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自由と観想的生活 [中庸]

朝の食事と片付け、洗濯物干しを終えて、いつものように手持ち無沙汰になると、ネタ探しになり、机の上にある真宗大谷派の発行する教化冊子『真宗の生活』が目に入りました。
去年暮れに寺でもらったもので、まあ特に新しいことはないのですが、気が落ち着くということで今回も読むことにしました。
shinshuu.JPG
4月分まで読んだ跡があり、冊子の構造から7月と8月の個所がたまたま大きく開いていたので、布団に寝っ転がりながら、電灯もつけず窓の明かりだけで目を通しました。
まず7月分の『豊かさとは何か』です。
【引用】
我々は、たとえば車があるかないのか、どんな車に乗っているのか、家が大きいのか小さいのか・・・、そういう自分の持ち物の豊富さを、豊かさの象徴のように感じているのです。ところが、シュマッハー(イギリスの経済学者)は、豊かさは、「止まれ、もう十分だ」と言えるところにあるのだというわけです。つまり、どれだけ人が羨ましがるほどにたくさん物を持っていても、まだ足りない、まだ欲しいと、こう思って生きている人は、実は貧しいのだということですね。たとえば、百万円のお金を持っていても、まだ足りない、もっともっとという人は、貧しいということです。逆に、たとえ一万円であっても、これで十分だと言える人は、非常に豊かだということです。だから、豊かさとは、量から質へというか、その人の生活姿勢の内容の問題であるということになります。どうでしょうか。そのことが、我々のところにスーッと入ってくるかどうかです。
我々自身が相対有限なものだということ、我々が絶対なものではないということ、そのことが持つ厳粛な意味ということを思い出します。
〔中略〕
自分が自分であることに、これでよしと言えるかどうかという問題だということです。シュマッハーの言葉では、「止まれ、もう十分だ」と、こう言えるところに、実は豊かさがあるのだというわけです。【終】

みなさん、どうでしょうか?
おそらくみなさんも、どんな状況下で言っているのかと疑問に思うことでしょう。
この例が一月の生活費だとしたら、社長あるいは逆に出家者のレベルでないと当てはまらないと思いますけど。
まあそれはさておいて、これはおなじみの『足るを知る』です。
あるいはある禅僧が言う『貧しい生活・豊かな人生』でしょう。
後者は、芸術や奉仕などの非営利活動という「別の観点」で生きていれば、物質的に多い少ないという「量」は気にならない(ある程度量があれば)、つまり超越できるわけで、結果的にはそれで豊かにはなれるのですが、直接「足るを知る」わけではありません。
前者に関しては私が再三この場で言っているように、「満たされているときは感じない」ということを、感覚の目ではなく「魂の目」で見るのですけれど、いまだにソクラテス以外に言及する人を知りませんし、仏教との関連を言っている人も見かけません。

そこでみなさんは、いつもこんなに偉そうなことを言っているこの私の最近の堕落ぶりを見て、
「言っていることに行動が伴わないじゃないか」
と嘲笑し、いささか愛想を尽かしたものと思われます。
私自身なんでこんなに落ちぶれたのかと戸惑います。

上述の『足るを知る』と『貧しい生活・豊かな人生』は出来ているつもりなのに、足が地に着かず心が充実していないのは何故なのか。
よくよく考えたら、これではなく、次の8月分の内容『「自由」に縛られていませんか?』に答えがあることが判明しました。
【引用】
「流行の服を自由に着られる」
「人間関係に煩わされないで自由に生きる」
「好きな時間に好きな番組を自由に見られる」
「ほしいものが自由に手に入る」
私たちは、このように自分の思い描いた通りに物事が進むと自由にできたと思い、自由に、つまり、思い通りにできることが幸せだと思っています。待つことも我慢することも、譲ったり妥協することもないのが、自由で素晴らしいと思い、それを実現しようと努力します。
天候や気温に左右されない環境を用意し、嫌な人とは関係を持たず、個室の中に自分専用のテレビやパソコンなど、必要なさまざまなものを持ち込みます。制限のない時間・空間での生活を求め、人間や世間とも自分に都合のいい距離をとり、煩わしさのない関係で生きていくことを望んでいます。あらゆることを私事(プライベート)化して、そういう思いの状態を得るために金銭を求めてきました。
しかし立ち止まって考えてください。そこに、爽やかな開放があるでしょうか。そんな現実の煩わしさからの自由が、本当に私たちを幸せにしてくれるでしょうか。
それは、むしろ私たちの成長が妨げられている姿でしょう。
不都合から逃げ回る人生は、私が私として生まれた意義を見出したり、関係を生きる中でのさまざまな出会いの喜びを遠ざけたりすることになっていきます。
私が子供の頃に、ある時「テレビを見るのは僕の自由だ」と言い張って、祖父から「お前はテレビに縛られていて、ちっとも自由じゃないではないか」と叱られたことが忘れられません。
私たちが自由だと思っている姿は、実は、自分の感情や欲望や思い込みなどに縛られている状態(「縛〔ばく〕」という煩悩)ではないでしょうか。〔中略〕
仏教の教えで「自由」とは、自らに由る、すなわち、外の環境と関係を持ちながら、それに振り回されない生き方、「自己の信念」が確立した状態を言います。〔以下略〕【終】

みなさん、心当たりはありますか?
私は自分が最近何を思い描いているかと振り返ると、老後の「観想的生活」です。
僅かながらの年金と保険屋さんの積み立てと、できれば家を活用して、煩わしい労働をやらずに安いところ(外国?)に移住して、自分の本来やること(?)に専念し没頭することです。
「観想的生活からは何も覚ることはできない」(フィロン他)
ということは、以前にも取り上げました。
(現在は親の面倒と葛藤で常に悩まされているため、観想的生活ではありません)
私の場合、責務としてやるライフワークがあるものの、煩わしいことでそれが妨げられているという言い訳が出来あがってしまっているので、数年後に思惑通りに行ったとしても、結局大したことが出来ないのかもしれません。
「煩悩成仏」の方便として今までしてきた「必要無駄」さえも、やはり、都会の煩雑の中でこそ意味があるのではないかと思います。
そして何よりも、「無心」とは程遠い「守り」に入ってしまったことが道に反します。
この後ろ向きの思惑が身体の不調として顕れているのだと思います。
要するに、まだ克服するべきカルマが残っているということでしょう。
「あと何年乗り切れば・・・」
これがダメなのです。
これからは、自分に降りかかる煩わしいことを「縁」ととらえて前向きに行動したいと思います。
みなさんにとっても参考になればと思います。

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