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人と人間(3) [霊的存在]

20数年前だったか、ある日の夕方のニュースで、突然ある生理学者の研究発表が報道されたのを覚えています。
『女性は動物に近く、男性は人間に近い』
まあ、「動物」というのは、適応能力が高く安定していて、結果的に寿命が長いということになるのでわかりやすいと思います。
それに対して、「人間」とはいったい何を指すのかその時は今一つはっきりしませんでしたが、前回までの続きで言えば、適応能力が低く、迷いが深く、理想を追求し無駄なことをする、ということでしょう。

今回は、男と女の違い及び役割に関して、人間というものを深く掘り下げてみたいと思います。
ただ、昨今の事情から、いささか危険だと取られるところもある故、権威を盾とするべく識者たちの見解を引用せざるを得なくなり、かなり冗長になってしまいました。
軽くお付き合いください。

では、人に限らず、動植物のほとんどはなぜ雌雄に分かれているのでしょうか?
物質的身体的に言えば、すべて「メス」が基本であり、「オス」は繁殖の都合で後からできた副次的なものだということです。
極論を言えば、オスは生殖だけのためのメスの出来損ないです。
以前私は、一つ前の著作の中でミジンコの生態についてこう述べました。
〔ミジンコはもともとすべて雌で、分裂して個体が増えていくが、増えすぎると環境が悪くなるので、雄を生むことで生殖と卵を産むことによって時間をかけ、繁殖の速度を遅らせる。それでも個体が増えると、今度は孵りにくい卵を産むようになり、個体数を調節する。〕
つまり、オスとメスに分かれたのは、と言うより、オスができたのは、「数の調整」のためだと私は考えたのですが、どうやら他に「感染で絶滅しないために」という理由があるらしいのです。
次の文献をご覧ください。
【引用①】
『女と男』というタイトルに「あざとい」というお叱りがあることはわかっているが、これにはふたつの理由がある。
ひとつは、「性の基本は女である」こと。受精卵を男の子にするのはY染色体のなかのSRY遺伝子(Y染色体性決定領域遺伝子)という微細なDNAで、受胎後5週目ごろから活動をはじめ、性腺を精巣につくり変える。6週目ごろには精巣からテストステロンなどの男性ホルモンが分泌され、未分化の性器結節からペニスが発達し、尿道ヒダが癒着して陰嚢になる。
では逆に、なにが受精卵を女の子にするのだろうか。そのこたえは「放っておけばいい」だ。
Y染色体を持っていても、SRY遺伝子が機能しないか、テストステロンの受容体が欠落している(AIS/アンドロゲン不応症候群)と、胎児は女性として成長する。外性器(ヴァギナ)も正常な女性と同じなので本人も親も気づかないが、思春期になっても初潮がないため、調べると子宮も卵巣もないことが判明する。
聖書には、アダムの肋骨からイヴがつくられ、エデンの園で暮らすようになったと書いてある。だが生物学的にはこれは逆で、イヴ(メス)からアダム(オス)が分岐したのだ。
生物学的にいうならば、オスとメスによる両性生殖が進化したのは、グループ間で遺伝子を効率的に交換できるからだ。それぞれの個体に遺伝的多様性がないと、寄生虫、細菌、ウイルスに感染したときに種ごと絶滅してしまう。
そのように考えれば、オスの役割は(子孫を産む)メスに遺伝的な多様性を付加することしかない。神経科学者のサイモン・ルベイはここから、「オスはメスにとって寄生虫とさして変わりはない」と述べた。
かくいう私も「寄生虫」の一匹なので、不手際をご容赦願いたい。
(『女と男 なぜわかりあえないのか』橘玲)
【終】
人を「動物」の視点から見た場合、男は女の副産物であり、女に比べて寿命も短く不安定な存在です。
環境に適応する能力に関しては、男は女にまったく及びません。

一方で、聖書では女は男の肋骨から造られたとされています。
もちろんこれは喩えであって、肉体的な意味ではありません。
聖書はあくまで肉体を度外視した霊的な「人間」の視点から述べているのです。
でも、女が霊的に劣っているという意味ではないようです。
【引用②】
1987年にアメリカで製作され、アカデミー賞を受賞した『月の輝く夜に』の中のセリフ。
「何故、男は女を追うの?」
「それは、聖書にある。アダムの肋骨でイヴを作った。男は自分の骨を捜している。胸にぽっかり穴が空いている。女性はそれを埋めてくれる。男は、女がいないと完璧な人間になれない。でも確信はないですけど。」
(ブログ「ローカル女たちよ!」紺やすこ)
【終】
繰り返しますが、肉体的に男は女がいないと五体満足な独立した「人」ではない、言わば「肋骨が1本ない身体障害者」だということです。
それに対して、女は男がいなくても独立した「人」です。
生物の基本はメスであって、オスは生殖のための存在なのですから当然ですが。
それでも霊的には独立した存在なのであって、肋骨欠損が霊的にどう影響するのか、どうやって生きていくかを考えることが霊的進化を促すと言えるでしょう。
霊的に言えば、肋骨は男の肉体の部分、あるいは生命を司る部分といえます。
それを示す文献を紹介します。
【引用③】
アダムのあばら骨の1つを取ってイヴを生んだという考えは、母親の肋骨から子の身体を造るというシュメールの太女神ニンーティ(あばら骨の女神)の話に由来するものである。シュメールの太女神は「肋骨の女神」であると同時に、「生命の女神」でもあった。」
(『神話・伝承事典』 バーバラ・ウォーカー)
【引用④】
創世記に書かれている“肋骨の女”に相当するシュメール語は、その音価で“Nin-Ti ”といいます。“Nin”は女性を意味します。そして“Ti ”にはいろいろの意味があるなかで、ヘブライ語の語り手は、Ti を‘肋骨’と訳してしまったのが間違いのもとです。
結論から言うと、‘肋骨’の女ではなく、「“命あるものの母としての”女性」と訳すべきであったと私は考えます。
シュメール・アッカド語対仏辞典 によると、Ti には異なったいくつかの意味があるのです。身体あるいは構造体の一部を表すときには、“肋骨”あるいは“船の竜骨”などを意味します。しかし同時に、“生命ある”、“生きる”、“癒す”、という意味もあるのです。
したがってヘブライ語の語り手は、“生命ある”の方を使うべきであったわけで、Ti に肋骨という意味があったからといって、アダムの肋骨をとってイヴをつくったと言わなくてもよさそうなものです。
ちなみに、Ti を二つ並べてTi-Ti とすると、乳房、豊かな胸、Ti-AMATは海という意味になります。いずれにせよ、Nin-Tiは“生命あるものの母としての女性”と訳す方が自然です。
しかし、“生きとし生けるものすべての母”と訳すと、母なる大地、豊穣の女神、地母神崇拝、水神、天候を司る神など多神教につながり、ヘブライの一神教の世界では都合が悪いので、あえて肋骨の女と訳したのかもしれません。
(『歴史上最大の誤訳  -女は男の肋骨からつくられた-』谷口正次)
【終】

そもそも事の発端は、私が業務中に、一面的な「平等」という言葉に染まった若者を見かねて、彼らに対して問い掛けたことです。
K:戦前の日本までは女性に選挙権がなかったんだよね?
 じゃあ、戦前の日本人はバカなのか?
S:それは歴史的な事情があったんだよ
K:いやあ、今の日本人からすれば、どんなに言い張っても男女差別だろ?
 なにか「平等」という一面的な言葉に乗せられてないか?
 社会には必要な差別だってあるんだよ
S:たとえば?
K:大人と子供とか
 今の日本だって、子供には選挙権がないよ
 それは、子供は社会のあり方を決めるに値しないと為政者も国民も認めているからじゃないか?
 女性も同じだよ
 昔はその点で女性は子供と同じ扱いだったんだよ
 その代わり、兵役もなかったから、虐げられていたわけでも蔑視されていたわけでもないんだよ
 そう考えれば不思議でも何でもないだろ?
S:でも、機会だけ平等でもいいと思うけどなあ
 中には大人より解っている子供もいるよ
 戦前だって、一般の男性より頭の切れる女性もいたはずだよ
K:そうかもしれない
 でも、機会を平等にすると困ったことが起きるんだよ
 喩えるなら、切れ味が悪い純金製の包丁とか、輝きが美しくないナイロンの指輪が出回ることになるんだよ
 それとも、女性兵士を戦場に送るのがお国のためだったのか?
 年齢差別は我々の年代にとっては有り難くないものなんだけど、いくら元気な老人がたくさんい るからといって、年齢制限を取っ払ったらどうなると思う?
意外と満足に仕事ができなくて足手まといになったりするし、だいいち、あなたたち若者の仕事がそれだけなくなるんだよ
 年配者たちは同意するんだけど、社会には「落差」がないとダメなんだよ
ある程度「差別」がないと、社会は流れないんだよ
 そもそも男とか女とか大人とか子供とか、「言葉」そのものが「差別」を表すのであって、社会を円滑に動かすために「言葉」があるんだよ
 
どう?男女差別って、あってはならないとホントに思うか?

そこで、男女と社会との関係になるわけですが・・・。
みなさんは、今の社会は男が作ったものだから、女は入り込めないとか生きづらいとか言うのを聞いたことがありませんか?
では、女が作る社会というもの存在するのでしょうか?
まずは識者たちの見解を聞いてください。
【引用④】
橋本治がきっぱりと社会は「男のもの」だと言い切っている。一部を抜粋してしまっているので、これに腹を立てる人もいるかもしれないが、きちんとそれは理論付けてあるので、興味があれば全編読んでいただきたい。
下記は『父権制の崩壊あるいは指導者はもう来ない』橋本治より一部抜粋。
《男の周りにある外部システムが、それに同調した男にはメリットを与えるような仕組みになっているからだ。会社人間という日本的なものが生まれてしまったのは、戦後の日本で「会社」というものが、それに従う男に最も分かりやすいメリットを与えたからだろう。別の言い方をすれば、世の中は男に都合のいいように出来ていて、それは世の中を構成する論理が「男のもの」だからだ。それで女達は、あれこれと文句を言うし、それがめんどくさくなった女は「男の論理」を無視して勝手に生きて行く。》
男と女はどちらが優れているかという話自体が、おかしな話なのだけれど、二項対立が好きな日本人にとってはわかりやすいワード「男」「女」があれば、優劣を付けたがる。サルトルの思想的盟友であったシモーヌ・ド・ボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という社会構築主義を語る上で言われており、つまり「女性性」は存在しないことを示している。生得的な性意識は存在しないというのは、フェミニズムと基本的な礎となっている。
女性という社会的存在の構築が「男性」によって行われたというのは、通説というか社会的慣行になっているわけだけれど、内田樹も『私家版・ユダヤ文化論』のP50でも話すように「そもそも社会の起源において父権制的な社会慣行を作り出したのは誰なのか?」という問いが誰も答えられない。この問いこそが、橋本治の言う「男の理論はあって女の理論はない」という現実なのだろう。
(ブログ「ローカル女たちよ!」紺やすこ)
【終】
以前、細木さんがテレビでさかんに言っていました。
「だって、女が男になっちゃったんだもん」
この場合の「男」というのは、社会に出て働いて収入を得るという男性が構築した「社会的存在」(末端の顕現)のことです。
昔と違って、女性も同じく社会に出て働いて収入を得るというあくまで男性が構築した「社会的存在」(末端の顕現)になっただけのことであって、けっして女の性質(陰・地)が男の性質(陽・天)に変わったわけではありません。
決めたものに順応しているだけです。
その在り方を決めるのはいつの世も男性なのです。
女性はいつの世も男性が作った鋳型に流れ込んで自在に変形するのです。
女性は順応性が高いのですが、社会を能動的に変えるには「順応性が高すぎる」のです。
環境に適応するということは、それで満足であって、迷いがないわけですから、自分がどんな環境にいるかが見えないのです。
以前にも言ったと思いますが、知能が高い女性たちでさえ、(いや、高いからかも)女性が環境の中でしか思考できないことを認めています。
近頃「女性が輝く社会」を謳っていますが、どう輝くというのでしょうか?
「ワークシェアリング」と同様に企業側の論理になってはいないでしょうか?
女性は焚き火の時に燃料になってくれるかもしれませんが、火事の時も燃料になってしまいます。
「今、戦争なんだから」に対して、「今は戦場なんだから」と言って突撃するだけです。
一般に、「ここはこうだから、今はこうだから」と言うときに、女性はただ環境の中で対処し一方的に解決するだけですが、意識ある一部の男性は、解決するよりも環境を生得の性質に沿った本来の姿に変えようとします。
社会のあり方を考えて決める役は、迷い深き男が担ってちょうどいいのです。

「動物=肉体=適応=女性」であり、「人間=社会=迷い=男性」です。

みなさん、今一度考えてみてください。
人間とは何でしょうか?
ただ偶然肉体が生まれて、無難に過ごし、できれば良い思いをして、死んで終わりではないはずです。
特に男性同朋に賛同してもらいたいのです。
本当の意味での平和を実現しようではありませんか。

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無題 [中庸]

予定では、今回は『人と人間(3)』だったのですが、まとめることができずにバタバタしているうちに年が明けてしまい、なんとなくTVを見ていると、
「これはいけないな、言っておかなければ」
と思うことがあり、急遽作ることになりました。
結局、前々回の補足みたいになってしまいましたが、懲りずにお付き合いください。

その番組は、田舎暮らしをする老夫婦を取材する内容でした。
最後に、「今年の目標は何か」を聞かれて、老夫婦は、
「明日天気であればいい、健康であればいい」
と答えました。
それを聞いて、進行役の70歳ぐらいの某インテリ芸能人が、
「そうだよね、それでいいんだよね」
「学校で、何のために生きるのか?とか先生が言うじゃない」
「それがいけないんだよね」
などと言っていました。(もちろん昔の学校のことであって、今は聞きません)
みなさんどうでしょう?
その老夫婦やその芸能人にとっては、長い人生の中でいろいろ悩んだ末に辿り着いた境地でしょうから、それでいいのです。
でも、それをはじめから子供や若者に言うのはどうかと思います。
極論を言えばそれは、
「どうせ死ぬんだから、生まれて来なくてもよかったんだ」
と言うのに等しいと思います。
また、組織宗教の形骸化を見るようでもあります。
省察や中庸を実践して道を得た人が、自ずと出た言葉が「南無阿弥陀仏」だからと言って、信者に向かって、
「ただ、南無阿弥陀仏を唱えていれば救われる」
と言うようなものです。
あるいは、教会の人が、
「神は人智の及ばない存在だから、考えるのをやめて祈りなさい」
と言うのに似ています。

以前も言ったように、素朴な生き方というのは、ある意味で哲学者の目指すところではありますが、生来素朴な人(カルマ解消済みか?)と見かけは同じであっても、その「過程」が違うのであり、それが肝心なのです。

これも一度取り上げたかもしれませんが、あのアニメのやり取りがすべてを表しています。
ジャコウネズミ:「無駄じゃ、無駄じゃ、まったく無駄じゃ、すべて無駄じゃ」
スナフキン:「無駄なことをするのが人間じゃないのかね?」

「雨降って地固まる」と言って、いろいろな迷いや病気などの苦しみを乗り越えて、解脱に向かうのが道であり、霊的進化を促すのであって、それを揺るぎないものにするために人生があるのです。

さらに、当ブログの『論語より』(2017年7月)で取り上げたことにも通じます。
樊遅が知とは何か、と孔子にたずねた。
「われわれは、ややもすれば人間を超えた存在に頼る気を起こしがちだ。
しかし、まず人間としてやらねばならぬことは何かと考えること、それが知だ」
樊遅はさらに仁についてたずねた。
「人間として正しいことは、たとい労多くして功少なしと知っていても、
あえて実践する態度、それが仁なのだ」

人生の無駄を無意味だと受け止める思考を促してはなりません。
「考える切っ掛け」を与える、いわゆる「産婆術」を施すことです。
それは霊的に生きる人の責務です。
かの芸能人はたしか大学で東洋哲学を専攻したと記憶しています。
ただ、哲学に限界を覚えたから中退したと言っていたのも覚えています。
もしかすると、私の言うようなことに嫌気がさしたのかもしれません。
いずれにしても、私は放っておくわけにはいかなかったのです。

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