SSブログ

実在論 [霊的存在]

ご無沙汰です。
この1か月はやはり失望の連続でした。
言うのも飽きましたが、私から見ると、世間は概して「地上的」です。
みなさんも聞くのを飽きたでしょう。
ただ、その元凶がここで再三取り上げている「唯物論」ではなく、むしろその根底にある「実在論」だと思うに至ったので発信することにしました。
長くなりますが、お付き合いください。(一気に行きます)

いま一度立ち返ってみます。

「世界とは自分の世界である」
「魂は肉体という牢獄に閉じ込められている」

というように、人は自分の身体までが味方であり、そのすぐ外側は異物か敵であり、その外側は手の届かないものや縁の無いものとして我の世界を形成しています。
つまり、自分の視点から見て、身近なものから宇宙の果てまで「自分」だと言えます。
そして、他の視点からの存在は「語り得ぬこと」です。(知り得ないのではありません)
たとえば1個のリンゴを持ってきてください。
それは誰にとっても存在する「絶対的な存在」すなわち「実在」だと人は言うでしょう。
色や形、手触りや匂いまでも同じ表現をするでしょう。
赤い、円い、固い、甘いなどと。
しかし、他の人がどう感じているかは「語り得ぬこと」です。
存在はあくまで自分にとっての存在であって、共有するものは何もないのですが、万人の指し示すものが同じであればそれを「絶対的に存在するもの=実在」と言っているだけです。
実在は人間の迷いの象徴すなわち「顛倒妄想」です。
もっとも、実在はがあってはじめて社会が成り立つのであり、顛倒妄想は顛倒妄想として、語り得ぬことを語って人間は社会生活をしてわけですから、あってはならないとは言いません。
ただ、それを省察しないと、思考のすべてが「実在」から出発してしまい、
「みんなが存在すると言っているのだから、『存在しない』と言うのは間違いだ(感知しないだけだ)」
「みんなが存在しないと言っているのだから、『存在する』と言うのは間違いだ(気がおかしい)」
と言う「誤謬」を犯してしまうことになります。
ひとつ考えてみてください。
生まれながらの盲人1人が「色は存在しない」と言ったとしたら、あなたはそれに対して「間違いだ」と言えるでしょうか?
ならばもし、その盲人が1000人の集団だとしたら、あなたは「それは間違いだ」と言う気になるでしょうか?

最近、ネットの書き込みを見ると、どうしても、霊や神の存在を否定したり肯定したりと、永遠に論争している様子が窺えます。
ここでも、一面的な実在論(観念論も同じ穴の狢)が蔓延っていて、普遍論争が終焉していません。
唯物論者はもとより、霊や神の存在を肯定する人たちでさえも、少なくとも9割以上が「実在論」に陥っているのです。

霊的自覚によって「霊」の存在を知ることができます。
そして皆が「霊」だとすれば、その集合体あるいは本源があるはずであり、それを「神(仏)」と呼んでいるだけです。(べつに呼ばなくてもいいのですけど)

常に知と信が一体の東洋の道の人に、「神はどこにいるか?」と聞けば、自分の胸を指して「ここにいる」と言いますが、それは万人が共有するもの(光・愛)であり、同時に万人を包括する全体でもあります。
誰もがここで止めておけば、争いは起こらないものを、普遍論争を終結しない実在論者、あるいは特定の宗教から信仰を始めた人たちは、霊や神を「外部」に置いてしまうのです。
これが厄介なことで、どこかの空間に絶対的に存在するものすなわち「実在」という顛倒妄想が人間の迷いを深めてしまいます。
「実在」があってはいけないと言っているのではありません。
もちろん、実在があるからこそ人間が社会生活ができるわけで、顛倒妄想としてあってよいのですが、それを省察しない人が多数派を占めているというのが現実です。
それで霊や神の存在について永久に論争することになるのです。

ある人が哲学のネットで問題を投げかけていました。(すぐ消されたようですが)
「他人が何を思っているか、どう感じているか、何を見ているか、それは永久にわからないというのが哲学に基本だけれども、このたびある研究者が、人が見ているものや、思い描いているだけのものをそのまま再生できる装置を開発した」
その実験の結果が載せてありました。
1つの画像を3人の被験者A,B,Cに見せて、脳の働きを分析して、どう見えているのかをその装置で再生した映像を提示していました。
3人ともほとんど同じ映像でした。
これは、人は誰でも色や形が同じに見えていることを証明しているということであって、哲学の進歩ではないかと問いかけていました。
みなさんどうでしょう?

結論から言うと、何も進歩はありません。
まず、その「再生された映像」を、A,B,C,各被験者がどう見ているかです。
この実験で高々言えることは、Aにとってみれば、あらかじめ見せられた映像(物体がなくて思い描いた映像であっても)と再生されたものが同じだというだけです。
Aにとって、BやCからどう見えているかは相変わらず語り得ぬことです。
BにとってもCにとっても同じことです。

「いや、第4者からすれば、3人の再生した映像が同じなのだから同じ(に見えている)ものだ」
という人もいるでしょうけど、ここでも高々言えることは、
「Aが指すものとBが指すものとCが指すもの(物体)」
が同じだということ、すなわち、社会生活において「共同作業をする上で同じもの」にすぎません。
これがいわゆる世間で言っている「存在の証明」です。
一般に、物の存在の証明は、同じものとして指すもの、言わば「社会的同一物」が必要ですが、各々がどう見えているかどう感じているかは相変わらず「語り得ぬこと」です。
たとえば、自分にとって「赤いもの」が他人にとって本当に「赤く見えるもの」なのか、何の保証もありません。
仮に全く違う色に見えたとしても(比べることそのものが無意味ですが)、他人に「赤いものを持ってきてくれ」と頼めばたいがい「赤いもの」を持ってきてくれます。
お互いに全く分からなくても、共同作業はできます。
つまり、共有するものは全くないのに、同じものの存在を証明してるつもりでいるのです。
このような地上の存在証明は、『実在論』という顛倒妄想の上で辛うじて成り立つものです。
なので、上の映像の実験では、「盲人」に対しては証明はできません。(『円いもの』だったら、ボールとか小銭を持ってくればよいのでとりあえず「存在証明」はできます)

ここでの誤謬は、「その人の視点からの存在」を、脳という客観的物質で説明しようとすることから発生するものです。
つまり、存在とは本来「その人にとっての存在」でしかないものを、「万人にとっての絶対的存在」すなわち「実在」という顛倒妄想で説明できると思い込む誤謬です。

脳の構造や機能は基本的には誰でも同じです。(1人の人間から見れば同じに見えます)
色や音に限ってみれば、同じ振動数のものを受信すれば、同じ振動数のものを再生します。(誰から見ても「同じ」と判断します)
これは精巧につくられたロボットに譬えればわかるでしょう。
果たしてロボットはみな、同じ色や音を感じているのでしょうか?(そもそも感じているのでしょうか?)
その人がどう見ているか、視点を超えて「同じ」とか「違う」とか問うこと自体が出来ない(語り得ぬこと)のです。

冷静に考えれば、この実験は、機械を通さなくても同じことだとわかります。
3人の被験者に、夕焼けの映像を見せて絵の具で再生させれば、同じような絵をかくでしょう。
あるいは、どんな色か答えさせれば、口をそろえて「aka」というでしょう。
それと同じレベルの実験です。
もし哲学の進歩を望むのなら、一人ひとりが修行を積んで、地上において他人の感覚を手に取るように感じるぐらいに霊的に進化するしかありません。

これを「霊や神の存在」に当てはめようとする人たちがいますが、外界の物質ではないので、あいにく同じものとして指すもの(社会的同一物)が地上にないので、地上の「存在の証明」とは無縁です。
「霊や神の存在」を認めている人たち同士でも、未だ普遍論争が終結しない実在論者でなければ、それは証明ではなく、それぞれが省察を通して覚るだけだと弁えています。
まして、「霊や神の存在」を否定する唯物論者に存在を証明するのは、それこそ盲人に「色」の存在を証明するようなものです。
実在論に陥っていない人たちは、ともあれ盲人にとって色が存在しないことは認めるでしょう。
実在論に陥っている人たちは、「誰にとってもあるかないかのどちらか」なので、盲人にとって色が存在しないことなど認めずに、「ただ見えないだけだ」というでしょう。
また、「言葉がある限り存在する」という中間的な人がいますが、その存在が絶対的でないことを願うだけです。

それを言っても、顛倒妄想を省察しない実在論者、特に唯物論者は、多数派であることも手伝って、
「物は存在するかしないかのどちらかなのだから、正しいか正しくないか、在るか無いか証明できるはずだ」
「証明できないのだから、霊とか神は脳が生んだ幻覚だ」
と言い張って、無明ぶりを露呈することでしょう。
さらには、
「神は、人を支配するために作ったものだ」
という偏狭な思考法で、争いの絶えない組織宗教を徹底的に攻撃します。
(たしかに、形骸化した地上の組織宗教はすべて失敗なのですが、その大本である聖人たちのあり方や活動までを一緒くたにしてしまいます)

それを言ったらすべての感覚は幻覚のはずなのに、実在論者は自分が感じるものは幻覚と言いません。
なぜなら、実在論者が感じるものはみな他の人と[物」を介して同じものとして共有できるからです。
円いものや赤いものはもちろん、痛みでさえも物を介して話が通じます。
本来は共有するものなど何もないのに、絶対的な存在を認めるのです。
それに対して、霊や神となると、指し示す共有の「物」がないため感覚の目では捉えることはできず、省察によって言わば魂の目でしかとらえることが出来ないので、少数派であることも手伝って、実在論者は「脳が生んだ幻覚だ」と言って片付けるのです。

では、実在論者に聞きます。
霊や神が幻覚だとすると、あなたの幻覚はなぜ他の人の幻覚にならないのでしょうか?
脳が作ったのなら、あなたの脳がなぜ他の人の脳になり得ないのでしょうか?

というように、いつまでもどこまでも「自分が自分でなければならない理由ないこと」が付いて回ります。
ある心理学者は、
「いや、記憶そのものがその人をその人たらしめているのだ」
と言うかもしれません。
あくまでも自我が生の経験によってあとから生まれるという「物質由来」を説きますが、それも同じことです。
自分の自我がなぜ自分なのでしょうか?
他人の自我がなぜ自分になり得ないのでしょうか?
「自分がどのようであるか(在り方)が神秘的なのではない。自分がいる(自分の視点がある、自分の世界がある)こと自体が神秘的なのだ」(ヴィットゲンシュタイン)

そもそも心理学は実在論を前提としていて、心の問題にもかかわらず、「物」で説明しようとする一つの自然科学だと言われます。
誰も共有しない「絶対的なもの(実在)」で、特定の人の意識(自我)を説明しようとするのは滑稽です。(「本当は」幻覚なのに、自分が在ると「思い込んでいる」、という具合に)
よく聞く【仮想現実】もそうですけれど、実在という(語り得ぬことを語って出来上がった)「顛倒妄想」を前提に(語り得る)「その人の世界」を肯定したり否定すること自体、『非意義的命題』であり、(論理的な間違いではなくて)論理の「使い方」の間違いなのです。

それに、記憶ということを持ち出すと、かえって実在論者は墓穴を掘ります。
人はみな5歳頃までは前世の記憶を持っていると言われ、中には、その正しい事実をペラペラしゃべりだす子供もいます。
また、退行催眠をすると、過去生ばかりでなく同時代に生きている縁のない人の記憶が出てくることもあります。
もちろんそれに対して、それらの事実を「遠隔操作」ということで否定する人がいますが、それは逆に意識が「肉体を超えたもの」と言っているようなもです。
そして、臨死体験をした人に至っては、「生かされていること」や「表現のしようがないけれど、人はみな繋がっていること」を覚ります。
これは何を意味しているかというと、一人ひとりが換えようのない「霊」であり、訳あって(霊的進化のため)その人の肉体をまとって、それぞれの世界(自分の世界)を築き、地上では物質以外に共有するものはないのですが、奥では繋がっていて大きな意識集合体を形成しているということにほかなりません。
ならば、霊的自覚を阻んでいるものは何か?
ひとえに「実在論」です。

*なお、ヴィットゲンシュタインの言う「語り得ぬことは沈黙しなければならない」というのは、「不可知論」ではありません。
不可知論というのは、実在論を前提としたもので、「感覚与件(物質)が正しく感覚に結びついているかどうかが不可知だ」というものです。
また、「世界とは自分の世界である」を「独我論」と誤解する人がいますが違います。
独我論は自分だけが存在して、他者の存在を「否定」するものです。
そうではなく、「自分以外の視点に立てない」ということであり、他者の視点を否定するのではなく、「語り得ることはともあれ語り得る」と言って、自分の世界を「内側から境界付ける」のです。(ヴィットゲンシュタインは心理学的なものには興味がありませんでした)


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。