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躾と性悪説? [中庸]

今日は、ほんの少しだけですが、気になったので半ば衝動的に書きました。(話題は月並みですけれど)
朝のテレビ番組で、「躾」のことを取り上げていました。
近頃の親の子に対する虐待の問題を受けてのことでしょう。
まあ、それに関しては様々な事情がありますし、ここで言っても始まらないでしょうし終わらないでしょう。(必要悪という言葉を用いれば永久にグレーですから)
ただひと言、以前はそれほど問題にしなかった、ということでしょうか。

それはさておいて、日本の「躾」の経緯として、根底に『性悪説』があることを言っていました。
「人間の心には悪魔が潜んでいて、それを性悪説というが、悪魔が表に出て暴れないように躾というものがある」
みたいな説明でしたが、『性悪説』の説明としては少し足りません。
それに、『性善説』の説明はありませんでした。
そうすると、『性善説』は、まるで『性悪説』の対極にあって、
「人間の心に悪魔はいない」(いても駆逐できる)
ということで、それも一つの見方だ、と暗黙の裡に言っているようにも思えます。

私としては『性善説』について(『性悪説』も)、本当の意味をきちんと解説してくれればと思うのですが、どういうわけでしょうか?(私は言い飽きました)
時間がないからかもしれませんが、かなり無責任だと思います。
(もっとも、高校の倫理の先生も、本当の意味を教えていないようです)
この誤解が日本の「息苦しさ」を促し、一方で「秩序の崩壊」を招いているというのに。

スピリチュアリズムの観点からすれば、下から2番目と言われるこの地球上に生まれて、経験し修業し、これらのことを昇華し止揚することで、霊的向上するというのが道であり、私はそのお手伝いを勝手にさせていただいているわけです。
みなさんも懲りずにお付き合いください。





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本業(2) [中庸]

今回は、近況報告です。
先日の雪の日、勤めている学校でのこと。
3時間の業務終了後、トイレに行くと、いつも近くに座っている30代ぐらいの英語の先生(講師)と逢いました。
2人だけだったためか、向こうから何やら神妙な面持ちで話かけてきました。
「このところK先生、ずっと来てないですよ」
私は、
「K先生ってどんな人だっけ?」
(一緒にここに入ったのに失礼な。まあ、それだけお互い忙しくて話している余裕がないのは事実です)
「理科の、同じ学年に出てる…」(後で調べたら社会でした)
私は微かに風貌が浮かんだだけで(ああ年配の)、とりあえず無難に、
「インフルエンザですかねえ?」
と返すと、彼はすかさず、
「うん、それか、もう嫌ンなって……」
と、漏らしました。
「まあ、気持ちは同じですけどね」
と言って、私はその場を収めようとしましたが、彼はトイレの出口付近で、
「今日なんか、2時間目、やつら窓にへばり付いて……」
と続け、私は過去の経験もあって、歩きながら、
「今日みたいな(雪の)日はダメですよッ」
などと、半ば諦めさせてなだめるだけで精一杯でした。

もうここまで言えば、みなさんは何が起きたか、お分かりかと思います。
私も『年配者』であれば、この時期、もうそこにいません。
(去年も1月で〔宣言して〕辞めた先生がいるそうです)

「嫌なこと」というと、ただ肉体的精神的に辛いとか、自分に合わないとか、割に合わないとか、そういうことを思いますが、そうではないのです。
「やってはいけない」ことだと、直観的に感じるのです。
人間にはもともと良心(霊性)が備わっており、霊的に不正を察して、自動的に思考や行動ができないようになっているのですから。

そういえば、先月、まったく違う業種の古い友人たちと会ったとき、言っていました。
「25年ぐらい前までは、忙しく働いていたけど、嫌だという感じはなかったよ」
「でも今はなんか嫌だね、仕事やりたくないね」
「なんでだろうね?」
私はひと言、
「悪魔が支配しているからだよ」
とだけ言いました。
「どの業種もそうなんだ」
とつくづく思いました。
以前は特に志はなくとも、誠実に行動していればある意味で認められましたし、「適当さ」が通用しました。
いわゆる「でも・しか」でよかったのです。(好きでやっている人は論外です)
これは教師に限らず医者や町の商店や飲食店でも言えると思います。
今の日本社会は、大まかに言えば、カネを持っている者(顧客あるいは支配者)が絶対で、それらに媚びて思考し行動する者だけが物質生活を潤すのを許されるのです。(子供にも反映しているようです。「どこに力があるか」だけに関心があり、「義」などあったものではありません)
組織には、無益な戦争と分かっていても勲章を取ろうとするような人たちだけが残り、牛耳っています。
「生活のために働いている」
という姿勢を微塵も見せてはいけない雰囲気です。
「商人」というよりも「奴隷」です。

神仏の教えに悖(もと)ることをすれば、結果として必ず身体や精神に障害が起こります。
しかし、悪魔が支配する世の中では、悪魔に背くことをすれば、生活が危うくなります。
どちらに従うかですが、地上と霊界をトータルで考えれば明らかです。

以前から言っているように、(経典としての)仏法、それからその側面でもある儒教や道教、武士道などは、神仏のメッセージの地上的表現であり、道を行く人にとって方便でもあります。
さらに、儒教における学問や芸術などは神仏の光の表れでもあり、地上の旅人でいる方便ともなります。
それが単なる方便であっても、地上で為されていないとなれば、当然悪いことが起きます。
善因善果、悪因悪果。

近頃、学校がブラックだの何だのとネット上を騒がせています。
そこでは特に外部の人たちが、勤務時間が長いとか労働量が多いとか、そういう目に見えることで「ブラックだ」と言っているようですが、そうではないのです。
それはひとつの表れであって、その根底には「教師の権限がないこと」があるのです。
30年来、そのことに対して、儒教的に当然の「権限を取り戻す」のではなく「媚びる」方に回ってしまったために、今のような事態を引き起こしているのです。
まさに霊的不正の結果です。

今月の初め、正月飾りを納めるためもあって、私は近くの神社へお参りに行きました。
おみくじの運勢は大吉、そこには、
『心をかたくたもって 一時の不運にあわてさわぎ思いまようてはいけません 本業をよくまもって静かにときの来るのをまちなさい 開運うたがいありません』
とありました。

そう言われればたしかに最近は物質生活上の困難や損得に振り回され、霊的思考や霊的行動が思うようにできていません。
宿命ともいえる母親の面倒はともかく、上述のように、日本の唯物論や利己主義が生んだモンスターのために精神を煩い、職業自体がますます危うくなっていますし、収入の足しにと去年3月に買ったプラチナの相場が下がったきりで金銭的に身動きが取れなくなり、食費をはじめ、光熱費や通信費、医療費もだんだん増えてきて不安に駆られます。
偉そうなことを言っている私も、物質的な事情に一喜一憂していることに違いありません。
おみくじは、そんな私を見透かしように戒めるばかりです。

ただ、ここで言う「本業」とは何か?
上述のようなこともあるので、少し悩みました。
やはり、私にとって本業はあくまでスピリチュアリズムに則った行動または外への活動であって、けっして生活のための職業のことではありません。
ならば、最低限の生活を確保して、人生の目的を達成するのが最優先であり、カネの奴隷になってまで物質生活を向上させるのは完全に不正と言えます。

「一時の不運にあわてさわぎ」
とあるのは何か?
たまらず、いつも相談する教員派遣会社のSさんに連絡したところ、
「あれは嫌だ、これも嫌だって言ってるんじゃないの?」
「もう何でもやるというように、意識のスキルアップをしなきゃ」
と、諭されました。
「何でも」というのが「業種」であればわかるのですが、上述のような意味であれば受け入れることはできません。
まあ、あわてさわいで相談すること自体がいけないのでしょう。

というわけで、この私も道から外れかけているので、ここらでひとまず気を引き締めたいと思います。





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