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平等(病同)と差別(差蔑) [中庸]

ある識者は言います。
「同じでなければ人権を認めないというほうがよっぽど差別的だ」

そうです、即非(陰陽)です。
「平等(同じ)」は意識の直線上の「差別(偏見)」対極にあり、ひとつの差別(偏見)です。

以前にも挙げた『私と鈴と小鳥と』の最後に、
「鈴と小鳥と、それから私、みんな違ってみんないい」
とあります。
生得の資質(差異)を無視した、あるいは蔑視した「平等ウィルス」は、生得の資質(差異)をもとにした差別よりも余程タチの悪い差別なのです。
今の世の中はもはや「平等」ではなく「同じ」を良しとしているようです。
なぜ「同じ」がそんなにいいのでしょうか?

みなさん、何か変ではないですか?

男女差別に限らず「問わない」とか「言葉にしない」というのならともかく、「平等」という言葉でそれを謳ってしまうと、「平等」から「同じ」になってしまい、「同じことをしなければならない」になってしまいます。
もはや【病同】です。
そうすると、「平和」の実現は絶望的です。
「賢人は和して同ぜず、愚人は同じて和せず」
と言うように、違うことをして「和」ができるのであって、「同じ」からは和はできないからです。
男女には明らかに差があるのですから、差を認めたうえで補い合うのが平和への道ではないでしょうか。(それでも鍵と鍵穴を例に出すと、問題発言だと言う偽善フェミニストもたくさんいます)

今マスゴミが世間を騒がせている森氏の発言に対して、あなた自身は(ホントは)どう思うのでしょうか?

【新たに挿入】
《組織委は7日、「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無など、あらゆる面での違いを尊重し、讃え、受け入れる大会を運営します」などとするコメントを公式ホームページに掲載した。》
とあります。

違いを尊重するのなら、「同じ場で同じことをさせる」のではなく、役割分担させたらどうなのでしょうか?

また、
《「ジェンダーの平等は東京大会の基本的原則の一つ」などと強調した。》
とあります。

ジェンダーフリーが東京大会とどういう関係があるのでしょうか?
どう反映するのでしょうか?
競技は別々みたいですし。
【終】

その立場の人が蔑視したどうこうで問題にするのはともかく、何々の精神に反するからというのは、問題のすり替えではないでしょうか?
それならばいっそのこと、競技も男女を分けずにやったらどうでしょうか?

(もっとも、マスゴミは一部の人が代表者であるかのように仕立てて、大勢の人を煽って、儲けているだけでしょうから、国民のほとんどにとっては、どうでもいいことなのでしょう)

まあ、森氏の騒動はさて置いて、根本的に問い直してみませんか?
世界が「平等」を謳っているからと言って、「平等」が本当に平和をもたらし、人類を幸福にするのでしょうか?
古いから悪い、新しいから良い、と短絡的に決めつけてはいないでしょうか?

これは「思想」という様式の「違い」ではなく、健康か病気かという「状態」の問題です。
それを知らないと、「今は今なんだ」になってしまいます。

「神は男には労役の苦しみを与え、女には出産の苦しみを与えた」
聖書の教えは「古い」から通用しないと言えるのでしょうか?
「能力」の問題ではなく、「生得の資質」の問題です。
世間の風潮がこうだからと言って、有利だから、楽だから、本音を言うと攻撃されて厄介だから、と言って「多数派」に付いていないでしょうか?
もしそうだとすると、常に「平等」から(思考が)出発してしまって、話にならなくなります。
それは現代の形骸化した組織宗教と同じで、自分で考えなくなるのです。
みなさん、現代の人間の思想が変わったというのは、成熟したからなのでしょうか?
だいいち、過去から未来へと、人間社会は良い方向へ向かっているのでしょうか?

それともう一つ、やはりこれです。
「良く思うこと」が社会を良くすることで、「悪く思うこと」が社会を悪くすると思い込んでいるということです。(性悪説に対する無理解と性善説の履き違え)
みなさん、振り返ってください。
男性なら男性の集まり、特に酒の席で、女性蔑視を言葉にしていませんか?
女性なら女性の集まり、特にお茶の席で、男性蔑視を言葉にしていませんか?
「思う」だけなら、問題は起こりません。
しかし、公の場で「本音」を言えば、喧嘩になります。
そのために「偽善」(地上の道徳)があるわけで、それで表面的に抑えて喧嘩を防いでいるわけですが、偽善は所詮偽善です。
「思うこと」まで変えられるわけではありません。
偽善の延長に本物の「善」はありません。
毎度私が言うように、性善説及び性悪説の履き違えが全世界に蔓延しています。
「平等」を謳うことで、世界の人々の意識が「平等」になるとか、本音が「平等が良い」に変わると思っているとしたら、「平等ウィルス」による完全な重症です。

なぜこういう世の中になってしまったのでしょうか?
重複しますが、もう少し詳しく辿ってみたいと思います。
原初の頃の人間は、差別と平等の意識もなく、それぞれが分に従って生きていたと思われます。
そして、いつしか社会が生まれました。
社会には「言葉」があります。
必要だから言葉があるのです。
人間が円滑に社会生活をするためにはどうしても区分けが必要となります。
それが「言葉」で表されます。
つまり、良くも悪くも言葉そのものが「差別」なのです。
社会に「言葉」が必要だということは、すなわち「差別」が必要だということです。
もともとは、「男」と「女」の言葉も社会の必要性からできたものです。
男と女という差別が、生得の資質に沿って、うまく役割分担して補い合っている(いた)わけです。

ところが物質文明の発展で、男でなくても、女でなくても、というように、役割分担がぼやけてきました。
その「男女を問わない」ということが、規制ではないため、意識に上らず、「言葉」にならないのです。
といっても、「男」や「女」という言葉が消えるわけではありません。
仕方なく「平等」という言葉を用いて、不必要な差別を取っ払おうとしたのでしょうけれど、あいにく言葉というものは、意志上のものであって、ひとつの「差別」になります。(即非・陰陽)

「中庸」なる漢方薬を飲んで健康な状態にしようとしても時間がかかるので、「平等」なる西洋の劇薬を飲んだら、「白黒症候群」なる副作用が出てしまったというわけです。
起きた問題を解消するのが目的なのに、解決を図って、白か黒かの問題を作ってしまったということです。

そうして、「平等でなければいけない、平等に反することはすべて悪だ」となってしまったのです。
それが多数派になると、「平等」から思考が出発し、「平等だから、ああだ、こうだ」という短絡的な思考回路が出来上がり定着します。
また、楽だし安心だということで多数派に付けば、「常識の罠」にはまり、振り返ることなく思考停止し、常識に反する人を虐める側に回り、快感を得ます。
言葉が差別であり社会に必要だから存在するということを忘れ、いや、振り返らず、「言葉」を使っただけで、利害に関係ないのに、その人を非難したりするようになります。

その極みが「差別用語」なる熟語です。(以前、それで作家たちは、これじゃモノが書けないと言って、デモやストを決行しました)
侮蔑する言葉だからと言いたいのでしょうが、再三言うように、言葉そのものが差別であり、良く思うか悪く思うかはその人の取り方次第です。
なのに、かつて「めくら」は盲人を勝手に蔑視する言葉だと決めつけて、「目の不自由な人」と言い換えるように、国の要人が呼びかけていました。(何が切っ掛けか?当の盲人たちは自分のことを「めくら」と言っていますし、特に不利益を被っていないようですが)
私の父親は呆れて、「めくらはめくらだよ」と吐き捨てるように言っていました。
お笑い芸人は不細工な人を「顔の不自由な人」と言ってネタにしていました。

では、差別が問題になるのはどういう場合でしょうか?
もちろん影響力や力のある側の人が、人を分ける言葉を発したり、人によって扱いを違えたりすると、立場や境遇によって利益を受けたり、逆に不利益を被ることがあります。
たいがい、不利益を被る人たちがそれを問題にするわけです。
日本の中で権力者が外国人に向かって「〇〇人は・・・」と言えば、悪意はなくても、〇〇人は死活問題になるかもしれないので問題にする場合もあります。
私のような何の権力もない者が仮に悪意を込めて「〇〇人は・・・」と言っても、私に対して怒るかもしれませんが、生活に影響しないので問題にはしませんし、問題になりません。
要するに問題にするかしないか。
ただそれだけです。

しかし、道理のわからない人は、悪い差別を受けた人だけが問題にして訴えるものだから、「差別そのものが悪い」と思ってしまうのです。
さらに、「差別は悪意を伴う」と決めつけてしまいます。
「差別」ならぬ【差蔑】です。
これは、再三私が言う「性悪説に対する無理解と性善説の履き違え」が原因と言えます。
「差別」を悪として、その意識の直線の対極にある延長に「平等」という本物の善があると思う誤謬です。(地上道徳に帰依するユリゼン信仰です)
「平等」を意識すれば「差別」という悪意が消えると思い込む間違いです。
同じ意識の直線上のもので、「悪―偽善」という即非・陰陽です。
(真っ当な教会や寺では、悪の意識やエゴは消えないという説法をなされますが、孟子や荀子との関連は説明されないようです)

最近のネットの書き込みで、
「男は、女は、って言っちゃいけないの?」
というのがありますが、今の社会の病気の重さを象徴しています。

【追加】
どうもネットには、思想や価値観の違いで、年配者が今を理解できないというような書き込みが多いので、私はコメントしました。
【ネットへのコメント】
男尊女卑は偏った思想ではなく、男=陽、女=陰という古来の生得の性質を、社会(=男)の中で反映させたものです。
年配者が「今」を理解できないのではなく、今の人の多数派が古来の人の知恵、自然な在り方を理解しようとしないだけです。
なぜなら、今の人は生まれた時から「平等」という偏った思想(一つの偏見)を刷り込まれているからです。(違ったのではなく病気になったのです)
おそらく、このコメントに賛同する人は少ないでしょう。
それだけ今は、易で言う「(天山)遯」の時代(状態)だと言えるでしょう。

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