SSブログ

アートマン [霊的存在]

諸行無常、諸法無我と言って、どうやら仏教関係者にも自分という存在は「実体」がないとする人たちがいるらしいのです。
いつか友人が寺で「霊なんかないんだ」と怒られたという話をしましたが、霊という用語が仏典にないだけなのか、それとも「無我」の解釈がそうなのか、私はどうも気になってしかたがありませんでした。
また、「自我は後から生まれる」とか「霊や神など人が作った幻想だ」と言い張る人たち〈TM族*〉がネットでも見られ、その人たちはもしやその手の仏教関係者なのかとも思ったので、さっそく「無我」について調べてみました。

【引用】(Wikipedia)
釈迦が教えを説いた当時のインドでは、バラモン教(ヒンドゥー教)の哲学者たちは、我の実在の有無を始めとする形而上学的な論争をしていた[5]。
初期仏教においては、物事は互いの条件付けによって成立し存在し(縁起)、無常であり変化し続けるため、「われ」「わがもの」などと考えて固執(我執)してはならず、我執を打破して真実のアートマン、真実の自己を実現すべきとして、「我でない」(非我)と主張された[6]。
これは、「我がない」「主体がない」「霊魂がない」ということではなく、「アートマン」「我」「真実の我の姿」「私のもの」という観念が否定的に説かれたと考えられている[6][5]。

しかし、その後「我がない」(無我)という解釈に発展し、人無我と法無我の二つが考えられた[7]。人無我とは、人間という存在(有情、衆生)は五蘊が仮に和合した無常なるものに他ならないから、恒常不滅なる自我の存在、実体的な生命の主体というようなものは無いということ[4][7]。
法無我とは、あらゆるものは縁起・因縁によって仮に成り立っているものであるから、そのものに恒常不滅なる本体、本来的に固有な独自の本性(自性)はないということである[4][7]。
これは大乗仏教にも受け継がれて、般若思想では「無我」は「空」と表現された[7]。

ヒンドゥー教では永遠不滅・独立自存の個我、個人の本体としてのアートマンの存在を信じ、これを輪廻の主体と考える[8]。
ここで言うアートマンは、単なる個人の我としての「自我」ではなく、世界に対峙する個人の我としてのアートマンであり、よって個我と訳される[9]。
無我という言葉はウパニシャッドの atman(Sk.語 アートマン)に否定の接頭辞 an- を付けたもので、アートマンの否定の形になっているが、釈迦はウパニシャッドの形而上学的な梵我一如思想に対抗して無我(非我)を説いたのではないと考えられており、釈迦の無我説はアンチ・アートマン思想ではない[10]。
仏教では、個我を個我たらしめる要素としてのアートマンの実在を、縁起の道理によって否定し、輪廻から解放される解脱への道を示した[8][11]。
中村元は、初期仏教では実体としてのアートマンは認めなかったが、倫理的実践的な意味におけるアートマンはむしろ認めていたと述べている[12]。

輪廻の主体については、ヒンズー教、ジャイナ教、無我を主張する仏教では見解が異なっているが、しかし仏教を含むこれら3つの宗教は共に生まれ変わりを信じており、以前のインド哲学の物質主義派とは違って、道徳的責任をさまざまな方法で強調している。
インド哲学での唯物論者(たとえば順世派)は、死が終わりであるとするため終末論者と呼ばれ、死後の世界、魂、再生、カルマなどはなく、死とは生き物が完全に消滅して霧散した状態であるとしていた(断見)。

釈迦は、再生とカルマを否定した唯物論的・断滅論的な見解を批判している。
釈迦は、そのような信念は道徳的無責任と物質的快楽主義を奨励しているから、不適切で危険だという。
アナッター(無我)とは、死後の世界、再生、カルマの異熟がないことを意味するものではないから、釈迦は断滅論者とは対照的である。
しかし、釈迦はまた、それぞれの人間の中には、不滅で永遠の精神的実体(アートマン)が存在するとし、この精神的実体は生物・存在・形而上学的現実の性質の一部であるとする(常見)ことで、道徳的責任を支持する他のインドの宗教とも対照的である。
【終】

【引用】(『神秘のあんみん』さんより)
それは、肉体にある間の肉体に起因する感覚や感情、認識は、肉体にプログラムされたものから生じているので、本来の私たちの意識とは違い、架空のものだという事です。
それに心の働きや心についてもやはり肉体に囚われているという意味での錯覚に起因しているので、やはり幻想であるという事なのだと思います。
だから、最初の「色蘊(しきうん)」とは、肉体や、その他の物質のことなので、当然実体のない「空」ですが、さらに「受蘊(じゅうん)」感情と「想蘊(そううん)」認識や思考は、肉体に起因するボディマインドの事でこれも本来「無」であるという事です。
そして、「行蘊(ぎょううん)」心の働き「識蘊(しきうん)」心そのものも、囚われたマインドにつながっているので、やはりこれも本来「無」であるという事です。
しかし、これに対して絶対的な意識というものが存在する事もまた真実だという事です。それが私が言ってきた「絶対意識」だという事です。
もちろん仏教の解脱というのは、その絶対意識として覚醒する事と同じ意味だというわけです。
【終】

いわゆる『霊』とは、アートマンのことです。
(仏教では阿頼耶識に相当します)
永遠不滅の実体(絶対意識)であって、生成も消滅もしません。

この時点で、霊や神を脳由来で(あってもなくても)、「生後何年か経ってから生まれる人が作った幻想」として実体を認めない人たち〈TM族〉の言うことは「間違い」となります。
彼ら〈TM族〉の言う自我とは、よく話を聞いてみると、どうやら地上道徳的または心理学的な意味での《己が己であること、他者ではないこと、の自覚》にすぎないようです。
学校の社会科や道徳の時間に出てくるいわゆる反抗期のような「自我の目覚め」のことでしょうか。(なんだ、そんなレベルかと、がっがりしました)
それなら生まれてまもなく自覚するはずです。
いずれにしても地上的でピントがずれています。

私たちスピリチュアリズムに生きる者のいう自我とは、「霊=アートマン」であり、《己が己の肉体そのものではないことの自覚》であって、肉体を超えた独立してはじめから存在する実体です。
「自分と他の子どもたちは別なんだ、自分は自分だ」
ではなく、
「なんで自分しか動かせないんだ?なんで他の子どもを動かせないんだ?理由がわからない、自分の身体に身体でない何かがここにある」
です。〔この霊的自覚を私は3歳頃にしました。10年前、幸福の科学の信者の女性2人にこの話をしたら、「ああ、あなた菩薩様なんですね」と言われました〕

彼ら〈TM族〉の思考は常に「肉体」という絶対空間における客観的な物質(顛倒妄想)が先立っているので、
「なぜあなた(の自我)は他の人(の自我)になれないのですか?」
と、いくら問い掛けても、肉体を超えた視点に立てない(立つ気がない)ので無駄なのです。

では、「無我」とは何か?
仏教でも上述の「順世派」ように、「我」は「主体がない」として、輪廻もなく、霊もないとする派もあります。
どうもこの無我の取り方で、話がこじれているようです。
たしかに、「縁起」の道理によってアートマンの実在を否定し、輪廻から解放されて解脱することを考えれば、「我」は主体がないものとも取れます。

このことは、スピリチュアリズムにおける「集合霊と分霊」に通じます。
輪廻転生するのは特定の分霊ではなくて、それぞれの側面を持った分霊が交代交代で転生し全体の集合霊の霊的進化を促し、解脱に向かうというのです。(アートマンがブラフマンにヨーガする)
ある分霊が一回しか生を受けないとしても、霊的自覚は可能であり、それが本来の「断見」ではないかとも思われます。
もしそうならば、スピリチュアリズムとも融合します。
初期仏教において「無我」を「実体がない」と解釈したのは、そういう意味だと取れなくもありません。
では、一つの分霊が役目を終えて集合霊と一体になり転生しなくなったら実体がなくなるのかといえば、そうではないらしいのです。
これは、以前にも言った臨死体験したある人の証言、
「何とも表現し難いが、強いて言えば『人はみな繋がっている』」
に表れていると思われます。
つまり、我執(エゴ)は消えてもアートマンという実体は消えないということです。

【*】顛倒妄想族(私が勝手に作りました)

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。