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悪人正機説と幸福の科学〔改〕 [中庸]

前回の続きで、『親鸞よ「悪人こそ救われる」は本当か」』(大川隆法)について、コメントしたいと思います。
この本の内容は、公開霊言から成り立っていますが、霊言の質問者や前置きの文から、幸福の科学の在り方が窺えます。
まず冒頭の『仏教の「善悪不二」という言葉は誤解されている』です。
【引用】(p14)
「悪」の問題に答えられないことが、日本の「善悪を分けられない考え方」のもとにもなっているように思うのです。
 仏教には「善悪不二」という言葉が、あることはあるのですが、これが、誤用、誤解されている面があるかもしれません。
「善人にも悪人にも仏性はあるのだ」という意味においては、根本的には「善悪不二」であることは間違いありません。
(この時点ですでに、前回の荒山氏の善人と悪人の定義が違います)
(すなわち、この場合の善〔小善〕・悪は、すでに善人・悪人に対応していません)
しかし、人間の行為の結果として現れた現象についても、「善悪不二」と言ったならば、この世における政治的現象や社会的現象の善悪に関しても、「判断がつかない」という結論になってしまいます。
(もちろん仏教はそんなことは言っていません)
(秩序維持の方便としての「地上の法」における善悪ははっきりしていなければならないということは、当然です)
(一般に宗教の善悪不二は、地上の善悪不二とは別物です)
(そんなことはみなさんも承知でしょう。しかし以下を見てください)
 後者の意味で「善悪不二」を捉え、「宗教を認める立場の者は善悪を言えない」ということになると、「正義の戦争」を主張できなくなります。また、警察対ギャングの戦いに関しても、結果だけを見れば、「人を殺すこと自体が悪いのだから」、『ギャングが人を殺せば悪だが、警察が犯人をピストルで撃ち殺したら善だ』ということはありえない」という考えも成り立つでしょう。「結果が同じであれば、善悪も同じだ」という考えであれば、そういうことも言えるのです。
 このへんの問題について、宗教は、はっきりしたことを主張できていないと思います。
【終】

どうでしょう?
もうおわかりですね。
完全に話が逸れてしまっていますね。
宗教の善悪は「曖昧」なのではなく『執着しない』だけです。
つまり『超越』するということです。
例のイエスの、
「姦淫しようと思って女を見るものは、心の中ですでに姦淫しているのである」
というのは、姦淫するかしないかは利害を伴う地上の事情で白黒をつけるだけで、霊的には同じレベルであり同じ直線上のものだということ(即非)、その一体化したものがあることがいいとか悪いとかではなく、肉体と知性がある限り逃れられないことを知れということです。(性悪説)
そして地上的な白か黒かにあまり執着すると、偽神を崇拝し、人間であることが見えなくなると言っているのです。
聖人としては、外面の「行動」ではなく「心」を見るわけであって、地上は地上なのです。
省察(回心)しないか、するかです。
地上の計らいに対して、「執着」するか「超越」するかの問題です。
地上の行動に関して、「住人」になるか「旅人」になるかの違いです。
すなわち親鸞聖人の「善人」か「悪人」かです。 

「正義の戦争」や「警察対ギャング」のことも含めて、利害を伴う地上の善悪は、地上的に判断して解決すればよいのであって、地上的な「善悪不二」(水平関係に終始)を、宗教の「善・悪(不二)」(垂直関係に昇華)の問題に置き換えることは無意味なのです。
〈聖書における「カエサルのものはカエサルへ。神のものは神へ。」に対応するでしょう〉

3頁ほど進むと、このような箇所があります。
【引用】(p17)
 悪人正機的な考えでは、病人の場合、重病人こそ、救われます。例えば、救急病院では、重病人を先に処置しようとしますが、それと同じです。
 善人は、放っておいても救われますし、軽い悪を犯した人も、反省をすれば救われますが、重病人は、すぐに大手術を受けなければ救われないわけです。
 悪人正機説は、仏を医者のようなものだと考えれば、「仏さまは、重病人や、大けがをして命が危ないような人から、まず救いに入るはずだ」というような考えです。
 親鸞は、「悪人の自覚があり、『自分こそ、極悪深重の大悪人だ』と思っているような人ほど、弥陀は救われようとしているのだ」と説き、弥陀の慈悲を強調しているのです。
【終】

どうでしょう?
完全に曲解ですね。
善人か悪人かを「悪行の度合い」の違いにしています。
つまり、同じ直線上に乗せてしまっています。
そのため、悪人の自覚の理由を「深い悪」に帰してしまっています。

たしかに傾向として深いほうが自覚しやすいのかもしれません。
しかし肝心なことはそういうことではなく、「浅い深い」は関係なしに、『逃れられないこと』を知ることで諦観が生まれ、超越することができるということです。
単に自分の悪を認めるのではなく、対極にある「小善(偽善)」を含めて一体となった「知性の罪」そのものを人智で消すことができないことを(理性で)悟るのです。

悪人とは、「絶望」という言葉を用いれば、「第一の絶望」を認めることで、「第二の絶望」に陥らないで済む人のことです。(これが救われるということです)
善人とは、「第一の絶望」を認めないことで、「第二の絶望」に陥っている人のことです。

私も実を言うと、弥陀を「必ず治る病院」に譬えたことがあります。
でも、これだと悪行の「やり得」になってしまいます。
しかも、救われるということが等しく「カルマの肩代わり」なら、悪行をやりたい放題やったほうが得だし楽だということで、私もそうしてしまうでしょう。
なので「病院説」は捨てました。

この「病院説」を信じ、もし回心(省察)がなければ、いくら「南無阿弥陀仏」を唱えても、いわゆる「念仏地獄」ということになるわけです。
悪行を重ねても回心があれば、道を得ることでともあれ念仏地獄には陥らないものの、カルマは残り、「清算」に何度も輪廻転生を繰り返すことになるでしょう。

想像されると思いますが、この本は冒頭からこの調子で悪人正機説を曲解したまま、さらに続きます。
途中にもこういう個所があります。
【引用】(p21)
もし親鸞の教えが正しければ、あのような罪を犯しても、仏は彼らを救うはずだからです。
「サリンで大勢の人々を殺しても、弥陀を信じていたら、救われるのか。もし彼らが信仰のもとにそれを行ったのなら、彼らは救われるのか」という問いは、当然、出てくるのです。
 山折哲雄という、宗教学の大家と思われるような方であっても、これがわかりません。悪人正機説でいくと、「オウムの犯罪者たちも、救われなくてはおかしい」と考えられるからです。
【終】

もう改めて言う必要はありません。
この後も、「テロ組織であるアルカイダの行動は善か悪か」などのような、本題から外れたことが続きます。
では、親鸞聖人を招霊して「霊言」を得た後には、幸福の科学の見解が変わったのでしょうか?
結果から言うと変わっていません。
霊言の中で、《「悪人正機説」の真意とは》という表題の個所があります。(p46)
【引用】
〔酒井〕 ただ、前回、パウロ様をお呼びしたときに、親鸞聖人の「悪人正機」に対して、「回心の教えがない。これは堕落だ」というようにおっしゃっていましたよ。
〔親鸞〕 うーん、それには、ちょっと解釈上の問題があるかなあ。つまり、「自分は悪人だ」ということに気づいたこと自体が「回心」なんだよ。
【終】

ここで親鸞聖人は、悪を改めようとするのではなくただ認めることが「回心」(省察)だとはっきり言っています。
にもかかわらず、幸福の科学側はその意味をくみ取らず、堂々巡りの対話を続けます。
【引用】(p54)
〔酒井〕 ただ、そこには教えや戒律はあるのでしょうか。その当時の人たちもそうですし、現代の人たちも、「何が善で、何が悪か」ということを判断できるのでしょうか。
〔親鸞〕 だから、念仏地獄に堕ちている人たちが、「自分たちは悪人だ」と本当に自覚しているかどうかが問題なんだ。
〔酒井〕 「悪人こそ救われる」と言われたら、悪人になったほうがよいのではないでしょうか。
〔親鸞〕 いや、「『自分の悪』というものを見つめて、『自分は本当に悪人だな』と思い、『南無阿弥陀仏』を称え続けたら、救われるんじゃないか」とわしは思うな。
【終】

ここまで来ればもう落語をやっているんじゃないかと思えるほどですね。
唯円に代わって私が歎異抄を著したいくらいです。
また、荀子が『性悪説』を唱えた動機が窺えます。
この本は、この後も最後までピントがずれた内容が続きます。
失礼ですが、結局、幸福の科学の人たちは、「何もわかっていない」ということです。
おそらくこのブログを読んでもわからないでしょう。

この本が出版される少し前、2012年の春、私は暇だったので当教団の支部にちょくちょく足を運んでいました。
ある時、そこにいる会員たちや支部長が「性善説」を話題にしていたので、私はこう言ってみたのです。
「日本人の7割ぐらいは性善説と性悪説を曲解しているんです」
「孟子の言う性善説と荀子の言う性悪説は対立していないんですよ」
「ネットで検索したら、やっぱり私と同じことを言っている人がいました」
ところが、皆さんはポカンとして、何も反応がありませんでした。

大川氏のある著書の中には、「一即多、多即一」(即非)があるのです。
支部の人も「中道」を心得ています。
なのに、なぜここでそれを活かせないのでしょうか?
私見ですが、どうやら「機の深信」までは到達しているとしても、そのあとに理性による「法の深信」に行かずに、いきなり、ただ信じる「神仏」に行ってしまっている感じがします。(法の盲信とでも言いましょうか)
地上の善悪が同じ直線上にあることは認めているようには見えますが、それはあくまで「曖昧なもの」とか「相対的なもの」として捉えるに留まっているようです。
言い換えれば、善(小善)の延長上の彼方に本当の「善」があるという希望をまだ抱いているようで、それらが知性の賜物であり「一体」だということを体得していないように思えます。
肝心なこととして「逃れられないこと」を理性で省察すること、本当の意味で即非を「体得していない」といった印象です。
つまり、超越していないのです。
そこが親鸞聖人を理解できない原因だと思います。

しかし、いい意味で新しい発見もありました。
霊言の中で親鸞聖人がこれだけ真意を酌んでもらおうとしているのに、しかも、幸福の科学側も「悪人だと自覚する」という言葉を何度もそのまま拾っているにもかかわらず、理解できないわけです。
ということは、逆に、霊言そのものに「信憑性」があるということです。
私は思わず笑ってしまいました。

幸福の科学はけっして悪い集団だとは思いません。
少なくとも創立の動機は純粋だったと思います。
会員の方も真面目な人たちばかりですし、ご存じのように今でも冊子や本を届けてくれます。
大川氏は上述からもわかる通り、聡明な実業家であり、霊的能力もあると思われます。
しかし、私からすれば哲学者ではありません。
以前にも言ったように、そこのところが相容れないのです。

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悪人正機再考 [中庸]

悪人正機説について考えようとすれば、「またか」と思われることでしょう。
まあ今回は、墓のある聞明寺からいただいた教化冊子『真宗の生活』を捲ってみて、どうしても言っておこうと思っただけです。
懲りずにお付き合いください。

周知のように私なりの解釈はあります。
ただ、親鸞聖人がどういう意味で言ったのか、もう一度確かめてみようと思ったのです。
【冊子より】(名古屋区教区惠林寺住職 荒山信)
親鸞聖人は縁によって生きるものを「凡夫」と教えてくださっています。「縁」とは条件です。つまり条件次第で何をしでかすかわからない者を「凡夫」といいます。そして自らがその「凡夫」であることに深く気づいた者を親鸞聖人は「悪人」とおっしゃいます。また、自分の意志に従って、どのようにも生きていけると思っている者を「善人」とおっしゃいます。そして南無阿弥陀仏のいのちは「悪人」の大地となり、悪人こそ支えきろうとしてくださるのだと親鸞聖人は教えてくださっています。
 私自身、忘れられないことがあります。それは私が親しくさせていただいている中学校の先生からお聞きしたことです。不登校の生徒さんが、家庭から言われて一番つらくなる言葉は、一番は「がんばれ」、二番は「気にするな」、三番目は「強くなれ」だそうです。
〔中略〕
私自身、人間は自分の意志でどのようにも生きていけるという答えを持っていたからです。まさしく「善人」の姿です。その答えを子どもにおしつけていくのです。親は善意でしているつもりでも、子どもからすれば「善魔」になるのでしょう。善意が相手を追い詰める魔となるのです。悪魔ではなく善魔です。
 ある先輩は「今は悪魔の時代ではなく、善魔ばかりの時代になった」とおっしゃっていました。
〔以下略〕【終】

どうでしょうか。
荒山氏は「悪人」と「善人」を実に明確に定義していますね。
悪人というのは、「悪行を数多く重ねてきた人」のことではありません。
「肉体と知性がある限り誰でも悪(エゴ)から逃れられないと覚った人」のことです。
それはまさしく荀子の『性悪説』を理解している人のことです。
この時点で、「悪人こそ救われるのならいくらでも悪を起こしてやろう」という揚げ足取りの履き違えは少なくとも起こらないでしょう。(でもなぜ救われるのか解せないかもしれません)
悪の対極にある善(小善・偽善)は知性の実をかじった人間の罪が生む同じ直線状のものです。〔⇒機の深信〕
悪の対極の彼方に本物の善があるわけではありません。
いくら小善を重ねても、人間から悪(エゴ)が消えるわけではありません。

一方、ここでいう善人とは、その省察を実践しないために、地上的な法に帰依し、地上的に立派な人間になれば自分が幸福になり、地上的に立派な人間になることを他の人たちに押し付ければみんなが幸福になり世の中が良くなると思い込んでいる人のことです。
荀子の『性悪説』を理解せず、孟子の『性善説』を曲解している人のことです。
(偽神に帰依する理数系の人によく見られます)
冊子の中で「善魔ばかりの時代になった」と言っていますが、本当に息苦しい世の中になりました。

そこで「救われる」とはどういうことか?
自分の重ねた悪行による負のカルマを「肩代わりしてもらって帳消しになる」という意味ではありません。(スピリチュアリズムでは、カルマの肩代わりはありません)
ある段階に次元上昇するという意味です。
道を得るということです。
浄土へ生まれるということです。(ゴールではありません)
私の見解では、輪廻を脱する(解脱)段階の最初の関門である「預流課」を通過することです。
自力で悪(エゴ)を消すことができるとする「善人」は、直線上の行動に終始し懸命に追及するため、直線そのものが見えなくなって、(地上の住人でいるため)、何かで切っ掛けを与えられるまでいつまでも超越できません。
それに対して、悪(エゴ)を消せないと原理的に覚った「悪人」は、直線上で足掻くことがないため、(地上の旅人となり)、超越して直線を見ることができます。
その超越が次元上昇(止揚)ということになります。
預流課を通過すれば、言わば道を得て「道の人」になり、その後何度か輪廻を繰り返すうちに、カルマを解消して解脱に向かうはずです。

くどいようですが、「善」とは省察(即非)により「悪・小善」の直線を超越することで、神仏の光を受けていることを知り(絶対矛盾自己同一)、自信をもって自分の能力において人々に施すことができることです。
「自信をもって」というのはどういうことか。
以前にも言ったように、施しをするときに必ず付き物として「雑毒の善」が立ちはだかります。
それはエゴを含んだ偽善だから意味がないと。
でもそれは、肉体や知性のフィルターを通して見ているから仕方がないのであり、省察が済んだ人にとっては、それを超越した「光」が本体なので気にすることがないのです。

それでも、超越すれば本当に施しに向かうのか、疑問に思う方もいらっしゃることでしょう。
そこはこう考えればよいと思います。
本来人間は闘争的な存在ではありません。
原初の人間は仁愛に満ちていたと言われます。
それがいつの日か「知性の実」をかじってしまって利己と争いが生じました。
ということは、その表れである「悪・小善」を超越すれば原初の状態を取り戻せるということです。

神仏の光を受けていると知ることを「幸福」と呼ぶとします。
あくまでも先に「幸福」があって、結果的に「施し」があるのです。
「施し」は結果なのです。
ただ「施し」をすれば「幸福」になるわけではありません。
「省察」が肝心、いや、すべてとも言えます。
(親鸞聖人はこの省察を『回心』と言っているようです)
「お念仏というのは、つまり自分が自分に対話する道」〔法語カレンダー2020年4月〕
ただ唱えることが念仏ではありません。
省察(回心)の結果として口から「南無阿弥陀仏」が出るのです。

今回はなんだか過去に言ったことの蒸し返しのようになってしまいましたが、はじめはこの続きを予定していて、数年前に読んだ『公開霊言 親鸞よ「悪人こそ救われる」は本当か(大川隆法)』について、決定的なことを言うつもりでした。
しかし、長くなるのと、今回の内容との関係が複雑に入り組んで支離滅裂になってしまうので、次回以降にしようと思いました。

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無題 [霊的存在]

毎年この時期になると、私自身の身の振り方がどうのこうのとボヤキを交えてお伝えするのが慣例となっています。
まあ適当に流してください。

結果的には代わり映えしません。
ただ、それまでの過程がいっそう慌ただしく厳しいものとなりました。
1月途中から3月下旬まで講師の求人十数件に応募してすべて不採用。
ここでは一部の象徴的な出来事をお伝えします。

3月17日、もうこれが最後と思って面接に臨んだ時のこと。
数字の上で割と学力が高い某大学付属の中高一貫校で、電話があってから6日後というのはどういうことなのか少し不安を覚えながら30分前に到着し、校門付近の守衛さんに名前と面接の時刻を伝えると、守衛さんは、
「16時ですね」
私は一瞬耳を疑いました。
確認のために言いました。
「あのう、15時って聞いたんですけど」
守衛さんは手元の印刷物を私に指し示して、
「ここには16時となっていますよ」
私はとりあえず面接の先生方に会わせてもらうようにお願いしました。

高校の教員室前に行って事情を話したところ、すぐに面接するということで、別室に連れていかれて主任2人と即面談。
【主任】:この学校のことはご存じでしたか?
【私】:はい、子供の頃から知っています。
【主任】:どういう理由で応募しましたか?
【私】:学力が高いということが第一の理由です。
【主任】:実はね、そうでもないんです。もちろん中には意識の高い生徒も一部いますけど、大多数は教科書の内容で精一杯なんです。
【私】:ああそうですか。
(偏差値ランキングの高70台・中60台はウソなのか?それじゃ他はどうなってしまうんだ?)
【主任】:ベテランの先生にこんなこと聞くのは野暮なんですけど、もし生徒から、「数学なんて何の役に立つの?」と聞かれたらどう答えますか。
【私】:難しい質問ですけど、もし社会に出て法廷に立つようなことがあった場合に、言葉の定義の仕方一つで判決が逆転することもあるんだ、だから、数学の問題にある条件一つ一つを見逃さないこととか論理的な思考を鍛える必要があるんだ、などと言います。
【主任】:なるほど。ところで先生は高校と中学どちらが希望ですか?
【私】:高校で経験を積んだものでやはり高校の方が得意です。まあ、どちらでもいいですけど、どちらかというと高校を希望します。
【主任】:実はね。高1の16時間または中3の10時間のどちらかなんですけど、先生は高校希望とおっしゃいましたけど、その場合、7月まで、あるいは12月までなんです。そういう時どうされますか?
【私】:(半ば呆れて少し笑いながら)その時は何とかして仕事を探すだけですけど。
(そんなの聞いてないよ、求人票に書いてなかったし、「どうしますか?」なんてよく言えるよ)
【主任】:まあ、一次面接の結果は2日後に郵送でお知らせします。
(この時期に2次面接があるのか?もっとも郵送と言われた時点で不採用が決定なのだが)

あらかじめ面接の感触をお世話になっている教員派遣会社の担当者に伝えることになっていたので、帰り際に電話しました。
《私》:1週間後と言われたのでどうも変だと思ったんですが、7月または12月までだと言うんです。
《派》:産休なんですね。
《私》:いずれにしても期待できないので、そちらでどこかいい所あったらお願いします。
《派》:えーと、ちょっと待ってください。ああ、N校がありますけど。
《私》:N校なら全然問題なく普通に授業できますから。8年前に一度お世話になって、去年再び面接に行ったんですけど、中学の悪いことを言って印象を悪くして不採用になってしまったんです。どうも中2の求人だったらしいんです。なので、私の名前を出せばおそらく拒絶するとは思うんですけど、そこは強く言ってください。「大丈夫ですから」と。

そして、夕食中に電話があり、
「N校さんはもう他の人が決まっているそうです」
と伝えられました。(ホントか?)
これで決定しました。
教員を完全にやめて他の道を行こうと決めていました。
履歴書を書いたり書類をそろえて郵送したりするだけでも、労力と経費が半端でなく、かりに採用されても安いし最長3年までしか居られないし、良いことはないのです。
少し前から、福祉の仕事をしようとある専門学校の説明会に何度か顔を出しました。
教員の仕事がなければ、1年間「通学で」資格を取ろうと思っていました。
無職で通学というのは、学費が非常に高いうえ生活費がかかるので、貯蓄が一気に飛んでしまうことになり、完全に「賭け」です。
それでも長い目で見れば収入が安定するだろうからと思って、キツくでも何とか乗り切る気でいました。
ただ、母親の介護のこともあり自分の体調もあって、昼にするか夜にするか迷っていました。
そのことも含めて、2度面談をしました。
(話の内容は、昼はいっぱいで夜は何とか空いているという段階でした)
そして3月26日、出願書類をそろえて提出するだけになったとき、もう一度面談するということで臨んだところ、大どんでん返しが待っていました。
「カクカクシカジカなので、こちらとしては入学を勧めません」
と、入学しないよう強く諭されました。
(たしかに私の条件からして得策ではありません)
ある意味良心的ですが、厄介者を抱えたくないという事情もあるのでしょう。

その面談が終わった時刻が午後3時半頃。
さてどうしようかと路頭に迷っていると、ふと派遣会社のことが頭に浮かび、さっそく連絡しました。
残っている求人から、高校だけだからということもあって、スポーツで有名なT校を紹介され、30日に面接に行き、翌日正式に決定しました。
派遣で週19時間。
面接で教頭先生が意外なことを言いました。
「講師のなり手が全然見つからなくて・・・・・・」(エッ?)
すかさず私は答えました。
「私はまったくそういう感覚はなくて、一度諦めて他のこと考えたんですけど、それもダメで、またこうして派遣会社にお願いした次第です」

今月3日に講師の集まりがあり、案の定公立準拠で授業開始が5月の連休明けになったことを伝えられました。
みなさんはこのいきさつから、学校の事情や私の状態を容易に察することができると思います。
世間はコロナ騒動で不安を煽られているようですが、私は正直それどころではありません。
この先もずっと物質生活の苦難が待ち構えているのです。
「物質生活向上のために資格を取ったり研鑽したり手に職をつけて・・・」
という発想がどうも私の人生に馴染まないようです。
「ライフワークがあって、あくまでそれを遂行するための肉体の維持がある」
どうやらそう思って生きるのが私にとって健全のようです。
ひとまず終わりにします。


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