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無我=断見? [霊的存在]

正月になってから墓参りに行くというのは生まれて初めてですが、それは母親の身体が不自由になってきたために暮れに行けなかったからです。
それに母自身がそれを気にして毎日口に出すので、無理やり連れてタクシーで行ったわけです。
そのときに寺の奥さんから渡されたいつもの教化冊子『真宗の生活』を、通勤中の電車の中でいつものように私はパラパラめくってナナメ読みしました。
すると、8月の〈お盆〉の所の某寺住職で某大学名誉教授の記述が目に留まりました。

【引用】
日本では、昔からある庶民の仏教行事として、お盆が大切にされてきました。
一般的には、亡くなったご先祖の霊魂がこの世に戻ってきて、わが家では盆を過ごし、またあの世へ帰っていくと考えられ、そのご先祖の追善供養として送り火や迎え火が焚かれるのでしょう。
私が育った地域では、〔中略〕私自身もそうした光景を見るのは嫌いではありません。
〔中略〕しかし、そうしたお盆の行事が本当の仏教の教えを表しているかというと、そうとはいえないように思います。
古代インドに仏教以前からあったバラモン教の教えでは、すべての現象の背後には永遠不滅の実体である「我(アートマン:霊魂)」が存在し、それが輪廻転生を繰り返すと考えられてきました。
それは、いまもヒンドゥー教の文化圏に根強く影響が残るカースト制度のように、差別的な身分制度の基本にある考えです。
それに対して、お釈迦様の教えの根本には「無我」という思想があります。
つまり、肉体が滅んだあとに転生を繰り返すような「我」などは存在しないという考えです。
そして、ありもしない「我」が存在していると思い込み、それに執着することが人間の苦しみの原因だとされているのです。
昔から浄土真宗のご門徒は、亡くなった方を、私たちに「真実に目覚めよ」と呼び掛けてくださる仏さまとして仰いできました。
真宗門徒にとってお盆とは、その呼びかけに応え、本当の教えに耳を傾ける機会にしていくことが願われている行事なのです。
【終】

どうでしょう?
お盆のあり方どうこうの問題と、霊の存在をごっちゃにしていますね。
たしかにお盆の儀式は釈迦の教えとは無関係でしょうけど、我(アートマン)と輪廻転生は釈迦の教えの根本のはずです。
この住職はどこでどう釈迦の教えを知ったのでしょう?
だいいち、肉体が滅んだあとではなく、肉体が滅ぶ前の自分がどうして他の人ではなくて自分なのか、考えたことはあるのでしょうか?
それに、
《亡くなった方を、私たちに「真実に目覚めよ」と呼び掛けてくださる仏さまとして・・・》
と言っているその仏さまは「霊的存在」ではないのでしょうか?
また、
《ありもしない「我」が存在していると思い込み、それに執着することが人間の苦しみの原因・・・》
と言っていますが、「我」(アートマン)と「執着すること」とは別ではないでしょうか?
『順世派』に代表される断見は今の唯物論に当たりますが、現に、死んだら終わりの唯物論者たちには、「執着」に満ちている人がたくさんいます。
「人間、どうせ死ぬんだから」
と言って、無責任な振る舞いを平気でする人がたくさんいるのです。
同じ「人間、どうせ死ぬんだから」を、この住職のように地上の執著を捨てる方に考える人はまだいいのですが、そういう人はむしろ少ないと思うのです。
一般に〈断見〉というのは危険なのです。
むしろ、〈常見〉(我:アートマン・輪廻転生)は、そういう無責任な思考や行動を内側から食い止めてくれます。

仏教というのは釈迦の教えのはずです。
にもかかわらず、実体や輪廻転生がないという意味の「無我」が一部の住職や仏教関係者に受け継がれているのいうのは驚きです。
というのも、釈迦はハッキリと輪廻転生を説いているからです。
事実、『ブッダの言葉』には、
「この人はあと一回転生して解脱する」
というような言葉があります。
ということは、その前提となる実体(アートマン)を認めているということです。

「霊」という不滅の実体があることはスピリチュアリズムでは当然のことですし、エドガー・ケーシーもそのリーディングにおいて、
「人間の実体は霊である」
と言い切っています。
これは仮に地上に生を受けることが一回きりであっても、霊という自体はあるということを意味します。
いつものようにくどいのを承知で「断見」の人に問いますが、
「今居る貴方は、なぜ貴方でなければならないのですか?」
「なぜ他の人に生まれなかったのですか?」

ではなぜ「無我」を曲解したのでしょうか?
どうも伝道の途中で、「我」を肉体の欲求と関係する「我執」にすり替えてしまったからだと思われます。
「自分の状態」と「自分の存在」を混同して一緒くたにしてしまったのでしょう。
我執(地上的な執著)がなくなることで、我(アートマン)もなくなるのだということ。
どちらかというと「言葉」に欺かれてしまった感じがします。【*】

私が習っていた中国整体の学校に、張先生という気功の名人がいて、気功にとどまらず深い修行を実践していました。
その先生は私たちに、
「本当に肉体の感覚がなくなるよ」
と言っていました。
ということは、そういう境地の自分が居るということであって、実体がなくなるわけではないということです。
解脱して地上の執著がなくなって、地上に生まれなくなっても、霊は滅することはないのです。

たしかに死後の世界、殊に高い領域の霊界(生前も同時に居る、また、寝ている間に行っている世界)に関しては、エドガー・ケーシーは、
「肉体を持った者にはわからない」
と言い、ヴィットゲンシュタインは、
「生の経験ではない」
と言い、釈迦は、
「妄想だ」
と言って、口を閉ざします。
つまり、「無い」のではなく、時間や空間を前提に語る地上の人間には「語り得ない」というだけなのです。

夜ぐっすり眠れるときは、夢も見ずに、気がついたら朝だったということがあります。
全身麻酔で手術を受けると、気がついたら終わっていたということがあります。(私も6年前に経験しました)
寝ている間に旅しているはずの霊界のことは全く覚えていません。
それは、起きてからは地上の感覚では表現のしようがないからです。
死んで霊界の高い所へ行けば、逆のことが起こるでしょう。
でも、実体(アートマン)がなくなることはありません。


【*】(前回の引用から再度)ヒンドゥー教では永遠不滅・独立自存の個我、個人の本体としてのアートマンの存在を信じ、これを輪廻の主体と考える。ここで言うアートマンは、単なる個人の我としての「自我」ではなく、世界に対峙する個人の我としてのアートマンであり、よって個我と訳される。無我という言葉はウパニシャッドの atman(Sk.語 アートマン)に否定の接頭辞 an- を付けたもので、アートマンの否定の形になっているが、釈迦はウパニシャッドの形而上学的な梵我一如思想に対抗して無我(非我)を説いたのではないと考えられており、釈迦の無我説はアンチ・アートマン思想ではない。
なお、ある人はアートマンの代わりに「阿頼耶識」を当てます。
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アートマン [霊的存在]

諸行無常、諸法無我と言って、どうやら仏教関係者にも自分という存在は「実体」がないとする人たちがいるらしいのです。
いつか友人が寺で「霊なんかないんだ」と怒られたという話をしましたが、霊という用語が仏典にないだけなのか、それとも「無我」の解釈がそうなのか、私はどうも気になってしかたがありませんでした。
また、「自我は後から生まれる」とか「霊や神など人が作った幻想だ」と言い張る人たち〈TM族*〉がネットでも見られ、その人たちはもしやその手の仏教関係者なのかとも思ったので、さっそく「無我」について調べてみました。

【引用】(Wikipedia)
釈迦が教えを説いた当時のインドでは、バラモン教(ヒンドゥー教)の哲学者たちは、我の実在の有無を始めとする形而上学的な論争をしていた[5]。
初期仏教においては、物事は互いの条件付けによって成立し存在し(縁起)、無常であり変化し続けるため、「われ」「わがもの」などと考えて固執(我執)してはならず、我執を打破して真実のアートマン、真実の自己を実現すべきとして、「我でない」(非我)と主張された[6]。
これは、「我がない」「主体がない」「霊魂がない」ということではなく、「アートマン」「我」「真実の我の姿」「私のもの」という観念が否定的に説かれたと考えられている[6][5]。

しかし、その後「我がない」(無我)という解釈に発展し、人無我と法無我の二つが考えられた[7]。人無我とは、人間という存在(有情、衆生)は五蘊が仮に和合した無常なるものに他ならないから、恒常不滅なる自我の存在、実体的な生命の主体というようなものは無いということ[4][7]。
法無我とは、あらゆるものは縁起・因縁によって仮に成り立っているものであるから、そのものに恒常不滅なる本体、本来的に固有な独自の本性(自性)はないということである[4][7]。
これは大乗仏教にも受け継がれて、般若思想では「無我」は「空」と表現された[7]。

ヒンドゥー教では永遠不滅・独立自存の個我、個人の本体としてのアートマンの存在を信じ、これを輪廻の主体と考える[8]。
ここで言うアートマンは、単なる個人の我としての「自我」ではなく、世界に対峙する個人の我としてのアートマンであり、よって個我と訳される[9]。
無我という言葉はウパニシャッドの atman(Sk.語 アートマン)に否定の接頭辞 an- を付けたもので、アートマンの否定の形になっているが、釈迦はウパニシャッドの形而上学的な梵我一如思想に対抗して無我(非我)を説いたのではないと考えられており、釈迦の無我説はアンチ・アートマン思想ではない[10]。
仏教では、個我を個我たらしめる要素としてのアートマンの実在を、縁起の道理によって否定し、輪廻から解放される解脱への道を示した[8][11]。
中村元は、初期仏教では実体としてのアートマンは認めなかったが、倫理的実践的な意味におけるアートマンはむしろ認めていたと述べている[12]。

輪廻の主体については、ヒンズー教、ジャイナ教、無我を主張する仏教では見解が異なっているが、しかし仏教を含むこれら3つの宗教は共に生まれ変わりを信じており、以前のインド哲学の物質主義派とは違って、道徳的責任をさまざまな方法で強調している。
インド哲学での唯物論者(たとえば順世派)は、死が終わりであるとするため終末論者と呼ばれ、死後の世界、魂、再生、カルマなどはなく、死とは生き物が完全に消滅して霧散した状態であるとしていた(断見)。

釈迦は、再生とカルマを否定した唯物論的・断滅論的な見解を批判している。
釈迦は、そのような信念は道徳的無責任と物質的快楽主義を奨励しているから、不適切で危険だという。
アナッター(無我)とは、死後の世界、再生、カルマの異熟がないことを意味するものではないから、釈迦は断滅論者とは対照的である。
しかし、釈迦はまた、それぞれの人間の中には、不滅で永遠の精神的実体(アートマン)が存在するとし、この精神的実体は生物・存在・形而上学的現実の性質の一部であるとする(常見)ことで、道徳的責任を支持する他のインドの宗教とも対照的である。
【終】

【引用】(『神秘のあんみん』さんより)
それは、肉体にある間の肉体に起因する感覚や感情、認識は、肉体にプログラムされたものから生じているので、本来の私たちの意識とは違い、架空のものだという事です。
それに心の働きや心についてもやはり肉体に囚われているという意味での錯覚に起因しているので、やはり幻想であるという事なのだと思います。
だから、最初の「色蘊(しきうん)」とは、肉体や、その他の物質のことなので、当然実体のない「空」ですが、さらに「受蘊(じゅうん)」感情と「想蘊(そううん)」認識や思考は、肉体に起因するボディマインドの事でこれも本来「無」であるという事です。
そして、「行蘊(ぎょううん)」心の働き「識蘊(しきうん)」心そのものも、囚われたマインドにつながっているので、やはりこれも本来「無」であるという事です。
しかし、これに対して絶対的な意識というものが存在する事もまた真実だという事です。それが私が言ってきた「絶対意識」だという事です。
もちろん仏教の解脱というのは、その絶対意識として覚醒する事と同じ意味だというわけです。
【終】

いわゆる『霊』とは、アートマンのことです。
(仏教では阿頼耶識に相当します)
永遠不滅の実体(絶対意識)であって、生成も消滅もしません。

この時点で、霊や神を脳由来で(あってもなくても)、「生後何年か経ってから生まれる人が作った幻想」として実体を認めない人たち〈TM族〉の言うことは「間違い」となります。
彼ら〈TM族〉の言う自我とは、よく話を聞いてみると、どうやら地上道徳的または心理学的な意味での《己が己であること、他者ではないこと、の自覚》にすぎないようです。
学校の社会科や道徳の時間に出てくるいわゆる反抗期のような「自我の目覚め」のことでしょうか。(なんだ、そんなレベルかと、がっがりしました)
それなら生まれてまもなく自覚するはずです。
いずれにしても地上的でピントがずれています。

私たちスピリチュアリズムに生きる者のいう自我とは、「霊=アートマン」であり、《己が己の肉体そのものではないことの自覚》であって、肉体を超えた独立してはじめから存在する実体です。
「自分と他の子どもたちは別なんだ、自分は自分だ」
ではなく、
「なんで自分しか動かせないんだ?なんで他の子どもを動かせないんだ?理由がわからない、自分の身体に身体でない何かがここにある」
です。〔この霊的自覚を私は3歳頃にしました。10年前、幸福の科学の信者の女性2人にこの話をしたら、「ああ、あなた菩薩様なんですね」と言われました〕

彼ら〈TM族〉の思考は常に「肉体」という絶対空間における客観的な物質(顛倒妄想)が先立っているので、
「なぜあなた(の自我)は他の人(の自我)になれないのですか?」
と、いくら問い掛けても、肉体を超えた視点に立てない(立つ気がない)ので無駄なのです。

では、「無我」とは何か?
仏教でも上述の「順世派」ように、「我」は「主体がない」として、輪廻もなく、霊もないとする派もあります。
どうもこの無我の取り方で、話がこじれているようです。
たしかに、「縁起」の道理によってアートマンの実在を否定し、輪廻から解放されて解脱することを考えれば、「我」は主体がないものとも取れます。

このことは、スピリチュアリズムにおける「集合霊と分霊」に通じます。
輪廻転生するのは特定の分霊ではなくて、それぞれの側面を持った分霊が交代交代で転生し全体の集合霊の霊的進化を促し、解脱に向かうというのです。(アートマンがブラフマンにヨーガする)
ある分霊が一回しか生を受けないとしても、霊的自覚は可能であり、それが本来の「断見」ではないかとも思われます。
もしそうならば、スピリチュアリズムとも融合します。
初期仏教において「無我」を「実体がない」と解釈したのは、そういう意味だと取れなくもありません。
では、一つの分霊が役目を終えて集合霊と一体になり転生しなくなったら実体がなくなるのかといえば、そうではないらしいのです。
これは、以前にも言った臨死体験したある人の証言、
「何とも表現し難いが、強いて言えば『人はみな繋がっている』」
に表れていると思われます。
つまり、我執(エゴ)は消えてもアートマンという実体は消えないということです。

【*】顛倒妄想族(私が勝手に作りました)

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反戦と平和 [中庸]

ある僧侶が言っていました。
「『戦争と平和』と言うけれど、《反戦(運動)》というのは戦争と同じであって、平和ではありません」
「平和というのは、心の平穏なのです」

反戦は地上の攻防あるいは解決であり、そこには「緊張」が持続しています。
均衡を保つだけで精一杯であって、「平穏」を実現するだけの思考の余裕がありません。
いわゆる「霊的な思考停止」になってしまいます。
反戦がまったく意味がないとは言いません。
核には核、銃には銃もそうですが、地上の善悪や損得に対する仮初めの「地上的思考停止」を作ることによって、仮初めの「安堵・余裕」を得るかもしれません。
でも「反戦がそのまま平和をもたらす」と思うのは間違いです。
やはり地上を超越する霊的視点を設けること、すなわち「中庸」が前提として必要なのです。

これは平和に限らず、自由や幸福も同じことです。
利便性や経済力などを、地上的感覚的なもの以上ではないことと覚ることが肝心なのです。

かつて大阪万博の時、反パク者の岡本太郎は、
「機械の進歩は人間の進歩ではない(退化だ)、機械の奴隷になるだけだ」
と言いました。
パソコンやスマホが普及した今、文化的活動や利他的活動をするほど仕事が楽になったでしょうか?(支配者たちが仕事を増やしていませんか?)
また、逆にそれらの機械に縛られてはいないでしょうか?(まさに今私は悪戦苦闘しています)

万博と同時期に、経済一辺倒となった日本を憂いて、三島由紀夫が演説や対話を重ねた末に割腹自殺しましたが、当時の中曽根長官は、
「(その一連の行動に対して)『三島、よくやった』っていうヤツいないだろ?」
と言って、戦後日本がやってきたことを正当化していました。(ほとんど多数派による同調圧力が理由でしょうけれど)
もし中曽根氏の言う通りならば、それだけ日本の病は重症だということです。
それで今どうでしょう?
経済の進歩によって、日本人はカネの奴隷になっていないでしょうか?

これらはもちろん本人次第ではありますが、為政者にも原因があります。
「地上的思考停止」が出来て国民はむしろ楽だということで、今地上の半数以上の国が「専制政治」ですが、ご存知のように為政者が霊的な人間でないとかえって悲劇になります。
では日本人の多数派に支持される「民主政治」はいかがなものでしょうか?
思考が反戦一色ではないでしょうか?

今世界中の為政者たちが試みている計らいはどうでしょう?【※】
地上的な計らいだけになっていないでしょうか?

人類の平和の実現には是が非でも《霊的指導者=君主》が必要です。


【※】SDGsやCOPなど国連が掲げているものは、みな地上の解決です。
たしかに、核廃棄物や分解しないプラスチックゴミなど、負の遺産の処理は必要ですが、解決だけでよいのでしょうか?
また、その根底には「人類存続」という一面的な動機があります。
良く見積もっても、人類の義で止まっています。(一つのエゴ)
喩えれば、解熱剤、鎮痛剤、興奮剤という西洋の薬を同時に飲んで、健康な身体を作ろうとするようなものです。
私も普段やっている対症療法は不可欠であり、ストレスを回避し、結果的に延命にはなり得ますが、健康になるかどうかは別です。
度が過ぎると、管で繋がれて苦しいままベッドに横たわる病人になります。
押したり引いたりと圧力をかけ合って均衡を保つことだけで平和な社会が実現するのでしょうか?
いえ、そこには緊張しか残りません。
必要なのは「中庸」なのです。
外側からの圧力ではなく、意識を上に持っていくことで内側からの推進力を減退させることです。
これは決して一面的な肉体の延命ではなく、霊的に健全な生命を実現することであり、人類の義にとどまらず神の義です。

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信仰=洗脳? [中庸]

幸福の国ブータン王国の子供たちに、日本における「いじめ」の事実を伝えると、
「そんなことをすれば、自分が幸せになれない」
と、驚いたように言うのです。
もしかすると、日本人の多数派は、
「それは生まれた時から仏教が心身に刻み込まれているからだ」
という為政者による「刷り込み」または信仰の[強要」を理由にするかもしれません。
とりわけ実在論者の中の唯物論者に言わせると、宗教においては、
「信仰=洗脳」
と決めて、あたかも、自分たち宗教に無縁の人間こそがまっさらで「健全」であるかのように思い込むわけです。

そこで私は、数か月前、ネットにおけるその手の実在論者の「信仰=洗脳?」という問題提示に対して、遠回しに応えたのです。
《現代人のほとんどは、生まれた時から『幸福=社会的成功』と刷り込まれています。もしそれに疑問を抱かないならば、すなわちベリアル教というカルト教に洗脳されているということです。
そういう人が宗教団体に入れば、間違いなく『信仰=洗脳』となります。
でも、もしそういった地上的な執著を哲学的省察によって超越(止揚)することが出来れば、それがそのまま真の信仰に繋がります。
そういう人が宗教団体に入っても、洗脳されることはありません。
というより、宗教そのものは不要になるでしょう。》

日本のみなさんに問いますが、「自分は健全な思考をしているから危険はない」と思っているでしょうか?
もしや、「いじめ」に対して、
「少なくともいじめる側は、征服感と優越感に満たされて幸福を『感じる』」
などと言うのでしょうか?
いくらブータン王国でも、悪やエゴがないわけではないでしょう。
ただそれをどこかの先進国のように地上の押し合い引き合いで解決することで幸福を得られると思っていないはずであって、中庸によって推進力を上に引き上げて幸福を得ているのです。

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唯物論者の闇(改) [中庸]

「自我(霊も神も)は脳の産物だ」とする唯物論者が後を絶たないので、堪りかねて前回、ここでもネットでも実在論の誤謬を徹底的に指摘しましたが、それでもなお食い下がる唯物論者がいるのです。
「脳の状態はその人の行動や性格に関係する」
というように。
まるで、脳が先に出来てその人が作られるという「因果関係」であるかのようです。
まったく絶対空間なる「顛倒妄想」から抜けられていません。
脳と行動は対応関係であり、脳で行動を説明はできます。
しかし、脳が自我(霊)を生むわけではありません。

自分が自分だという顕在意識は、記憶で成り立っています。
どこで生まれ育って、どういう経験をして、それによって他の人ではない自分は作られます。
境遇はたしかに、肉体の場所や時代に大いに関係します。
なので、かりにもし、自分が翌日突然他の誰かになったとしても、自分は以前からずっとその人だと思っていることでしょう。
ではなぜ今の自分はこの自分なのでしょうか?
それとも、自分の肉体や脳を構成する炭素原子や酸素原子に自分の名前でも付いているのでしょうか?

脳と人のあり方は、音楽に喩えれば、楽譜と楽曲の関係です。
楽譜があっても、それだけでは曲は流れません。
演奏者がいて、演奏して初めて曲が成立するのです。
たしかに楽譜でその曲を説明はできます。
しかし、楽譜が音楽を生むわけではけっしてありません。(逆も然り)
また、楽譜が演奏者を生むわけではありません。(お互いに選ぶことはあっても)
楽譜と楽曲はあくまで対応関係であって、因果関係ではありません。
そして、演奏者はそれらに関係なく、はじめから独立して存在するのです。
楽譜を脳に、楽曲を人の活動に、演奏者を自我(霊)に置き換えるとわかると思います。

以前から自然科学では、
「宇宙が開闢してから今に至るまで」
をともあれ説明できるけれど、
「宇宙がどうして在るのか」
は説明できないと言われています。
ヴィットゲンシュタイン流に言えば、
「宇宙がどのようであるか(在り方)が神秘的なのではない。宇宙が在ること自体が神秘的なのだ」
そこでさらに、「世界とは自分の世界である」を組み合わせると、
「自分がどのようであるか(在り方)が神秘的なのではない。自分がいること自体が神秘的なのだ」
となります。

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初夢〔3〕 [霊的存在]

近頃は歳のせいか、正月になると、初夢はどんなものかと気にするようになりました。
元旦の夜から2日の朝にかけて見る夢…
今年は見ました。
と言っても、短くて意味不明でした。
取るに足らないものなので、ここで紹介するのも気が引けるのですが、聞き流してください。

✤何の用か、ある細長いビルの上の階にある部屋に階段で駆け上がって入って、用を終えてまた階段で降ろうとしました。
そこからはハッキリしていて、どこにでもあるビルのジグザグの階段があり、さらに上に上がる人がいるのを左手に見届けて、自分は降るのだからと、なぜか勢いよく降り始めました。
その階段は、壁や手すりまでもすべて真っ白(少し象牙色)なプラスチック製の板で張り詰められていました。
私は階段のヘリの部分を足裏で撫でるように3弾4段飛ばしで素早く降りていき、仕舞いには折り返しの踊り場まで一気に飛び降りました。
途中、例の友人が上から降りてくるのを察知して、なぜか追い付かれまいとさらに急いで降りていきました。
下の方の回はもう階段ではなく、同じ材質の滑り台みたいになっていて、一階では遊園地にあるようなデコボコの不規則な突起があって、体が心地よく揺れながら最後の地点に到着しました。
すると直後に友人が追い付いて、背後からボソッと言いました。
「外から見えちゃうね」
1階の入り口のドアの脇にはガラス窓がいくつかあって、外が見えました。
そこで夢は終わりました。
もちろんこれが何を意味するかわかりません。
いつかのようにこれが正夢になるとも思えません。✭

それはともかく、本来の活動の方はどうしたんだと言われそうですけど、特に目新しいことがないのと、前回同様、ほとんどボヤキみたいになってしまうので、初夢と同じく紹介するのに気が引けるというのが正直なところです。
それに、私のような者は所詮は少数派であり、それを弁えているので、どこぞの宗教団体の人たちのような盲目的な推進力はありません。
それに関して少しだけ言わせてもらいます。

❂伝道に関しては、諦めることは肝心です。
例の幸福の科学の女性がよく、「諦めちゃダメ」と言いますが、私に言わせればむしろそれは「努力」をよりどころとして「気休め」にしているだけです。
9割を占める「無関心な人」はもちろん、筋金入りの唯物論者や盲信者には、原理的に「言っても無駄」なのであって、それを弁えるのも道だからです。(わかる人だけでよいのです)
諦めるとは「明らかにすること」なのです。
古今東西の聖人たちの言動の端々にもそれが顕れています。(聞く耳を持つ者は…)
それがわからないというのは伝道する人自身の信仰が盲目的だからです。✪

それでも、前回の実在論の続きはあります。
その他、付け足しもあります。
長くなるので、この後に切り分けて報告します。

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