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悪平等2⃣(人種差別) [中庸]

よくネットに投稿される懐かしい広告ですけれど。
反応はというと、決まって、
「クレームがついて見られなくなった」
と言って、惜しがることです。
クレームに反応する方もどうかと思いますが。
そこで私もコメントしました。
karupisu1.png
I:このポスターが好きで骨董屋で買いました。これはコピーですが、本物なら17万くらいするとのこと。

M:いいデザインだったのに。人種差別とかに結びつけること自体がおかしい。

【私】:もしこれが白人だったら人種差別にならないんですかね?
初めから黒人は蔑視や迫害の対象と一部の人たちが決め付けているみたいですね。
黒人を言葉や絵で「表現」するだけで「蔑視・迫害」していると言うんですかね?
それこそ蔑視ですが、日本ではそれで利害損得が生まれるわけではありませんし。
ともあれ問題にしなくていいことは問題にしないに限ります。

O:当人が不快(*)と言うなら即刻やめるべきだけど、文句言ってきたのは関係ないプロクレイマー(⁂)ですよね?

(*)「当人が不快」…これは物質的に利害が及ぶ場合にあります。
かつての日本の「トルコ風呂」がそうで、「そんなものではない」と、トルコ人が訴えて変えたと記憶しています。
(⁂)「プロクレイマー」にひと言、即刻辞めていただきたい。
それでどれだけ収入を得ているか知りませんが、特定の立場の人の自己保身を煽り、思慮の浅い大衆を惑わせて、社会を混乱させるだけですから。(霊的不正です)

近頃は利害が絡んで問題になった「迫害」を、問題にしなくていい個人の「蔑視」にも当てて、「差別」という言葉に置き換えて、誰々が「差別発言をした」などとマスゴミが問題にして世間を賑わせています。
是非やめていただきたいと思います。
でないと、かつてあった「必要な差別」や「問題にしなくていい差別」また、芥川作品にもある(差異や区別と同義の)「差別」が認められなくなり、「言葉狩り」などの非公認警察が平等ウィルスをいつまでもばら撒くことになるからです。

差別(本来は区別、差異と同意)というのは、人が対象の場合は、悪い思いをする側だけでなく、必ずいい思いをする側が伴います。(どちら側にとっても都合がいい場合もあります。トイレはもちろん、女性専用車両等も)
アメリカにおける黒人差別でさえ、白人から黒人が冷遇(迫害)されるというだけではなく、仲間の白人が(広い意味で)優遇されることを意味します。(権限を握っているとか多数派だとかの理由で、白人が物質的にだけでなく、優越感に浸るとか、憂さを晴らすとか)
日本における在日韓国人なども同じことが言えます。【※】
逆に韓国における日本人もそうです。
かつての男社会(*)というより「男性組織」における女性もそうです。
*男社会と言った場合、男女どちら側にも都合がいいという見方もできます。
(既述のように、そもそも「社会」とは生得の資質からして男が作るものであり、能力の違いではなく資質〈陰と陽〉に則した役割分担の意味があるからです。今の女性の社会進出も、女性が自発的に言い出したのではなく、一部の男が決めたのです。だいいち社会に出て働くことがそんなに素晴らしいのでしょうか?)

【※】実は私は小学生の頃に、近所に住んでいた在日韓国人の女の子(1歳か2歳下)を侮蔑して罵ったことがあります。
「やいっ、朝鮮人!」
女の子は黙っていたので、
「日本語しゃべれるのかよ」
女の子は、揶揄われることに慣れているかのように、
「しゃべれるよっ」
とすました顔で言って、何事もなく終わりました。

みなさんどうでしょう?
これって「人種差別」でしょうか?

もちろん、その家族も以前から住んでいました。もっと幼少の頃からお互い知っていて、特に何事もありませんでした。
私は高学年になるにつれて、変な知識が身について、自我や自尊心が芽生えたことで、どうしようもない悪ガキになったということです。
その女の子が一緒の学校ではなく、韓国の学校に通っていたからかもしれません。
その時の私の心境はと言うと、ただ《優越感》に浸りたいというだけでした。

日本人が統治する日本の中で、多数派に属する私は、世間で少数派の在日韓国人が冷遇されているのを知り、面白がって軽い気持ちで言ってしまったのですが、なにせ子供ですし、何の権限もありませんし、利害損得は生まれず、誰も問題にしません。
それに、なにかその子の親も、そういう時は気にしないように躾ている感じがしました。

(そのことがあったからかどうかはわかりませんが、数年後には女の子やその家族は引っ越したようで、見なくなりました。その時は私もさすがに胸が痛みました)

ともあれ差別は、物質的または心情的に、必ず都合のいい側が存在するからあるのです。

良い側に焦点を当てた例としては、「商品を差別化する」という場合の「差別」です。
この積極的な「差別」によって、消費が促され、利益を受けるのです。(もちろん、光と闇があり、競争相手は相対的に不利益を被ります)
消極的な言い方ですが、「無差別殺人」もそうです。(恨みを買う覚えのない貴方は犯人に「差別」してほしくないですか?)
それから、柔道などの格闘技には「無差別級」があります。
ということは、それ以外の級に分けることはその否定ですから、言葉には表しませんが、「差別」です。
その差別は、純粋な意味ではむしろ公正であり、多数の競技者たちや視聴者など周りの人たちにとって有難いから行われるわけです。

★なにか「差別」に勝手に特別な意味を持たせて騒ぎ立てる視野の狭い人たちがいますが、どんなに言い張っても、これらはれっきとした「差別」という日本語の使い方なのです。
言葉に惑わされている偏狭な人は、まずそれを改めてください。

もちろん、ある人たち(特に多数派)が都合がいいからと言って、その差別を押し進めるのを放っておくというのは、社会全体から言えば健全であるわけがありません。
逆に、ある人たち(特に少数派)が都合が悪いからと言って、その差別を徹底して排除する運動を扇動するというのも、社会世全体から言えば病的です。
地上の善悪とは、社会の秩序を保つためのあくまで「仮の通念」です。
そのため、地上の〈善〉を一方的に押し進めるのは、「感覚」を追うだけの民主主義病であって、人々の霊的進化には良くありません。
大切なことは、盲目的に感覚を追うことなく、真の意味で「足ること」を知ったうえで、《落とし所》というものを見据えることです。

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