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悪人正機再考 [中庸]

悪人正機説について考えようとすれば、「またか」と思われることでしょう。
まあ今回は、墓のある聞明寺からいただいた教化冊子『真宗の生活』を捲ってみて、どうしても言っておこうと思っただけです。
懲りずにお付き合いください。

周知のように私なりの解釈はあります。
ただ、親鸞聖人がどういう意味で言ったのか、もう一度確かめてみようと思ったのです。
【冊子より】(名古屋区教区惠林寺住職 荒山信)
親鸞聖人は縁によって生きるものを「凡夫」と教えてくださっています。「縁」とは条件です。つまり条件次第で何をしでかすかわからない者を「凡夫」といいます。そして自らがその「凡夫」であることに深く気づいた者を親鸞聖人は「悪人」とおっしゃいます。また、自分の意志に従って、どのようにも生きていけると思っている者を「善人」とおっしゃいます。そして南無阿弥陀仏のいのちは「悪人」の大地となり、悪人こそ支えきろうとしてくださるのだと親鸞聖人は教えてくださっています。
 私自身、忘れられないことがあります。それは私が親しくさせていただいている中学校の先生からお聞きしたことです。不登校の生徒さんが、家庭から言われて一番つらくなる言葉は、一番は「がんばれ」、二番は「気にするな」、三番目は「強くなれ」だそうです。
〔中略〕
私自身、人間は自分の意志でどのようにも生きていけるという答えを持っていたからです。まさしく「善人」の姿です。その答えを子どもにおしつけていくのです。親は善意でしているつもりでも、子どもからすれば「善魔」になるのでしょう。善意が相手を追い詰める魔となるのです。悪魔ではなく善魔です。
 ある先輩は「今は悪魔の時代ではなく、善魔ばかりの時代になった」とおっしゃっていました。
〔以下略〕【終】

どうでしょうか。
荒山氏は「悪人」と「善人」を実に明確に定義していますね。
悪人というのは、「悪行を数多く重ねてきた人」のことではありません。
「肉体と知性がある限り誰でも悪(エゴ)から逃れられないと覚った人」のことです。
それはまさしく荀子の『性悪説』を理解している人のことです。
この時点で、「悪人こそ救われるのならいくらでも悪を起こしてやろう」という揚げ足取りの履き違えは少なくとも起こらないでしょう。(でもなぜ救われるのか解せないかもしれません)
悪の対極にある善(小善・偽善)は知性の実をかじった人間の罪が生む同じ直線状のものです。〔⇒機の深信〕
悪の対極の彼方に本物の善があるわけではありません。
いくら小善を重ねても、人間から悪(エゴ)が消えるわけではありません。

一方、ここでいう善人とは、その省察を実践しないために、地上的な法に帰依し、地上的に立派な人間になれば自分が幸福になり、地上的に立派な人間になることを他の人たちに押し付ければみんなが幸福になり世の中が良くなると思い込んでいる人のことです。
荀子の『性悪説』を理解せず、孟子の『性善説』を曲解している人のことです。
(偽神に帰依する理数系の人によく見られます)
冊子の中で「善魔ばかりの時代になった」と言っていますが、本当に息苦しい世の中になりました。

そこで「救われる」とはどういうことか?
自分の重ねた悪行による負のカルマを「肩代わりしてもらって帳消しになる」という意味ではありません。(スピリチュアリズムでは、カルマの肩代わりはありません)
ある段階に次元上昇するという意味です。
道を得るということです。
浄土へ生まれるということです。(ゴールではありません)
私の見解では、輪廻を脱する(解脱)段階の最初の関門である「預流課」を通過することです。
自力で悪(エゴ)を消すことができるとする「善人」は、直線上の行動に終始し懸命に追及するため、直線そのものが見えなくなって、(地上の住人でいるため)、何かで切っ掛けを与えられるまでいつまでも超越できません。
それに対して、悪(エゴ)を消せないと原理的に覚った「悪人」は、直線上で足掻くことがないため、(地上の旅人となり)、超越して直線を見ることができます。
その超越が次元上昇(止揚)ということになります。
預流課を通過すれば、言わば道を得て「道の人」になり、その後何度か輪廻を繰り返すうちに、カルマを解消して解脱に向かうはずです。

くどいようですが、「善」とは省察(即非)により「悪・小善」の直線を超越することで、神仏の光を受けていることを知り(絶対矛盾自己同一)、自信をもって自分の能力において人々に施すことができることです。
「自信をもって」というのはどういうことか。
以前にも言ったように、施しをするときに必ず付き物として「雑毒の善」が立ちはだかります。
それはエゴを含んだ偽善だから意味がないと。
でもそれは、肉体や知性のフィルターを通して見ているから仕方がないのであり、省察が済んだ人にとっては、それを超越した「光」が本体なので気にすることがないのです。

それでも、超越すれば本当に施しに向かうのか、疑問に思う方もいらっしゃることでしょう。
そこはこう考えればよいと思います。
本来人間は闘争的な存在ではありません。
原初の人間は仁愛に満ちていたと言われます。
それがいつの日か「知性の実」をかじってしまって利己と争いが生じました。
ということは、その表れである「悪・小善」を超越すれば原初の状態を取り戻せるということです。

神仏の光を受けていると知ることを「幸福」と呼ぶとします。
あくまでも先に「幸福」があって、結果的に「施し」があるのです。
「施し」は結果なのです。
ただ「施し」をすれば「幸福」になるわけではありません。
「省察」が肝心、いや、すべてとも言えます。
(親鸞聖人はこの省察を『回心』と言っているようです)
「お念仏というのは、つまり自分が自分に対話する道」〔法語カレンダー2020年4月〕
ただ唱えることが念仏ではありません。
省察(回心)の結果として口から「南無阿弥陀仏」が出るのです。

今回はなんだか過去に言ったことの蒸し返しのようになってしまいましたが、はじめはこの続きを予定していて、数年前に読んだ『公開霊言 親鸞よ「悪人こそ救われる」は本当か(大川隆法)』について、決定的なことを言うつもりでした。
しかし、長くなるのと、今回の内容との関係が複雑に入り組んで支離滅裂になってしまうので、次回以降にしようと思いました。

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