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啓発 [霊的存在]

ずっと以前からですけど、近頃は特に言葉の一面性や不完全性をつくづく実感します。
世の中の人はあまりにも言葉に頼りすぎているように思います。
それによって無理解や要らぬ争いをわざわざ起こしているように見えます。
私個人の物質的生活のことや、世間の無理解や無関心に疲れ果てましたが、私の目的は平穏すなわち真の平和ですから、少しだけでも言わせていただこうかと思います。
今回は前回、前々回(常見と断見)の補足のようなものです。

『因果応報なるが故に来世なきにあらず、無我なるが故に常有にあらず。』

ある聡明な仏教者は、
「仏教では、死んだら無になるわけでもないし、固定不変な霊魂が続くのでもない」
と、訳しています。
ただ、霊魂という言葉をどう取るか、取り方しだいで面倒なことになるのではないかと懸念します。
もちろん、「固定不変な霊魂」というのは、今の意識を持続した自我ということですが、この「固定不変」を除いた「霊魂」とはどういうものなのかという疑問が残ります。
ところが、「赤い夕陽」のように夕陽にすでに赤いという意味が含まれる場合や、「円いボール」のようにボールにもともと円い意味が備わっている場合があります。
すなわち、同じ「固定不変な霊魂」でも、「霊魂」にはじめから暗黙の裡に「固定不変」の意味が付随していて、そうでない人と会話していることも考えられます。
そうなると厄介なことが起こります。
スピリチュアリズムでは「霊(霊魂)」といえば、(地上的に)固定不変ではない実体を指すのですが、いくら高級霊の通信で霊が永遠不滅だと知らされても、特に断見の仏教者は、
「霊魂なんかないんだ!」
「そんなのインチキだ!」
と怒り狂うのです。

要するに、言葉に囚われないで他の様式に理解を示すか、言葉に囚われて他を否定するか?
それは、もともと自分で考えて菩提心を起こして道を行く人なのか、誰かに啓蒙されて入信し団体の人や経典の表現を再生する人なのか、で分かれます。
断見外道に陥る人とは、後者です。(考えている人は断見はないはずです)

仏教では、基本的に霊魂や神という表現はないので、死んだ後もずっと続いていく永遠の生命として『阿頼耶識』を用いるのが妥当です。
それをバラモン教(ヒンドゥー教)では「アートマン」と言い、スピリチュアリズムでは「霊」と言っているだけのことです。

聖書の「蛇のように賢く」を後世の世俗的な誰かが「蛇のようにずる賢く」と解釈してしまったり、昭和一桁の日本人にとって悪い意味が全くない「三国人」に、後世の一部の輩が勝手に侮蔑や迫害の意味を付随させて、「三国人」と言った人を非難したりします。

要するに、考えている人から考えていない人に伝わるときに、言い換えると、知と信が一体の人から知と信が分離している人へ伝えられるときに、起こります。
それは、霊的なものを表すには不完全な地上の言葉を介するからです。

このように地上の人間の言葉というのは、デマに代表されるように、暗黙の裡に勝手な意味、価値、条件、地上的善悪などが付随して、そのまま人から人へ伝わるので、理想化されて肯定か否定になってしまい、ついには争いになってしまうのです。
それではどうしたら言葉による無益な対立や諍いを避けることができるのでしょうか?
要は常に考えていること、本質を見極めることに尽きるのです。

補足します。
少し前、朝のTV番組で、林先生が「啓発」の意味(啓蒙との違い)を解説していました。
これは論語のある言葉で、
「自発的に考えて行動する人以外には教えない」
という意味だということでした。
これに対して何とも思わない人もいるでしょう。
また、「教える対象限定とはどういうことか?」がわからない人もいると思います。
私はこれを聞いて、
「ああ、孔子らしいな」
「やはり聖人なんだな」
と思いました。
要するに産婆術なのです。
イエスも聖書の中でしきりに、
「聞く耳を持つ者は」(鵜呑みにしない者は)
と限定して前置きをしています。
釈迦もソクラテスもそうです。
わかる者だけを対象にしていたようです。
それ以外の者に教えるというのは「盲信者」を作るだけだということがわかっていたのでしょう。
それに聖人たちはみな、時代が下ると教えが「正法→像法→末法」というように形骸化することを見抜いています。
ここに来てくださるみなさん!、繰り返しますが、私たちは所詮「少数派」です。
そろそろ方舟を造りましょうか。
下から2番目の修行の場でもある地球上の人間全員を「啓蒙」して仏国土を作るというのは、無茶というよりむしろ間違いだといえるでしょう。

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