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初心 [霊的存在]

一年の計は元旦にあり。(何回言ったことか)
もちろん、私の場合それは、霊的活動のことのはずです。
それも、次の作品の構想や利他業の実践とか、聞こえの言いことばかりでなければなりません。
本当に真面目に霊的に生きるのなら、間違いなく物質的なことは、霊的活動を可能にする最低限の条件にすぎません。
ところが、現実的にはその物質的条件が危うくなってきているため、そっちに意識が行ってしまっているというのが正直なところです。
儘になるとかならないとか、まめでいるとかいないとか、最近は言わなくなりましたが、昔から当たり前のことをすることが、容易ではなかったようです。
まあ、それが地上経験における修行と言えるのかもしれませんが。

ともあれ今回は、初心を取り戻す意味もあって、当面課題にしていることを整理して簡潔明瞭にしようと思います。(当然、これまでのことと重複します)

大晦日に、母親を連れて父の墓の掃除に行きました。
そこの寺で毎年暮れに、法語カレンダーを貰うのですが、今回のカレンダーの表紙の法語は、
「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」
です。

これは「正信偈」の言葉で、解説文を読むと、理知からは「不断」の世界が読み取れないために、煩悩を断じてこその救いと自己過信化するか、逆に人間ならば煩悩は当たり前だと居直る堕落化の、どちらかしかないとのことです。
理知に依って解釈した説明後ではなく、どうすることもできない煩悩の「大切な意味」に覚醒させられた驚きの一言、自覚語なのだということです。
そのまま南無阿弥陀仏の呼び声だということです。
だからこそ「涅槃を得る」と、涅槃(人生の完全燃焼)に方向づけられた生活から、煩悩の身を照らし出す「光」(涅槃)を、煩悩にまみれる生活の場でいよいよ聞き直していくその歩みこそ救いそのものであることを表しているということです。

でも、みなさん、正直言って、この解説でわかるでしょうか?
こういうことを分かるようにするのも私の使命の一つです。

私が普段から言っていることは、「神仏の光」を受けているという自覚をする、体得することです。
人間に授けられた能力と言っても、ここで言うような「理知」とはまったく別のもの、「省察」あるいは「中庸」という活動によって体感するのです。

上から光を受けているからこそ、善を善、悪を悪と捉えることができる(即非と絶対矛盾自己同一)、光が差すからこそ、闇が見えるわけです。

性善説と性悪説(特に孟子の言う性善説)の「正しい理解」(即非と絶対矛盾自己同一の関係)はその一つですが、先ほどの「過信するか居直るか」に陥らないように、「理知」によってそのように曇らされている原因を払拭することが第一であり、すべてと言っていいと思います。
曇りが晴れて「神仏の光」を受けていることがはっきりし、愛が発動し、自信をもって人に施すことができるのです。
エゴの克服とは、エゴを消すのではなく、先程の理知の欺きに翻弄されて居直ることなく、エゴイズムに陥らないようになることです。(まさに煩悩を断ぜずして涅槃を得ることそのものです)
スピリチュアリズムで言えば、スピリット・ヒーリングによって、「霊の窓」を開くことにほかなりません。

それから、「雑毒の善」についてですけれど、昨年の法語カレンダーの7月に、
「雑毒の善をもって、かの浄土に回向する、これ必ず不可なり」
とあります。
これは、よく浄土系の盲信者やキリスト教の教会の盲信者が自力を否定するあまり、曲解して、
「人間の善行は雑毒の善であるから、しても意味がない」
とか、
「してはいけない」
と言うことがありますが、そういうことではありません。
たしかに、雑毒であろうとなかろうと、善行をしたからと言って、それだけで悟ったり、解脱したり、涅槃を得たりするわけではありません。
これをすればこうなるというものではありません。
あくまで結果なのです。
南無阿弥陀仏と唱えるのも、結果なのです。
上述のように、霊の窓を開くことによって、自然と善行という形で表現されるだけのことです。
善行が雑毒なのは、人間の意識が本能的肉的なものと霊的なものが混ざってできているため、常にそう取れるのであって、それを故に、エゴを消すことができると過信したり、消せないからと居直ったりと、白黒をつける必要はないわけです。
高い視点に立てれば見えてきます。

今年も私の課題は自分自身の利他愛の発動および利他業の実践、それに人々へ発信することです。
ただ、それを阻む物質的条件とどう対峙するか、むしろこれの方が大きな課題となりそうです。

これ以上言うと簡潔明瞭に反するので、ひとまずやめますが、これらを裏付けするものとして、高級霊たちの霊訓の一部を紹介します。

【引用】
《紋切り型の信者へ》
瞑想や祈りは、大気中から霊的エネルギーを取り入れ「霊」を充電させるためのよい方法です。しかし瞑想や祈りをしたからといって、誰もがすぐに霊的エネルギーを取り入れられるわけではありません。霊的エネルギーを大気中から取り入れるためには、「魂の窓」が開いていなければならないのです。この「魂の窓」の開閉状態は、各人の霊性とカルマという霊的条件によって、おおよそ決まっています。したがって瞑想や祈りによって現実的に霊的エネルギーを取り入れ、それを「霊の心」にまでステップダウンさせることは、大半の人々にとっては難しいことなのです。
心身医学では、ストレス症対策として瞑想や祈りを勧めることがありますが、実際にはそれほど大きな効果をもたらすことができないのは、こうした事情があるからなのです。                      『スピリット・ヒーリング』

「愛とは、魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主である神とのつながりを悟った時に自然に湧き出てくる欲求のことです。」    『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』

われらがそなたに理解を望むことは、神の啓示といえども、所詮は自分自身に与えられた“光”にて判断せねばならぬということである。説教者の言葉を鵜呑みにすることなく、それを全体像の中で捉(とら)え、一言一句の言い回しにこだわることなく、その精神、その流れを汲み取るよう心がけねばならぬ。われら自身、およびわれらの教説を判断するに際しても、得体の知れぬ古き予言に合うの合わぬだのという観点からではなく、そなたの真に求むるもの、そなたと神とのつながり、そしてそなたの魂の進化にとって有益であるか否かを基準にして判断せねばならぬ。
つまるところ一体われらは何を説かんとしているか。その説くところがどこまで理性を納得せしむるか。神について何と説いているか。そなたの魂にとってそれがどこまで有益か。そう問いかけねばならぬ。               〔モーゼス『霊訓』(10節)より〕

《多く与えれば与えるほど、多く与えられる》
愛に関する第1の摂理「利他性の法則」が、愛のサイクルを確立するための法則であるとするなら、第2の摂理は、愛のサイクルをさらに発展させるための法則です。「利他性」とは自分の利益を考えずに、相手のため、相手の幸福のために与え続けることでした。こうしたあり方は、現在の地球上の人々にはなかなか理解できません。利他的行為は、一方的に自分の利益を失うだけの損をする生き方と考えます。
しかし本当はそれとは全く逆で、利他的行為によって結果的に、いっそう多くのものを得ることになるのです。利他愛が純粋になればなるほど、与えるものが多くなればなるほど、それに応じてより多くのものが与えられる(返ってくる)ようになります。
利他愛について、物質次元の世界に限定して考えるなら“物を失う・損をする”ということになりますが、「霊的価値観」からすれば失うものは何もありません。それどころか人間にとって一番大切な「霊的宝(神の愛・霊的幸福・霊的成長)」が、ますます与えられるようになるのです。その意味で利他愛を実践することは、最も賢明な生き方・最も得をする生き方と言えます。「愛を与える」という行為は、霊的成長をなすためのプロセスそのものとなっているため、最高の宝がもたらされることになるのです。
「施しを受けるよりも施しを授ける方が幸せです。」     『シルバーバーチの霊訓(1)』

《人に多く与えれば与えるほど、さらに多くの神の愛と霊的エネルギーが流れ込んでくる》
愛は純粋に霊的なものです。したがって本当の愛(霊的愛・摂理にそった愛・利他愛)を他人に与えると、与えた分の「神の愛」が直ちに補給されるようになっています。霊的エネルギーがその人の「霊」に流れ込んでくるようになります。そしてその流れ込んだ霊的エネルギーが「魂の窓」を押し広げ、次にはさらに多くの神のエネルギーを取り入れることができるようになります。こうして結果的に、与えた分より多くの愛とエネルギーが与えられることになるのです。「利他愛の行為」によって決して損をすることがないのは、このためです。
また、与えた愛を相手が受け止め、愛を返してくるようになるなら、神から与えられる愛にプラスして相手からの愛も返ってくることになります。つまりトータルすると、相手に与えた以上の愛とエネルギーが、自分自身に返ってくることになるのです。

「自己を滅却することによって実は自分が救われていることを知ることでしょう。なぜならその人たちは人間はかくあるべきという摂理に則った行為をしているからです。それは取り引きだの報酬だのといった類のものではなく、多くを与える者ほど多くを授かるという因果律の働きの結果に他なりません。」    『シルバーバーチの霊訓(2)』

「いつもこう申し上げているのです――施しをする人は必ずそれ以上の施しをしてもらっており、差引勘定すればいつも戴いたものの方が多くなっていると。施す者が施しを受けるというのが摂理なのです。なぜなら、施しをしようとすることは魂の窓を開き、精神を広げ、心を大きくすることであり、その広くなったチャンネルを通して愛と導きと保護の力が流れ込むことになるからです。」                 『シルバーバーチの霊訓(2)』

「犠牲的生活によって魂が“損”をすることはありません。また利己的生活によっていささかも“得”をすることはありません。」     『シルバーバーチの霊訓(1)』

*世の中のビジネス書では、この「多く与えれば与えるほど、多く与えられる」という法則が金儲けの賢い方法として紹介されることがあります。それはいかにも意味深い人生訓・深遠な金儲け哲学のように思われます。その考えによれば、お金を儲けた人は、さも奉仕性が豊かで無欲な人間のように映りますが、実はそれは霊的真理の誤用なのです。
「多く与えれば与えるほど、多く与えられる」という法則は、どこまでも「霊的真理」であって霊的次元の事柄に適用されるものです。物質次元のことにストレートに当てはまるものではありません。与えれば与えるほど豊かになるのは、霊的次元のことであって、物質的なもの・金銭的なものではないのです。摂理に合った無償の生き方をしていれば、最低の物質的条件は保障されるようになっています。しかし、それは物質的に豊かになることを意味しているわけではありません。
何のために必要以上のモノやお金を手に入れようとするのか、その動機をチェックしてみれば、自分の浅はかさに気がつくはずです。物質的に豊かになることは、決して素晴らしいことではないのです。
【引用終わり】

易の『山澤損』は、物質的な損得ではなく、霊的次元でのことを言っているものと思われます。

それなら、もし相手が初めから騙すつもりの人だったら、騙されっぱなしになってしまって、物質的肉体的に破滅するだけではないのかと思われることでしょう。
それともそれでも霊的には意味はあるのでしょうか?
まあ、状況にもよりますが、少なくとも消極的にはこう言えるのではないでしょうか。
「騙す人間になるよりは、騙される人間になるほうがよい」
特に男女の間など狭い範囲ではそれが言えるかもしれません。
以前にも触れた、
『男は嘘を言うために、女は騙されるために生まれてくる』
という諺は、それが世の常だということを表してると言えます。
ということは、きわめて「地上的」ということでもあります。
逆に言えば、女に騙される男は霊的行動に近い行動をしているとも言えます。
以前「時代劇」の中で、騙されているのを承知で女に施しをする純粋で一途な男の話がよく出てきました。
これも、損得よりも義を重んじる本来の日本人の霊的行動の一面とも言えるでしょう。

かなりマニアックですが、昭和51年の初旬に少しだけ流行った歌謡曲『おとこ酒』(橋幸夫)の2番にこのような歌詞があります。
「騙すより騙される男になるんだと、すぐ上の兄貴からいつも言われた。あんな女のどこがいい。だけど心底惚れていた・・・・・・」
当時中2の私には意味がよく解りませんでした。
でも歌だけはいやに印象が強くて覚えていたので、最近になって検索して、同じように印象が強くて覚えている人のところにたどり着いて、あらためて考えるに至ったのです。

時代劇にしろ、歌謡曲にしろ、利己主義に染まる前の日本の霊性を表すものが、それらに残っているのだとつくづく思います。
長くなりましたが、今年もこんな調子で行きたいと思います。





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