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超宗教 [中庸]

今回は、スピリチュアリズムの普及の仕方についてどうしても疑問が残るので言及します。
普及会の人たちは理性による信仰を謳っているものの、私からすれば「頭ごなし」に思えるからです。
人々に備わった理性を発動させることが第一であり、それがなければ、かつての地上宗教と結果的に同じ受け止め方をされ、同じ運命を辿ると思われるからです。

〔引用1〕
《歴史的使命を終え、消滅する運命にある地上の宗教》
真っ先に最高次元の霊的真理を知った私たちスピリチュアリストには、その真理を忠実に実践すること、そして一人でも多くの人に真理を伝えるという大きな使命が与えられています。今、地球上では人類史上“最大の宗教革命”が静かに進行しています。それにともない、地上の間違った宗教は徐々に姿を消していくことになります。
霊界の宗教に比べると、地上の宗教がいかに次元の低いものであるかが分かります。地上の宗教の教えには、ほとんど真理が含まれていません。地上世界の宗教は、霊的事実が全く分からない「霊的無知」な地上人が、想像力によってつくり出した人工的な宗教なのです。そうした宗教が地上人類を真の幸福に導けなかったのは当然です。
【1】あまりにも未熟で幼稚な宗教が紛争や戦争の元凶となって、人々を“悲劇”の中に追いやってきたのです。
【2】こう言うと、「これまで地上の宗教は人々の拠りどころとなり、役に立ってきた」と反論する方がいらっしゃるかもしれません。たしかに地上の宗教も部分的な救いを人類にもたらし、人々の心の支えになってきました。しかし「霊的観点」から見るならば、地上の宗教が人類を真の幸福に導いてきたとは、とうてい言えません。地球上の宗教は、すでに歴史的使命を終えています。スピリチュアリズムによってもたらされた「本物の教え(霊的真理)」が普及するにともない、地球上の宗教は自動的に地上世界から消滅する運命にあるのです。〔引用1終〕

【1】紛争や戦争の元凶となったのは、霊的無知だったからというよりも、地上の人間の一面性を帯びた不完全な言葉による「末端の表現」に囚われているからでしょう。
もし仮に、はじめから霊的事実や霊的真理を聖人を介して神から与えられていたとしても、地上の人間が言葉の省察抜きに「信じる」だけなら、同じことだと思います。
たとえば、後述の「日常における利他的な生き方」を本当に納得して実践できるでしょうか?
また、本当に人々を説得してそれを伝えることができるでしょうか?
なにしろ伝承するのは聖人ではなく主に凡夫なのですから。
表現されたものの本質を知ることなく時が経てば、必ず取り方の違いで形骸化が起こり、様々な派に別れ、そこでまた本質を見抜くことができない人間が末端の表現の違いを理由に他の派を否定し、争いをもたらします。
「教えが正しいかどうか」を、「信じる」だけで本質を見る力のない人間が判断できるわけがありません。

【2】たとえば、「人生は泡沫の夢」「我欲を捨てる」「慈悲」「愛」「天国と地獄」などの言葉で人々を安心させ、あるいは脅し、説き伏せて争い事を防ぐというように、言ってみれば地上の道徳のように宗教を半ば戒律化させることで、いわば洗脳することで小さな平和に導いたとは言えます。
それによって少なくとも「考える余裕」が生まれるわけですし、折り目もなく箍が外れた今の日本のようなまったく拠り所がない状態よりはマシでしょう。
ただ、頭ごなしである限り、同時に紛争に導いたことも事実であって、近年は弊害が大きいようです。
それでも、地上宗教が歴史的使命を終えたということは、使命があり使命を果たしたことにもなります。
イエスは「霊的真理」を説いたはずでしょうし、生まれた当初は表現的にも新鮮で、それなりに意味があったとも思われます。
いや、私に言わせれば、その人に本質を見る力があればそれで充分だったと思います。
遺憾ながら、伝承に使う道具は言葉であり、時が経てば形骸化し、正法から像法、そして末法となるのは世の常で、古い入れ物を廃棄して新しい入れ物にする必要は出できます。
しかし、みなさんどうでしょうか?
スピリチュアリズムによってもたらされた「本物の教え(霊的真理)」も歴史的使命があって地上にもたらされたのだとしたら、やはり歴史的使命を終える時が来るのではないでしょうか?
厳しい言い方をしますが、持っていき方によっては、意外に早く終えるかもしれません。
(今流行りの『スピリチュアル』にその兆しが窺えます)
なぜなら、「これが正しい、あれは間違いだ」と言っても、地上の言葉を介している限り、それだけでは盲信者と同じ思考回路の人たちにとっては、これまでの宗教と何も変わらないからです。
そこで私は、それを永遠なものにするためにお節介をしようというのです。

〔引用2〕
《スピリチュアリズムは「超宗教」》
霊界の宗教には教祖(創始者)は存在せず、宗教組織も儀式も布教活動も宗教施設もないことを述べてきました。こうした霊界の宗教の信仰対象は、「大霊である神」と「神が造った摂理」だけです。霊界における信仰とは、神の利他性の摂理を日常生活で実践することに他なりません。日常における利他的な生き方が霊界の宗教であり、本当の信仰なのです。それによって人間にとって最も大切な「霊的成長」が促され、最高の幸せがもたらされるようになります。
私たちが関わっている“スピリチュアリズム”とは、地上の宗教を霊界の宗教に置き換えようとする運動です。スピリチュアリズムは“霊界の宗教”のミニ版であり、それが今、地上で展開しているのです。スピリチュアリズムの内容は、霊界の宗教と同じものなのです。
スピリチュアリズムでは、神(大霊)を信仰対象とし、たえず神に祈りを捧げます。また、死後の世界の存在を信じています。
【*】こうした点から見れば、スピリチュアリズムは明らかに“宗教”と言えますが、その本質はこれまで述べてきたように従来の宗教とは全く異なっています。その意味でスピリチュアリズムは、「超宗教」と呼ぶべきものなのです。
《“真の宗教革命”とは――霊界の宗教を地上にもたらし、地上の宗教と置き換えること》
宗教の歴史上、さまざまな改革や刷新がなされてきました。それによってそれまでの宗教や宗教組織(教団)のあり方に反省が加えられ、少しずつ方向が変更されてきました。その代表的な出来事が、近世に起こったキリスト教の“宗教改革”です。
カトリック教会の支配と信仰のあり方に異を唱えたプロテスタントが反旗を掲げ、カトリック教会を打破して新しいキリスト教を確立しようとしました。その結果、キリスト教会は旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)に二分されました。そして宗教改革に対抗してカトリックサイドが反撃に出たため、悲惨な宗教戦争が引き起こされることになりました。そうした新旧のキリスト教の対立の流れは現在にまで続き、世界各地で紛争が起こっています。キリスト教の宗教改革は果たして人類にとって良いものであったのか、人類を真の幸福に近づける出来事であったのか、これについては大きな疑問が残ります。
霊的観点から見たとき“真の宗教革命”とは――
【⁑】「霊界に存在する唯一の宗教を地上にもたらし、地上の宗教と置き換えること」です。
霊界の宗教を手本にして地上の宗教をそれに近づけることが、本当の意味での“宗教改革”なのです。そのためには、「霊的無知」の上に築かれてきた地上の宗教を一掃することが必要になります。
【⁂】霊的観点から見たとき地上の宗教は、あってもなくてもどちらでもいいといったものではなく、人類の霊的進化と幸福のためには存在しない方がいいのです。
霊的無知から間違った教えを説く宗教は、いかに努力しても人類を悲劇から救い出すことはできません。救いをもたらすどころか、悲劇を増幅するだけです。本当の宗教改革とは、地球上のすべての宗教を「霊的事実」に立脚した霊界の宗教に置き換えることなのです。霊界の宗教には、教祖はおりません。教義も宗教組織も儀式も布教活動もありません。そこにはただ、「利他性の摂理を日常生活において実践する」という、きわめてシンプルな信仰生活があるだけなのです。霊界の宗教をそのまま地上に展開することによって、地球人類は真の救いと幸福を手にすることができるようになるのです。〔引用2終〕

【*】従来の宗教を超越するという意味は充分わかります。
「他は間違いだ、これが正しい、一番だ」というのは洗脳の始まりですが、「超越する」はどうでしょうか?
『幸福の科学』も、他を否定しないものの、「超越する存在」として優越化しています。
受け取る側が充分理性を備えた人でない限り、「超越」もやはり考えない人や認められていない人の優越感を煽って、洗脳に結びつくのではないでしょうか?
あくまでも、本質を見抜く力(理性)が必要であり、またそれ次第だと思うのです。

【⁑】【⁂】「地上の宗教と置き換える」というのはどうでしょう?
かつて、ユダヤ教に対してイエスがしたこと、キリスト教に対してマホメットがしたことでもあります。
では、古いものは消えたでしょうか?
いえ、残ったままです。
なぜなら、古いものの教義そのもの(本質)がけっして間違っているわけではないからです。
組織や儀式や布教活動という「雑行」が先行して本末転倒になっているだけなのです。
原典を読んでみると、私が見る限り、イエスもマホメットも、古いものを否定して排除しようとしたのではなく、腐ってきたから刷新しようとしたにすぎないことがわかります。
たとえば、聖書の中でイエスは、「聞く耳を持つものは」とか「内において熱心な・外において熱心な」と言っていますが、それらは本質を弁えているか否かで決まることを示唆しています。
ということは、どんなに正しい教えを説いても、本質をとらえることができない人はいつの世もどこにもたくさんいて、形骸化は免れないことさえも、聖人たちは見抜いているのです。

宗教組織も儀式も布教活動も宗教施設も地上における「方便」としての地上の産物であって、それを「教義」とするのはもちろん間違いですが、きちんと「本質」をとらえてさえすれば問題はないはずです。
つまり、信仰が正しいか間違いかは「その人による」のであって、表現された内容ではありません。
極論すれば、どんなに形骸化された宗教であっても、聞く側の信者がイエスやブッダのレベルであればまったく問題ないのですから。

逆にスピリチュアリズム普及会の人たちがいくら誠意をもって霊的真理を説いても、それを正しく受け止めることができる人でなければ同じことの繰り返しです。
スピリチュアリズム普及に際して心掛けることは、これまでの地上宗教を「そのまま排除」するのではなく、組み込んで「盲信だけを排除」し、それらに流れる「本流」をつかむことによって融合することだと思います。
(そのための実際的な活動を私は僭越ながら紹介させていただいているわけです)
それが超越することであり、スピリチュアリズムが「超宗教」になることです。







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