいました。
今回、途中からまた読んでみて、「やはりそうか」と確信することがあったので、お伝えしたいと思ったのです。
少し長くなりますが、お付き合いください。

大まかに言えば、コーランもマホメットも突如として現れたのではなく、それまでのものが所どころ腐ってきたため、それらを刷新するべく、現れるべくして、現れたということです。
まずこの部分を見てください。
【引用➊】
アッラーから聖典ばかりか、(並外れた)判断力と予言能力とを授けて戴いておきながら、(知らん顔して)人々に「おいみんな、アッラーではなくてこのわしをあがめまつれ」などと言うのは人間としてあるまじきこと。(そういう特別の恩恵を受けた人は)みんなに聖典を教え、また自分でもよく勉強して偉い先生にこそなるべきではないか。(アッラーは)汝らに、天使や予言者を神様あつかいしろなどと御命じになりはせぬ。せっかく汝らが立派な信者になったというのに、どうして今さら不信仰を命じたりなさるものか。
〔中略〕
さ、こう唱えるのだ、「汝らはアッラーを信じ、われらに啓示されたもの(『コーラン』)と、イブラーヒム(アブラハム)、イスマーイール、イスハーク(イサク)、ヤアクーブ(ヤコブ)、及び(イスラエルの十二)支族に啓示されたもの、またムーサー(モーセ)、イーサー(イエス)、ならびにすべての予言者に神様から下されたものを信じます。我らはこれらの人々の間に差別をつけませぬ。そして我らはみな(アッラー)に帰依し奉ります」と。
 絶対帰依以外のものを宗教にしたいと思うようなものは、全然受け容れては戴けまいぞ。
〔以下略〕【終】

どうでしょうか。
天使や予言者を神様扱いするというのは、明らかに一部のキリスト教信者を指しているように思えます。
キリスト教徒の一派は、この当時からイエスを神扱いしていたようです。
また、それが今も続いているというのは恐ろしいことです。
上述の個所からもわかるように、『コーラン』はけっしてそれまでのものを否定しているわけではなく、盲信を排して本来の方向に修正しているのです。
絶対帰依以外のものを神扱いしないというのは、今のスピリチュアリズムにも通じます。
このように、人間を神扱いしない、偶像崇拝しないというのは、今もイスラム教の健全なところですが、残念ながら「原理主義」だけは他の伝統宗教と同じく生まれてしまいました。
つまり聖典(の内容)を「聖遺物」のように扱うことです。(聖典に記述がないものは「否定」するとか、一字一句抜いたり付け足したりしてはいけないとか、暗唱できなければ殺すとか・・・)
聖典はあくまで人間の言葉で表現された神のメッセージです。
年月が経っても形骸化しないためには、本質を捉えるという活動(省察)が不可欠なのです。
結局は本人次第なのですが。

次に、この個所について。
【引用❷】
 こう言うがよい、アッラーの御言葉に嘘いつわりはない。されば、汝らイブラーヒ-ム(アブラハム)の信仰に従えよ。彼こそは純正なる信仰の人だった。偶像崇拝のやからではなかった。
人々のために建てられた最初の聖殿はバッカ(メッカの異名)にあるあれだ。生きとし生けるものの祝福の場所として、また導きとして(建てられた)もの。その内部には数々の明白な御徴がある―(たとえば)イブラーヒム御立処など(メッカ神殿は回教の伝承によるとアブラハムがイスマイルとともに建てたもので、建築の最中に彼が立っていた石は「アブラハムの足跡」を今日まで残している。これを「アブラハム御立処」と言って回教徒は神聖視する)。そして誰でも(罪人でも)いったんこの(聖域)に踏み込んでしまえば絶対安全が保障される。そして誰でもここまで旅してくる能力がある限り、この聖殿に巡礼することは、人間としてアッラーに対する(神聖な)義務であるぞ。といっても信仰なきやからは(この義務を果たしはしなかろうけれど)、元来アッラーは完全自足、誰からも何もしてもらう必要はない。【終】

ここではっきりわかると思いますが、とにかく『偶像崇拝』を道から逸れる要因や証しとして非難しています。
偶像崇拝しないアブラハムの信仰を見習うよう強く言っています。
(アブラハムを崇めるのではありません)
話が飛躍しますが、人間を神扱いするとどういうことになるか。
以前も言ったとように、生前、神だと祭り上げたイエスが、磔刑で処されると、周りから「神が殺されるわけがない」と言われて、手のひらを反すように信仰を捨てたり、「身代わりに死んだんだ」という苦し紛れの合理化を図ったりします。
またそれに便乗して、どんな悪行を働いても身代わりになってくれるからと、やりたい放題やったり、それを商売にした免罪符が現れたりと、とにかく道からかけ離れていくわけです。

神には、あくまで道を与えてくれたことに感謝するのが本当であり、けっして媚びる対象ではないのです。
順番を間違えてはいけないのであって、どの宗教においても、巡礼や参拝という形で神仏に報恩感謝するだけです。
それから、上記の「罪人でも絶対安全が保障される」というのは、前々回の悪人正機や弥陀の誓願に通じるものがあります。
カルマを肩代わりしてくれるのではなく、道の人になるのです。

その他、こういう個所もあります。
【引用❸】
彼らにしても全部が全部同じなのではない。啓典の民(ユダヤ教徒、キリスト教徒)の中にもまっとうなものもあって、跪拝をしながらアッラーの神兆(啓示された聖典)を一晩中読み続けておる。【終】

キリがないのでやめますが、異教徒であっても本流を貫く者は認め、様式はそれぞれそのままにして、盲信だけを排しています。

そんな中、今も本流を貫いているキリスト教の団体もあります。
検索していたら、素晴らしく公正で健全な集団が見つかりました。
【春風学寮】はその一つでしょう。
【引用①】
聖書に書いてあることのすべてを事実として鵜呑みにしてはいけないし、かと言ってそのすべてを作り話として切り捨てることも許されない。厳しい疑いの目をもって作り話を見分けつつ、否定しきれない部分を受け入れながら読む必要があるのである。
【引用②】
君たちにイエスへの信仰を強要することなど絶対にない。信仰をもってもらいたいと思ってはいるが、別に信仰を持たなくたってかまわないと考えている。では寮が君たちに望むことは何か。聖書を学び、イエスについて学ぶこと、ただそれだけである。イエスについて学べば、自然にイエスを信じたい気持ちが生まれてくる。たとえそのような気持ちが生まれなかったとしても、イエスの永遠の命は自然に伝わってくる。おおらか愛と清らかな義いう形で伝わってくるのである。イエスについて学び、イエスからおおらかで清らかな愛を受けること、これこそこの寮が君たちに最も望むことであり、この寮のよって立つところである。ぜひとも聖書を学び、イエスについて学び、イエスから愛と義を受け取っていただきたい。それは将来君たちにとって途方もない精神的財産となるはずだ。【終】

どうでしょうか。
けっして盲信に陥らないように、理性を保って本質を見るべく聖人の言葉に接する姿勢を伝授しています。
本当はもっといろいろあって、自然科学との融合にも触れているのですが、長いので一部だけ抜粋させていただきました。
結局『コーラン』も本来このような役目を果たしていたのでしょう。
どうやらこうして、本流を貫くものと、本流から逸れて形骸化するものとに分かれていったようです。

つい先日、例の友人から電話がありました。
ほとんどが世間話で、今回のコロナ騒動で給付金や運転免許更新がスムーズにいかずに、結局国民にしわ寄せが来るこの国がどうこうと話しているとき、友人が思いついたように、
「だから、ずる賢く生きろって、聖書に書いてあるんだよ」
と言いました。
私は、
「あれっ?聖書にそんな俗的な処世術が書いてあるなんて変だな」
「そういえば、蛇の賢さがどうとかあったような・・・」
と思って、あとで調べてみました。
どうやら、『マタイ10:16』
〈いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい 〉
のことを言っているようです。
そして、「ずる賢く」というのが、「蛇のように賢く」に対する誤解から来ていることがわかりました。
【引用】
動物は道徳的な存在ではないことを理解しましょう。
「蛇のように賢く」という言葉に抵抗感を覚えるというのは、理解できます。しかしこれは、比喩的言葉を誤解した結果生まれてくる感情です。
そもそも動物は道徳的な存在ではないので、罪を犯すことができません。
イエスが蛇と鳩を直喩として用いているのは、格言として蛇は賢い動物、鳩は素直な動物という理解が定着していたからです。
直喩として用いられているのは、蛇の悪名高い歴史や狡猾な性質ではなく、賢いという積極的な性質だけです。
同じことが、鳩の素直さについても言えます。
賢さと素直さが調和をもって同居している人物は、主イエス御自身です。
弟子たちは、主イエスの姿に倣いながら、伝道に出て行くように命じられたのです。【終】

これでおわかりだと思います。
どこの教会で教わったか知りませんが、「賢さ=狡猾」とする完全な言葉の履き違えですね。
あくまでも「伝道」において、世間は狼で私たちは羊だということです。
無力な羊は伝道する際に「賢さと素直さ」が必要だと言っているのです。
とても今回の電話での話題に当てはまることではありません。
もちろん私はその時、盲信がそう言わしめていることはわかっていましたが、友人には何も言いませんでした。

どういう意味かと本質を見ることを抜きに鵜呑みにすること、「聖書に書いてあるから(書いてないから)」という思考回路がいかに危ういものかをつくづく感じます。
上記のように、神仏から与えられた人智を通して、愛と義を得ることが「道」だと言えます。

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無為自然 [中庸]

今回はかなり内省的な話になりますがお付き合いください。
自宅待機の中、先月中旬、母親が転倒して救急車で運ばれ、左腕骨折が判明。
以後、私の負担が増し、勤務に行かないとはいえ、ほとんど身動きが取れない状態です。
なにぶん母親の面倒と私自身の先行き不安が重なり、行動が制限されているため、思考が内省的にならざるを得ないのです。
また、過去の私自身と照らし合わせて、進歩したのか、道が確かなものなのか危ういものなのか、考える機会を与えられている気もします。

25年ほど前、同僚たち数人と温泉旅行に行った時のこと。
宿の部屋で浴衣に着替えてのんびりしていると、一匹の「ガガンボ」が壁に停まったり移動したりしているのが目に入りました。
「迷い込んだのだろう」と思い、私はお膳に置いてあったプラスチック製の透明なコーヒーカップを使って、そのガガンボを捕獲して窓から逃がしてやりました。
それを見ていた同僚のSさんが、普段の私の活動を知っていることもあって、
「ハセガワさんは天国に行くよ」
と言いました。
私はすかさず、
「いやぁ、意識してやっているうちはまだ駄目なんだよ」
と半ば謙遜で返しました。〔この話は2作目の『本物の思考力』にあります〕
gaganbo2.jpg
あれから四半世紀が過ぎ、今は「意識しないで」同じことが出来ているかと言えば、出来ていません。
アシナガバチが入ってきた時は、不用意に触れるとこちらの意向を汲み取ることなく刺したりして、なにかと厄介だからということもあって、窓を開けてなんとか明るい方へと追いやりましたし、よく入ってくる蜘蛛に対しては、家の中じゃエサが見つからないだろうからと言い聞かせて、手で救って外に出したりと、とにかく「理由」を付けて逃がしているのです。
それも、幼少の頃に昆虫などを平気で殺したことに対する罪滅ぼしとして、つまり「カルマの解消」を地上に居るうちに済ませようという文字通り「虫のいい動機」で行動しているようなもので、一見、「道を行くこと」とは程遠いものとなってしまっています。
だいいち、ゴキブリや蚊は相変わらず殺していますし、自分の都合による計らいで行動していることには変わりはありません。
これでは霊的にまったく進歩がないのではないか、と一時期悩みました。

私はかつて、本当の自然(自然になること)とは「自然と自然でないものがなくなること」と言いました。
自然とはあくまでも「無為自然」であって、自然を感じているうちは、計らいの対極としてある計らいの欠如した(と勝手に思っている)異物(自然の影、野生動物や原生林などの自然の象徴)があるのであり、自分自身も計らいの目で対象を見ているということです。(そこに神が宿っている、神の意思が働いている等)
要するに、感じているうちは、自分が無為自然になっていないと考えたのです。
そして、無為自然を獲得すれば、あの時のガガンボを無意識に逃がすことが出来て、結果、天国(浄土)へ行けるはずだと思いました。
25年前の私は、修行次第で(無意識という意味で)無為自然を獲得することができると思っていたのです。

以前にも何度か言ったように、
【人間から離れたものを「自然」と呼び、人間や人間の行動や産物を「自然でない」と言うのなら、人間が生まれる前の地球はすべて自然の営みと言える(すべては分子の運動で説明できる)。ところがいつしか人間が生まれた。と言うことは、自然が自然でないものを生んだことになり、今でも自然が自然でないことをしていることになる】
というパラドックスから、私は人間から離れたものを「自然」と呼びたくないし、「自然」という言葉をむやみに使いたくないのです。
みな同じ絶対者から派生した存在であり、周囲を取り巻くものを異物とするのには抵抗があります。(今もそうです)
そうさせているのは、自分に「意思」や「計らい」があるからであり、当時はそれを消せば異物がなくなり、パラドックスも解消して、邪念なく純粋に利他業ができると思っていたわけです。

以後、周知のように、私は即非の実践(省察)によって、自然と自然でないものが一本の直線として見ること、さらに超越することで、自分を含めた全体に神の光が射しているということを確信するに至りました。
でも、よくよく顧みると、地上的なこと、目に見えることで私に出来ることは、
《極端なことをしないこと》
くらいだと気づいたのです。

こんな私も相変わらず物質生活のために収入を得て、美食や文化を嗜み、およそ普通の大人の男がすることをしているわけです。
ただ、道を行くためか、性格なのか、甲斐性がないのか、徹底してやらないだけです。
結論から言えば、この《極端なことをしなくなる》ということが一つの到達点と言えます。
まあこれが私の「でくの坊」たるゆえんですが。

考えてみれば、肉体を持ち、知性を備えているわけですから、少なくとも都会で社会生活をしているならば、「計らい」が消えるわけがありません。
おそらく今、文明から離れて山奥で暮らしても、死ぬまで消えないでしょう。
どうやら、無為自然を「自然すら感じなくなること」あるいは「無意識になる」とすることが間違いのようです。
例えば、本当の充足とは「充足を感じなくなること」と言えます。(呼吸のように)
でも、もしすべてにおいて充足していたら、知性も意思も計らいもなく、この世に生きていないでしょう。
それと同じことが言えそうです。

そこで、「自然の象徴」たちに対する接し方ですが、もちろん征服するのでもなく同化するのでもなく、言わば適当に調和するといった感覚です。
(共存とはニュアンスが違います)
キリスト教的に言えば、霊長としてそれらを制御あるいは管理するといった具合です。

「一体になること」はけっして「同じになること」ではありません。
一人一人の人間はみな霊的に繋がっていて「一体」であるけれども、それぞれ別の側面を生きているのであって、けっして「同じ」になるわけではありません。
同様に、「人間全体」と「自然の象徴たち」は、一体にはなれるけれども、同じにはなれません。
すべてに霊が宿り、それぞれの霊格をもってそれぞれの役割を担って全体の側面を営んでいるのです。

無為自然になることはけっして無意識に行動することではありません。
人間が利他業をすることができるのは、むしろ知性を備えているからです。
人間の愛は知性があってこそ発動するのです。

「計らいなき計らい」とは、計らいを消すわけではなく、それを含んだまま超越すること、執着から離れるということです。
計らいを(原理的に)消すことはできないということが(理性で)わかればひとまずそれで「執着」からは離れるということで、自信をもって行動すればよいという結果に落ち着きました。

それでは、25年前のガガンボの件は、今だったらどうするか?
やはり同じように逃がしてやります。
ただ違うところは、あの時のようにその報いがどうとか悩まないということです。

実はこうして偉そうに言っているところへ、試されるかの如く、さっそくその機会がやってきました。
つい先ほど、トイレに入ると、便器の水面に一匹の蛾が溺れてバタバタもがいていました。
(窓を少し開けてあったため迷い込んだのでしょう)
鱗粉もかなり落ちているし、もう手遅れかもしれないから、そのまま流そうかと一瞬迷いましたが、微かな可能性を信じて、柄付ブラシで救い、びしょ濡れで飛べない蛾を窓から一階のトタン屋根に放ちました。
「まあ少しでも生き延びてくれればいい」
それだけです。
それ以外のことは、あってもどうでもいいと思うようになりました。

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悪人正機説と幸福の科学〔改〕 [中庸]

前回の続きで、『親鸞よ「悪人こそ救われる」は本当か」』(大川隆法)について、コメントしたいと思います。
この本の内容は、公開霊言から成り立っていますが、霊言の質問者や前置きの文から、幸福の科学の在り方が窺えます。
まず冒頭の『仏教の「善悪不二」という言葉は誤解されている』です。
【引用】(p14)
「悪」の問題に答えられないことが、日本の「善悪を分けられない考え方」のもとにもなっているように思うのです。
 仏教には「善悪不二」という言葉が、あることはあるのですが、これが、誤用、誤解されている面があるかもしれません。
「善人にも悪人にも仏性はあるのだ」という意味においては、根本的には「善悪不二」であることは間違いありません。
(この時点ですでに、前回の荒山氏の善人と悪人の定義が違います)
(すなわち、この場合の善〔小善〕・悪は、すでに善人・悪人に対応していません)
しかし、人間の行為の結果として現れた現象についても、「善悪不二」と言ったならば、この世における政治的現象や社会的現象の善悪に関しても、「判断がつかない」という結論になってしまいます。
(もちろん仏教はそんなことは言っていません)
(秩序維持の方便としての「地上の法」における善悪ははっきりしていなければならないということは、当然です)
(一般に宗教の善悪不二は、地上の善悪不二とは別物です)
(そんなことはみなさんも承知でしょう。しかし以下を見てください)
 後者の意味で「善悪不二」を捉え、「宗教を認める立場の者は善悪を言えない」ということになると、「正義の戦争」を主張できなくなります。また、警察対ギャングの戦いに関しても、結果だけを見れば、「人を殺すこと自体が悪いのだから」、『ギャングが人を殺せば悪だが、警察が犯人をピストルで撃ち殺したら善だ』ということはありえない」という考えも成り立つでしょう。「結果が同じであれば、善悪も同じだ」という考えであれば、そういうことも言えるのです。
 このへんの問題について、宗教は、はっきりしたことを主張できていないと思います。
【終】

どうでしょう?
もうおわかりですね。
完全に話が逸れてしまっていますね。
宗教の善悪は「曖昧」なのではなく『執着しない』だけです。
つまり『超越』するということです。
例のイエスの、
「姦淫しようと思って女を見るものは、心の中ですでに姦淫しているのである」
というのは、姦淫するかしないかは利害を伴う地上の事情で白黒をつけるだけで、霊的には同じレベルであり同じ直線上のものだということ(即非)、その一体化したものがあることがいいとか悪いとかではなく、肉体と知性がある限り逃れられないことを知れということです。(性悪説)
そして地上的な白か黒かにあまり執着すると、偽神を崇拝し、人間であることが見えなくなると言っているのです。
聖人としては、外面の「行動」ではなく「心」を見るわけであって、地上は地上なのです。
省察(回心)しないか、するかです。
地上の計らいに対して、「執着」するか「超越」するかの問題です。
地上の行動に関して、「住人」になるか「旅人」になるかの違いです。
すなわち親鸞聖人の「善人」か「悪人」かです。 

「正義の戦争」や「警察対ギャング」のことも含めて、利害を伴う地上の善悪は、地上的に判断して解決すればよいのであって、地上的な「善悪不二」(水平関係に終始)を、宗教の「善・悪(不二)」(垂直関係に昇華)の問題に置き換えることは無意味なのです。

3頁ほど進むと、このような箇所があります。
【引用】(p17)
 悪人正機的な考えでは、病人の場合、重病人こそ、救われます。例えば、救急病院では、重病人を先に処置しようとしますが、それと同じです。
 善人は、放っておいても救われますし、軽い悪を犯した人も、反省をすれば救われますが、重病人は、すぐに大手術を受けなければ救われないわけです。
 悪人正機説は、仏を医者のようなものだと考えれば、「仏さまは、重病人や、大けがをして命が危ないような人から、まず救いに入るはずだ」というような考えです。
 親鸞は、「悪人の自覚があり、『自分こそ、極悪深重の大悪人だ』と思っているような人ほど、弥陀は救われようとしているのだ」と説き、弥陀の慈悲を強調しているのです。
【終】

どうでしょう?
完全に曲解ですね。
善人か悪人かを「悪行の度合い」の違いにしています。
つまり、同じ直線上に乗せてしまっています。
そのため、悪人の自覚の理由を「深い悪」に帰してしまっています。

たしかに傾向として深いほうが自覚しやすいのかもしれません。
しかし肝心なことはそういうことではなく、「浅い深い」は関係なしに、『逃れられないこと』を知ることで諦観が生まれ、超越することができるということです。
単に自分の悪を認めるのではなく、対極にある「小善(偽善)」を含めて一体となった「知性の罪」そのものを人智で消すことができないことを(理性で)悟るのです。

悪人とは、「絶望」という言葉を用いれば、「第一の絶望」を認めることで、「第二の絶望」に陥らないで済む人のことです。(これが救われるということです)
善人とは、「第一の絶望」を認めないことで、「第二の絶望」に陥っている人のことです。

私も実を言うと、弥陀を「必ず治る病院」に譬えたことがあります。
でも、これだと悪行の「やり得」になってしまいます。
しかも、救われるということが等しく「カルマの肩代わり」なら、悪行をやりたい放題やったほうが得だし楽だということで、私もそうしてしまうでしょう。
なので「病院説」は捨てました。

この「病院説」を信じ、もし回心(省察)がなければ、いくら「南無阿弥陀仏」を唱えても、いわゆる「念仏地獄」ということになるわけです。
悪行を重ねても回心があれば、道を得ることでともあれ念仏地獄には陥らないものの、カルマは残り、「清算」に何度も輪廻転生を繰り返すことになるでしょう。

想像されると思いますが、この本は冒頭からこの調子で悪人正機説を曲解したまま、さらに続きます。
途中にもこういう個所があります。
【引用】(p21)
もし親鸞の教えが正しければ、あのような罪を犯しても、仏は彼らを救うはずだからです。
「サリンで大勢の人々を殺しても、弥陀を信じていたら、救われるのか。もし彼らが信仰のもとにそれを行ったのなら、彼らは救われるのか」という問いは、当然、出てくるのです。
 山折哲雄という、宗教学の大家と思われるような方であっても、これがわかりません。悪人正機説でいくと、「オウムの犯罪者たちも、救われなくてはおかしい」と考えられるからです。
【終】

もう改めて言う必要はありません。
この後も、「テロ組織であるアルカイダの行動は善か悪か」などのような、本題から外れたことが続きます。
では、親鸞聖人を招霊して「霊言」を得た後には、幸福の科学の見解が変わったのでしょうか?
結果から言うと変わっていません。
霊言の中で、《「悪人正機説」の真意とは》という表題の個所があります。(p46)
【引用】
〔酒井〕 ただ、前回、パウロ様をお呼びしたときに、親鸞聖人の「悪人正機」に対して、「回心の教えがない。これは堕落だ」というようにおっしゃっていましたよ。
〔親鸞〕 うーん、それには、ちょっと解釈上の問題があるかなあ。つまり、「自分は悪人だ」ということに気づいたこと自体が「回心」なんだよ。
【終】

ここで親鸞聖人は、悪を改めようとするのではなくただ認めることが「回心」(省察)だとはっきり言っています。
にもかかわらず、幸福の科学側はその意味をくみ取らず、堂々巡りの対話を続けます。
【引用】(p54)
〔酒井〕 ただ、そこには教えや戒律はあるのでしょうか。その当時の人たちもそうですし、現代の人たちも、「何が善で、何が悪か」ということを判断できるのでしょうか。
〔親鸞〕 だから、念仏地獄に堕ちている人たちが、「自分たちは悪人だ」と本当に自覚しているかどうかが問題なんだ。
〔酒井〕 「悪人こそ救われる」と言われたら、悪人になったほうがよいのではないでしょうか。
〔親鸞〕 いや、「『自分の悪』というものを見つめて、『自分は本当に悪人だな』と思い、『南無阿弥陀仏』を称え続けたら、救われるんじゃないか」とわしは思うな。
【終】

ここまで来ればもう落語をやっているんじゃないかと思えるほどですね。
唯円に代わって私が歎異抄を著したいくらいです。
また、荀子が『性悪説』を唱えた動機が窺えます。
この本は、この後も最後までピントがずれた内容が続きます。
失礼ですが、結局、幸福の科学の人たちは、「何もわかっていない」ということです。
おそらくこのブログを読んでもわからないでしょう。

この本が出版される少し前、2012年の春、私は暇だったので当教団の支部にちょくちょく足を運んでいました。
ある時、そこにいる会員たちや支部長が「性善説」を話題にしていたので、私はこう言ってみたのです。
「日本人の7割ぐらいは性善説と性悪説を曲解しているんです」
「孟子の言う性善説と荀子の言う性悪説は対立していないんですよ」
「ネットで検索したら、やっぱり私と同じことを言っている人がいました」
ところが、皆さんはポカンとして、何も反応がありませんでした。

大川氏のある著書の中には、「一即多、多即一」(即非)があるのです。
支部の人も「中道」を心得ています。
なのに、なぜここでそれを活かせないのでしょうか?
私見ですが、どうやら「機の深信」までは到達しているとしても、そのあとに理性による「法の深信」に行かずに、いきなり、ただ信じる「神仏」に行ってしまっている感じがします。(法の盲信とでも言いましょうか)
地上の善悪が同じ直線上にあることは認めているようには見えますが、それはあくまで「曖昧なもの」とか「相対的なもの」として捉えるに留まっているようです。
言い換えれば、善(小善)の延長上の彼方に本当の「善」があるという希望をまだ抱いているようで、それらが知性の賜物であり「一体」だということを体得していないように思えます。
肝心なこととして「逃れられないこと」を理性で省察すること、本当の意味で即非を「体得していない」といった印象です。
つまり、超越していないのです。
そこが親鸞聖人を理解できない原因だと思います。

しかし、いい意味で新しい発見もありました。
霊言の中で親鸞聖人がこれだけ真意を酌んでもらおうとしているのに、しかも、幸福の科学側も「悪人だと自覚する」という言葉を何度もそのまま拾っているにもかかわらず、理解できないわけです。
ということは、逆に、霊言そのものに「信憑性」があるということです。
私は思わず笑ってしまいました。

幸福の科学はけっして悪い集団だとは思いません。
少なくとも創立の動機は純粋だったと思います。
会員の方も真面目な人たちばかりですし、ご存じのように今でも冊子や本を届けてくれます。
大川氏は上述からもわかる通り、聡明な実業家であり、霊的能力もあると思われます。
しかし、私からすれば哲学者ではありません。
以前にも言ったように、そこのところが相容れないのです。

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悪人正機再考 [中庸]

悪人正機説について考えようとすれば、「またか」と思われることでしょう。
まあ今回は、墓のある聞明寺からいただいた教化冊子『真宗の生活』を捲ってみて、どうしても言っておこうと思っただけです。
懲りずにお付き合いください。

周知のように私なりの解釈はあります。
ただ、親鸞聖人がどういう意味で言ったのか、もう一度確かめてみようと思ったのです。
【冊子より】(名古屋区教区惠林寺住職 荒山信)
親鸞聖人は縁によって生きるものを「凡夫」と教えてくださっています。「縁」とは条件です。つまり条件次第で何をしでかすかわからない者を「凡夫」といいます。そして自らがその「凡夫」であることに深く気づいた者を親鸞聖人は「悪人」とおっしゃいます。また、自分の意志に従って、どのようにも生きていけると思っている者を「善人」とおっしゃいます。そして南無阿弥陀仏のいのちは「悪人」の大地となり、悪人こそ支えきろうとしてくださるのだと親鸞聖人は教えてくださっています。
 私自身、忘れられないことがあります。それは私が親しくさせていただいている中学校の先生からお聞きしたことです。不登校の生徒さんが、家庭から言われて一番つらくなる言葉は、一番は「がんばれ」、二番は「気にするな」、三番目は「強くなれ」だそうです。
〔中略〕
私自身、人間は自分の意志でどのようにも生きていけるという答えを持っていたからです。まさしく「善人」の姿です。その答えを子どもにおしつけていくのです。親は善意でしているつもりでも、子どもからすれば「善魔」になるのでしょう。善意が相手を追い詰める魔となるのです。悪魔ではなく善魔です。
 ある先輩は「今は悪魔の時代ではなく、善魔ばかりの時代になった」とおっしゃっていました。
〔以下略〕【終】

どうでしょうか。
荒山氏は「悪人」と「善人」を実に明確に定義していますね。
悪人というのは、「悪行を数多く重ねてきた人」のことではありません。
「肉体と知性がある限り誰でも悪(エゴ)から逃れられないと覚った人」のことです。
それはまさしく荀子の『性悪説』を理解している人のことです。
この時点で、「悪人こそ救われるのならいくらでも悪を起こしてやろう」という揚げ足取りの履き違えは少なくとも起こらないでしょう。(でもなぜ救われるのか解せないかもしれません)
悪の対極にある善(小善・偽善)は知性の実をかじった人間の罪が生む同じ直線状のものです。〔⇒機の深信〕
悪の対極の彼方に本物の善があるわけではありません。
いくら小善を重ねても、人間から悪(エゴ)が消えるわけではありません。

一方、ここでいう善人とは、その省察を実践しないために、地上的な法に帰依し、地上的に立派な人間になれば自分が幸福になり、地上的に立派な人間になることを他の人たちに押し付ければみんなが幸福になり世の中が良くなると思い込んでいる人のことです。
荀子の『性悪説』を理解せず、孟子の『性善説』を曲解している人のことです。
(偽神に帰依する理数系の人によく見られます)
冊子の中で「善魔ばかりの時代になった」と言っていますが、本当に息苦しい世の中になりました。

そこで「救われる」とはどういうことか?
自分の重ねた悪行による負のカルマを「肩代わりしてもらって帳消しになる」という意味ではありません。(スピリチュアリズムでは、カルマの肩代わりはありません)
ある段階に次元上昇するという意味です。
道を得るということです。
浄土へ生まれるということです。(ゴールではありません)
私の見解では、輪廻を脱する(解脱)段階の最初の関門である「預流課」を通過することです。
自力で悪(エゴ)を消すことができるとする「善人」は、直線上の行動に終始し懸命に追及するため、直線そのものが見えなくなって、(地上の住人でいるため)、何かで切っ掛けを与えられるまでいつまでも超越できません。
それに対して、悪(エゴ)を消せないと原理的に覚った「悪人」は、直線上で足掻くことがないため、(地上の旅人となり)、超越して直線を見ることができます。
その超越が次元上昇(止揚)ということになります。
預流課を通過すれば、言わば道を得て「道の人」になり、その後何度か輪廻を繰り返すうちに、カルマを解消して解脱に向かうはずです。

くどいようですが、「善」とは省察(即非)により「悪・小善」の直線を超越することで、神仏の光を受けていることを知り(絶対矛盾自己同一)、自信をもって自分の能力において人々に施すことができることです。
「自信をもって」というのはどういうことか。
以前にも言ったように、施しをするときに必ず付き物として「雑毒の善」が立ちはだかります。
それはエゴを含んだ偽善だから意味がないと。
でもそれは、肉体や知性のフィルターを通して見ているから仕方がないのであり、省察が済んだ人にとっては、それを超越した「光」が本体なので気にすることがないのです。

それでも、超越すれば本当に施しに向かうのか、疑問に思う方もいらっしゃることでしょう。
そこはこう考えればよいと思います。
本来人間は闘争的な存在ではありません。
原初の人間は仁愛に満ちていたと言われます。
それがいつの日か「知性の実」をかじってしまって利己と争いが生じました。
ということは、その表れである「悪・小善」を超越すれば原初の状態を取り戻せるということです。

神仏の光を受けていると知ることを「幸福」と呼ぶとします。
あくまでも先に「幸福」があって、結果的に「施し」があるのです。
「施し」は結果なのです。
ただ「施し」をすれば「幸福」になるわけではありません。
「省察」が肝心、いや、すべてとも言えます。
(親鸞聖人はこの省察を『回心』と言っているようです)
「お念仏というのは、つまり自分が自分に対話する道」〔法語カレンダー2020年4月〕
ただ唱えることが念仏ではありません。
省察(回心)の結果として口から「南無阿弥陀仏」が出るのです。

今回はなんだか過去に言ったことの蒸し返しのようになってしまいましたが、はじめはこの続きを予定していて、数年前に読んだ『公開霊言 親鸞よ「悪人こそ救われる」は本当か(大川隆法)』について、決定的なことを言うつもりでした。
しかし、長くなるのと、今回の内容との関係が複雑に入り組んで支離滅裂になってしまうので、次回以降にしようと思いました。

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無題 [霊的存在]

毎年この時期になると、私自身の身の振り方がどうのこうのとボヤキを交えてお伝えするのが慣例となっています。
まあ適当に流してください。

結果的には代わり映えしません。
ただ、それまでの過程がいっそう慌ただしく厳しいものとなりました。
1月途中から3月下旬まで講師の求人十数件に応募してすべて不採用。
ここでは一部の象徴的な出来事をお伝えします。

3月17日、もうこれが最後と思って面接に臨んだ時のこと。
数字の上で割と学力が高い某大学付属の中高一貫校で、電話があってから6日後というのはどういうことなのか少し不安を覚えながら30分前に到着し、校門付近の守衛さんに名前と面接の時刻を伝えると、守衛さんは、
「16時ですね」
私は一瞬耳を疑いました。
確認のために言いました。
「あのう、15時って聞いたんですけど」
守衛さんは手元の印刷物を私に指し示して、
「ここには16時となっていますよ」
私はとりあえず面接の先生方に会わせてもらうようにお願いしました。

高校の教員室前に行って事情を話したところ、すぐに面接するということで、別室に連れていかれて主任2人と即面談。
【主任】:この学校のことはご存じでしたか?
【私】:はい、子供の頃から知っています。
【主任】:どういう理由で応募しましたか?
【私】:学力が高いということが第一の理由です。
【主任】:実はね、そうでもないんです。もちろん中には意識の高い生徒も一部いますけど、大多数は教科書の内容で精一杯なんです。
【私】:ああそうですか。
(偏差値ランキングの高70台・中60台はウソなのか?それじゃ他はどうなってしまうんだ?)
【主任】:ベテランの先生にこんなこと聞くのは野暮なんですけど、もし生徒から、「数学なんて何の役に立つの?」と聞かれたらどう答えますか。
【私】:難しい質問ですけど、もし社会に出て法廷に立つようなことがあった場合に、言葉の定義の仕方一つで判決が逆転することもあるんだ、だから、数学の問題にある条件一つ一つを見逃さないこととか論理的な思考を鍛える必要があるんだ、などと言います。
【主任】:なるほど。ところで先生は高校と中学どちらが希望ですか?
【私】:高校で経験を積んだものでやはり高校の方が得意です。まあ、どちらでもいいですけど、どちらかというと高校を希望します。
【主任】:実はね。高1の16時間または中3の10時間のどちらかなんですけど、先生は高校希望とおっしゃいましたけど、その場合、7月まで、あるいは12月までなんです。そういう時どうされますか?
【私】:(半ば呆れて少し笑いながら)その時は何とかして仕事を探すだけですけど。
(そんなの聞いてないよ、求人票に書いてなかったし、「どうしますか?」なんてよく言えるよ)
【主任】:まあ、一次面接の結果は2日後に郵送でお知らせします。
(この時期に2次面接があるのか?もっとも郵送と言われた時点で不採用が決定なのだが)

あらかじめ面接の感触をお世話になっている教員派遣会社の担当者に伝えることになっていたので、帰り際に電話しました。
《私》:1週間後と言われたのでどうも変だと思ったんですが、7月または12月までだと言うんです。
《派》:産休なんですね。
《私》:いずれにしても期待できないので、そちらでどこかいい所あったらお願いします。
《派》:えーと、ちょっと待ってください。ああ、N校がありますけど。
《私》:N校なら全然問題なく普通に授業できますから。8年前に一度お世話になって、去年再び面接に行ったんですけど、中学の悪いことを言って印象を悪くして不採用になってしまったんです。どうも中2の求人だったらしいんです。なので、私の名前を出せばおそらく拒絶するとは思うんですけど、そこは強く言ってください。「大丈夫ですから」と。

そして、夕食中に電話があり、
「N校さんはもう他の人が決まっているそうです」
と伝えられました。(ホントか?)
これで決定しました。
教員を完全にやめて他の道を行こうと決めていました。
履歴書を書いたり書類をそろえて郵送したりするだけでも、労力と経費が半端でなく、かりに採用されても安いし最長3年までしか居られないし、良いことはないのです。
少し前から、福祉の仕事をしようとある専門学校の説明会に何度か顔を出しました。
教員の仕事がなければ、1年間「通学で」資格を取ろうと思っていました。
無職で通学というのは、学費が非常に高いうえ生活費がかかるので、貯蓄が一気に飛んでしまうことになり、完全に「賭け」です。
それでも長い目で見れば収入が安定するだろうからと思って、キツくでも何とか乗り切る気でいました。
ただ、母親の介護のこともあり自分の体調もあって、昼にするか夜にするか迷っていました。
そのことも含めて、2度面談をしました。
(話の内容は、昼はいっぱいで夜は何とか空いているという段階でした)
そして3月26日、出願書類をそろえて提出するだけになったとき、もう一度面談するということで臨んだところ、大どんでん返しが待っていました。
「カクカクシカジカなので、こちらとしては入学を勧めません」
と、入学しないよう強く諭されました。
(たしかに私の条件からして得策ではありません)
ある意味良心的ですが、厄介者を抱えたくないという事情もあるのでしょう。

その面談が終わった時刻が午後3時半頃。
さてどうしようかと路頭に迷っていると、ふと派遣会社のことが頭に浮かび、さっそく連絡しました。
残っている求人から、高校だけだからということもあって、スポーツで有名なT校を紹介され、30日に面接に行き、翌日正式に決定しました。
派遣で週19時間。
面接で教頭先生が意外なことを言いました。
「講師のなり手が全然見つからなくて・・・・・・」(エッ?)
すかさず私は答えました。
「私はまったくそういう感覚はなくて、一度諦めて他のこと考えたんですけど、それもダメで、またこうして派遣会社にお願いした次第です」

今月3日に講師の集まりがあり、案の定公立準拠で授業開始が5月の連休明けになったことを伝えられました。
みなさんはこのいきさつから、学校の事情や私の状態を容易に察することができると思います。
世間はコロナ騒動で不安を煽られているようですが、私は正直それどころではありません。
この先もずっと物質生活の苦難が待ち構えているのです。
「物質生活向上のために資格を取ったり研鑽したり手に職をつけて・・・」
という発想がどうも私の人生に馴染まないようです。
「ライフワークがあって、あくまでそれを遂行するための肉体の維持がある」
どうやらそう思って生きるのが私にとって健全のようです。
ひとまず終わりにします。


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