SSブログ

幸福(+動画) [中庸(+音楽)]

お久しぶりです。
先日、書店で、三木清の『人生論ノート』の解説書(NHKテキスト,岸見一郎)を購入して、一気に読みました。
『人生論ノート』については、以前に取り上げたと思いますが、10年程前に、「試験監督中」に学級文庫から見つけて、適当に開いたら、
「今の人は、幸福を社会的成功のことだと思っている」
ということが記されていたということです。
当初は、この著書が昭和29年の版だったことから、戦後の作品だと思っていましたが、実は昭和16年、開戦直前の作品だったことが今回わかりました。
ということは、今また注目されているのも、今が戦争前とある意味そっくりだからなのでしょう。(今の方が深刻だと解説にはあります)
全部取り上げると大変なので、いくつか拾って、思うことを言ってみたいと思います。

【引用①】《理想には現実を変える力がある》
世なれた利口な人たちは親切そうに私に度々云ってくれた、「君はトロイメル(夢想家)だ。その夢は必ず絶望に於て破れるものだから、もっと現実的になり給え。」私は年も若いし経験も貧しい。けれど私の心は次のように私に答えさせる。「私は何も知りません。ただ私は純粋な心はいつでも夢みるものだと思っています。」(『語られざる哲学』)
・・・・・世間には「夢のようなことばかり言っていないで」と諭す人もいますが、夢は人生を開く原動力です。「それは理想論だよ」と鼻白む人もありますが、理想には現実を変える力があります。・・・・・
【終】

私なりには、これは、
「純粋さを保って生きる」(無垢の獲得)
「地上の住人にならずに地上の旅人でいること」
に当たると解釈します。
これが地上経験における進化であり、後で言う「幸福」だと思います。
そしてこの対極にあるのが、ファシズムであり、一つの象徴として日本特有の「滅私奉公」です。
滅私奉公などと言うと、まるで我を捨てたようで聞こえはいいのですが、あくまでエゴイズムから来る偽善です。(厳密には、偽善を偽善と認めない無理解・論理病)
(*外国人労働者移入の枠を拡大して労働力を補おうという動きがありますが、大陸の人たちにはもとより滅私奉公の観念はないでしょうから、良いこととして、権力に媚びない新しい日本を作ってくれることをただ期待するだけです。)  

ここで主題の幸福について。
【引用②】《人は幸福に『なる』のではなく、幸福で『ある』》
人は何かを経験したから幸福に『なる』のでも、幸福でなく『なる』のでもありません。幸福であることに気づくという意味では、幸福に『なる』という言い方もできます。しかし、気づくかどうか、成功するかどうかにかかわらず、すでに幸福で『ある』(のです)。
〈中略〉
〔幸福は徳に反するものでもなく、むしろ幸福そのものが徳である〕
幸福と徳とは相反するものでも、どちらかを優先すべきものでもないのです。老親介護の場面を例に考えてみましょう。誰しも親には幸せな晩年を送ってほしいと思うものです。しかし、自分の幸せを犠牲にしてでも親を介護し、親に尽くすことが「徳」なのではありません。
〔我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことをなし得るであろうか。〕
親にとって、子供の不幸ほど辛いことはありません。それが自分を介護するためであるとしたら、なおさらです。親のためにと思ってしていることが、かえって親を不幸にしていることもあるのです。
【中断】

これは本来の「親孝行」を言っているのでしょう。
私にとっても身に沁みることです。
母親の面倒を見ることで、「徳」を得たような気になってはいないか、悩むところです。
もし自分の幸福がイコール社会的成功であるならば、どんなに母親の面倒を見ようとも、親不孝は免れません。
まあ、ここでは、「幸福=社会的成功」ではないことは明らかなので、それはいいのですが、果たして私が真の幸福を得ているのかどうかということで常に悩むわけです。

【引用②続き】
三木は「愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのではなく、反対に、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬ力を有したのである」と書いています。これは戦争に殉じた人のことを念頭に置いた言葉でしょう。ここで、三木は自己犠牲をよしとしているのではありません。愛する人のために自己を犠牲にする行動をとったから幸福だったのではないと言いたいのです。
介護においても同様です。自分を犠牲にして親を看取ることが徳でありそれを全うしたから幸福なのではなく、自分が幸福であればこそ献身的な介護ができる。自分が幸せでなければ、人にも優しくなれません。介護される親は、実は私たちが想像している以上に介護者の心のありようを敏感に感じているのです。
【終】

これは、以前に取り上げた『雑毒の善』に通じることです。
自己犠牲や施しによって幸福になるならば、「見返り」という意味になり、そこにはエゴによる計らいが入り込むため、善ではなくなります。
しかしだからと言って、どこかの教会の人の言うことを曲解して、地上におけるすべての人間の計らいを否定して何もしないというのは間違いです。(保身が動機の滅私奉公と変わりません)

では、幸福とは何か?
それは、「光を受けていることを知ること」、そしてそのためには、前回取り上げたスピリット・ヒーリングにおける「霊の窓」が開いていることです。
「霊の窓」を開く実践を、私はいつもここで言っているわけです。
その結果として、献身的な施しがあるのです。
幸福であることの表現です。
自分が幸福であれば、自然と人にやさしくなるのです。

【引用③】《幸福は伝染する》
ゲーテは、
「自分自身を失わなければどんな生活も苦しくはない」
「自分が自分でさえあれば何を失っても惜しくはない」
とも言っています。
自分自身を失わないこと、つまり人格こそが幸福であり、人格も幸福も人それぞれにオリジナルなもの、幸福と人格とは不可分であるということです。
自分の根っ子(基準)を持つ「精神的な貴族」〔オルテガ〕にも対応するかと思います。
〈中略〉
〔機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人ではない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。〕
鳥が歌うようにというのは美しく、しかも実に的を射た比喩です。本当に幸福であれば、それは自然と言動にも表れ、周囲を幸福にする。そのためにも、まずは一人一人が幸福であることが大切であることを三木は伝えています。
【終】

つい2週間前、私はまた中国人たち(約20人)のパーティーに招かれて、勉強のために覚えたての中国語をなるべく使って彼らと会話しました。
食事が一通り済んだ後、歌の時間となり、私は得意の歌を3曲披露しました。
ありがたいことにまたまた大変好評でした。(自分としては出来はイマイチです)
ほんの短いカットですが。
https://photos.app.goo.gl/G8KUrSQYGifAhFHH8
https://photos.app.goo.gl/4rAHSyuGZJZCQKBe8
「太棒了」
(親指を立てて、GOOD!)
今回初めて会った人たちは意外な展開に少し戸惑った様子で、私への接し方も変わりました。
別れ際には、大変感謝され、手厚く握手されました。
「下次見!」
私としては、自然な表現なのですが、それによって周囲の人たちを気持ちよくすることができるというのなら、それは真の幸福と言えるのではないでしょうか?
もしそうなら、そういう場を与えてくれた中国の友人に感謝したいと思います。







nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。