SSブログ

たんぴん族 [中庸]

近頃中国で『たんぴん族(躺平族)』が問題になっていますが、これは資本主義および民主主義の一つ末路でしょう。
これは日本にも他の国にも当てはまると思います。
努力しても無駄だと悟ってしまって、やる気が出ずに寝そべっているわけです。
まさに、易で言う「(天山)遯」の世にあると言えます。
賢人たちが隠遁するほど、どうにもならない世になっていることを言います。

下剋上がないというのは本来決して悪いことではなく、無益な競争がないという点でむしろ健全です。
ただしそれは、「庶民が生活に困らない」というのが必須条件です。
しかし、あいにく、「たんぴん族」はその水準に達していません。
日本の場合もだいたい同じですから、庶民は自分のことに置き換えればわかると思います。

それに対して政府は、何ら対策を打たねばならないと言って、老若男女問わず全員に雇用の機会を与えるなど経済活性化を図ります。
しかしこれは国の経済力を保持するためであり、すなわちそれは一部の政財界の人たちのためであり、けっして個人の生活や尊厳を思って計らうものではありません。
「まずは国が守られて、それで庶民も」と国家の義を唱える人もいるかと思いますが、庶民は潤いません。
なぜなら、そうやって大勢の庶民が身を削って努力して働けば働くほど、利益は支配者層に回る仕組みになっており、庶民は相対的にますます貧しくなるばかりだからです。
しかも働く人口が増えるほど一人当たりの取り分の価値がなくなります。
そうやって、過労、貧困、少子化などを招いたのですから。

それでも、「勤勉は善・怠惰は悪」の刷り込みを刺激し、「競争に勝てば高い水準の生活が約束される」というエサで釣っていたわけですが、冷静に考える人たちはみなで首を絞め合うだけだとわかり、一部の「模範囚」以外はその手に乗らなくなったのです。
その点からすれば、「たんぴん族」はむしろ「賢人」に値します。

日本もそうですし、もしかすると他もそうかもしれません。
少なくともここ20〜30年の日本はとんでもない思考法が蔓延しています。
*社会に出て働くことは素晴らしいことだ。(社会に出られないということは虐げられているということだ)
⁑どんな環境でも順応しなくてはならない。(この集団はみな伝染病に感染している。だから、あなたも伝染病に感染しなければならない)
⁂プライドは余計なものだ、あってはならない。(言い訳をしてはいけない、〇〇偽装してでも、知ったかぶりをしてでも、顧客から信用を得て成功するんだ、魂を売れ!)

幸福とは、自分の根っ子(基準)を持つこと、すなわち「精神的な貴族」〔オルテガ〕でいることです。(私の場合は「ニコヨン貴族」ですが)

そもそも資本主義における支配者たちは、各々自分が潤えばいいわけですから、どんな状況下でも労働者を、
『生かさず殺さず』
の状態にしておくことが基本です。
(昔、動物を擬人化したアメリカのアニメで露骨にそれを表現していたのを覚えています)
また支配者層はそうして得た利益を確保するために、政界と持ちつ持たれつの関係をつくります。
なので、国民総活躍は「ワークシェアリング」というあくまで支配者側の論理で終わるのです。

そんなことを言うと、
「社会主義や共産主義への回帰にすぎない」
とか、
「他に建設的な方策を提案してから言え、でなければ単なる逃避だ」
など言う人たちが現れますが、それは地上的な損得や善悪という「感覚」を一方的に追う人たちの言うことであって、そういう大衆を満足させる方策など一切ありません。
大衆は夏になれば冬を恋しがり、冬になれば夏を恋しがるだけです。
民が主導の今の民主主義は、蚊に刺されたときに、掻いて胡麻化しているだけで、「仕方なく掻いている」と思わなければ、ますます悪化するだけです。〔★〕
「掻いて胡麻化しているだけ」という自覚が肝心であって、自覚があればひとまず健全であり、それ以上の悪化を止められます。〔※〕
地上の闇の方を認めず、聞こえの良い地上的感覚的な善をのみ盲目的に追及するならば、さらに人間を蝕むことになります。
「仕方なく」を自覚せず「良くなる」と思って盲目的に感覚を追う「民が主導の民主主義」は成熟しません。

★「SDGsは『大衆のアヘン』である!」『人新世の「資本論」』〔斎藤幸平〕
斎藤氏は、各国政府や企業が推進するSDGs(持続可能な開発目標)は、環境危機から目をそらさせるための免罪符だと言います。
※チャーチル曰く、「民主制は最悪の政治制度だ。ただしほかの政治制度を除けば」
つまり、仕方なく民主制にしているということであり、その自覚が肝心なのです。

スピリチュアリズムからすれば、人々が損得に終始しない、人々に貪欲(強欲)を増幅させない状態にすることです。
そのためには、民が霊的に成熟する必要があります。
難しいことですがそれが条件です。
そのうえで指導者が擁立されることが望まれます。
そうして地上の直線を超越(止揚)し、芸術など文化を嗜み、義に生き、霊的に生きるだけの物質的余裕を与える政策が生まれるでしょう。
(すべての地上の陰陽・善悪を外側から意識で感覚的に抑えるのではなく、内側から省察で推進力を減退させるのです)

では、今地上を賑わせている『タリバン』はどうでしょう?
シャリア(イスラム法)に則った「持続可能な繁栄と平和」を約束しています。
民主政権に慣れた人、特に民主主義病に罹った人には「狂気の沙汰」だと思われるでしょうけど、日本に比べればむしろ「神の心」を反映しているように私には見えます。(詳しい説明は、過去に記したので省きます)
少なくとも私が今、世界中の人たちに願うことは、一方的に肯定したり否定したりすることなく、彼らを「理解」することです。

現状の「たんぴん族」は物質的条件が厳しすぎて、考える「暇」はあっても積極的には義に生きる「余裕」はありません。
かくいう私も「たんぴん族」と大差はないのであって、考える暇は(強制的に)与えられていますが、母親の介護と金銭的制約のため、積極的に義に生きるだけの肉体的自由はありません。

上述のように何々主義というのはあくまで地上における方便であって、特定の主義が絶対的に良いということはありませんが、「社会」なのですから、そして、人間は社会的な生き物なのですから、聖書の『ブドウ園の話』のように「生活に困らないこと」を前提に為政者が計らう国が健全な国家と言えます。

余談ですが、昔話の『三年寝太郎』をご存じかと思います。
始めのうちは、ただ懸命になって田畑の仕事をしていましたが、いくら頑張っても原理的に無駄だとわかってしまい、毎日家に籠って寝るだけになったわけです。
でも、実は寝ながらも良いアイデアが浮かぶまで考えていたのです。
「勤勉を善とし、怠惰を悪とする」という地上の道徳を刷り込まれた日本人は、つい「効果がないことであっても、勤勉を通すこと」を美徳として推奨し、「無駄だからと言って怠けること」を酷く諫める傾向があります。
この昔話では、周りの者たちが「こんな怠け者はいてはいけない」と、寝太郎を殺そうとしたくらいです。

しかし、地上の道徳というものは、社会の秩序を保つための「仮の法」であって、執着すると自分や周りの人をただ地獄に追い込むだけだと、寝太郎は気づいたのでしょう。
「たんぴん族」は果たして寝太郎のように、大きな石を山の上から転がして川の流れを変えるでしょうか?

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。