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盲信者と唯物論者への見切り [中庸]

以前、父がよく念を押すように言っていました。
「そういう人は、いくら言ってもダメなんだよ」
それは、霊的な存在であることを自覚させようと(菩提心を起こさせようと)、その切っ掛けとなる話をしても、まったく入っていかずに拒絶する人、特に唯物論者のことを言っているのでしょう。
私は当初、
「そんなことはない、きちんと話せばわかるはずだ」
と思っていました。
ところが、恥ずかしながら最近になってようやく父の言っていた意味がわかりました。
原理がわかったのです。
原理的にダメな人がいるということです。
(ある著名な作家が「『話せばわかる』は大ウソ」と言っていましたが、このことでしょうか)
このことは、盲信者にも共通することなのでまとめて言います。
言って何とかなる盲信者と言ってもダメ(無駄)な盲信者がいます。
同様に、言って何とかなる唯物論者と言ってもダメ(無駄)な唯物論者がいます。
何れもダメな方というのは、考える力がないのではなく、考える気がないのです。
少し強い言い方をすると、「考えない気」が充分あるのです。
言い方を変えれば、「相手が何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」なのです。
思考回路が「どこに属し、どこを排除するか」あるいは「誰を立てて、誰を攻撃するか」になっているのです。
ここで早々と断言しますが、ハッキリ言って、「権威」や「権力」だけです。

権威や権力のある人の言うことは無条件で聞くけれども、理解できずに鵜呑みにして、鸚鵡のように再生するだけです。
権威や権力のない人の言うことには、一切聞く耳を持ちません。
一切の思考を「力」に委ねてしまっているということです。
逆に言えば、同じ盲信者や唯物論者でも可能性のある人は、相手の身分や肩書によらず、「聞く耳を持つ」という人です。
それはとりもなおさず「理性を保つ」ということです。

〔*話は逸れますが、最近話題のベーシック・インカムの導入に対して、日本では反対者が賛成者の約2倍います。これは、よく言われる「日本人は権威に弱い」ということや、「プライドは余計なもの」と言って自尊心と一緒に「尊厳(魂)」まで捨ててしまうことや、日本に本当の意味で哲学や宗教が根付かないことなどと無縁ではないような気がします。〕

ともかく、私の周りには、ごくごく身近にどうにもならない盲信者と唯物論者がいるので、紹介します。

〔⁑その盲信者は長年話してきて、今になって私の言うことは、結局何も聞いていなかったんだと判ったのです(他で相手にされず、話し相手として私を選んだだけのようです)〕

たとえば、例のキリスト教会の盲信者が他の宗教に理解を示さず異端扱いするのを聞いて、私がそれを指摘すると、
「キリスト教を嫌っているのがわかる」
「でも迫害されることを誇りとする」
などと、「良きクリスチャン」気取りでさらに思考停止(悪しき聖職者)を露呈するのです。(本質と末端の表現の関係をまったく理解できません)
こちらはなにも、キリスト教そのものを嫌っているわけでもないし、迫害しているわけでもないのです。(以前から話してわかっているはずなのですが)
理解がなければ無益な争い事、宗教戦争を起こすことになって、平和をもたらさないと言っているだけであり、そうやって信者を家畜にすることで組織の権威を保とうとする教会の欺瞞を指摘しているだけなのです。
私はそれ以来、彼にその話をするのをやめました。

このように、あいにく現在の形骸化した地上組織宗教は「思考停止した人の唯一の逃げ場」となってしまいました。
逃げて辿り着くだけならよいのですが、その場所が広くて名が通っていて居心地が良かったりすると、変に自信を取り戻した盲信者が、今度はその場所から、他の逃げ場に居る人や逃げ場を持たない人に攻撃を仕掛けてくるのだから始末が悪いのです。
まさに「虎の威を借りる狐」であり、その狐が「張り子の虎」となって虚勢を張るのですから、滑稽としか言いようがありません。
また、その権威ある虎も今や剥製の虎と言ってよいでしょう。
〔⁂実を言うと、私としては、そのことにおいて「唯物論者」と言を一にしなければならないのが何よりも辛いのです。〕

しかしここで肝心なことは、その虎が剥製や張り子だからどうだというのではなく、権威を借りて自分は責任を持たないということが「道」ではないということです。
そもそも権威とか権力を「超越する」ことが聖人たちの教えであり宗教の目的であるのに、盲信者たちは明らかに聖人たちが後世の人にやってもらいたくないことをわざわざやっているわけで、まるっきり宗教の目的から外れているのです。
しかも、盲信者自身は権威を借りていることにも気付かなくなっているというオマケ付きです。
そのことは以前にも取り上げた『論語』の、
「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく」(務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣)
にも記されているように、地上での実践を疎かにしてすべてを霊人に託してしまうと、自分のすることが神様のすることにように感じてしまい、自分も周りの人も人間であることを忘れてしまうのです。
〔⋆スピリチュアリズムでは、その手の盲信者のように理性を捨てると、低級霊に乗っ取られる危険性があると注意します〕

繰り返しますが、言っても無駄な人はなぜ言っても無駄なのかといいますと、思考形式が完全に、「何を言ったかではなく誰が言ったか」になっていて、「権威」がすべてだからです。
私のような者には地上的な権威がありません。(というより無用です)
相手が「聞く耳を持たない」のですから、飼い馴らされた犬に、野良猫になるよう説得するようなものです。
結果、その手の盲信者は、たいがいは周囲から相手にされなくなるか見下されるかであり、さらにまた権威にしがみつくという悪循環に陥るわけです。
それでもなお、頭の中は、他人から見下されてきたお返しに、優位に立って他人を見下したいという欲求でいっぱいなのです。

それでは、唯物論者は?
「死んだら何もないんだから」
と言って、エゴのために平気で嘘をつく極めて身近な唯物論者に、
「じゃあ、何で生まれてきたの?」
と問い掛けると、一瞬表情が固まって考えようとしますが、答えられずに、次の機会には、
「どっかの教祖の受け売りをして」
とか、
「死んだ父親にそっくりね」
と言い放って、まるっきり元に戻ってしまいます。(何十年も身近にいるのに私を知らない?)
要するに、子供の頃からの自発的な菩提心がなく、それを掘り起こそうとする人には、単なる地上的な様式(性格)として片づけてしまいます。
私は、
「どこの教祖がどうであろうと、誰に似ていようと、霊的進化をするために生まれてきたんだよ」
と、念を押して、それ以来話すのをやめました。

言わなくてもわかると思いますが、現在の地上宗教の盲信者と同じ構造です。
唯物論者の中にも、高級な唯物論者と、言って解る唯物論者と、言っても無駄な唯物論者がいます。

高級な唯物論者は、単に方法論として物質の面から充実を図るだけで、すでに信仰心は備わっています。
言って解る唯物論者は、哲学(省察)の切っ掛けがないだけで、充分に道を得る可能性があります。

言っても無駄な唯物論者というのは、言っても無駄な盲信者の場合と同じ理由で、劣等感を優越感に変換するために地上の権威に思考を託すわけです。
つまり「権力」や「財力」がすべてです。
かくして、地上の永住者となります。
世間で言われている唯物論は、「ベリアル教」という霊的なものを否定する一つのエセ宗教でもあります。
そして、言っても無駄な唯物論者というのは、言っても無駄な「ベリアル教」の盲信者と言うことができます。

そんなことを言う私でも、
「言っても無駄なんて、諦めちゃダメじゃないか!」
と逆に非難されることもあるのは事実です。
しかし、理性による信仰を広める人たちにとって、そのように理性の限界を知るのも「道」のうちです。(歴史上の聖人はみな知っていたようです)

私を含めて、本物のスピリチュアリズムを普及しようとする者は、そこを弁えて行動すれば、その手の人間を相手に思うように成果が得られなくても失望したり自分を責めたりする必要がなくなります。
それでも、「誰でも話せばわかる」と勇ましく立ち向かう人は、100パーセントどこかで失望するでしょう。
そのとき、原理を知ると知らないでは失望の度合いがあまりにも違うのです。

なにか消極的で覇気がないと思われるでしょうが、これは動かしがたい原理なので、心ある人は永遠に悩み続けたり、変に失望して活動を停止することのないように願うばかりです。
それよりも無駄な時間と労力を温存して、それ以外の可能性のある(聞く耳を持つ)人たちに希望を見出せばそれで充分だと思います。

「いやあ、この地球人類は思った以上に、いや絶望的に霊的に病んでるなぁ」
まるで自分が異星人になったような言い方ですが、率直な感覚です。








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7回目の終了です(その7)

① こんにちは。いつも興味深く拝見しております。9月18日付「虫の知らせ・・・」にコメントをさせていただいた者ですが、御丁寧な御回答ありがとう御座いました。

② ところで、終末予言の「その時」に、ご興味をお持ちでしょうか。

 「神示」では『辛酉はよき日、よき年ぞ』(下つ巻・第30帖)とあり、次の辛酉は2041年になります。そして次に、『四ツン這ひになりて着る物もなく、獣となりて、這ひ廻る人と、空飛ぶやうな人と、二つにハッキリ分かりて来るぞ』(富士の巻・第19帖)とあります。

 上記の2点につきまして、「ヒトラーの予言」にも近接する年代や類似する事象の表現があるようですし、「シリウスファイルのオコットのメッセージ」でも近接する年代や類似の表現が認められるようです。
 (この2例はネットで閲覧できますが、著作権が一々面倒ですし、ウィルス感染問題もありますので、リンクは割愛させていただきます)。

 ここで、神示・ヒトラー・オコットの予言の「その時」の年代は、2041年の数年前から2041年までということになり、20年くらい先の話ですが、随分と気の長い話となります。

 ただし、『天の異変 気付けと申してあろが』(夜明けの巻・第3帖)と有りますように、前兆現象としての天変地異は益々激化して来るように感じられます。

 また、オコットのメッセージの類推解釈から、マヤの2012年の後から「変換の仕組み」が始まっており、中程からは「転換の仕組み」が始まるものと想像しますから、のんびりと20年先を待つわけでも無さそうに思われます。

★ どう思われますか。

by 7回目の終了です(その7) (2017-10-30 11:16) 

光一郎

いつもありがとうございます。
こういう話は他で何度か聞いたことがありますし、もちろん興味があります。(日月神示は7、8年前に読みましたが、あいにく細かいことは覚えていません)
古くは『ノアの方舟』、最近では『アセンション』に相当すると思われますが、上昇する人は何れも少数派ですね。
それにしても、20年先ですか・・・
それまで生きているかどうか。
まあそれまでの間、今も弛まず精進しているつもりではいますが、「その時」に自分が「空飛ぶやうな人」の中に入っているかどうかはわかりません。
ただ、もしその中に入っていると仮定したときに、
「自分が良ければそれでいいのか?」
「それなら何で地上に生まれたのか?」
などと、随分思いあがった言い方ですが、近頃悩むのです。
また機会がありましたらご指導ください。
by 光一郎 (2017-10-30 22:50) 

7回目の終了です(その7-2)

こんにちは。いつも興味深く拝見しております。ご丁寧な回答を頂きまして、有り難う御座いました。

① 私の立ち位置について

 私は、第1回目のコメントで、『今の世界は(真実の世界のコンピュータ技術が作ったところの)虚構・バーチャルな世界だ』と述べています。
 要するに、自分の意識だけが「第7太陽系次元」というコンピュータゲームの中にいるわけですから、私の肉体も、コンピュータに接続された私の意識も、コンピュータそのものも、全部が「遠い真実の世界」の中に有ると思っています。

② >それにしても、20年先ですか・・・

 シリウスファイルのオコットは、『2013年から(第8太陽系次元に向けての)変換が開始されている』というようなことを述べていますが、マヤの2012年で「第7太陽系次元」が終わりましたから、20年先ではなく、既に第8太陽系次元が始まっており、今は第7太陽系次元の終わりと第8太陽系次元の始まりが重なっていると考えています。
 ですから、「その時」までに第8太陽系次元に意識の移行を完了しておかないと、大変なことになると思っています。
 (第7太陽系次元に意識が残っている状態で、第7太陽系次元のコンピュータを終了したら、その意識がどうなるかについては、私には分かりません)。

③ >「それなら何で地上に生まれたのか?」

 私たちが(コンピュータ・ゲームの虚構世界としての)地上に生まれた意味は、一言で言うと「学ぶ」ためであり、過去の世界(つまり今の世界)を仮想体験する中で、善悪も家族も教育も労働も何もかもを学び、その中から、より良い社会の構築に向けての思考をすることだと思いますし、人類が次に目指すのは「共生社会」だとも思います。

 また、個人主義的なエゴが社会全体の弊害になることを学び、動物本能的な独占欲で富を独占することが貧富の差を生み差別を生み人を不幸にすることを学ぶことだと思います。

 また、人類を繁栄させ文明を発展させる手段として、科学知識や経済的合理性を学び、科学的思考や論理的思考を習得し、さらに新たな発見や発明をすることだと思います。

④ 最後に、今の教育は、能力に格差がある人間の教師が教えていますが、未来の教育は人間の教師と交代したコンピュータが行い、最高水準の教育がオンライン・ネットワークを通じて行われ、バーチャル・リアリティー(仮想現実)の中で、歴史も道徳も科学も数学もマルチミキシングで行われると思います。
 (その意味において、私たちもバーチャル・リアリティーの中で体験し、思考し、新たな発想をしているものと思います)。

 余談になりますが、今の日本の教育現場は、学級崩壊やモンスターの発生、家庭崩壊、養育拒否や子供への虐待など、様々に行き詰まって崩壊しつつありますから、新しい教育を、家族の有り方も含めて総合的に模索しなければなりません。

 遠い未来でも、今と同じように、生まれてくる子供は動物本能を持った子供が生まれてくる訳ですが、その子供たちを、どうやって社会性や公共性を持った大人に育てるかに苦労するわけであり、コンピュータ技術を活用した教育は理に適っていると思います。

★ 有り難う御座いました。今後とも宜しく御願いします。

by 7回目の終了です(その7-2) (2017-11-13 10:05) 

光一郎

ありがとうございます。
参考にさせていただきます。
どうやらあまりのんびり構えていられないようですね。
今後もよろしくご指導願います。

by 光一郎 (2017-11-13 22:24) 

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