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思考停止〔2〕 [思考実験]

昨年の〔ネットの記事〕にこんなのがありました。
【東大生が断言「行列店ではないラーメン屋の味をどう評価するか?」で”地頭の良し悪し“がわかる】
 結論から言えば、“行列店ではない(人気店ではない)ラーメン屋でも味の良し悪しを自分で判断できる人”は「地頭がいい」と思います。
 他人からの情報抜きでも本質的な味の部分を、きちんと自分の頭で評価できるのか。これはなにもラーメン屋に限らず、焼肉屋やイタリアンレストランでも同じです。
 大前提として、人間は事前に与えられた情報によって、大きく認知が左右される生き物。
基本的に他人任せなので、誰かの言ったことや、ネットに書いてある情報に従うしかできないはずです。
 ラーメンのような日常のささいなことからでもいいので「他人の評価や情報をあてにせず、自分の頭で考えてみる」ということを習慣づけてみるようにしましょう。
 ちいさなことの繰り返しによって、徐々に人生全体を通して「自分の頭で考えて行動できる人間」に近づけるはずです。

★みなさん、どうでしょうか?
言っている意味は分かりますよね?
さほど目新しい内容でもないですし。
でも、何か変ではありませんか?

もう気が付いた方もいらっしゃるでしょうね。
私はこの記事に対して速攻でコメントしたのです。
〔私のコメント〕
【東大生が断言】っていうのも、この話と一緒じゃないのかな?
〔[↑]64 [↓]4〕
〔私のコメントに対するコメント〕
このコメント天才!!
〔[↑]11 [↓]3〕
久々のヒット、大受けでした。
投稿した人は、
「他人の評価や情報に頼らないで自分の頭で考えろ」
と言っている人(東大生)の〈権威〉を利用して、その気にさせるのですから、結局は〈思考停止〉を促していることになるわけです。
実際、「天才!」とまで言われて、私がコメントするまで誰も気が付かなかったのですから、おそろしいと思います。
よく日本人は権威に弱いと言われますが、なにか、日本における宗教が〈カルト化〉するメカニズムが見えます。

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盲信→理信→スピリチュアリズム [思考実験]

「東京―リオデジャネイロ間の距離は?」
と聞かれたら、みなさんはどう答えるでしょうか?
詳しい人なら、いや詳しくなくても調べればわかることで、
「18593km」
と答えることでしょう。
でも、それに対して、
「12000kmぐらい」
と答える人がいたらどうでしょう?
頭がおかしいと思うでしょうか?
それならば、
「東京にいる貴方から、リオデジャネイロに住むある人はどれだけ離れているか?」
と聞かれたら、少し迷うかもしれません。
そして、地球を離れて遠くから見ることを想像すれば、お互いにほぼ裏側だから、
「12000kmぐらい」(地球の半径が6378.1㎞)
と答えることに理解を示すでしょう。

最初の状態を振り返ってください。
地表にへばりついている時は、「地球の内部は通過できない」という暗黙の条件(常識という偏見)が前提にあるので、それは思考に上らず、距離と言えば、自動的に飛行距離や航海距離ということになり、離れて見た時の「曲った線」をいうわけです。
この「暗黙」というのが肝心なことであって、「のめりこんでいると意識に上らない」ということです。

「地球の内部は通過してはいけない」
という条件に対して、
「そんなことは言ってないよ」
と言うと、
「なあんだ、そんなことか」
となるわけです。
いわゆる『コロンブスの卵』は、
「殻を潰してはいけない」
という暗黙の条件、偏見を取っ払うことの難しさを言っているわけで、よく言われる「まったく新しいことを最初に思いつくことの難しさ」とは違います。

ならば、新しいことを思いつくというのはどんなものがあるでしょうか?
たとえば、高校の数学で習う虚数ですが、私が授業で教えるときには、
「今日から世界観が変わるよ」
などと言って始めます。
数直線に0と1と-1をとって、
「1にマイナス1をかけると反対側の-1になって、その-1にマイナス1をかけると1になって、その繰り返しだよね」
「でも、それだと、2乗して-1になる数なんて考えられないだろ?」
「半分移動するから0というわけにもいかないし」
「そこで、〈-1をかける〉ということを、〈反対側に直線的に移す〉のではなくて、発想を変えて、〈反時計回りに180度回転する〉と決めるんだよ」
「そうすると、2乗して-1なのだから、ひとつ分は、90度回転とすることができるんだよ」
「そのうちの反時計回り90度回転を虚数単位iとするんだ」
などと説明するのです。
それに対しては、生徒はけっして、
「なあんだ、そんなことか」
とは言いません。
暗黙の偏見を取っ払ったわけではないからです。
「ああ、たしかにそう考えれば、理解はできるけど」
ぐらいで、どちらかと言うと、無理やりそう決めたみたいな感覚でしょう。
しかし、
「iがないとロケットが飛ばないんだ」
と付け足して、けっして空論ではないことを強調すると、受け入れるのです。

言ってみれば、前者(距離の問題)は省察による盲信解除と理信に相当し、後者(虚数の導入)は霊的自覚によるスピリチュアリズムへの意識拡大に相当します。

東京―リオ間を「18593km」と答える人は、そのときは「12000km」と答える人を理解できませんが、「12000km」と答える人は、はじめから「18593㎞」と答える人をひとまず理解できます。
盲信者は自分の盲信に気づかないがゆえに盲信者なのです。
盲信者は理信者をまったく理解できませんが、理信者は盲信者をとりあえず理解はできます。

実数の範囲では、虚数を表現できませんが、虚数を含む複素数の範囲では、実数を表すことができます。

同様に、3次元空間に住む私たちは、通常は5次元の世界を表すことができませんが、5次元の世界を体験する人は、3次元の世界を超越し表すことができます。
唯物論者や盲信者はスピリチュアリズムを否定するだけで到底理解できませんが、スピリチュアリストは唯物論や盲信をひとまず理解し、それら同士の争いを超越します。
(続きがあるのですが長いのでここで切ります)


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確率0再考 [思考実験]

先週の話の続きです。
年休願を出してからわずか5分後に、高2理系のある混合クラスに授業に行きました。
礼が済んですぐに、『一直線上にある3点』という表題を黒板に書いて始めたのですが、いきさつから気が高ぶっていたこともあって、つい生徒に問い掛けてしまいました。
「2点を通る直線は必ず1本決まるけど、3点目がこの直線状にある確率はいくつだ?」
私はある男子生徒を指して聞きました。
なかなか答えないので、黒板の真ん中あたりにチョークで点を打って、改めて問いました。
「ホントはこの点は面積がない(ゼロ)なんだけど、見えないものは描けないからこう描くけど、そこからチョークを投げてこの1点に当たる確率は?」
今度は生徒全員を見渡して尋ねました。
すると、しばらくして、一番前に座っているある成績不振の男子生徒がボソッと言いました。
「0」
ちょっと意外だったせいか、思わず私は、
「そうっ!0なんだ」
「ということは、今日は確率0のことをやるわけだ」
と力強く言いました。
「でもあいつ、なんで解ったんだ?」
少し気になりましたが、直接その生徒に聞くことなく、その日を終えました。

そのためか、翌朝、目が覚めた時にふとあることを思い出してしまいました。

この宇宙の天体はみな自転している。
なぜか?
自転していない天体はあるのか?

みなさん答えられますか?
それに対する科学者の答えはこうです。
「摩擦のない宙に浮いた物体が回転しない方がはるかに難しい」
言われてみれば、たしかにそうです。
何でもいいですから、みなさんも物を上に放り上げてみてください。
自転しないように投げるのは至難です。
というより、確率0です。
自転していないということになれば、よほど何か外からの力が働いているということです。

そこでまたあることを思い出しました。
それなら、月はなぜ地球に常に同じ面を見せているのでしょうか?
もちろん傍から見れば月は自転していることになりますが、これはまさに確率0の出来事です。
外からの力といっても、地球その他の天体の引力ぐらいでそうなるものでしょうか?

これに関しては、地球誕生の過程において月が地球の一部として同じ方向に回転していた様子が容易に想像できることでしょう。
後に間に隙間ができて、地球の表面近くのものと、地球から遠ざかるものに分かれたと考えることができます。
月が地球から遠ざかりつつあるのも説明がつくでしょう。
〔*あいにくこの説は、「潮汐力」の説明により却下されそうです〕

ともあれ、私たちが意識的に行動するということは、意識が「偶然と必然」に分けることによって無数にある選択肢から一つを選ぶことになるわけですから、確率的にはあり得ないことをしていることになるはずです。


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著作(「0は生きている」より③) [思考実験]

収斂する点を理論ではなく物質として見ることはできないのでしょうか?
地平線や水平線は地球が丸いためそれは叶いません。
また、先述のように、三面鏡やエスカレーターの鏡の面では自分自身が邪魔になってしまいます。
しからば最後の手段は?
【以下本文】

〈無限の実体験〉

 (一郎) でも、まだ実感が伴わないなあ。
 なんとなく雲を掴むようでね。

(光) それじゃあ、無限と0を体験してもらうとするか。
ここに三面鏡があるから、外側の二枚を向かい合わせて、傍らから覗き込んでごらん。
そうすると、無限に続く鏡の外形が見えるはずだから。

 (一郎) こんなの昔よくやったなあ。
そういえば、あるビルのエスカレーターは両脇の壁が鏡になっていて、横を向くと無限に続く自分の姿が映ってるよ。
あれっ?実際やってみると上手く行かない。
なかなかピントが合わなくて、地下鉄の先頭車両から見る光景のように、カーブしていて先が切れていて、中心付近が暗くてぼんやりして、中心が見られないよ。
あっ、駄目だ。
ピントを合わせようとすると、中心が鏡の外枠から出てしまって、結局見ることができないみたいだよ。

(光) そうだろうね。
中心を見るためには、まず二枚の鏡を完全に平行にしなければならないけど、そのときの視点、つまり、君の目の位置から垂直方向に中心があるはずだから、鏡に映っている君の目のちょうど裏側にあるわけだ。

(一郎) じゃあ、絶対無理だよ。
だって、目を鏡の枠内に入れたら、今度は自分の頭が邪魔になって、中心が隠れて見えなくなるもん。
透明人間にでもならない限り不可能だよ。

(光) まったく不可能かな?
君の目自体が鏡になったらどうだろう。
瞳は凸面鏡になってるよ。
もちろん向かい側に別の人間の瞳があってのことだよ。
 
(一郎) ああそうか、そういう手があったか。
 でも誰と?

hitomi.JPG

(光) 僕でよければ。

 (一郎) いや、遠慮するよ。
 後で、うちのパートナーとやってみるよ。
 だけど、凸面だし反射率が低いから、すぐ小さくなって暗くなって、原理的には可能でも、現実的には意味がないと思うけどね。

(光) じゃあどうしようか?
この際、物理的条件は取っ払おう。
透明人間になったつもりで、思考実験と行くか。

 (一郎) なんだ、はじめからそう言えばいいのに。

(光) 二枚の鏡を「完全に」向かい合わせて、間に入って片方の鏡を見よう。
すると、無限個の鏡の外形が中心に収斂(しゅうれん)しているよね。

 (一郎) うん、そうだね。

(光) いや、でも本当に無限個あるんだろうか?

 (一郎) どういうこと?

(光) 実際に見えるか見えないかは別として、理論上は無限個あるはずだと思うだろうけど。
でも冷静に良く考えてみようよ。
二枚の鏡にお互いの姿が映って見えるのは、はじめに片方の鏡に光が当たって反射した光の一部がもう一方の鏡のやや内側の領域に当たって、またそれが反対側の鏡のさらに内側の領域に当たって、という具合にして、その都度反射した光がそのときの鏡の姿として我々の目に入るわけだ。
ということは、中心付近の鏡の姿が我々の目に入るまでは、それだけ「時間」がかかるということだ。
光といえどもあくまで物質界のもの、その速度は無限ではないから、理論上は中心付近には鏡の姿が作られていない部分があるということになるよね。
つまり、物質界に棲む僕たちには、無限に到達する体験をすることはできないんだよ。
地球の表面が平らだった場合の地平線は、目の高さにあるから、原理的にはそこに無限遠点が見えるはずだけど、現実には光が届かないから見えないということだね。
地平線に限らず、宇宙の無限遠点は、自分の中に有限がある限り存在するけれども、宇宙の年齢が有限である限り光が届かないから、結局見ることはできないんだ。

(一郎) それなら、なにもこんな例を出さなくてもいいじゃないか。
ある線分の中点を取って、さらに中点を取っていくだけでいいじゃないか。

(光) その通りかもしれないね。
ただ、できるだけ臨場感を味わってほしいということもあってね。
「無限は作っていくものであり、はじめから存在するものである」
そして、どちらか一方が先立つということはないというこの絶対矛盾的自己同一を「体感」してもらいたくて。
早く、数学における「0」と「無限小」の区別をなくしてもらいたいんだよ。
ついでに、「限りなく何々に近づく」と同じく、「限りなく何々に近い」を文学としてだけでなく論理的に認めてもらいたいね。

(一郎) 話題は変わるけど、近頃の精神世界でよく使われる言葉についても同じことが言えそうじゃない?
「自分が変わる、アセンション、真我を知る、引き寄せる、物質化する」など、自分の意思で能動的に行動や人生そのものを決めていくような意味の用語があるけど、一方で、
「アカシックレコード、多重宇宙、パラレルワールド」
など、自分の意思にかかわらず行動や人生がはじめから決まっているような意味の用語もあるよね。
一見矛盾するようだけど、なにか同じことを言っているようにも思えるしね。

(光) これらはみな「言い方」の違いにすぎないよ。
前者は、自分という「空(くう)」が生存の体験を時間的な流れとして観察することを通して、光に戻っていく、という表現で、古い言い方をすれば「新生」だろうね。
後者は、あらかじめ可能性として潜在的に用意されていて、どのような世界であれ、自分の意識しだいで自分という「空」が選んでその中に入り込むという表現だよ。
一人ひとりの人間にとって、体験している世界は、やはり、作っていくものであり、はじめから存在するものなんだ。


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上手の横嫌い [思考実験]

みなさんの周りにも、
「上手いから好きなんだよ」
「下手だから嫌いなんだよ」
と言う人がいると思います。
どう思いますか?

高校生の頃、将棋が得意な級友が、私を将棋に誘うことがありました。
「オレ、将棋は好きじゃないんだよ」
と断ると、彼は、
「強くないから好きじゃないんだろ?」
「強かったら好きなはずだよ」
と言ったのです。
これには穏やかな私もさすがにカチンと来ました。
「じゃあ、おまえはピアノが弾けないからクラシック音楽が好きじゃないんだよ」
と言ってやりたくなりました。

ケンカが強くても平和主義者の人はたくさんいます。
「戦わないのは弱いからだ」
と言う好戦的な人がどれだけ平和を乱しているか。

私に限らず、物事は大抵、好きだから(自然と努力をして)上達します。〔好きこそものの上手なれ〕
嫌いだから(努力が苦痛ゆえ)上達しません。
ただし、これらは、相乗効果もあるので、どちらが先なのかという因果関係はハッキリしません。
ともあれ、「好き=上手い」「嫌い=下手」という対応関係が成り立つように思われます。
しかし、すべての人に当てはまるかというとそうでもない、ということは、みなさんもすぐ思いつくと思います。
そうです、「下手だけれども好きだ」〔下手の横好き〕が結構いるということです。
では、それを含めると、「好き⊃上手い」「嫌い⊂下手」という包含関係が成り立ちそうです。
でも、ここまでだったら、将棋でも歌でも「嫌いだ」という人に限って言えば、
「下手だから嫌いなんだ」(上手いから好きなんだ)
という因果関係はなんとか成り立ってしまいます。
このままなら、高校時代の自信家の級友を論駁できません。

残るは、「上手いけれども嫌いだ」という人が果たしているのかということになります。(この手の人を私は勝手に『上手の横嫌い』と呼びます)
結論から言うと、います。

以前、ある雑誌を読んでいたら、往年の欧米のテニスプレーヤーの集会の記事が目に留まりました。
そこにはC選手やM選手などが、引退後も集まってテニスを楽しむ様子が描かれていました。
しかし、取材人は、B選手がいないことに気付いたのです。
「なぜ、B選手はいないんですか?」
と尋ねたところ、Cは、
「だって、やつ、テニス好きじゃないもん」
とあっさり。
取材人は、
「じゃあ、どうしてテニスをやって、世界一にまでなったんですか?」
と尋ねると、
「やつは、勝つことが好きなんだ」
つまり、テニスは勝つための手段にすぎなかったらしいのです。
それにしても、好きでなくても他に動機があれば一流になれるというのは、大した集中力ですね。
他にも、ある国の代表選手でありながら、「仕事ですから(趣味ではない)」とキッパリ言う人がたまにいます。

実は、事の発端は、またまた隣に座る「物理学博士」が、はじめの台詞を吐いたことにあり、向かいに座る数学の先生が、
「いや、そうとも限らないよ」
と反論して、話が発展したのです。
「プロ歌手のM(超大物)なんか、歌が好きじゃないんだってよ」
おそらく、グループの中で適当に上手いからということで、ボーカルを受け持ったところ、売れてしまったのでやめられなくなったのでしょう。

スケールは小さいのですが、私は数学教師をしていますから適当には出来ますが数学は好きではありません。
なので、仕事以外では決して数学をやりません。
高校時代、むしろ教わっている数学に納得がいかなかったから究明しようと志したところ、好きではない数学を教えるという皮肉な結果となりました。

長くなりましたが、「嫌い(好きではない)」理由がけっして「下手だから」ということが成り立たないということ、すなわち、「上手くても嫌い(好きではない)」ということがたくさんあるということです。
言い換えれば、「好き」と「上手」(「嫌い」と「下手」)は、包含関係ではないということです。
まあ、私の造語『上手の横嫌い』は流行りそうもないですね。


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無限を見る [思考実験]

今、方々の商業施設のエスカレーターでは、両側の壁が鏡になっているのを、みなさんは知っていると思います。
ふと、横の鏡を見ると、そこには、無限に繰り返される自分の姿とエスカレーターの手擦りが映し出されます。
しかし、平行に張られた鏡とはいえ、そこは人間が作ったもの、たいがいは、収束先がカーブして見えません。

150930_161915.jpg

では、真っ直ぐのものはないのでしょうか?
もちろん、物質界では無理でしょう。
完全ではないのですが、それに近いところはあります。

esukareta(kinnshi).JPG

しかし、残念ながら、原理的に中心が自分の姿で隠れてしまいます。
(みなさんも経験があると思います。もし経験のない方がいらしたら三面鏡などで確かめてください。)

150927_171246.jpgsannmennkyou2.jpg

それでは、無限に反射された中心部は永久に見ることはできないのでしょうか?
是非考えてみてください。
(実は、私の新著作の中に、この話が出てきます)

発売日前に、私の手元に届いた著書の実物です。
chosho(jitsubutsu).JPG

それから、前回の「ブラックコーヒーと空のミルク」の写真の謎は解けたでしょうか?
実は、6時過ぎは食事前で、空腹です。
ブラックは胃に応えるのですが、ミルクを入れると味が損なわれます。
このジレンマを解消すべく、私はミルクを先に飲み干すのです。
変人の私がよくやることです。




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新著作 [思考実験]

今月の13日に、私の新しい著書が出ます。
『本物のスピリチュアリズム』(詳しくは、amazonで、「知道出版」を検索して見てください)
一部ですが、ブログの内容も、ほぼそのまま載せました。
他に、対話篇もあり、読みやすくなっています。

honmononosupiritsuarizumu.jpg

そこで、次の画像を見てください。
3日前の夕方6時過ぎに、某パスタ店(チェーン店)に入り、撮ったものです。
なにか変だと思いませんか?
そう、飲みかけのブラックコーヒーに、空のミルク。
でも、私にとっては、変ではありません。
さて、みなさん、考えられることは何でしょうか?

150929_181505.jpg

答は次回に言います。(ヒントは、「夕方6時過ぎ」です。いや、ヒントにならないかも)
今度の著作は、これぐらいの少数派を理解するときの感覚に等しいかもしれません。


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平面図形は2次元か? [思考実験]

『太陽の裏側に、地球からは見えない惑星があり、この地球から何人かの人間が宇宙船に乗って辿り着いた。そこはこの地球とそっくり、というより、国も人も全く同じだった。つまり、もう一つの地球があった。ただ一つ違っていたことは、顔も、建物も、文字も、すべて、「左右が反対」だった。こちらから行った人たちがそれを指摘すると、「いや、あなたたちが反対なんだ」と答えた。実は、その星からも同時に、こちらの地球に来ていて、同じことを指摘していた。』
昔そんなSF映画があったそうです。

互いに裏の図形は、重力に支配されているので、上下が固定され、「左右が反対」と言うわけですが、なぜ、裏の図形として区別できるのでしょうか?
それは、以前にも言ったように、前後があるからです。
普段は意識していませんが、視覚に頼っている私たちにとって、図形とは、すべて「手前の図形」です。
前後が反転した「後ろの図形」は見ることが出来ません。
後ろを振り返っても、それはあくまで手前の図形です。
(生まれつきの盲人は両方同時に捉えることが出来ると言われます)

3次元の立体図形は、前後の違いで表と裏の図形が生まれ、重力に拘束されるので左右の反対と表現します。(『鏡に映った姿』を参照)
では、平面図形はどうでしょう。
「互いに裏の平面図形は、2次元では重ならないが、3次元では重なる」
という、いわゆる「両手の問題」ですが、「2次元では」と言うときに、本当に2次元的に見ているのでしょうか?
もし、平面図形が2次元で表すことが出来るのなら、ある三角形を座標平面に貼り付けて、すなわち、縦と横を数値にして、
「頂点が(0,0),(5,1),(4,3)」
などと、表せばよいはずです。(口だけでも表現できます)
ところが、それだと、SF映画の太陽の裏側の人と話が食い違ってしまいます。(仮に「右に」あるいは「左に」と言っても無駄です)
自分から手前の方に見た図形と、向こうの裏から見た図形が違うものだということであって、それは、取りも直さず、厚み0のペラペラな平面図形と言われるものが、あくまでも「3次元の図形」であることを示しているわけです。

甲を同じ向きにして、両手を並べてみてください。
「2次元では重ならない」
というのは嘘です。
あくまでも3次元として捉えているから重ならないのです。
前後の方向が違うから、別のものなのです。
数学でもそうですが、平面図形というものを考えるときに、前後の奥行を無視して考えているつもりが、厚みを0にして一方から見ているだけになってしまっているのです。
むしろ、前後の軸をつぶして(無視して)、手前の図形と後ろの図形(裏側から見たもの)を同一視することによって、つまり、2次元的に見れば「同じもの」となるのです。
「3次元では重なる」
というのも嘘で、正確には、
「2次元では重なる」
です。
動作が3次元空間で自由に反転して行われたように見えるから、「3次元では」と表現したのでしょうが、3次元の図形は一向に重なりません。
両手で試してください。
手には厚みがあるので、手のひらが張り付くだけで、両手は重なりません。
かりに溶け込んでも、一致しません、
平面図形は、厚み0であることをいいことに、表と裏が一致したように誤魔化して見ることが出来るだけです。
表と裏の平面図形が重なるというのは、あくまで前後の向きを無視したということです。

立体であれ、平面であれ、表と裏の図形が重なるのは、前後の方向を「無」(0)にすることで可能になるのではなく、前後の方向を「空」にして可能になるのです。


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要因 [思考実験]

自分でも忘れかけていましたが、私は高校1年の頃、顔にニキビが出来て悩んでいたことがあります。
と言いながら、
「こんなものは一時期のものであって、時が経てば自然になくなる」
「周りの同学年の連中にもたくさんいるし」
と思い、特に治そうともしませんでした。
それでも、
「ニキビの原因はいったい何なのか?」
と常に気にしてはいました。
母親は、
「顔を洗わない(清潔にしない)からよ」
と言いました。
同級生は、
「若さのシンボルだよ」
と言いました。
私自身は、
「コーヒーなどの刺激物だ」
と思いました。
原因は、洗顔しないことか?若さか?コーヒーか?それとも全部か?
なぜ、自分ではコーヒーが原因だと思ったかと言いますと、もともとコーヒーが好きで、当時、夜になると口が淋しくなり、自転車に乗ってまで少し離れた店の自動販売機の缶コーヒーを買ってきてよく飲んだのですが、そうすると、途端に、顔のニキビの先端が立ってきて、黄色い芯が出てくるのでした。
特に洗顔しないわけではありませんでしたし、若いから新陳代謝が激しいということは確かであって、それを認めるとしても、同級生全員にニキビがあるわけではありません。
それで、漠然とコーヒーが原因だと思ったのです。
どうでしょう?
私が「コーヒーが原因だ」と言うのは、正しいのでしょうか?間違いなのでしょうか?

結論から言いますと、とりあえず正しいのです。
「ええっ?そんな一方的なぁ」
「新陳代謝が激しいことを自分で認めているじゃないか」
「洗顔が足りないんじゃないのか?もっときちんと洗顔してから言え」
と思う人もいると思います。
詳しく言いますと、コーヒーという観点から見た場合に、ともあれ、コーヒーが原因だといえるのです。
もちろん、「洗顔が足りないから」と言うのも正しいのです。
「若いから」と言うのも正しいのです。
「全部が原因だ」と言うのも正しいのです。
ともあれ『語り得ること』は語り得るのです。

正しくないこと(間違い)とは何かと言いますと、たとえば、
「コーヒーが原因だから、洗顔不足や若さのせいではない」
というように、コーヒーという観点から、他のものを否定する(肯定する)ことです。
『語り得ぬこと』は沈黙しなければならないのです。
これは、非意義的命題と言って、論理的な間違いではなく、論理の「使い方」の間違いです。
ほかに、「全部が原因だから、コーヒーのせいではない」なども、論理の「使い方」の間違いです。

ある一つの観点から、他の観点からのものを否定したり肯定したりすることは、論理の「使い方」の間違いです。
言い換えれば、複数の要因があっても、「一つの要因で言い通せる」ということであり、人と話をする場合に、その省察が必要なのです。
「一つの要因で言い通せてしまう」ということにのめり込んで、省察を怠ると、語り得ぬことを語ってしまい、他に対する無理解が生じます。
人間は論理的にしか思考できません。
論理的に間違いがないからこそ、つい論理の「使い方」を間違えてしまうのです。
よく聞く「見えなくなって話にならない」というのは、まさにこのことです。

では、別の例を挙げます。
沖縄の人が一般に長寿なのは、何が要因でしょうか?
食べ物?気候?それとも、ストレスが少ないことでしょうか?
もう言うことはないと思います。
中には、
「いや、沖縄は台風がよく来るから気圧が低く、身体に作られる活性酸素が少ないからであって、食べ物や気候などのせいではない」
という人がいます。
よくある議論好きの集まりの尽きない論争は、この手の間違いがもとです。

「世の中カネだ」と言う人と、「世の中は愛だ」と言う人は、お互いに論駁できません。
ですから、私が唯物主義を撲滅することが出来るとすれば、論争ではなく、霊的事例を突き付けることによってでもありません。
省察を弘める活動によってだけです。


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「1+1=2」 [思考実験]

ピカソとエジソンは「1+1=2」が納得できなくて学校を辞めました。

「天才は頭の構造が違うんだから」と簡単に片づけないでください。
私たちだって、これを教わった小学一年生の時には、何かしら違和感を覚えたはずです。
「そうかもしれないが、そんな昔のことは覚えていない」という人は多いと思います。
では、この私は何を思ったかと言いますと、
「『+』って、ただくっ付けるだけなの?」
「『=』って、同じだということなら、同じものを書いてどうするの?」
これぐらいです。
振り返れば、「+」は普段は単なる「寄せ算」として使っていますが、もっと有機的な意味を持たせることだって出来るはずです。(ボウリングのスコアのように)
また、「=」が「同じ」という意味なら、わざわざ並べて描く必要がないようにも思えます。
もっとも、「=」はどちらかというと、結果を出す時の経過「→」として使っている気がします。

では、もう一度じっと眺めてください。
左辺と右辺は本当に同じでしょうか?
違いがあるとすれば何でしょうか?
思いつくものを挙げていってください。
おそらく、
① 「形(文字や記号)が違う」(意味が違う)
② 「書いてある場所が違う」
③ 「書いた時刻が違う」
でしょう。
このうち、②と③は余りにも自明なので無視していいでしょう。
結局、①が問題となります。
「+」を単なる寄せ算だとしても、「1に1を足す」という行為はどこへ行ってしまったのでしょうか?
それに、先ほど言ったように、まったく同じなら、わざわざ「同じだ」という必要はありませし、そもそも「同じだ」とも感じません。
要するに、違うところがあるからこそ、数量という面において「同じだ」と判断できて、「=」で結ぶのです。
「同じ」と「違う」は一体であり、まさに即非です。

あの二人の偉人がどうして納得しなかったかは定かではありませんが、おそらく、物事を一面的にとらえることを強いられ、想像力を奪われることに耐えられなかったのだと思います。


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