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悪平等3⃣(多様性) [中庸]

くどいと思うでしょうが、もう少しお付き合いください。
日本政府はまた、
「多様性を認め、すべての差別をなくした社会の実現」
を打ち出していました。
多様性を認めておきながら、「差別をしない」とはどういうことなのでしょうか?

❶「待遇(給与)」を同じにするというのでしょうか?
❷それとも、「扱い(やること)」を同じにするという意味でしょうか?

前者なら、『ブドウ園の話』のように社会主義的な方策として健全です。
後者は多様性を認めることにはなりません。(だいいち同じことは無理です)
多様性とは、適材適所、役割分担という意味があるからです。
多様性は役割分担をして「和」をつくるためにあるのであり、それが(神の心を反映した)社会です。
賢者は和して同ぜず。
愚者は同じて和せず。
もし、政府の言う「すべての差別をなくす」が、扱い(やること)を同じにするという意味ならば、いっそのこと、男とか女とか日本とか外国とか60歳とかいう【言葉】を取っ払ってしまえばよいのではないでしょうか?

多様性を認めるのなら、はじめに「統率する側の人」がいて、はじめから「扱い」を変えて役割分担をしたうえで、もし、「不当な扱いだ」という訴えがあれば修正するというのが本来のあり方です。
「SDGs」のような聞こえの良い目標で固めるのではなく、地上の「善悪」の〈悪(闇)〉の方を認めたうえで目標を設定することで、社会が進歩するのです。(即非の実践でもあります)
そのへんにおいては、タリバンの言う、
「イスラム法が許す範囲内で権利を認める」
の方がよほど摂理に適っています。
悪平等に冒された人たちに言います。
「常識」が一つの偏見であるように、差別や偏見があるからこそ、社会が成り立っているということを肝に銘じてもらいたいのです。
再三言いますが、「利害損得」において「問題」が起こったときにのみ、「解決」するだけでよいのです。
どこにも利害が及ばないのに「蔑視だ」と問題にする人が世に蔓延っていますが、肉体と知性がある限りエゴは消えず、地上道徳的に人間の中身が良くなるわけがないのです。
「道徳や戒律では世の中は清浄にならない(ブッダの言葉)」

もう一度、悪平等に冒された人たち(特に、ユリゼン信仰者)に声を大にして言います。(ここでは伝わりませんが)
「性悪説を正しく理解しろ、性善説を履き違えるな」
「即刻言動をやめなさい!」
「あなたたちこそ(霊的な)害悪だ?」

ところで、『ワクチン差別』はどうでしょうか?(なにソレ?)
アメリカではもう実行しているようですが。
未接種の人は外の席に案内されるそうです。
もちろん、冷遇される側の人は面白くはないでしょうけど、優遇される接種完了者たちからすれば、
「摂取すればいいわけで、従うかどうかは勝手であるから、そんなのは『差別』ではない」と言うかもしれません。
でもこれはれっきとした差別です。
この場合の差別は、優遇される側の人たちにとってはもちろん「善」であり、冷遇される人たちにとっては「悪」ですが、統率者は「必要悪」として認めるでしょうから、社会全体にとっては〈善〉と見なされるでしょう。
この場合、平等(公平)はむしろ社会全体にとって〈悪〉とされます。(『日月神示』の言う悪平等ではありません)
このように、地上の善悪は逆転することがあります。
実はそのほかの場合も、差別が〈善〉だったり、少なくとも「必要悪」だということがたくさんあります。
それなのに、為政者が「すべての差別をなくす」と言うのは無責任であり、大衆を惑わし危険です。
「でもそれは『すべての問題になる差別』という意味ではないのか?」
と言うかもしれませんが、言葉というのは極めて「一面性」を帯びているのであり、問題にするべきかどうかなど、おもに冷遇される側が決めるわけで、瞬時に判断できるものではありません。
「差別はいけない」
「差別をなくす」
と言ってしまえば、必ずと言っていいほど「必要な差別」や「問題にしなくてよい差別」を問題にしてしまいます。

ワクチン差別のように、必要性が明らかで扱いの差がさほどでない場合は何も起こりませんが、男女差別や人種差別の場合は、その必要性が微妙なうえ扱いの差が激しいため、厄介なことが起こります。
男性が女性を表現するだけで「蔑視した」と問題にして吊るし上げたり、白人が黒人やアジア人を表現したりするだけで「侮辱した」と言って処罰したりと、目に余る愚行が繰り広げられます。
究極は「女性」とか「黒人」という【言葉】を使うことそのものを咎めたりします。
もう狂っているとしか言いようがありません。
言葉そのものが「偏見」や「差別」であり、社会に言葉が必要である限り、差別や偏見があって社会が成り立っているということを認めなくてはなりません。
再度言います。
「無くて済めば無いほうがよいもの」があるのが社会であり、「しないで済めばしないほうがよいこと」をするのが人間です。
「社会=人間=迷い」です。
ともかく、地上の善悪に関しては一方的に白か黒かに走らず、落し所を据えることです。
そのうえで、中庸、止揚です。

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悪平等2⃣(人種差別) [中庸]

よくネットに投稿される懐かしい広告ですけれど。
反応はというと、決まって、
「クレームがついて見られなくなった」
と言って、惜しがることです。
クレームに反応する方もどうかと思いますが。
そこで私もコメントしました。
karupisu1.png
I:このポスターが好きで骨董屋で買いました。これはコピーですが、本物なら17万くらいするとのこと。

M:いいデザインだったのに。人種差別とかに結びつけること自体がおかしい。

【私】:もしこれが白人だったら人種差別にならないんですかね?
初めから黒人は蔑視や迫害の対象と一部の人たちが決め付けているみたいですね。
黒人を言葉や絵で「表現」するだけで「蔑視・迫害」していると言うんですかね?
それこそ蔑視ですが、日本ではそれで利害損得が生まれるわけではありませんし。
ともあれ問題にしなくていいことは問題にしないに限ります。

O:当人が不快(*)と言うなら即刻やめるべきだけど、文句言ってきたのは関係ないプロクレイマー(⁂)ですよね?

(*)「当人が不快」…これは物質的に利害が及ぶ場合にあります。
かつての日本の「トルコ風呂」がそうで、「そんなものではない」と、トルコ人が訴えて変えたと記憶しています。
(⁂)「プロクレイマー」にひと言、即刻辞めていただきたい。
それでどれだけ収入を得ているか知りませんが、特定の立場の人の自己保身を煽り、思慮の浅い大衆を惑わせて、社会を混乱させるだけですから。(霊的不正です)

近頃は利害が絡んで問題になった「迫害」を、問題にしなくていい個人の「蔑視」にも当てて、「差別」という言葉に置き換えて、誰々が「差別発言をした」などとマスゴミが問題にして世間を賑わせています。
是非やめていただきたいと思います。
でないと、かつてあった「必要な差別」や「問題にしなくていい差別」また、芥川作品にもある(差異や区別と同義の)「差別」が認められなくなり、「言葉狩り」などの非公認警察が平等ウィルスをいつまでもばら撒くことになるからです。

差別(本来は区別、差異と同意)というのは、人が対象の場合は、悪い思いをする側だけでなく、必ずいい思いをする側が伴います。(どちら側にとっても都合がいい場合もあります。トイレはもちろん、女性専用車両等も)
アメリカにおける黒人差別でさえ、白人から黒人が冷遇(迫害)されるというだけではなく、仲間の白人が(広い意味で)優遇されることを意味します。(権限を握っているとか多数派だとかの理由で、白人が物質的にだけでなく、優越感に浸るとか、憂さを晴らすとか)
日本における在日韓国人なども同じことが言えます。【※】
逆に韓国における日本人もそうです。
かつての男社会(*)というより「男性組織」における女性もそうです。
*男社会と言った場合、男女どちら側にも都合がいいという見方もできます。
(既述のように、そもそも「社会」とは生得の資質からして男が作るものであり、能力の違いではなく資質〈陰と陽〉に則した役割分担の意味があるからです。今の女性の社会進出も、女性が自発的に言い出したのではなく、一部の男が決めたのです。だいいち社会に出て働くことがそんなに素晴らしいのでしょうか?)

【※】実は私は小学生の頃に、近所に住んでいた在日韓国人の女の子(1歳か2歳下)を侮蔑して罵ったことがあります。
「やいっ、朝鮮人!」
女の子は黙っていたので、
「日本語しゃべれるのかよ」
女の子は、揶揄われることに慣れているかのように、
「しゃべれるよっ」
とすました顔で言って、何事もなく終わりました。

みなさんどうでしょう?
これって「人種差別」でしょうか?

もちろん、その家族も以前から住んでいました。もっと幼少の頃からお互い知っていて、特に何事もありませんでした。
私は高学年になるにつれて、変な知識が身について、自我や自尊心が芽生えたことで、どうしようもない悪ガキになったということです。
その女の子が一緒の学校ではなく、韓国の学校に通っていたからかもしれません。
その時の私の心境はと言うと、ただ《優越感》に浸りたいというだけでした。

日本人が統治する日本の中で、多数派に属する私は、世間で少数派の在日韓国人が冷遇されているのを知り、面白がって軽い気持ちで言ってしまったのですが、なにせ子供ですし、何の権限もありませんし、利害損得は生まれず、誰も問題にしません。
それに、なにかその子の親も、そういう時は気にしないように躾ている感じがしました。

(そのことがあったからかどうかはわかりませんが、数年後には女の子やその家族は引っ越したようで、見なくなりました。その時は私もさすがに胸が痛みました)

ともあれ差別は、物質的または心情的に、必ず都合のいい側が存在するからあるのです。

良い側に焦点を当てた例としては、「商品を差別化する」という場合の「差別」です。
この積極的な「差別」によって、消費が促され、利益を受けるのです。(もちろん、光と闇があり、競争相手は相対的に不利益を被ります)
消極的な言い方ですが、「無差別殺人」もそうです。(恨みを買う覚えのない貴方は犯人に「差別」してほしくないですか?)
それから、柔道などの格闘技には「無差別級」があります。
ということは、それ以外の級に分けることはその否定ですから、言葉には表しませんが、「差別」です。
その差別は、純粋な意味ではむしろ公正であり、多数の競技者たちや視聴者など周りの人たちにとって有難いから行われるわけです。

★なにか「差別」に勝手に特別な意味を持たせて騒ぎ立てる視野の狭い人たちがいますが、どんなに言い張っても、これらはれっきとした「差別」という日本語の使い方なのです。
言葉に惑わされている偏狭な人は、まずそれを改めてください。

もちろん、ある人たち(特に多数派)が都合がいいからと言って、その差別を押し進めるのを放っておくというのは、社会全体から言えば健全であるわけがありません。
逆に、ある人たち(特に少数派)が都合が悪いからと言って、その差別を徹底して排除する運動を扇動するというのも、社会世全体から言えば病的です。
地上の善悪とは、社会の秩序を保つためのあくまで「仮の通念」です。
そのため、地上の〈善〉を一方的に押し進めるのは、「感覚」を追うだけの民主主義病であって、人々の霊的進化には良くありません。
大切なことは、盲目的に感覚を追うことなく、真の意味で「足ること」を知ったうえで、《落とし所》というものを見据えることです。

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悪平等1⃣(死刑制度) [中庸]

少し前にネットで、死刑制度について投稿した人(常連)がいました。
「国家権力なら何をしてもいいのか?」
と、はじめは(珍しく)真っ当な問い掛けでした。
もともと死刑制度の是非は、罪に対して「死」をもって償うことが正当かどうかを問うものであり、刑の「重さ」の問題です。
ところが、この投稿に対する返信が増え、
「死刑は殺人ではない」
などの強い批判が相次ぐことで、投稿者はつい「ボロ」を出してしまいました。

投稿者:「国家が人々に『してはいけない』と言っていることを、自分がするのは矛盾ではないのか?」〔*〕

もちろんこれは「死刑は殺人である」を前提にした論理のすり替えですけれど。
これも私からすれば、
「《はじめから偉い人》がいてはいけない」〔⁂〕
という左翼思想とか民主主義病の思考法で、悪平等の一つです。(★)

私は衝動的に、
「『禁錮』は『監禁』にならないのですか?」
「してはいけないと人に言っていることを自分がするのがおかしいと言うのなら、すべての受刑者を即刻開放するべきです」
と返信しようとしたのですが、この投稿者は上の例からもわかるように、いつもピントがずれたことを言う人なのでやめました。
でも、どうしたことか(私と同じ理由か?)、他の投稿者はだれも私が言おうとしたことを返信しませんでした。
また、はじめから偉い人がいなければ社会は成り立たないということを言う人もいませんでした。(あくまで終始一貫、死刑と殺人の違いを訴えるだけでした)

〔*〕私が大学生の頃、TVである芸能人司会者が、死刑制度反対を訴えるときに、
「死刑を執行する側も殺人を犯しているのだから」
と声を張り上げて言いました。
私はたまらなく違和感を覚えたので、それを大学の友人に言ったところ、真剣な面持ちで、「詭弁だ」
と静かに答えました。
〔⁂〕この件の省察からもわかると思いますが、はじめから偉い人がいなければ社会は成り立ちません。
「落差」がないと社会はダメ。
これは光も闇も両方認めていた古い日本人にとっては「当たり前」のことです。
この落差がなくなったおかげで日本の学校がどういうことになっているか、教員をやってみれば日本の病が肌で感じ取れます。
「言うことを聞いてほしければ、私たちに尊敬されるような教師になってください」
(また報道などで)「信頼関係が出来ている教師に限っては体罰をしてもいい」・・・・・・
一見もっともなようですが、『詭弁』です。
どこまでも権限は生徒側にあるということです。
肝心なことを付け加えると、今の日本人は「落差(折り目)」が刷り込まれていないのではなく、「平等(=善)」が刷り込まれているのです。

★今後、『日月神示』の高級霊が使う「悪平等」という言葉を幾度か使わせていただきますが、理解していただくためには補足が必要だと思われます。
悪平等の【悪】は、地上の「善(小善・偽善)悪」の〈悪〉ではなく、超越(止揚)する真の霊的な【善】に対する霊的な【悪】です。
水平ではなく垂直(鉛直)です。
けっして、「地上では『差別(区別)が善で、平等(公平)が悪の場合』があって、そのときの『平等』だ」という意味ではありません。
前々回に取り上げた例の中で、地上においては、「生存・生誕〈善〉死滅・死去〈悪〉」とすることで秩序を保っていると言いましたが、それは仮のもの、方便であり、一方的盲目的に善を追求すれば幸福と平和を得られるというものではありません。
同様に、もし仮に地上において、「平等〈善〉差別〈悪〉」とすることで秩序を保つとしても、〈悪〉とされる差別を認めずに一面的に地上の〈善〉とされる平等を追求することで、幸福や平和をもたらすことはありません。〔一体なのですから(即非、陰陽)〕
「ミロクの道は〈悪〉を抱き参らせてこそ進む」
つまり、高級霊が「悪平等」と言っているのは、「差別平等」という地上の直線の平等の延長を一方的かつ盲目的に追求することです。
一般に「霊的な【悪】」とは、地上にへばり付くことです。

☆前回も言いましたが、私はこのところ、世間があまりにも地上的な思考に満ちていることに嫌気がさしていて、もう地球とオサラバしたいくらいです。(異星人、故郷へ帰る?)
これらの話題は、私がいくらここで真摯に向かい合ったうえで訴えても、人気はありません。
関心がないとか、考えるのも嫌だとか、聞くのも鬱陶しいとか、いろいろあるでしょう。
それは重々承知です。
ともあれ1割の少数派の叫びを聞いてください。
内容はこれまでと変わりませんけど、次回、次々回は一気に行きます。

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たんぴん族 [中庸]

近頃中国で『たんぴん族(躺平族)』が問題になっていますが、これは資本主義および民主主義の一つ末路でしょう。
これは日本にも他の国にも当てはまると思います。
努力しても無駄だと悟ってしまって、やる気が出ずに寝そべっているわけです。
まさに、易で言う「(天山)遯」の世にあると言えます。
賢人たちが隠遁するほど、どうにもならない世になっていることを言います。

下剋上がないというのは本来決して悪いことではなく、無益な競争がないという点でむしろ健全です。
ただしそれは、「庶民が生活に困らない」というのが必須条件です。
しかし、あいにく、「たんぴん族」はその水準に達していません。
日本の場合もだいたい同じですから、庶民は自分のことに置き換えればわかると思います。

それに対して政府は、何ら対策を打たねばならないと言って、老若男女問わず全員に雇用の機会を与えるなど経済活性化を図ります。
しかしこれは国の経済力を保持するためであり、すなわちそれは一部の政財界の人たちのためであり、けっして個人の生活や尊厳を思って計らうものではありません。
「まずは国が守られて、それで庶民も」と国家の義を唱える人もいるかと思いますが、庶民は潤いません。
なぜなら、そうやって大勢の庶民が身を削って努力して働けば働くほど、利益は支配者層に回る仕組みになっており、庶民は相対的にますます貧しくなるばかりだからです。
しかも働く人口が増えるほど一人当たりの取り分の価値がなくなります。
そうやって、過労、貧困、少子化などを招いたのですから。

それでも、「勤勉は善・怠惰は悪」の刷り込みを刺激し、「競争に勝てば高い水準の生活が約束される」というエサで釣っていたわけですが、冷静に考える人たちはみなで首を絞め合うだけだとわかり、一部の「模範囚」以外はその手に乗らなくなったのです。
その点からすれば、「たんぴん族」はむしろ「賢人」に値します。

日本もそうですし、もしかすると他もそうかもしれません。
少なくともここ20〜30年の日本はとんでもない思考法が蔓延しています。
*社会に出て働くことは素晴らしいことだ。(社会に出られないということは虐げられているということだ)
⁑どんな環境でも順応しなくてはならない。(この集団はみな伝染病に感染している。だから、あなたも伝染病に感染しなければならない)
⁂プライドは余計なものだ、あってはならない。(言い訳をしてはいけない、〇〇偽装してでも、知ったかぶりをしてでも、顧客から信用を得て成功するんだ、魂を売れ!)

幸福とは、自分の根っ子(基準)を持つこと、すなわち「精神的な貴族」〔オルテガ〕でいることです。(私の場合は「ニコヨン貴族」ですが)

そもそも資本主義における支配者たちは、各々自分が潤えばいいわけですから、どんな状況下でも労働者を、
『生かさず殺さず』
の状態にしておくことが基本です。
(昔、動物を擬人化したアメリカのアニメで露骨にそれを表現していたのを覚えています)
また支配者層はそうして得た利益を確保するために、政界と持ちつ持たれつの関係をつくります。
なので、国民総活躍は「ワークシェアリング」というあくまで支配者側の論理で終わるのです。

そんなことを言うと、
「社会主義や共産主義への回帰にすぎない」
とか、
「他に建設的な方策を提案してから言え、でなければ単なる逃避だ」
など言う人たちが現れますが、それは地上的な損得や善悪という「感覚」を一方的に追う人たちの言うことであって、そういう大衆を満足させる方策など一切ありません。
大衆は夏になれば冬を恋しがり、冬になれば夏を恋しがるだけです。
民が主導の今の民主主義は、蚊に刺されたときに、掻いて胡麻化しているだけで、「仕方なく掻いている」と思わなければ、ますます悪化するだけです。〔★〕
「掻いて胡麻化しているだけ」という自覚が肝心であって、自覚があればひとまず健全であり、それ以上の悪化を止められます。〔※〕
地上の闇の方を認めず、聞こえの良い地上的感覚的な善をのみ盲目的に追及するならば、さらに人間を蝕むことになります。
「仕方なく」を自覚せず「良くなる」と思って盲目的に感覚を追う「民が主導の民主主義」は成熟しません。

★「SDGsは『大衆のアヘン』である!」『人新世の「資本論」』〔斎藤幸平〕
斎藤氏は、各国政府や企業が推進するSDGs(持続可能な開発目標)は、環境危機から目をそらさせるための免罪符だと言います。
※チャーチル曰く、「民主制は最悪の政治制度だ。ただしほかの政治制度を除けば」
つまり、仕方なく民主制にしているということであり、その自覚が肝心なのです。

スピリチュアリズムからすれば、人々が損得に終始しない、人々に貪欲(強欲)を増幅させない状態にすることです。
そのためには、民が霊的に成熟する必要があります。
難しいことですがそれが条件です。
そのうえで指導者が擁立されることが望まれます。
そうして地上の直線を超越(止揚)し、芸術など文化を嗜み、義に生き、霊的に生きるだけの物質的余裕を与える政策が生まれるでしょう。
(すべての地上の陰陽・善悪を外側から意識で感覚的に抑えるのではなく、内側から省察で推進力を減退させるのです)

では、今地上を賑わせている『タリバン』はどうでしょう?
シャリア(イスラム法)に則った「持続可能な繁栄と平和」を約束しています。
民主政権に慣れた人、特に民主主義病に罹った人には「狂気の沙汰」だと思われるでしょうけど、日本に比べればむしろ「神の心」を反映しているように私には見えます。(詳しい説明は、過去に記したので省きます)
少なくとも私が今、世界中の人たちに願うことは、一方的に肯定したり否定したりすることなく、彼らを「理解」することです。

現状の「たんぴん族」は物質的条件が厳しすぎて、考える「暇」はあっても積極的には義に生きる「余裕」はありません。
かくいう私も「たんぴん族」と大差はないのであって、考える暇は(強制的に)与えられていますが、母親の介護と金銭的制約のため、積極的に義に生きるだけの肉体的自由はありません。

上述のように何々主義というのはあくまで地上における方便であって、特定の主義が絶対的に良いということはありませんが、「社会」なのですから、そして、人間は社会的な生き物なのですから、聖書の『ブドウ園の話』のように「生活に困らないこと」を前提に為政者が計らう国が健全な国家と言えます。

余談ですが、昔話の『三年寝太郎』をご存じかと思います。
始めのうちは、ただ懸命になって田畑の仕事をしていましたが、いくら頑張っても原理的に無駄だとわかってしまい、毎日家に籠って寝るだけになったわけです。
でも、実は寝ながらも良いアイデアが浮かぶまで考えていたのです。
「勤勉を善とし、怠惰を悪とする」という地上の道徳を刷り込まれた日本人は、つい「効果がないことであっても、勤勉を通すこと」を美徳として推奨し、「無駄だからと言って怠けること」を酷く諫める傾向があります。
この昔話では、周りの者たちが「こんな怠け者はいてはいけない」と、寝太郎を殺そうとしたくらいです。

しかし、地上の道徳というものは、社会の秩序を保つための「仮の法」であって、執着すると自分や周りの人をただ地獄に追い込むだけだと、寝太郎は気づいたのでしょう。
「たんぴん族」は果たして寝太郎のように、大きな石を山の上から転がして川の流れを変えるでしょうか?

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カエサルのものはカエサルに [中庸]

私たち人間は神仏の光を受けていながら、その影(明暗)を見て行動しています。
地上の世法や戒律や道徳、それに思想や主義は、あくまで社会の「秩序」を保つための方便であって、霊的行動や霊的進化と直接には関係ありません。

kaminjohikari2.jpg
様々な「陰陽」を表す直線(軸)は、互いに影響を与えないもの(直交)もあれば、影響を与えるものもあります。
直交する軸があるので、一つの平面に表すには無理がありますが、それらすべては神仏の光と止揚を表す縦軸と垂直の関係です。

*『勤勉=善・怠惰=悪』
日本などの東洋の国ではそう刷り込まれて社会秩序が保たれているように思われますが、ヨーロッパの国ではそうではなく、むしろ逆のようです。
怠惰というのは悪い意味ではなく、彼らにとって仕事はあくまで必要性で、休暇やプライベートを重視し楽しむことで人間性を維持しているようです。

⁂『生存(生誕)=善・死滅(死去)=悪』
寺の坊さんは、「仏教では肉体の死を忌み嫌うことはしない」と言います。
スピリチュアリズムでは、「肉体の死は課題を一つ終えたことであってむしろ喜ばしいこと」と言えるかもしれません。
しかし、地上の戒律や法律では「生存をめでたいこと」、「死を忌み嫌うこと」としておくことで、社会の秩序を保っているわけです。

その他、人々の幸福のために良かれと思ってやったことが、地上の法では罪となって捕まったなどということが稀にあります。
逆に、エゴが動機で行ったことでも、地上の世法では何の罪にもならないということがたくさんあります。

ともあれ、地上の善悪と霊的な善悪は分けて考えたほうが良いでしょう。
カエサルのものはカエサルに。
神のものは神に。

地上と霊界は、一体ではありますが、別次元です。(宝石とそのカット面のように)
いかなる方法をとるにせよ、それは地上の秩序を保つことで、霊的成長の御膳立てをするのです。(地上の秩序が保たれなければ、身を守ることに終始せざるを得なくなり、霊的成長どころではなくなります)

個人や地域や国による思想があり、たいがいどちらかが善でどちらかが悪と決めています。
しかし、一方的に地上的な善を追求しすぎると、人間の尊厳を失ってしまいます。(カネの奴隷、過労死、無駄な延命など)

地上の掟はあくまで秩序確保の方便ですから、一方向に善(小善)を追求することは「影」を盲目的に追うことであり、平和を遠ざけるばかりか、幸福を得る切っ掛けを失ってしまいます。
地上的(感覚的)なことは神仏(真理)の影であり、影しか追えないけれども、それを知って思考し行動することが道であり、白か黒かにならずに他を理解し、その直線を超越(止揚)して真の幸福を得ることができるのです。

★今回のことをひとまず理解していただいて、次回を見てください。


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神盲信者 [霊的存在]

町を歩いたり、TVの報道を見たり、ネットの投稿に参加したりして、やはり気になるのです。
もうウンザリでしょうけれど、民主主義病による悪平等、それに思考停止による盲信です。

間隔が空いてしまったので、とりあえず今回はある哲学のネットでの投稿に対して、少し述べさせていただきたいと思います。
それは「神の存在」についてです。

既述のように、私は神仏に対しては「信じる」という言葉を使いません。
「あの人を信じる」と言うときのように、「信じる」という言葉は、思考や行動を託すわけですから、必ずどこかに「疑い」が残ります。
つまり、「賭け」や「願望」の域を超えません。
悪い言い方をすれば、「信じているフリ」をしているのです。
「神を信じる」と言った場合、元手は要りませんが、賭け事の決着は永久に得られないでしょう。
しかも、先に言っておくと、その場合、「ご利益」はありません。
神(仏)に対しては「神人合一」という理性による体得(深信)がすべてであり、それ以外の「神の存在」の論争は平和を遠ざけるだけです。

私がそういうことを書き込んだら、ある人が、
「神の存在を『本当に信じている』人が結構いるようですよ」
と半ば挑発するように返したのです。

どうやら、特定の宗教や宗派の教えのだけを盲信する人のほかに、「神や仏の存在」を盲信する人、神盲信者(私が咄嗟に思いついた用語です)がたくさんいるようです。
彼らは神というものをどんな状態で存在していると思っているのでしょうか?
もしや、人間の姿をしてどこか遠くに住んでいるとでも思っているのでしょうか。

もし神がそういう存在ならば、それを証明するには、ひょっこり出て来ていただくほかはないのですし、その手の無神論者の立場は半永久的に安泰でしょう。
それに、万が一その手の存在がひょっこり現れて、魔法使いのように、「光あれ!」とか言ってすべてを想像したことを証明して見せたとしても、私はその存在を「神」とは呼びません。

少なくとも古今東西の聖人が神(仏)のメッセージを人々に伝えるというときの「神(仏)」とはそういう存在ではありません。
超能力者ではありません。
我々人間を含めて、森羅万象の「本源」です。
我々を集合に譬えれば、内包かつ外延です。
「分霊」に対する究極の「集合霊」とも言えます。

「信じる」ではなく、「存在を知る」とか「繋がる」と言ったほうがいいでしょう。
中には、神は「ある」、仏は「なる」というように分ける人がいますが、神も仏も本源であり、道の目標は「神人合一」ですから、同じことです。

なので、「神(仏)」と呼ばなくてもよいのです。
不都合や混乱を避けるには、むしろ「神(仏)」と呼ばないほうがよいでしょう。

ともあれ、彼ら神盲信者たちは、神は「いるかいないかのどちらか」なのだから、損はないのでとりあえず「いる方」に賭けているのであり、祭られている神の化身を拝んで、教会や寺の聖職者の言うことを聞き、聖典や仏典に掛かれていることを鵜呑みにして鸚鵡返しをしていれば救われるはずだ、広い意味での「ご利益」が受けられると、「確信」しているにすぎないのです。
ところが、この確信はこの世的な地上の計らいの上での確信であり、神の存在を確信しているわけではありません。
彼らは神の存在に対しては相変わらずどこかに「疑い」を持っています。
なぜなら所詮は「賭け事」なのですから。
それでも、その賭けが当たっているか否かが自分にはわからなくとも、どちらかに決まっているのだから、もし当たっているなら、間違いなく「ご利益」を受けるのだから、それでもいいと思っているのです。
現代人が会ったこともないのに存在を信じるわけがないのですが、信じる気になるというのは、「ご利益」を期待しているからです。
彼らは「外からの光」を受けることのみを期待しています。

もっとも、大衆の神仏に対する接し方を見れば致し方ありません。
初参りのことを思い浮かべていただきたいのです。
唯物論者であろうと、無神論者であろうと、ただ何となく神社にお参りに行って賽銭を投げていないでしょうか?
賭け事の元手は賽銭だけです。
神盲信者の在り方は、ちょうど大衆が願い事を叶えてくれるように拝むときの心構えのようなものです。
それを言ったら私も大きなことは言えないのですが、本来は、神に対しては感謝するものであり、けっして媚びるものではありません。

世の中には、宗教盲信者と神盲信者がいます。
両方の盲信者もいます。
いずれにせよ、それでは神と繋がりません。
同時に「内なる光」を自らが発信しなければ、神と繋がりません。
「内なる光」、それは「霊の窓」を開くことにほかなりません。
宗教盲信者に残っている「戒禁取」が消えない限り「霊の窓」は開きません。
神盲信者に残っている「疑い」が晴れない限り「霊の窓」は開きません。
唯物論者に残っている「有身見」が消えない限り「霊の窓」は開きません。
「霊の窓」を開くことではじめて、「外からの光」または「上からの光」を受けることができるのです。
そのための省察があり、霊的自覚、中庸、利他業などの活動、スピリットヒーリングの手助け、等々があるのです。

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