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神盲信者 [霊的存在]

町を歩いたり、TVの報道を見たり、ネットの投稿に参加したりして、やはり気になるのです。
もうウンザリでしょうけれど、民主主義病による悪平等、それに思考停止による盲信です。

間隔が空いてしまったので、とりあえず今回はある哲学のネットでの投稿に対して、少し述べさせていただきたいと思います。
それは「神の存在」についてです。

既述のように、私は神仏に対しては「信じる」という言葉を使いません。
「あの人を信じる」と言うときのように、「信じる」という言葉は、思考や行動を託すわけですから、必ずどこかに「疑い」が残ります。
つまり、「賭け」や「願望」の域を超えません。
悪い言い方をすれば、「信じているフリ」をしているのです。
「神を信じる」と言った場合、元手は要りませんが、賭け事の決着は永久に得られないでしょう。
しかも、先に言っておくと、その場合、「ご利益」はありません。
神(仏)に対しては「神人合一」という理性による体得(深信)がすべてであり、それ以外の「神の存在」の論争は平和を遠ざけるだけです。

私がそういうことを書き込んだら、ある人が、
「神の存在を『本当に信じている』人が結構いるようですよ」
と半ば挑発するように返したのです。

どうやら、特定の宗教や宗派の教えのだけを盲信する人のほかに、「神や仏の存在」を盲信する人、神盲信者(私が咄嗟に思いついた用語です)がたくさんいるようです。
彼らは神というものをどんな状態で存在していると思っているのでしょうか?
もしや、人間の姿をしてどこか遠くに住んでいるとでも思っているのでしょうか。

もし神がそういう存在ならば、それを証明するには、ひょっこり出て来ていただくほかはないのですし、その手の無神論者の立場は半永久的に安泰でしょう。
それに、万が一その手の存在がひょっこり現れて、魔法使いのように、「光あれ!」とか言ってすべてを想像したことを証明して見せたとしても、私はその存在を「神」とは呼びません。

少なくとも古今東西の聖人が神(仏)のメッセージを人々に伝えるというときの「神(仏)」とはそういう存在ではありません。
超能力者ではありません。
我々人間を含めて、森羅万象の「本源」です。
我々を集合に譬えれば、内包かつ外延です。
「分霊」に対する究極の「集合霊」とも言えます。

「信じる」ではなく、「存在を知る」とか「繋がる」と言ったほうがいいでしょう。
中には、神は「ある」、仏は「なる」というように分ける人がいますが、神も仏も本源であり、道の目標は「神人合一」ですから、同じことです。

なので、「神(仏)」と呼ばなくてもよいのです。
不都合や混乱を避けるには、むしろ「神(仏)」と呼ばないほうがよいでしょう。

ともあれ、彼ら神盲信者たちは、神は「いるかいないかのどちらか」なのだから、損はないのでとりあえず「いる方」に賭けているのであり、祭られている神の化身を拝んで、教会や寺の聖職者の言うことを聞き、聖典や仏典に掛かれていることを鵜呑みにして鸚鵡返しをしていれば救われるはずだ、広い意味での「ご利益」が受けられると、「確信」しているにすぎないのです。
ところが、この確信はこの世的な地上の計らいの上での確信であり、神の存在を確信しているわけではありません。
彼らは神の存在に対しては相変わらずどこかに「疑い」を持っています。
なぜなら所詮は「賭け事」なのですから。
それでも、その賭けが当たっているか否かが自分にはわからなくとも、どちらかに決まっているのだから、もし当たっているなら、間違いなく「ご利益」を受けるのだから、それでもいいと思っているのです。
現代人が会ったこともないのに存在を信じるわけがないのですが、信じる気になるというのは、「ご利益」を期待しているからです。
彼らは「外からの光」を受けることのみを期待しています。

もっとも、大衆の神仏に対する接し方を見れば致し方ありません。
初参りのことを思い浮かべていただきたいのです。
唯物論者であろうと、無神論者であろうと、ただ何となく神社にお参りに行って賽銭を投げていないでしょうか?
賭け事の元手は賽銭だけです。
神盲信者の在り方は、ちょうど大衆が願い事を叶えてくれるように拝むときの心構えのようなものです。
それを言ったら私も大きなことは言えないのですが、本来は、神に対しては感謝するものであり、けっして媚びるものではありません。

世の中には、宗教盲信者と神盲信者がいます。
両方の盲信者もいます。
いずれにせよ、それでは神と繋がりません。
同時に「内なる光」を自らが発信しなければ、神と繋がりません。
「内なる光」、それは「霊の窓」を開くことにほかなりません。
宗教盲信者に残っている「戒禁取」が消えない限り「霊の窓」は開きません。
神盲信者に残っている「疑い」が晴れない限り「霊の窓」は開きません。
唯物論者に残っている「有身見」が消えない限り「霊の窓」は開きません。
「霊の窓」を開くことではじめて、「外からの光」または「上からの光」を受けることができるのです。
そのための省察があり、霊的自覚、中庸、利他業などの活動、スピリットヒーリングの手助け、等々があるのです。

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