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コーランについて(再) [霊的存在]

4年前に読み始めた『コーラン(上)』〔岩波文庫〕は、内容に変化がなく一本調子なので、途中でやめてしまいました。
今回、途中からまた読んでみて、「やはりそうか」と確信することがあったので、お伝えしたいと思ったのです。
少し長くなりますが、お付き合いください。

大まかに言えば、コーランもマホメットも突如として現れたのではなく、それまでのものが所どころ腐ってきたため、それらを刷新するべく、現れるべくして、現れたということです。
まずこの部分を見てください。
【引用➊】
アッラーから聖典ばかりか、(並外れた)判断力と予言能力とを授けて戴いておきながら、(知らん顔して)人々に「おいみんな、アッラーではなくてこのわしをあがめまつれ」などと言うのは人間としてあるまじきこと。(そういう特別の恩恵を受けた人は)みんなに聖典を教え、また自分でもよく勉強して偉い先生にこそなるべきではないか。(アッラーは)汝らに、天使や予言者を神様あつかいしろなどと御命じになりはせぬ。せっかく汝らが立派な信者になったというのに、どうして今さら不信仰を命じたりなさるものか。
〔中略〕
さ、こう唱えるのだ、「汝らはアッラーを信じ、われらに啓示されたもの(『コーラン』)と、イブラーヒム(アブラハム)、イスマーイール、イスハーク(イサク)、ヤアクーブ(ヤコブ)、及び(イスラエルの十二)支族に啓示されたもの、またムーサー(モーセ)、イーサー(イエス)、ならびにすべての予言者に神様から下されたものを信じます。我らはこれらの人々の間に差別をつけませぬ。そして我らはみな(アッラー)に帰依し奉ります」と。
 絶対帰依以外のものを宗教にしたいと思うようなものは、全然受け容れては戴けまいぞ。
〔以下略〕【終】

どうでしょうか。
天使や予言者を神様扱いするというのは、明らかに一部のキリスト教信者を指しているように思えます。
キリスト教徒の一派は、この当時からイエスを神扱いしていたようです。
また、それが今も続いているというのは恐ろしいことです。
上述の個所からもわかるように、『コーラン』はけっしてそれまでのものを否定しているわけではなく、盲信を排して本来の方向に修正しているのです。
絶対帰依以外のものを神扱いしないというのは、今のスピリチュアリズムにも通じます。
このように、人間を神扱いしない、偶像崇拝しないというのは、今もイスラム教の健全なところですが、残念ながら「原理主義」だけは他の伝統宗教と同じく生まれてしまいました。
つまり聖典(の内容)を「聖遺物」のように扱うことです。(聖典に記述がないものは「否定」するとか、一字一句抜いたり付け足したりしてはいけないとか、暗唱できなければ殺すとか・・・)
聖典はあくまで人間の言葉で表現された神のメッセージです。
年月が経っても形骸化しないためには、本質を捉えるという活動(省察)が不可欠なのです。
結局は本人次第なのですが。

次に、この個所について。
【引用❷】
 こう言うがよい、アッラーの御言葉に嘘いつわりはない。されば、汝らイブラーヒ-ム(アブラハム)の信仰に従えよ。彼こそは純正なる信仰の人だった。偶像崇拝のやからではなかった。
人々のために建てられた最初の聖殿はバッカ(メッカの異名)にあるあれだ。生きとし生けるものの祝福の場所として、また導きとして(建てられた)もの。その内部には数々の明白な御徴がある―(たとえば)イブラーヒム御立処など(メッカ神殿は回教の伝承によるとアブラハムがイスマイルとともに建てたもので、建築の最中に彼が立っていた石は「アブラハムの足跡」を今日まで残している。これを「アブラハム御立処」と言って回教徒は神聖視する)。そして誰でも(罪人でも)いったんこの(聖域)に踏み込んでしまえば絶対安全が保障される。そして誰でもここまで旅してくる能力がある限り、この聖殿に巡礼することは、人間としてアッラーに対する(神聖な)義務であるぞ。といっても信仰なきやからは(この義務を果たしはしなかろうけれど)、元来アッラーは完全自足、誰からも何もしてもらう必要はない。【終】

ここではっきりわかると思いますが、とにかく『偶像崇拝』を道から逸れる要因や証しとして非難しています。
偶像崇拝しないアブラハムの信仰を見習うよう強く言っています。
(アブラハムを崇めるのではありません)
話が飛躍しますが、人間を神扱いするとどういうことになるか。
以前も言ったとように、生前、神だと祭り上げたイエスが、磔刑で処されると、周りから「神が殺されるわけがない」と言われて、手のひらを反すように信仰を捨てたり、「身代わりに死んだんだ」という苦し紛れの合理化を図ったりします。
またそれに便乗して、どんな悪行を働いても身代わりになってくれるからと、やりたい放題やったり、それを商売にした免罪符が現れたりと、とにかく道からかけ離れていくわけです。

神には、あくまで道を与えてくれたことに感謝するのが本当であり、けっして媚びる対象ではないのです。
順番を間違えてはいけないのであって、どの宗教においても、巡礼や参拝という形で神仏に報恩感謝するだけです。
それから、上記の「罪人でも絶対安全が保障される」というのは、前々回の悪人正機や弥陀の誓願に通じるものがあります。
カルマを肩代わりしてくれるのではなく、道の人になるのです。

その他、こういう個所もあります。
【引用❸】
彼らにしても全部が全部同じなのではない。啓典の民(ユダヤ教徒、キリスト教徒)の中にもまっとうなものもあって、跪拝をしながらアッラーの神兆(啓示された聖典)を一晩中読み続けておる。【終】

キリがないのでやめますが、異教徒であっても本流を貫く者は認め、様式はそれぞれそのままにして、盲信だけを排しています。

そんな中、今も本流を貫いているキリスト教の団体もあります。
検索していたら、素晴らしく公正で健全な集団が見つかりました。
【春風学寮】はその一つでしょう。
【引用①】
聖書に書いてあることのすべてを事実として鵜呑みにしてはいけないし、かと言ってそのすべてを作り話として切り捨てることも許されない。厳しい疑いの目をもって作り話を見分けつつ、否定しきれない部分を受け入れながら読む必要があるのである。
【引用②】
君たちにイエスへの信仰を強要することなど絶対にない。信仰をもってもらいたいと思ってはいるが、別に信仰を持たなくたってかまわないと考えている。では寮が君たちに望むことは何か。聖書を学び、イエスについて学ぶこと、ただそれだけである。イエスについて学べば、自然にイエスを信じたい気持ちが生まれてくる。たとえそのような気持ちが生まれなかったとしても、イエスの永遠の命は自然に伝わってくる。おおらか愛と清らかな義いう形で伝わってくるのである。イエスについて学び、イエスからおおらかで清らかな愛を受けること、これこそこの寮が君たちに最も望むことであり、この寮のよって立つところである。ぜひとも聖書を学び、イエスについて学び、イエスから愛と義を受け取っていただきたい。それは将来君たちにとって途方もない精神的財産となるはずだ。【終】

どうでしょうか。
けっして盲信に陥らないように、理性を保って本質を見るべく聖人の言葉に接する姿勢を伝授しています。
本当はもっといろいろあって、自然科学との融合にも触れているのですが、長いので一部だけ抜粋させていただきました。
結局『コーラン』も本来このような役目を果たしていたのでしょう。
どうやらこうして、本流を貫くものと、本流から逸れて形骸化するものとに分かれていったようです。

つい先日、例の友人から電話がありました。
ほとんどが世間話で、今回のコロナ騒動で給付金や運転免許更新がスムーズにいかずに、結局国民にしわ寄せが来るこの国がどうこうと話しているとき、友人が思いついたように、
「だから、ずる賢く生きろって、聖書に書いてあるんだよ」
と言いました。
私は、
「あれっ?聖書にそんな俗的な処世術が書いてあるなんて変だな」
「そういえば、蛇の賢さがどうとかあったような・・・」
と思って、あとで調べてみました。
どうやら、『マタイ10:16』
〈いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい 〉
のことを言っているようです。
そして、「ずる賢く」というのが、「蛇のように賢く」に対する誤解から来ていることがわかりました。
【引用】
動物は道徳的な存在ではないことを理解しましょう。
「蛇のように賢く」という言葉に抵抗感を覚えるというのは、理解できます。しかしこれは、比喩的言葉を誤解した結果生まれてくる感情です。
そもそも動物は道徳的な存在ではないので、罪を犯すことができません。
イエスが蛇と鳩を直喩として用いているのは、格言として蛇は賢い動物、鳩は素直な動物という理解が定着していたからです。
直喩として用いられているのは、蛇の悪名高い歴史や狡猾な性質ではなく、賢いという積極的な性質だけです。
同じことが、鳩の素直さについても言えます。
賢さと素直さが調和をもって同居している人物は、主イエス御自身です。
弟子たちは、主イエスの姿に倣いながら、伝道に出て行くように命じられたのです。【終】

これでおわかりだと思います。
どこの教会で教わったか知りませんが、「賢さ=狡猾」とする完全な言葉の履き違えですね。
あくまでも「伝道」において、世間は狼で私たちは羊だということです。
無力な羊は伝道する際に「賢さと素直さ」が必要だと言っているのです。
とても今回の電話での話題に当てはまることではありません。
もちろん私はその時、盲信がそう言わしめていることはわかっていましたが、友人には何も言いませんでした。

どういう意味かと本質を見ることを抜きに鵜呑みにすること、「聖書に書いてあるから(書いてないから)」という思考回路がいかに危ういものかをつくづく感じます。
上記のように、神仏から与えられた人智を通して、愛と義を得ることが「道」だと言えます。

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