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組織と洗脳 [中庸]

今回はスピリチュアリズム普及会による『シルバーバーチの教え』のほんの一部を取り上げて、言及したいと思います。

【引用】
《宗教組織による“洗脳”がすべての悲劇の元凶》
地上の宗教の根本的な間違いは、組織を形成して勢力の拡大をはかる点にあります。組織の維持・拡大を最優先するところから“偽りの教義”をつくり出し、それを“洗脳”によって信者たちに信じ込ませます。教団が神と同じ立場にあると思い込ませて、信者を教団の活動に押し出すのです。

【*】「教団のために働くことは、神のため・全人類の救いのために貢献することであり、神に対して最高の忠誠を尽くすことである。人間として最高の善を行うことである」との考えを吹き込みます。そうして「自分たちの教団こそが最も優れていて、神から特別な権威を与えられている」と盲信させることが、宗教組織による“洗脳”の目的なのです。大半の宗教組織が、自分たちの教団を神と同じ位置に置き、それを信者たちに信じ込ませようとしています。

現在、地球上には目を覆いたくなるような“悲劇”が蔓延していますが、もし宗教組織がなかったなら、これほど多くの悲劇は発生しなかったはずです。地上世界におけるあらゆる悲劇の原因は、〔⁂〕《組織エゴ》に基づく宗教の“洗脳”にあると言っても過言ではありません。スピリチュアリズムは、人類を“魂の牢獄”へと引きずり込む宗教組織を厳しく批判してきました。
「私が非難しているのは“組織”です。組織が真理への道を閉ざし、古い慣習を温存し、精気みなぎる霊力が顕現するための場所を奪い去っているからです。」【引用終】

【*】〔⁂〕に注目してください。
そもそも組織というものが、人類全体への奉仕になり得るかということです。
よほどしっかりした非営利団体でない限り、まずなり得ないでしょう。
もしなり得るとしても、組織の(物質的・地上的)利益が優先でしょう。
ここで、最近のネット投稿とコメントを紹介します。

《平成初期の中年男の悲鳴が予言していた「日本の自殺」(日経ビジネス)》
【ある人のコメント】
逆に言えば、労働者に死して会社の御楯とならんという意識が欠けているということですね。労働者たるもの、生きて定年の辱めを受けずという覚悟を持つべきです。そう考えると、自分の健康や利益を考えず、企業が平成に進めてきた道に積極的に貢献するべきだと思います。最近の労働者は自分の生活のことばかり考えていますが、まず考えるべきは会社や雇用者のことだと思います。(↑31・↓149)
【それに対する私の返信】
それは戦時中の「名誉の戦死」ですね。
義は人類全体に対するものです。
一部の人間に対する義は戦争や宗教団体のテロと同じ思考法です。
つまり、立派なことのように見えますが、一つの「エゴイズム」です。(↑8・↓8)

義の優先順位は、個人<家族<企業<国家<人類です。
(人類とは、他の動植物に対する一つの種という意味ではなく、人類が見ている宇宙全体=人間のこと)
自分の命や健康を犠牲にして核実験をする科学者は、家族の義や国家の義はあっても人類の義はないでしょう。
誰かのために身を削って働いて高収入を得る人は、立派だと称賛されるかもしれませんが、果たして他の人を差し置いてそうしてはいないでしょうか?
また、組織のためだと言って、結果的に組織間の競争を徒に促していないでしょうか?
自分では「我を捨てている」つもりでも、大きな視点から見れば一部の人間のエゴを満たす行動になり得ます。
もしそれが解っていてそうするのだとしたら、故意に平和実現から遠ざけているとしか言いようがありません。

今回の私のコメント(返信)に対して、賛同する人としない人が半々だということは、「滅私奉公」そのものを良しとする人(日本特有か?)や、単なる生活の事情という人が多いと推測できます。
まあそれ自体はいいでしょう。
ただ私が言いたいのは、この分だと、『宗教組織による“洗脳”』が後を絶たないだろうということです。
また、このままだと高級霊やスピリチュアリズム普及会の人たちの苦労が報われないだろうということです。

私の役割は、周知のとおり「理性による真の信仰」における理性の発動のしかたを実際的に示すことです。
高級霊や殊勝な人たちの地上における手足となることです。
長いのでここまでにします。





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バシャールとインぺレーター [霊的存在]

私の物質生活は相変わらず逆風が吹き荒れ、良い報告はできません。
それに母親のことも相俟って、悲観的な見通しだけが私の前に立ちはだかります。
ともあれ、これも人生の糧なのだと自分に言い聞かせて、やっと生活を保っている次第です。
しかし、ここひと月ほどバシャールのメッセージを読んでいて、軌道修正できるのではないかと思うようになりました。
バシャールについてはみなさんもご存じだと思われるので、一部だけ引用させていただきます。

【引用1】
未来を心配する貴方は、”今ここ”のパワーを使って、自分の波動を下げてしまっています。
今ここでイライラして不愉快な想いをしている人は、”今ここ”のパワーを使って、自分の波動を下げてしまっています。
過去を後悔する貴方は、”今ここ”のパワーを使って、自分の波動を下げてしまっています。
”全て”は、”今ここ”のみにパワーが集結しているのであって、一瞬前でも一瞬後でもありません。”今ここ”の貴方がポジティブで、次の”今ここ”の瞬間もポジティブで、という具合に、”今ここ”のパワーを使ってポジティブ階段をどんどん上昇してゆくというわけなのです。
【引用2】
貴方のハイヤーマインドは、”心配したり、苦しんだり、物事に縛られたりする事なかれ”と、話していると、バシャールは伝えています。物質的脳にフォーカスしすぎると、こういった”ストレス”や”摩擦”が起きる原因となるのだと、バシャールは話しています。
ハイヤーマインドの仕事は、貴方を望む世界へと連れてゆく事です。そして貴方の仕事は、楽しく生きる事に尽きるのだと、バシャールは締めくくっています。
【終】

このところの私は、
「最低限の物質生活が確保できれば、あとはどうにでもなる」(本来の活動ができる)
という思いが頭を支配してしまっています。
たしかに結果的にはそうなのでしょうけれど、どうもその「プロセス」がいけないようです。
「先送りする」という負の思考が混ざっているからです。
よくバシャールが言う「ワクワクすること」とは、「今ここ」であって、後年の楽しみではないわけです。
一瞬一瞬が「空」であり、その自分の思いが目の前の現実を作っているのです。
でも、ワクワクすることって言われても何があるのか?
年齢のせいか、何か悪いことがあってもショックで落ち込むことがなくなった代わりに、良いことがあっても以前のようにワクワクするほどのことがなくなりました。
みなさんはどうでしょう?
若い人以外は同じではないでしょうか?

たしかに私は、いつかも紹介したように歌やピアノまたは絵で楽しむこともできますし、他人と共有して幸福に浸ることも可能です。
でもそれらはどこか中途半端で、性根を据えて人生をかけてやっているとは言えません。
あくまでも気分が乗った時だけであって、ワクワクするといっても持続的なものではありません。
そして物質的な負の状況がその穴を広げてしまっているのがまさに今の私です。

ならば、本来の活動すなわち「スピリチュアリズムに則った霊的活動」はどうなのかというと、口幅ったい言い方をすれば「責務」であり、ワクワクすることとは違う感じがします。
ただ、「これでどうなる」とか余計なこと(損得勘定)を考えなくてできること、つまり大変だけれど苦痛ではないことといえます。(言葉の違いであってこれでいいのかもしれませんが)
これならば、どんな状況であっても持続することができそうです。
世間の反応はどうあれ続けることが使命なようです。
思い起こせば、以前、著作を作るべくこの作業に没頭しているとき、わが身の物質的なことは二の次、いやほとんど心配していませんでした。(心配しても同じことですし)
先述の最近の私とは逆で、「本来の活動ができれば、あとはどうにでもなる」という思考でした。
また実際それで何とかなったのだと思います。
それが今は崩れかかっているということです。(なるようにしかならないのに思い煩っているのです)

思い起こせば、29歳の頃に凄いことを経験しました。
ヴィットゲンシュタインの『論理哲学論』(中央公論社)を読んでいるとき、
「世界とは自分の世界である」
と喝破する箇所で、私の身体に電撃が走りました。
いわゆる、絶対矛盾的自己同一を体得したときです。
腑に落ちたというか、幼少からのモヤモヤが一気に晴れたという感じでした。
そのときは、暫くの間、あらゆる肉体的な欲求が小さいことのように思えて、どうでもよくなりました。
それが「意識の拡大」というものなのでしょう。
残念ながら、次第に新鮮さを失い、適当に世俗的な欲求を満たすようになりましたが。

話が逸れてしまいました。
とにかく、ここらでやり残したことをやって活動の完成に向かって集中しようと思います。
しかしみなさんはなぜ私がここまで本気でスピリチュアリズムの普及に携ろうとするのかいささか疑問に思われることでしょう。
思い込みではないのか、思い上がりではないのか、ただの現実逃避ではないのか、などといろいろと思われるかもしれません。
でも私にはある種の確信があるのです。
その一つが、インペレーターやシルバーバーチの存在です。
特にインペレーターの既成宗教や哲学に対する向き合い方は私と驚くほど一致するのです。
念のために言いますが、私はインペレーターに感化されたわけではありません。
後から同じだということが分かっただけです。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、ともかく引用文を掲げました。
長いので、【①】【②】【③】【④】の個所だけでも見てください。

【引用】(霊訓18節)
われらの使命はもとより魂の宗教を説くことにあるが、その一部として身体の宗教も説かねばならぬ。そなたに、そして全ての人間に宣言するが、身体の健康管理は魂の成長にとりて不可欠の要件である。

【①】魂が地上という物質の生活の場において自己を表現していくために肉体に宿るかぎりは、その肉体によりて魂が悪影響を受けぬよう、これを正しく管理していくことが必須である。ところが衣食の選択と日常の生活習慣に賢明なる配慮が為されることは実に稀である。今の地上に見られる人工的傾向、健康に悪影響を及ぼすものに関しての無知、ほぼ地上の全域に見られる暴飲暴食の傾向、こうしたものは全て真の霊的生活にとりては障害であり妨害となる。

そなたの質問であるが、これまで幾度も述べた如く、われらはそなたの精神の中に存在するものを取り出し、付属せる夾雑物を払い落とし、霊的意義を賦与してこれを土台とし、有害なるもの、真実にあらざるものは放棄する。古き言説につきては、イエスがユダヤの律法を扱える如くに扱う。イエスはその字句にこだわることを戒め、その律法の精神に新たなる崇高なる意味を賦与した。われらが現代のキリスト教の言説とドグマを扱うに際しても、イエスがモーセの律法とパリサイ派的学説、並びにラビ的学説を扱える如くに扱う。

【②】イエスは中身の精神を生かすためには字句にこだわらぬがよいと説いた。これはいつの時代にも同じであり、われらも聖書の言葉を引用して、儀文は殺し霊は生かす、と述べておこう。律法の字句にあまりに厳格にこだわることは肝心の意味を疎かにすることと同じ、と言うよりは、次第に疎かにさせて行くものである。儀文の一つ一つを几帳面に遵守する信仰態度は高慢不遜にして鼻もちならぬ独善家を生み、やがて神学の流れの中に完全に巻き込まれて、自分は他の者とは違うとの特殊意識を抱き、その意識で神に感謝するようになる。
こうして知らぬ間に進行する信仰上の悪弊に対して、われらは断固たる闘いを挑むものである。人間の勝手な産物である神学の中に束縛されるよりは、たとえ迷いは多くとも、きっと神を見出すとの信念のもとに、いかなる教義にもすがることなく暗中模索するほうが、真理を求むる魂にとりてどれほど良いか知れぬ。神学は神への道を規定する。その道へ入る狭き門は神学という名の鍵なくしては開かぬことになっている。が、それのみに留まらぬ。神学が神そのものを規定するのである。かくして魂はその自然の発露を閉ざされ、思想の高揚を抑えられ、一片の霊性もなき機械的信仰生活へと落ちぶれ果てる。

【③】確かに、そなたの仲間の中には、高位高階の者ばかりとも限らぬが、宗教の深き哲学に関しては出来合いの信仰教義でなければならぬ者がいる。彼らにとりて、その教義から逸脱して自由に思いを巡らすことは即ち疑うことであり、躊躇することであり、絶望することであり、死を意味する。目も眩む高所に登り、隠れたる秘密を覗き込み、曇りなき真理の太陽の輝きを目のあたりにすることなどは思いもよらぬ。永遠の真理の横たわる深き谷間を見下ろす高き峰に登ることは、彼らには出来ぬ。落ちることを恐れて覗き込むことが出来ぬ。その前に、その峰に登ることがすでに苦痛なのである。そこで彼らは、たとえ辛く不確かではあっても、すでに他の者が通れる、より安全なる常道を選ぶことになる。その道は両側に高き壁がそそり立ち、その外側を見ることは出来ぬ。油断なく一歩一歩、転ばぬよう、すべての起伏を避けつつ歩む。そうするようにと教会の教説が説いているのである。疑うことは破滅を意味する。思考することは結局は迷いに終る。信ずることが唯一の安全策である。故に信じて救われよ、信じぬ者は地獄へ落ちるがよい――そう説くのであるが、彼らにはそれが素直には受け入れられぬ。受け入れられる筈がないのである。彼らは知的理解の入口に横たわる真理の断片すら理解することが出来ぬのである。ならば真理を秘納せる奥の院までどうして入ることを得ようか。

【引用】(地上人生の意義と目的)
【④】霊的真理を知らない地球上の大半の人々は、地上での生活がすべてであると考えています。なかには、「今から死後のことなど心配するのは愚かしいことである。それは現実の人生からの安易な逃避にすぎない」と言う人もいます。死後のことなど考えずに、今を精いっぱい生きるべきだ、と言うのです。
しかし実際に霊界がある以上、そうした地上世界をすべてとする考え方(人生観・価値観)は間違いです。それは広い世界を見たことがない井の中の蛙(かわず)が「自分は偉い!」と独り自慢をしているのと同じであり、その人の人生は、おそらく的外れで無駄なものになってしまうことでしょう。

「地上人生の意義と目的は何か?」についての答えは、霊界まで含めた視点に立って得られるようになるものなのです。霊界の実在を知らない人間が、いかに地上人生の意義を探ろうとしても不可能です。地上世界という小さな枠の外へ出て、初めて地上人生の真の意義と目的が分かるようになるのです。

① 「健全な肉体に健全な魂が宿る」という方法論としての唯物論であり、よく誤解されますが、中国人の唯物論はこれに当たると思います。
② キリスト教というより「教会の教え」に洗脳された盲信者のことです。
結局自信が持てないのです。
③ ②と同じです。
④ 地上と霊界、生前と死後をトータルで生きるということです。
「今を精いっぱい生きるべきだ」というのは、取り方次第でしょう。
バシャールの言うように、「今ここ」という意味ではそうとも言えますが、死んだら終わりの唯物論から来る「目先の物質的損得」という意味では違うと言えます。

みなさんどうでしょう?
わかっていただけたと思います。
長くなるので、続きは次回にします。







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逆風 [霊的存在]

先日テレビで私が15年前に数学を教えた30歳の女性が紹介されていました。
私は千葉県のS校で2年間非常勤としていましたが、1年目に中3習熟度α(真ん中)クラスを持ち、その中にその子がいました。
数学に関しては1年間αだったので特に才能があるとは思えなかったのですが、他の教科は出来たということ、しかも、日本の伝統文化に関しては高校生の時にテレビに出て優勝したほどの実力と知りました。
その後、慶応に進学、そして今では、日本の伝統文化の会社の代表取締役になり、充実した日々を送っているようです。
「自分の趣向や使命が社会に影響を与えて、それがそのまま生活に結びついているなんて…」
今の私の境遇からすると、何と羨ましいことか。
15年前は、その子たちの前で私は、売り込んでいた絵や著作を紹介したり、時にはピアノまで披露して、中途半端な才能をひけらかして自己満足に浸っていたのですが、今やまったく追い越されてしまった感じがします。

ご察しの通り、私は今年度はまだ職を得ていません。
去年度在職した学校は2月になって継続なしを言い渡され(継続したくはなかったが)、それを想定して11月から始めた数学講師探しは、10校以上応募してほとんど書類落ち、3度目のドタキャンの波でやっと2校面接に行けたものの、他にも応募者がたくさんいて採用に至らず。
要するに、数学教師は今、完全な「買い手市場」なのです。
以前は信じられないことです。
他の仕事は?
10年前にやった整体師は?
しかし地元の街の整体院はといえば、5年以上続いた所さえ最近ことごとくつぶれているのを見ると、腕が悪いのではなくて、客がみな生活苦で出さなくなったのでしょう。
今後ますます厳しくなると思われます。
日本語教師は?
今、外国人移住者が増えて、需要があると聞いて、また考えいるのですが、なにせ、16年半も前に某養成学校を卒業して以来一度も仕事をしたことがないので、すぐやれる自信はありません。
先月下旬に、その養成学校に見学しに行きましたが、忘れていることが多くて、また、実践の感覚がつかめないので、これからまた勉強が必要となりそうです。(もっとも、これは日本では稼げる仕事ではありませんが)

もちろん私の本当にやりたいことが収入に結びつくようなものでないことは十分承知しています。  
でも最低限の物質生活を確保するための仕事でこんなに困難を極めるとは思ってもいませんでした。(シルバーバーチによれば、霊的行動を全うしていれば、最低限の物質生活はできるようになっているはずなのですが…)
最初に紹介した教え子の充実ぶりを見ると、単なる生活のために今さら勉強したり修行したりすることがいやに虚しく思えてきます。

昨日、御徒町に行く用があって、1年前に行った「徳大寺」が目に入ったので、寄ってみました。
最後におみくじを引くと、「凶」でした。
「岸に立って待っても、一向に船が来ない、それと同じ状況」
という内容でした。
気を取り直してもう一度引くと、「末吉」で、同じような内容でした。
そういえば、先月の下旬に、地元の小岩神社に行って引いた時も「末吉」で、
「春はもう花が散ってしまっている、秋口のほうが良い」
ということでした。
私の境遇を見事に表しているのですが、この時期に同じような境遇の人がたくさんいるから、あらかじめそれを想定しておみくじを用意したのではないかとも思ってしまいます。

私はもう若くはありません。
かと言って年金生活が来るまで遊んで暮らせるだけの貯蓄はありません。
最近のニュースで見る中高年の引きこもり61万人の中に入るのかと思ったのですが、引きこもるだけの余裕もありません。
母親はますます老化が進み、この危機的状況すらわからなくなっています。
この容赦なく吹き寄せる『逆風』はいったい何なのか?
これが地上の修行なのか?
今できることは「M親分の遺言」どおりに、毎日のように母親の外出や食事の世話をすることだけです。
そして、相変わらずの活動です。
【あるネットの記事を見て】
『キリスト教女子校人気が再燃の理由(NEWS ポストセブン)』
〔某コメント〕
キリスト教系の学校で気を付けないといけないのは、
「誰も見ていないようでも、神様は私の努力を見てくださっている」
と考えてしまい、ブラック企業に入っても
「これが神様が私に与えてくださった試練」
などと、めちゃめちゃ仕事頑張っちゃう女子になってしまう恐れがあるところです。
ここにだけ気を付けていれば、キリスト教系の学校はとてもよいです。
ポジティブ思考が自然と身につきます。
《これに対する私の返信》
キリスト教に限らず、聖人の教えは、
「地上の住人とならずに、地上の旅人であれ」
「飼い犬になるよりも、野良猫になれ」
ということです。
平たく言えば、カネの出所や権力に媚びるなということです。
ブラック企業に入ってしまったら、即辞めることです。
辞めないで頑張るのは、物質生活に執着があるからであり、無意識に権力に媚びているのです。(悪魔の誘惑)
「野良猫」は確かに厳しいです。(今の私がそうです)
でも、それこそが「神が与えた試練」です。
地上経験において、そこを試されているのです。(出エジプト記におけるユダヤの民)

伝統的宗教の中でも特にキリスト教は、教会の権威や権力維持のために、教義が巧く作り変えられています。
「我を捨てること」を「考えることを捨てる」というようにすり替えられてしまいます。
【これ以降は字数制限のため入れませんでした】
ここが肝心なところですが、このすり替えはキリスト教そのものが原因なのではなくて、教会組織が原因だということです。
これは他の宗教組織でもあることであって、
「自分が認められたい、出世したい、物質的に豊かになりたい」
という地上の欲が根底にあって、利用されるのに気づかないまま、
「我を捨てて奉仕しろ」
と教えられて、自分の都合だけの強欲権力者に奉仕してしまうのです。
つまり、我があるのに、自分では我を捨てたつもりになるのです。
宗教系の学校に入ることは、信仰心を得る「きっかけ」にはなると思いますが、下手をすると家畜になってしまいます。
そして、前回もその前も触れましたが、世の中を悪くしているのは特別な先導者ではなく、こうして「思考停止」した「多数の普通の人たち」だということです。
≪返信終≫
私の境遇がどうなろうと、世の中がどう変わろうと、季節は廻ります。
我が家の葡萄は何事もなかったかのように、また芽を吹きました。
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