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日月神示(補足) [中庸]

前回の補足として、私がくどいほど取り上げている「平等と差別」に対応する事柄が『日月神示』にあるので報告します。

中矢伸一氏のブログから一部を拝借しました。
《「差別」や「平等」という言葉に騙されるな》〔2020.06.08〕
全米各地で起きているBLMデモを見ていると、自分の意見というものを持っているように見えるアメリカ人でも、扇動されやすいんだなあと思います。
日本人の方がむしろ、こういう過激なデモとか行動には、扇動されにくいですよね。
民度の違いもあるかもしれませんが、自分には関係ないとか、よくわからないという人の方が多いということかもしれません。

それにしても、トランプ大統領が極左過激派テロ組織と認定した「ANTIFA」のデモとか主張などを見ると、こういうふうに「差別」とか「平等」とかいう、一見すれば誰でもその通りと思えるようなスローガンを掲げて社会を混乱に導く連中が、この世を乱してきたんだなあと痛感します。

当然、人種による差別はいけないことですし、男女は人として平等であるべきですが、そういう聞こえの良い言葉を表に立てて、裏では秩序や伝統を破壊し、最終的には国そのものを潰そうとたくらむ、悪魔のような人々がいるということです。
またそういう連中に何の疑いもなく騙されてしまい、自分たちが正義の行動をしていると本気で信じてしまう大勢の「善良な」人たちがいる。
日本国内にもたくさんいます。

日月神示には、ここのところが小気味いいぐらいにハッキリ書かれています。

「差別、則(そく)平等と申してあろう。取り違い禁物ぞ」(『冬の巻』全1帖)

「平等愛とは、差別愛のことぞ。公平という声に騙されるなよ」(『黄金の巻』第56帖)

「悪平等は悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ」(『黄金の巻』第88帖)

「平等とか公平とか申すのは悪魔の罠(わな)であるぞ、天地をよく見よ、人民の申すごとき平等も公平もないであろうがな、一寸伸びる草もあれば一尺伸びる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの」(『五葉之巻』第9帖)

「区別すると力出るぞ、同じであってはならん。平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である」(『月光の巻』第7帖)

こうした神示は、日月神示の後半部分にあたる「下巻」や「五十黙示録」に多く出されているのですが、日月神示を批判する人の中には、とくにこの後半部分を「偽物の神示だ」と決めつける人が多いのです。
さて、それはなぜでしょうか・・・?【終】

★中矢氏の文章はここで止まっています。
(もう言う必要はないということでしょう。というより、呆れて言う気もしない、自分で考えろということでしょう。でも考える人は全体の1割だと言っています)

要するに、(神の言葉として)「本物か偽物か」と言っていること自体、「(自分で)考えていないこと」を自らが証明しているようなものです。
本物だったらどうだというのでしょうか?
(そのまま鵜呑みにするというのでしょうか?)
偽物だったらどうだというのでしょうか?
(ただ排除するのでしょうか?)
自分の思考力が及ばなくなると「偽物呼ばわり」するということは、完全に思考を権威に託して盲信しているにすぎないわけです。
権威に託した「本物か偽物か」という思考回路こそ、これまでの伝統宗教の形骸化を生み、宗派同士の無理解と排斥を招くわけです。
盲信者たちが『日月神示教』を作っていくのが目に見えるようです。(中矢氏の1991年の著書の購入者の多数派がこのような意味での「本物か偽物か」に興味を抱く盲信者だとわかるのであり、中矢氏の心中を察するに余りあります)

真に道を行く人ならば、メッセージが本物か偽物かにかかわらず、その真意(神意)を汲み取るはずです。
というより、この『日月神示』さえなくてもよいはずです。
あくまで「切っ掛け」であることを察知し、人間の言葉の限界さえ悟ることでしょう。
(これこそが本物です)

これまでも言ってきたので、改めて言うことはないと思いますが、上の原文における表現を私なりに補足します。
*「平等と差別」について。
「差別、即平等」は〈即非〉であり、地上における同じ直線上のものです。
つまり、平等も一つの差別だということです。
⁑「平等愛は差別愛」というのは何か。
こっちが良くてこっちが悪いとかいう白か黒かの「地上の執著」を言っているでしょう。
ちょうど「浪費と吝嗇」が相対立するようで、実は同じ「執著」であるように。
〔ダンテの『神曲』の地獄篇にこの対立があります。自分自身を相手にいがみ合って地獄をつくるわけです〕
⁂「悪平等」と言っているのは何か。
不当な差別や必要のない差別を消すための手っ取り早い特効薬が「平等」という言葉ですが、それは同時に「劇薬」でもあり、「副作用」が社会を蝕むということです。
(副作用は日本にも、貧困、少子化、家庭崩壊や学校崩壊などとして表れています)
(そういう目で、「SDGs」をもう一回見てください)
また、大衆を利用してわざとそうする輩もいるということです。

※「区別すると力出るぞ、同じであってはならん」とは。
その人の「分」に則して行動するのが健全であり、「平等―差別」の意識がないのが真の平等(公平)です。
出来れば為政者が「分」を考慮したうえで問題にならない程度にあらかじめ「差別」(辞書では区別、差異と同じ意味です)を施せば、むしろ混乱や無益な争いを避けて秩序を保つことができるはずです。
これが本来の社会の在り方です。
差別にしても平等にしても、
「問題にするときは問題にして解決を図る」
「問題にしなくていいことは問題にしないでそのままにする」
ただこれだけです。

とにかく、雰囲気に流されずに、権威に託さずに、『神示』などを切っ掛けにして「考えろ」と言いたいのです。
私は(おそらく中矢氏も)、ひとえに考える人が増えることを願って行動するだけです。


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