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質素とは [中庸]

今日、高1のあるクラスの授業に行くと、いつも黒板をきれいにしてくれている学習意欲満点の男子生徒が、興奮気味に言いました。
「先生の本届きましたよ。めっちゃ面白いですね。最近読んだ本の中でいちばん面白いですよ」
私は意外な反応に少々戸惑いましたが、
「ああ、それはよかった。いやあ、9割の人は沈没するんだけど」
と返しました。
その生徒は、首を横に振りながら、改めて、
「いえ、そんなことはありません」
と言うと、持ってきた現物を出して、
「あとでサインしてください」
と言い、とりあえず授業に入りました。
5年前の最新著作は、苦心した割に売れた形跡はなく、周りの反応がイマイチで、失望しかけていたのですが。
今日の出来事で、私はいかに勇気づけられたことか。
「スピリチュアル」ではなく「スピリチュアリズム」
たとい少数派ではあっても、わかる者はわかるんだということが判明しました。
今後の活動に光が見えました。
どのような形であれ、責務を全うしようと思います。

話は飛躍しますが。
「今の人間は、『自由』を『(強)欲を満たす(追及する)こと』だと思っている」
先日、朝のTVで有名なウルグアイの大統領ホセ・ムヒカ氏が言っていました。
それに関しては、私も20年以上前から言っていることで、著作や当ブログでもたびたび触れました。
「私が両手を広げても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように地べたを速く走れない」〔『私と鈴と小鳥と』より〕
「人は歩いているとき自由だが、空を飛びたいと思ったときに自由を失う」
分を超えずに行動すれば自由(不自由を感じない)であり、分を超えることをしようとすることで即、自由ではなくなります。(不自由を感じる)
分を超えることをしたいと思うのが強欲であり、それを満たしたときの「感覚」(自由の影)を「自由」だと履き違えているのです。

ムヒカ氏は、「世界一貧しい大統領」として紹介されていますが、本人は「貧しいのではない、質素なのだ」と言います。
貧しいというのは、「金持ち―貧乏」というカネに執著した者の観点からの言い方であって、満たされている者、足ることを知る者にとっては、裕福でも貧しくもないのです。
ともあれムヒカ氏は、今の資本主義、すなわち大量生産と大量消費が、人々から幸福を奪い、地球を蝕むことを懸念しています。

もっとも、ムヒカ氏は伴侶もいますし、地位もあり、9割寄付するだけの金銭的余裕もあります。
自分の意志で質素な生活をしているのです。
つまり、足ることを知るだけの最低限の物質的条件が備わっているのです。
そして、この文明を根本的に見直す精神を発信し、その活動を世界に影響を与えるだけの立場にあります。
だからこそ世界が注目するのですけれど、でもそれが「本物」と言えるかどうかは微妙です。 
なぜなら、本当に物質的になくなって困るかもしれないという「恐怖」がないからです。
かつて私の同僚に、「カネを使わないのがオレの主義だ」と言う貧乏が道楽の資産家がいましたが、それと同じで、私から見ると「余裕を感じている」ようにも思えるのです。

一方私はというと、そういった物質的条件がなく、魂を売らずに毎月赤字で貯蓄が減るだけの生活を余儀なくされているニコヨン貴族です。
つまり、意志ではなく、質素倹約を実践するように迫られているわけです。
逆説的に言うと、その恐怖を克服する(消すのではなく自分のやることに集中することによって超越する)のが本物の「清貧」のはずです。
逆手にとって、そのお手本を示すのが私の役目なのですが……
あいにく、若い頃のブルジョワ的生活が染みついているためか質素倹約ができておらず、当然の報いとして、常に物質生活破綻の恐怖が付きまとうのです。(小学5年の頃から、母の仕事の親玉である司法書士と私の家族がプライベートで一緒になる時間が長くなり、いわゆるブルジョワの生活を経験することになりました。ゴルフ、クルマで旅行、美食など、庶民ができないことをたくさんさせてもらいました。今の家も3分の2はその司法書士が出して建てたものです。すべては母の美貌の賜物か?)

まあ、それからすると今の境遇は自然状態から見れば明らかに方輪であり、「当たり前のこと」が出来ていないわけですから、私が著作やブログでどんなに「足るを知る」が幸福だということを人々に発信しても、多数派の人には説得力がありません。
むしろ絶望感を与えるかもしれません。

【余談ですが、先日行ったマッサージ店の中国女性との会話です】
小姐「你结婚了吗?」
私「没有」
小姐「为什么?」
私「因为我没有钱」
小姐「没关系」
〔この最後の言葉(関係ないよ、気にしないで、大丈夫)がいったいどういう意味なのか?どなたか建設的な解釈ができる方がいらっしゃいましたら、お知恵をお貸しください〕

話を戻します。
昨日、いつものように一人で買い物に出て、夕飯の弁当と翌朝のパンを買い、帰り際に家の近くのスーパーで、必要と思って、「缶ビール2本と御菓子2個」(914円)を買って袋に入れました。
でも、よくよく振り返ると、最後のスーパーの物はなくても生活できるのではないか?こういうのを削ると毎月3万円ぐらい浮くのではないか?とふと思ったのです。
夜、電話でかの友人にそのことを話すと、
「ハセガワさん、そう思えるようになったってことは、ここで成長したんだよ」
とよくわからないことを言われました。
地上的な思考を強いられるようになっただけであって、成長なんて言えるものではありません。
これは地上生活における試練であり成長の糧はありますが、「浪費と吝嗇」は一体で執著です。
あまりどっぷり浸かると「地上の住人」になってしまいます。
試練を受け止め、これを克服(超越)してこそ(霊的)成長です。
とりあえず物質的な習慣を変えて、意識しない状態にしたいものです。

冒頭にも示したように、やはり自分の仕事(責務)を主に生きることが幸福をもたらすことになりそうです。

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