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父と音楽(+動画) [音楽]

父が亡くなってちょうど30年が経ちました。
私の家族は、以前は葛飾区の或る辺鄙な町に住んでいました。
私はそこで高校卒業まで過ごしました。
私が幼少の頃、すなわち昭和40年前後というのは、日本全体が元気な時代で、父も母も社交ダンスを習い、既述のように、父は兄弟や居候のおにいさんのほか、近所の人を家に集めてバンドを組み、休日に演奏をしていました。
部屋には大きなステレオとダンス用のLPをはじめドーナツ盤や手裏剣盤が置いてあり、タンゴ、ジャズ、ハワイアン、歌謡曲、民謡など、あらゆるジャンルの音楽に溢れ、そういう情操教育に打って付けの環境の下で私は育ちました。
その流れで私はピアノを習うことになったのですが、どちらかというと母から強制的にやらされたという感じで、そのせいか、当時は音楽は好きでもピアノという楽器はあまり好きではありませんでした。(育った環境に西洋のクラシックがなかったからかもしれません)
父自身はベース(コントラバス)を演奏し、アメリカ音楽を好み、特にサッチモ(ルイ・アームストロング)のファンで、(叔父さんたちが言うには)サッチモを語らせると一日中話しているというくらいでした。
というわけで、私と父は音楽を介した親子関係でもありました。
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時は流れ、昭和50年代になると、日本社会は全体的に、文化を楽しむことよりも物質生活に重きを置くようになり、猫も杓子も(トコロテン式に)進学し、就職するという方式が出来上がりました。
そしてそれが過熱して受験戦争へ。
もっとも私にはその流れに乗る意思は微塵もありませんでした。

父は材木屋の次男で、若い頃から実家の手伝いで身を立てていましたが、収入は低く、その時代においては家族を充分養えるほどではありませんでした。
それでも母は私と姉を私立学校に入れようと、必死になって外で働き始め、次第に父と不仲になっていきました。
そして数年後、私が大学に通うためという理由をもって、母と姉と共に私は今の小岩の家に移り住むことになりました。
ただし、かかる経緯により、父には新居の場所を教えていませんでした。

しかし数年後、父は知人を通して私たちの新居を突き止め、以後ちょくちょく来るようになりました。
それからは、父が来るたびに外に食事に行ったり、都心の方に行ったりもしました。
私が私立学校に就職してから1年後に、そろそろグランドピアノに替えたいということもあって、何処だか忘れましたが、ヤマハの展示場に父と行きました。
いわゆる「Cシリーズ」と「S」が並んでいて、いくつか試弾させてもらいました。
当時私は、ベートーヴェン後期の作品に嵌まっていて、就職してすぐに、晩年の『6つのバガテル(Opus126)』に取り組みました。
「C4」を試弾したときの〈第3曲〉を32年振りに練習して弾いてみました。
https://photos.app.goo.gl/euNotPw3k8mgf5s7A

試弾しているとき、父は黙って笑みを浮かべているだけでした。
それで結局購入したのは例の調律師(高木さん)の店からで、「S」でした。
その後、父が来ると、新しいピアノでE・サティの『Je te veux』などを披露したのでしたが、父はアメリカ音楽が好きなので、「次の機会にはこれを」と思って買った「ガーシュウィンの楽譜」を父に見せて、それを聴かせるつもりでした。
ところがそれは実現しませんでした。
なぜかと言うと、あまりにも難しかったからです。
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この曲集はガーシュウィン自身がピアノ用に編曲したもので、一見弾けそうな曲でも、弾いてみると難しくて何度練習してもあまり上達しないのです。
巷にはこれを易しくした中級版や初級版が出回っているくらいですから。
そんなわけで、父が来て、
「この前のガーシュウィンは弾いてみた?」
と聞かれた時に、私は、
「いや、まだやってないよ」
と、答えるのがやっとでした。
父は幾度か、
「元の家を改修するからと言って帰ってきてくれ」
「このとおり駐車場を作って・・・」
と、図面まで用意して懇願したのですが、私はつい「今の家が便利だから」と言って断ってしまいました。
父はさぞかし失望したことだろうと察します。
そして1年後、父は癌で入院し、その2年後に再発して帰らぬ人となりました。
もちろん私は悔いが残りましたが後の祭り。
葬儀を終えて墓を建てるなどバタバタしているときに、私はスピリチュアリズムに生きること、そして著作等何らか形を残すことを父に誓いました。

ただひとつやり残したこと、それは父の前でガーシュウィンの曲を弾くことです。
もはやそれは叶いませんが、30年たった今、霊界で聴いていることを想定して弾くことにしました。
どうせやるならいちばん難しい曲をと思うのが人情で、最後に掲載されている『LIZA』に決めました。(表紙にある順番は違っています)

gers humenn1.jpg
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と勢いよく言ってはみたものの、いざ始めたらとんでもなく難しく、音を取るだけで精一杯、表現を考える余地などありません。(若者風に言うと、やってみぃ、メッチャむずいよ)
1年練習しても完璧には程遠いものとなってしまいました。
ジャズ特有のテンション(9,11,13)を使った広い分散和音の連続で、しかも半音ずつズレていくので至難です。〔ミスはご容赦を〕
https://photos.app.goo.gl/keVM2FWHTT5NoqEn6

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神の心 [中庸]

思索中ふと思い出したのが、故池田晶子女史の問い掛けです。

「人権が天与のものなら、どうして人がわざわざ文章にする必要があるのか?」

これはいったい何を言っているのでしょうか?
まず、社会があるということは同時に人権があるということであり、人権のない社会はない、人権のない集団は社会ではないということです。
近頃、特に若い人は、末端の表現である言葉にとらわれて白か黒かの思考から、
「人権がある社会なら、人権がない社会だってあり得る」
などと言う人たちが出現するかもしれませんが、それは根本的に間違いです。
〔今(以前から?)、ある意味で人権のない社会に近い状態があちこちで見られると思います。それに対して、「今は今なんだ、昔のことは言わないでくれ」みたいなことを言って、ただ順応や適応だけを考える若者が増えていると思いますが、完全に「様式」と「状態」を履き違えています。(進んで伝染病に感染する。楽だからだけれど、麻薬のようなもので自身を蝕む。)〕

それに、地上における世法と雖も、それは神の地上における人間の末端の表現であって、けっして人間が勝手に作ったものではないということ、「神の心」の反映であり、またそうでなければならないということを表しているのです。
どんな場合でも、「神がもとで人間がそれを表現している」ということを忘れてはいけません。
人間は神の様態(表現)なのです。
神が宝石だとしたら人間はカットされた面であって、一体なのです。
戻りますが、神から人権が与えられているからといって、
「もう保証されているのだから安全で守られているのだから、何もしなくてもいい」
とか、
「天与のものだといわれてもいても実際に人権が守られていないから、言葉で強化しているのだ」
と神と人間を切り離してはいけません。

もともと人間は攻撃的な存在ではありません。
もとから人間は社会的存在です。
原初の状態であっても、欲が出なければ殺し合いはなかったでしょうし、今のように法律があっても欲が出れば殺人は起こります。
すべては神の掌の上でのことで、それを人間の言葉で表現することで、はじめて人間の活動が可能になるのです。

まあこれは基本的なことで、学校の社会科で教わるはずですが、人権があるということは、人を殺めてはいけない、傷つけてはいけない、などの規制が伴います。
社会の営みを人間の言葉で表現しました。
ところが、言葉は末端の表現で常に「一面性」を帯びています。
人間に生きる「権利」があれば、同時に「規制や義務」が伴います。
社会契約を結んでいるわけですから。
言葉の一面性は拭えませんが、規制や義務もはじめから同時に神に内在しているものです。
ということは、社会において、完全なる「自由」はあり得ないということです。
完全に自由であるならば、人を殺すのも自由なのですから。

みなさんは、
「自由で平和な社会の実現」
などと聞きませんか?
まあ、この場合の自由は、「不当な抑圧がない」という意味なのでしょうが、自由を積極的にとらえて拡大解釈してしまっては危険です。
一面性があることを忘れてはなりません。
実際、「自由経済」や「自由競争」なるものがどんな結果をもたらしているかを見ればわかるはずです。
経済的に力のある者が自由に行動できれば、殺傷とまではいかなくても、どれだけ苦しめるか明らかです。(格差拡大とか、株価だけ上昇とか)

それでは、
「平等で平和な社会」
はどうでしょう?
もちろん「同じこと・同じ数」という意味の平等ではないとします。
再三言うように、同じことをしては「和」ができません。
ならば、百歩譲って「機会が平等で」ということにしましょう。
それで平和は実現可能だと思いますか?
前に紹介した識者たちの言うように、機会が平等であればその人の資質や趣向や意志によって能力を存分に発揮することができて、自然と役割分担ができて、結果みながそれなりに社会貢献できて充実な人生を送れるはずですけど。
今の日本は他国と比べてわりと機会が平等だと思いますが。
平和になっているでしょうか?(いわゆる「戦争」をしないという意味ではありません)
今後、さらに機会の平等が進んで、ますます平和になることを想像できるでしょうか?

機会の平等が進めばそれだけ規制がなくなるわけで、ある意味「自由」が拡大されるのです。
自由が拡大されれば前述のように自己責任が増すわけです。
それに、忘れてはいけないこととして、人間には「強欲・貪欲」があるということです。
ということは、地上的物質的な損得勘定で行動をすることで、ある所に殺到して過度の競争が始まったり、ある所にはなり手がいなくなったりします。
それでも選択できるうちはいいのです。
エスカレートすると、一方的に物質的有利なことの選択を余儀なくされるのです。
精神的霊的に健康だという理由で物質的不利なことを承知で選択したらどうなるでしょうか?
「不利になる」にとどまらず、そこから「生活できなくなる」に変わります。
「誰でも大学進学できる」が「みんなが大学進学しなければならない」に変わり、
「70歳まで働ける」が「死ぬまで働かなければならない」に変わり、
「男女問わず雇用される」が「男女ともに労働しなければならない」に変わります。
これで平和と言えるでしょうか?
もうすでに結果は出ているではありませんか。

ではどうすれば平和が実現するのでしょうか?
ひとえに、「君主」が現れることです。(またか!?)
よく言われるのは、今のコロナ禍などで人々が不安になると、大衆はつい「強いリーダー」を求める傾向があるけれど、それは危険なことだと。
もちろん、今の状態のままなら、強いリーダーが生まれれば、「右か左か」という地上に張り付いた思考のため、軍事的な国家主義を招く可能性が充分あるでしょう。
また、カネ持ちとか地上的な力のある者が主導権を握ると、例外なく今の日本のような奴隷王国になります。
再三言うように、上に立つ人とは(肉体的欲はあっても)強欲のない人、地上的なものを超越した人であって、必ずしも地上的に立派な人ではありません。(喩えれば交差点の真ん中の台の上に立つ交通整理のおじさんでいいのです)
言い換えれば、「神の心を具現することができる人」すなわち「霊的指導者」です。
超古代文明にはそういう指導者がいたそうです。(古代の天皇もそれなのかもしれません)
そういう人が君主として擁立されるように、要人も大衆も意識が変わる(拡大する)ことが大前提です。
私は人々の理性の発動と意識拡大のために、このように懲りもせず省察を促しているわけです。
人権の確保に「規制」が伴うように、平和の実現には何でも機会平等ではなく、ある程度「あらかじめ定められた分業」が伴うことを理解する必要があります。

それと、池田女史はこうも言っていました。(哲学者はみな言います)
「幸福とは当たり前のことができることである」
周囲を見て、今の世の中に当たり前のことが出来ている人がどれだけいるでしょうか?
本来することをして「生きて」いるでしょうか?
みな生存はしていますが、おそらく生きている実感がないと思います。
自分自身の「生活」がやっとだと思います。
それはひとえに、「分業」が出来ていないからです。
劇薬「平等(病同)」の副作用が激しすぎるのです。

してみると、前に取り上げた聖書の中の、
【神は男には労役の苦しみを与え、女には出産の苦しみを与えた】
は、まさに「神の心」の表現ではないでしょうか?
これが人間界の戒律に定められていたとしても、けっして偏った法ではなく(言葉の一面性は拭えませんが)、人間の幸福のために、「当たり前のこと」をするように定められた神の心の反映といえるはずです。
もちろん、原始返りをするというのではありません。
物質的な条件を超越して、本来の姿になるのです。
そうすることで、男は失った肋骨を取り戻すことができるのです。

再三取り上げる幸福の科学は言うまでもなく、たまに郵便ポストに入っている冊子『陽光ライフ』(崇教真光)には、神の時代から現代を経て未来へと、文明の流れがイラストで示されています。
今の争いに満ちた唯物主義から、いずれはまた芸術やその他文化に満ちた愛の時代に戻ることになっています。
ただし、それもパラレルワールドの一つであり、その人が光(本質)を取るか闇(末端)を取るかで入り込む世界が決まります。
スピリチュアリズムに則った健全な宗教団体は、みなその実現を目指して大衆に働きかけているのです。

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乾し草 [中庸]

ひと月余り面倒な業務が続きましたが、ようやく一段落しました。
世間では相変わらず蔑視発言が取り沙汰されていますが、それも一段落したようです。
というより、周囲の人を見る限り、商業的な報道に対して案外覚めているようです。
むしろ私のほうが前回までのことを引き摺っていて、野暮用でバタバタしている間もいろいろと思考を巡らせていました。
もうウンザリだと思う方もおられるでしょうけど、今回のことに限らず病める日本にとって大事なことだと思うので、敢えて言及します。
とはいえ、どうも纏まりがつかなくて、何回かに分けてお届けすることになりそうです。
内容が前後しますが、ご容赦ください。

もうひと月前になりますけど、やっと言ってくれたって感じです。
朝の某TV番組である女性識者が熱く語って、思考の反省を促していました。

【機会が平等であっても、結果的に数に差が出来てしまう。「機会が平等」だからと言って、「数を同じにする」とか「同じことをする」というのは違うんです。もともと違うものなのですから】

「機会が平等」というのは「問わない」という消極的で意識に上らないことであり、それをを「平等」という意識に上る言葉で積極的に推進するのは違うのです。
現に政治家への道は男女を問わないのに、実際なるのは男性が多いのです。
これは能力の問題ではなく、意向や資質のためです。
女性の多くは、政治家になりたくないのです。
政治家に限らず、仕事は同等以上に出来ても、出産の関係もあって、家庭に入りたいという女性もたくさんいます。
それを多様性だとか言って、無理やり数を同じに持っていこうとするのは、違うと思います。
こう言い方は好きではありませんが、「男が多いのは良くない」と思うことこそ、「男性蔑視」ではないでしょうか?
と言うより、報道は女性の存在価値以上に男性の存在価値を明確にしていません。

それから、ある女子アスリートのコメントです。
【日本には他の人と同じことをしないといけない文化が アメリカに渡り、他者への視線の違いを痛感した。アメリカではすべて肯定から入るというか、その人がいいと思うならいいっていう風に受け入れてくれます。日本の文化や日本人のよさはありますが、他の人と同じことをしないといけないとか同じ意見でないといけないという文化が同時に存在している。人は一人ひとり違うというのが普通で、一人ずつ違う個性があって、それを受け入れるのが目指すべき社会だと思います。でも今、日本はそうなっていない】

一方で「多様性」を主張していながら、同時に他方で「(数もやることも)同じでなければいけない」と言っているのですから、正気の沙汰ではありません。
池波先生ではありませんが、頭がおかしくならないほうがおかしいのです。
そしてさらに、一つ上の階級で「そういうことがおかしい」と思っても、自己防衛のためか、実に多くの人が、その日本的な「同調圧力」に屈してしまうのです。
(その辺のことに関しては、また後で言います)

前回までの内容に対する反応を見て、どうやら私の説く「平等の一面性(危険性)」や「必要な差別」に賛同されない方が多いということが伝わります。(ネットの状況を見て、だいたい「1:3」くらいでしょうか)
私のような非権威者がいくら熱弁をふるっても、大多数の人はまず聞く耳を持たないでしょうけれど、今回このように著名な識者がTVでひと言発すれば、「分からず屋」たちも、「あれ、何かな?」くらいは思うかもしれません。
「権威のない人間の百回の戯言は、権威のある人のひと声に如かず」
まあ、そんなもんでしょう。
根本的には理解していないことになるので、本来は望ましくないのですが、少しでも大衆に考えるきっかけを与えるのならそれでも良いと思います。

ただ、その番組の司会者が女性識者の発言を何とか止めようとしていました。
なにか都合の悪いのでしょうか?
そうです。
マスゴミは「考える人」が増えてもらっては都合が悪いのです。
どこかの支配者たちと癒着しているのかもしれません。
利己的支配者は、老若男女問わずたくさんの人を安い賃金で使うことによって、人手が足りて余っているにもかかわらず、「(都合のいい者の)人手不足」を訴え、結果的に就職難になることから、しがみ付かせて、魂の奴隷を作ろうという魂胆があります。

夜の番組でも、「夫婦別姓」を主張する夫婦が“亀井さん”に会って話をする場面がありましたが、亀井氏は、
「そんなの得手勝手だ!」
「だったら結婚しなければいい」
「愛し合っているんだろ?それだったら一つになることだ!」
「日本は天皇の国なんだ。国家の恩恵を受けておきながら、国家に何もしないなんて勝手すぎる」
と少々憤慨していました。(西洋でも、結婚すれば妻は夫の姓を付けます)
私もそう思います。(「天皇の国」は大袈裟かもしれませんが)
なにかすべてが自分(個人)本位になっている感じです。
家族や国家や人類に対する「義」が失われているのです。
それに、事情はあるとはいえ、こんなことで折り合いを付けることができないなのなら、所詮うまくいくわけがないと思うのですが、どうでしょうか?
(私が以前4年間在職したT校の職員室には夫婦がいました。職務上の都合で別姓を名乗っていましたが、戸籍上は同姓と思われます)

ここから少し話が飛躍します。
ある識者が言うように、もはや資本主義及び貨幣制度は行き詰まりました。
被支配者の庶民が働けば働くほど、そして成果を上げれば上げるほど、経済活性化の利益が支配者に吸い上げられ、庶民は相対的にますます貧しくなる構造になっています。
被支配者が貧困から脱するには、競争して「模範囚」の座を勝ち取るしかありません。

どうやら言葉の一面性が「自由平等」を独り歩きさせ、強欲を野放しにしてしまったようです。
ムヒカ大統領の言葉を借りますが、みんな幸せになるために生まれてきたのに、これ以上なぜ限られた富を、老若男女が一斉に心身をすり減らしてまで争って奪い合う必要があるのでしょうか?

それを知ってか、最近の若い人たち、特に一流大学の学生たちの中には、
「なんでわざわざ使われる側になろうとするんだ?」
と言って、起業することを考える者が増えているようです。
そうして成功すれば、比較にならないほどの収入を得ることができるし社会貢献もできるというのが彼らの言い分です。
でもどうでしょう?
一見真っ当なようで、何か抜けていませんか?
本人にとっては使われているより、世の中のために何か役になっているという充実感は生まれるでしょうけど、全体を客観的に見渡せば、使う側に回っただけであって、資本主義や貨幣制度そのものが変わるわけではないので、雇用に関しては相変わらず霊的奴隷を作り続けます。
大川氏の言葉を借りると、本気で社会貢献を考えるのなら、資本主義や貨幣制度そのものを取っ払うなどの時代破壊的行動をする必要があります。
エゴのための空気は読まないことが前提です。
(“職人”が生きる社会になってほしいものです)

概して、日本の中の優秀と言われる人たちの思考が、世間から認められる立派な人間、あるいは世間が羨む社会的成功者になることだけになっているように思えます。
「義」がないこと、これが小野田少尉の言っていた「利己主義」に当たるのでしょうか。
よく価値観の違いだと言う人がいますが、そうではないと思います。
どこまでも「地上的」なのです。(物質に限らず、末端の表現である言葉もそうです)
では、地上的な物に執著し地上的な事に終始し続けるとどうなるのでしょうか?

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H.ボスの『乾草車』を見てください。
乾し草(地上的なものの象徴)の取り合いです。
行き着く所は地獄です。
「ならば、どうせ行く先は同じなんだから、どう考えてもどう行動しても一緒じゃないか?」
と思う方もいると思います。
でもそれは、スピリチュアリズム及び量子論からすれば、並行宇宙の選択肢の一つであって、地獄は自分が招くのです。
ということは、自分次第で深みに嵌まるのを防ぐことができるはずです。
地上経験において、深みに嵌まらずカルマを清算すること、地上の住人とならずに地上の旅人になることです。
繰り返しますが、私のような類の人間はみな、人々がそのきっかけを掴むために活動しているのです。
自分次第で「光」を選択することができるはずです。

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