SSブログ

盲信地獄 [中庸]

報道されているように、このコロナ過で、人々の不安に付け込んで入信させてカネを巻き上げようという盲信教団が動いているようです。
みなさんの中にもそれら盲信教団の訪問や勧誘に悩まされている方がいらっしゃるかもしれません。
私の所にも顕正会の信者が来ました。
ただし、20年前にも一度電話で勧誘してきた同じ小中学校の同学年の男Kです。
どこで突き止めたのか、今度は直接家に来ました。
経緯から「折伏」が目的だということは分かっていましたが、顔御見知りだということもあり、私のほうも盲信を撲滅して理信を促す活動をしている手前、無下に追い払うのはスピリチュアリズムの精神に悖るかと思い、世間話をしたあと、配信用のメールアドレスを教え、向こうの印刷物を受け取り、私は自分の6年前の著書を渡しました。
手渡しをしている間にも、
「スピリチュアリズムだよ。スピリチュアルじゃないよ」
「本質を見極めればみな同じだからね」
「宗教関係者が争っていたんじゃねぇ、平和は望めないよ」
と、それとなく先制攻撃しましたが、Kは不敵な笑みを浮かべて、
「それはどうかな」
「日蓮大聖人だけが正しいと断言しているんだ」
と、さっそく盲信者の不穏なる答が返ってきました。
私は瞬間的に、「あっ、ダメかな?」と思いました。

案の定、4日後に郵送で私の著書を送り返してきました。
また、他の宗教や宗派を邪教と断定する顕正会の冊子(浅井氏著)が同封されていました。
読んだかどうかわからないのですが、盲信に陥る仕組みとそれを排する内容の私の著書に対して、盲信ぶりを強調する内容の冊子を送り付けたということは、はじめから「聞く耳を持たない」ということですから、私も即座にその冊子と印刷物を送り返しました。
すると、3日後の日曜日にまた訪問してきて、インターホン越しに、
「Kです。(冊子を)読んだ?」
と言ったので、私は、(失礼だろ。私の著書について一切言わずに、と思いながら)
「ああ、送り返したから」
「あなたとはもう会うことはないよ」
と返しました。
Kは、そう言われるのが慣れているかのように、
「ふーん、返したんだぁ」
「じゃあ、成仏できないね」(成仏したと思い込む「疑似天国」すなわち「盲信地獄」なのですが。理解のない者が成仏できるわけがありません)
と、捨て台詞を吐いて、去った様子でした。
〔5年前にキリスト教の教会の盲信者の言った『ああ、長谷川さんは幸せになれないやぁ』を思い出します〕
イエスや日蓮など、肉体を持った人間を崇拝し本尊とすること、残した言葉や聖典などを「聖遺物」扱いするのはみな盲信です。
地上的なことを超越するスピリチュアリズムでは、聖人はみな神や仏の意思を伝える「メッセンジャー」であり、聖典や経典はみな道を得るきっかけを与えるための「方便」です。
スピリチュアリズムが、「今の地上の宗教はダメだ」と言うのは、けっして「教義」が間違っているということではなく(改竄はある)、信者が方便である一面的な教義に囚われて白か黒かを競い合うその「心得」が間違っているということです。

「では、なぜそんなやり取りをしたんだ?」
と思われるかもしれませんが、ひとつには、あいまいな態度で接すれば、向こうから折伏の可能性を持たれて面倒なことになるので、はっきりと自分の活動を示して諦めさせるためそうしたわけです。
もうひとつは、実のところ、お人好しで寛大だと自負する私は、教義の違いだけでなくそこに何かすべてを超越する内容があるのかと仄かに期待をしていたのです。
日蓮は鎌倉仏教の中でも後輩に当たることですし、唯円が『歎異抄』を表したように、それまでの禅や念仏も、形骸化して正しく伝わらなくなっているのも確かであって、それを刷新する意味があったのではないかと微かな希望を持っていました。
ちょうど、700年ほど経って形骸化したキリスト教に対してマホメットが刷新したように。
しかし、少なくとも浅井氏の冊子を見る限り、真言も禅も念仏もキリストもすべて邪教とし、キリスト教に至っては『おとぎ話』扱いしています。
ということは、「末端の表現」に囚われているだけだということは明らかで、超越し刷新する意味合いはないということです。
もっともそれ以前に「組織」の問題があって、中国や韓国の首脳がわざと国民の反日感情を煽って結束力を高め統率しようとするのと同じく、他を否定することで信者を束ね、権威と権力を確保しようとする極めて地上的な目論見があるでしょう。

以前私は、「言ってもダメな盲信者」と「言って何とかなる盲信者」がいると言いました。
私の経験から、大きく分けて3つ考えられます。
❶「組織の上司の圧力による折伏のノルマに怯える人」
❷「思考力がないため、また、能力に自信がないため、考えないこと、思考を預ける(理性を捨てること)を『信じること』と履き違え、権威や権力にしがみ付いて他を攻撃し、劣等感を優越感に変えることで快感を覚える人」
❸「自発的に菩提心を起こしたわけではなく入信した人、純粋に末端の表現、経典や聖典の言葉という末端の表現に囚われて、本質が見えない人」
(“平等”から思考が出発してしまうことで、いかなる“差別”もすべて「悪」になってしまう現代日本と同じ原理です)
その他、それらの複合もあります。

そのうち、少しでも①または②の要素がある盲信者は「言ってもダメな盲信者」です。
❶は地上的な「自己保身」が動機ですから論外です。
❷は土台省察するだけの思考力がありませんし、しがみつくものを失うと何もできないので、不可能です。
❸だけの盲信者中には、「論理の使い方」を省察することで、盲信を解除できる人もいると思います。
なので、私の仕事は❸の人のみに対して効力があるということです。

それならKは?
一連の行動から見て、❶の可能性があります。
今回の言動や行動と、姿や学力(私は知っているので)を考慮すれば、❷は確実でしょう。
❸は言うまでもありません。
一縷の望みに賭けて接したのですが、甘かったようです。

「誰誰がこう言っているから」と教義に囚われて、思考を権威に預けて、考えないことで楽になり、権威を笠に着て他を否定し攻撃することで自己肯定し快感を得ることが天国とか極楽とか悟りとか成仏だとかいう人、いわゆる「おめでたい人」というのは、アル中やアヘン中毒と同じで、霊的に自身を蝕むだけです。
「本人が幸せだと思っているのだからいいじゃないか?」
という人がいますが、地上に生まれてきて霊的進化をするのが目的であるのに、「疑似天国」という幽界に留まるのは、進化が止まるわけであって、道ではありません。(戒禁取が消えないので、預流果の関門を突破できません)
道を行くことは、思考停止して感覚的に楽になることや、特権を与えられたかのような快感を得ることではありません。

みなさんは、もしそういう盲信者に折伏が目的で付き纏われたら、どう対処されるでしょうか?
無視するでしょうか?
受け流すでしょうか?
突っぱねるでしょうか?
それとも教義を超越する書物などを引き合いに、省察を促すでしょうか?
あるいは、自身の力で諭すでしょうか?

❶や❷は何を言っても無駄なので、
「どうぞ、地獄へ『成物』してください」
と祈って、無視するか突っぱねるのが得策でしょう。
あまり執拗なら、法的措置をとってもいいと思います。
それに対して、盲信者は十中八九、「迫害された」と受け取ることでしょう。
しかも「迫害されることを名誉と思え」などと言い聞かせながら、聖人気取りでいるはずです。
もちろん健全な私たちは、「迫害」などしていませんし、教義を否定しているのでもありません。
盲信者たちの「心得違い」を指摘しているだけです。
盲信者は論理的に間違えているのではありません。
論理の使い方を間違えているのです。
邪教なのではありません。
邪道なのです。
もっとも、その手の盲信者にそれを言っても絶対にわかりません。
前回言ったように、高い視点に立てないのですから。

❸に関しては、また改めて言うことにします。

4年前に講師室の隣の席にいた20代の京都出身の信仰心ある数学教師がボヤいていたのを思い出します。
「宗教って、本当はこんなものじゃないんですよ」
「今の宗教なら、(間を置いて)ないほうがいいですね」
以前にも言いましたが、「宗教は危険だ」という結論だけ言えば、私たちが信仰心のかけらもない『唯物論者』たちと言を一にしなければならないということが、たまらなく辛く歯痒いのです。
どうやら、地上の宗教は役目を終えたようです。


nice!(0)  コメント(0) 

盲信→理信→スピリチュアリズム [思考実験]

「東京―リオデジャネイロ間の距離は?」
と聞かれたら、みなさんはどう答えるでしょうか?
詳しい人なら、いや詳しくなくても調べればわかることで、
「18593km」
と答えることでしょう。
でも、それに対して、
「12000kmぐらい」
と答える人がいたらどうでしょう?
頭がおかしいと思うでしょうか?
それならば、
「東京にいる貴方から、リオデジャネイロに住むある人はどれだけ離れているか?」
と聞かれたら、少し迷うかもしれません。
そして、地球を離れて遠くから見ることを想像すれば、お互いにほぼ裏側だから、
「12000kmぐらい」(地球の半径が6378.1㎞)
と答えることに理解を示すでしょう。

最初の状態を振り返ってください。
地表にへばりついている時は、「地球の内部は通過できない」という暗黙の条件(常識という偏見)が前提にあるので、それは思考に上らず、距離と言えば、自動的に飛行距離や航海距離ということになり、離れて見た時の「曲った線」をいうわけです。
この「暗黙」というのが肝心なことであって、「のめりこんでいると意識に上らない」ということです。

「地球の内部は通過してはいけない」
という条件に対して、
「そんなことは言ってないよ」
と言うと、
「なあんだ、そんなことか」
となるわけです。
いわゆる『コロンブスの卵』は、
「殻を潰してはいけない」
という暗黙の条件、偏見を取っ払うことの難しさを言っているわけで、よく言われる「まったく新しいことを最初に思いつくことの難しさ」とは違います。

ならば、新しいことを思いつくというのはどんなものがあるでしょうか?
たとえば、高校の数学で習う虚数ですが、私が授業で教えるときには、
「今日から世界観が変わるよ」
などと言って始めます。
数直線に0と1と-1をとって、
「1にマイナス1をかけると反対側の-1になって、その-1にマイナス1をかけると1になって、その繰り返しだよね」
「でも、それだと、2乗して-1になる数なんて考えられないだろ?」
「半分移動するから0というわけにもいかないし」
「そこで、〈-1をかける〉ということを、〈反対側に直線的に移す〉のではなくて、発想を変えて、〈反時計回りに180度回転する〉と決めるんだよ」
「そうすると、2乗して-1なのだから、ひとつ分は、90度回転とすることができるんだよ」
「そのうちの反時計回り90度回転を虚数単位iとするんだ」
などと説明するのです。
それに対しては、生徒はけっして、
「なあんだ、そんなことか」
とは言いません。
暗黙の偏見を取っ払ったわけではないからです。
「ああ、たしかにそう考えれば、理解はできるけど」
ぐらいで、どちらかと言うと、無理やりそう決めたみたいな感覚でしょう。
しかし、
「iがないとロケットが飛ばないんだ」
と付け足して、けっして空論ではないことを強調すると、受け入れるのです。

言ってみれば、前者(距離の問題)は省察による盲信解除と理信に相当し、後者(虚数の導入)は霊的自覚によるスピリチュアリズムへの意識拡大に相当します。

東京―リオ間を「18593km」と答える人は、そのときは「12000km」と答える人を理解できませんが、「12000km」と答える人は、はじめから「18593㎞」と答える人をひとまず理解できます。
盲信者は自分の盲信に気づかないがゆえに盲信者なのです。
盲信者は理信者をまったく理解できませんが、理信者は盲信者をとりあえず理解はできます。

実数の範囲では、虚数を表現できませんが、虚数を含む複素数の範囲では、実数を表すことができます。

同様に、3次元空間に住む私たちは、通常は5次元の世界を表すことができませんが、5次元の世界を体験する人は、3次元の世界を超越し表すことができます。
唯物論者や盲信者はスピリチュアリズムを否定するだけで到底理解できませんが、スピリチュアリストは唯物論や盲信をひとまず理解し、それら同士の争いを超越します。
(続きがあるのですが長いのでここで切ります)


nice!(0)  コメント(0)