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《善》とは [中庸]

先日のこと。
混雑している地元の駅の『スタバ』に入り、1つだけ空いていた2人用の席にカバンを置き、カウンターでコーヒーを受け取って戻り、ゆっくりと飲んでいました。
「これからどこへ行くでもなく、1人だし、家に帰ってからまた夕食に出かけるとするか」
そんな感覚で時間を過ごしていると、そこへ、50代ぐらいの男性が入ってきて、私と同じように店内を見渡し、席が空いていないことを確認して、出ていこうとしました。
そこで私は咄嗟に立ち上がり、幸いその人がこちらを向いたので、今居た席を指差し、無言で「もう出るからどうぞ」と、意思を示しました。
私はカップの底に残っていた微量のコーヒーを飲み干し、カバンをもって立ち去ろうとした時、その人は、
「ご親切にありがとうございます」
とお礼を言いました。
私はただひと言、
「ええ、もう終わりますから」
と小声で言って、出ていきました。
まあ、よくある日常のやり取りなのですが、もし私が底に残っていた微量のコーヒーを飲むという「自分の都合」でその場にとどまって、その男性を追い遣ったとしたらどうなったのかと、思い返したのです。
ふと8年前のことを思い浮かべました。
「カネを使うと、なぜかカネが入ってくるんだよ」
とM親分に言ったら、
「そう、それ不思議だよね」
と返ってきました。
景気の好循環はこれに尽きるのですけど、自分一人がやってもすぐにどうなるわけではありません。
ただ、この世界は「五次元世界」です。
みな「自分」なのです。
みな繋がっているのですから、何らか影響を与えていることは間違いないでしょう。
今回も私が席を譲ったからといって、すぐに世の中が動くわけではありませんが、積極的に働きかけることで、何らかの形で結果となって表れるはずです。
そんなことを思い巡らせていました。
でも、「結果」を期待するのは、なにか変です。

その男性の言った
「ご親切に・・・」
そこで思い出しました。
3カ月ほど前のこと、空き時間に外に食事に行く途中、いつもの道を歩いていたら、向こうから歩いてきた60歳前後の男性が私に会釈をしました。
知り合いかと思って私も咄嗟に会釈をしましたが、そうではないらしく、どうも駅へ行く道がわからないので教えてほしいということでした。
私は「えーと」と辺りを見渡した後、「ああ、こっちです」と言って道案内することになって、脇道に入って一緒に歩き始めると、その男性は言いました。
「わざわざご親切に」
「何か信仰していらっしゃるんですか?」
と聞くので、私は事情を説明しようか一瞬迷いましたが、もしも宗教団体の人だったら、かえって面倒なことになるので、
「いえ、まあ日本人はみんなそうじゃないですか?」
「どうせこっちに用があるので」
とはぐらかし、大通りに差し掛かった角で、右手で指し示して、
「ここを真っ直ぐ行けば駅です」
と言って別れました。
それにしても、「親切にする」というのがそんなに特別なことなのでしょうか?
私は当たり前だと思っていたのですが、どうもそうではないらしいと今さらながら知りました。
【すべてはみな繋がっていて、世界=自分の世界=自分そのもの】
そのような私の省察が行動に顕れているのか、その男性がその筋の人だったのか、いずれにしても《敬虔さ》を見破られてしまったわけです。
おそらく、私は霊的自覚を通して、エゴを「消す」ことはできなくても「エゴイズム」には陥らなくなり、それが「親切な行為」となって顕れているのかもしれません。

この「自発的な衝動」が『性善説』や『善知識』の《善》に当たると考えればよいでしょう。
神仏の光とか、慈悲とか、愛とか、どう表現してもいいと思います。
反映として現れる地上道徳的な善行(小善)ではなく、根源にあるものです。
それは霊的自覚や諦観によって体得されるものです。

神仏の「光(愛・Agapē)」が地上の人間に当たって、その人や集団の価値観やその場の事情によって「明と暗」に分かれ、世間一般では「情愛(Affection)=明・非情(Heartless)=暗」、ある場合(職人の師弟関係など)には「情愛(Affection)=暗・非情(Heartless)=明」となって顕れます。(厳しさが優しさ、愛の鞭)
私の場合はほとんど前者ですが。
世間一般の“間違い”は、この地上における「影」の〈小善〉を『性善説』の《善》だと受け止めてしまうことです。
私が再三言う〈『性善説』の履き違え〉とはこれです。
ソクラテスの「善く生きる」というのは、価値観によって変わってしまう地上の〈小善〉ではなく、地上を超越した《大善》のことであって、「諦観」をもって生きること、真の意味で「幸福」であることを知って生きることと言えます。

いずれにしても地上にへばり付くことが《大悪》であり、〈エゴイズム〉とは自分のエゴを超越(諦観)できないことによる《大悪》です。
地上の〈小悪⇔小善〉を超越すること、
田坂広志氏の言葉を借りれば、
「エゴがある自分を認めて、もう一人の自分を設けて、静かに見つめること、諦観すること」
が《大悪》から離れること(荀子の『性悪説』の真意)であり、それがすなわち《大善》なのです。
三木清が言った、
「他人に施したから幸福なのではなく、幸福だから人に施すことができる」
というときのこの「幸福」とは、「霊的自覚」あるいは「霊性を得ること」と言えます。
つまり神仏の「光」に気付くことです。
そのように振り返ると、私がスタバで席を空けて譲ったことも、結果を想定した「計算」ではなく、(雑毒の善であったとしても)ふと自発的に出た行動だと自覚できるわけです。
この自発的な部分、純粋な部分に着目していただきたいのです。
順番を考え直していただきたいのです。
地上の「小善⇔小悪」を超えた《善》が孟子の伝える真意です。

《聖人や賢人またはスピリチュアリスト》が言う【善悪】とは、《大善⇔大悪》〔神のもの・天国・極楽浄土〕のことであり、地上の〈小善⇔小悪〉〔カエサルのもの・地獄〕を含んではいるものの、「仮のもの」であると知るため白か黒かに終始せず、諦観をもって超越しています。
なお、地上的な「正当・不当」に関しては、〈実利害損得〉のみ問題にし、世法をもって処理するだけで、それ以上は追及しません。
それに対して、〈多数派である地上の住人たち〉が言う【善悪】とは、〈小善⇔小悪〉〔カエサルのもの・地獄〕のことでしかないため、小善、偽善の延長に「本物の善」を追い求めてしまって、対極の〈小悪〉をすべての元凶として駆逐しようとするため、価値観の違いで争い事が絶えず起こり、時には自分自身を攻撃してしまいます。(まさに地獄です)
なお、聖人や賢人の「小悪を含んで超越するあり方」を「悪を“正当化”している」と受け止めるのです。

*昨日は『バーミヤン』で、隣にいた親子(父母と小学生の女の子)が帰ろうとした時に、座席に何か黒い衣類のようなものが見えたので、最後に去ろうとした女の子に、
「あっ!忘れ物かな?」
と声をかけ、事なきを得ました。
女の子は、「ありがとうございます」と言って軽く会釈をして去りました。
⁑今日は夕飯に行く途中、駅近くで自分の前を歩いていた若い女性が、カギを落としていったので、すぐに私は拾い、追いかけて声をかけました。
「鍵を落としましたよ」
それでも一向に振り向かないので、速足で近くまで行って声をかけましたがやはり振り向かず、たまたまそこにいたお巡りさんが、女性の肩を叩いて気付かせて、ようやく鍵を渡すことができました。
「ああ、ありがとうございます」
と言う日本語からして、どうやらその女性は中国の人でした。
お巡りさんは私に、
「ご苦労様!」
とひと言いました。
何の変哲もない日常の営みの中に、実は重要な意味が含まれているのです。

【※参考】〔『太陽の法』より引用〕
古来から、善悪二元論については、様々なことが言われてきました。その根本問題は、人気のつくられた世界に、なぜ、悪が存在するのか、悪とは、仏自らのなかにひそむ性質なのかということでした。しかし、悪は、もちろんのことながら、仏自らの性質、すなわち仏性ではありません。悪とは、仏の大願成就を阻害することです。あるいは、仏から自由を与えられた者同士の相剋、お互いの自由と自由がぶつかりあって、一定の時間、ゆがみなり、ひずみが、心の世界に、あるいは、現象世界にあらわれているものにすぎないのです。つまり、(叡智界・実存界における)根源的存在論としてではなく、(地上現象界・差別界における)機能論、行為論として悪(小善に対する小悪)はあるのです。〔日月神示:弥勒は悪を抱いて参る〕

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小悪が大悪を防ぐ [中庸]

★サッチャー元首相の言及。
「確かに戦争は悪です。しかし、その戦争によってもっと巨大な悪をストップせねばならぬこともあります。もし連合国がヒトラーをストップしなかったら今頃世界はどうなっていましたか」
【私のコメント】
確かに戦争は悪(小悪)です。しかし、その戦争によってもっと巨大な悪(大悪)をストップせねばならぬこともあります」
(小悪によって大悪を征す)
・・・・・教師の「体罰禁止」をさかんに唱えて、教師を「銃や警棒を使えない警官」にして、面白がっている輩に聞かせてあげたいね。
「確かに体罰は悪です。しかし、その体罰によってもっと巨大な悪(悪魔・モンスターの活躍)をストップせねばならぬこともあります」ってね。
自分が平穏であっても、相手が攻撃しないとは限らない。
好戦的な輩は必ずいる。
地上の人間には「知性」があり欲があるからだ。
特に、思考が地上的で「感覚の目」だけ捉える人は「強欲・貪欲」が尽きない。

戦争は誰もしたくない。
でも広い意味での「防衛」は平和実現の〈方便〉として必要だ。
小悪は大悪を防ぐ。
弥勒は悪を抱きて参る。(日月神示)
戦争の対は平和ではなく、非戦だ。
〈戦争(小悪)-非戦(小善)〉という一本の地上の直線を超越してこそ、《平和(大善)》を実現し、地上の直線にへばり付く〈地獄(大悪)〉から抜けられる。

★「言葉そのものにはじめから絶対的な正や負の価値がある」
と思い込まされるというのは、意外と深刻なことであって、省察しないと、他人を理解し無益な中傷誹謗を回避するうえでかなり障害になるのです。
たとえば、「勤勉と怠惰」です。
日本人のほとんどは「勤勉=善、怠惰=悪」と幼少から教え込まれているでしょう。
ところが欧米では「勤勉=悪、怠惰=善」が一般人の価値観なのです。
「そんなバカな!」
とほとんどの日本人は言うかもしれません。
「勤勉は確かに考えようで、日本人でも、健康面を考えれば必ずしも善とは言えない」
「でも、怠惰は怠惰であって、良いわけがない」
「それは〈怠惰〉ではなく他の言葉が使われているに違いない」
ときっと思うでしょう。
実は私も「怠惰=善」というのは違和感があります。
良い意味で使われることがほとんど見当たらないからです。
でも人生で一回だけ経験しました。
イラストの師匠、清藤先生の言葉、
「怠けようよ・・・」
です。
絵を描くうえで、「手を抜く」ということは、むしろインパクトや強調効果を考えた場合に必要なことで、「必要以外に描き込まない」のが鉄則だからです。
欧米人にとって、「生活」よりも「人生」を充実させるためにむしろ「怠惰」が重要だということです。
日本人は、
「今日できることは今日のうちに済ませろ」
と刷り込まれていますが、欧米人は、
「明日できることは明日に回せ」
と刷り込まれているようです。
「待ち合わせは、最後に来た人に合わせる」
「自由に仕事し、いつでもサボる」〔『最後はうまくいくイタリア人』より〕

それでも、日本人の中には、
「欧米人は、必要ないからやらないだけであって、それは怠惰ではない」
「必要なのにやらないから怠惰なのだ」
と食い下がる人もいるでしょう。
ところが私たち日本人は、「怠惰」という言葉のうちに暗黙のうちに「あってはいけないこと」という負の価値がはじめからあると思い込んでこの言葉を使っているのです。
(〈考えていない日本人〉の【差別】と同じ)
私も日本人だからその気持ちはわかります。
なぜそうなるのでしょうか?
欧米人は(清藤先生も)必要か必要でないかはともかく、「怠ける」とか「サボる」という行為に対して、「後ろめたさ」などの負の感情はないと言います。
「手を抜く」という肉体的表面的な〈行動〉をただ「怠惰」と表現しているだけなのです。
もう一度取り上げますが、
日本人は、
「今日できることは今日のうちに済ませろ」
欧米人は、
「明日でもできることは明日に回せ」
言い換えれば、
日本人は、
「出来るのなら『必要がなくてもやる』のが望ましい」
欧米人は、
「出来ても『必要がなければやらない』ほうが望ましい」
です。
それに加えて、日本人は「必要なのにやらない」という道徳的に負の価値をはじめから付随しているものとして「怠惰」という言葉を使うため、上記の、
★『必要がなくてもやる』という〈道徳的必要性〉
に反すると、
☆「後ろめたさ」という〈負の感情〉
が働いて、それを【怠惰】と表現するのです。
〈負の価値そのもの〉が【怠惰】になってしまっているのです。
〔思考停止した日本人の【差別】も同じ原理〕

*左寄りの日本人にとって〈地上的道徳〉は絶対であって、守らなければ人間失格であり、怠惰はその〈道徳心〉に反するからです。
地上の〈(小)善・(小)悪〉に思考がへばり付いているからです。(ユリゼンの僕)

⁑右寄りの日本人は〈権力〉に対して絶対視し、一方的な思考が働きます。
私は散々経験しましたが、右寄りの人は権力に「従わないこと」ではなく、権力に
【媚びないこと】
を悪とするのです。(ベリアルの子)
「なんで媚びないんだ」
「順応しなきゃだめじゃないか!」
という具合に。
順応性の高い女性はもとより、中学生までもが言うのです。
私にはそれは、
「この町の人はみなコレラに罹っている」
「だから、あなたもコレラに感染しなければならない」
というように聞こえるのです。(何度も言いましたけど)

※池波正太郎が言っていた戦後日本の、
「白だ、でなければ黒だ」
とはこれです。
まったく、頭がおかしくならない方がおかしいのです。

組織内部では、前述のように、
「プライド(自尊心)は余計なものだ」
「言い訳をしてはいけない」
などと、従業員同士で言い合っているのです。
これでは日本人は幸せになるはずがありません。
物質的生活の確保のためとはいえ、「権力」と「地上道徳」に帰依して「思考停止」してしまっては、霊的に言って進歩がなく、地上人生の意味がありません。
それを「我を捨てている」と美化する寺の住職もいるというのだから呆れます。
我(欲)を捨てているどころか、我(欲)があるからこそ「魂(なくてはならないプライド)」を売ってしまっているのです。
自らが奴隷となって身の安全を確保し安堵を得るという「奴隷意識」です。
それを「お国柄だ」(思想、様式の違い)と言って誤魔化す人もいます。
もちろん、欧米人にはそんなものはありません。(あっても嫌います)
むしろ真逆です。(アメリカの脱走の映画を見よ)
「プライド(自尊心)は必要なものだ」(冒頭のサッチャーの言及)
「言い訳をしてもいい、むしろ言い訳をしなければやっていけない」

そのため、それを「思想の違い」として片付ける人が多いのですけど。
様式の問題ではありません。
日本は病気なのです。
そういう人たちは、そうでない人に対して、
「あんたは外人なんだよ」
と言って、ノケモノにするだけなのです。
〈様式〉の(違いの)問題ではなく、地上の仮のものである「思想」にへばり付いて一方的にしか思考が働かない《状態》が霊的に大問題なのです。
地上の善悪に対して、〈白〉か〈黒〉なってしまっているのです。
超越して高い視点(霊的視点)に立てないのです。
《大悪》なのです。
霊的病気なのです。
「権力(ベリアル)」も「地上道徳(ユリゼン)」も〈仮の掟(偽神)〉であり、あくまで〈秩序〉を保つために方便としてあるものであって、帰依するものではありません。
帰依したからといって、社会が《平和》になるわけでもなく人間が《幸福》になるわけでもありません。
今の日本は、それを省察する習慣も切っ掛けもありません。
私自身はというと、ともあれ権力には「従う」けれども、「媚びる」ことはありません。
私がそんなことを言うと、
「それは逃避だ」
「逃げ口上だ」
「自己弁護だ」
という人が必ず現れます。
私は「魂の奴隷」になることから逃れているだけなのです。

これもまた話は同じで、「逃げる」という言葉に、はじめから「負の価値」が付随しているという前提で言うのです。
ならば、その人は在宅中の自宅が火事でも逃げないのでしょうか?
日本中、今はまさに自宅が家事なのです。
まさに『(天山)遯』の状態なのです。
その人たちは、「地上の掟に帰依している」というまさに「火事の状態」だということが分かっていないのです。
実際に私はそれで《人間》が崩壊した人をたくさん知っています。

【差別】も同様に本来は表面的な「行動」を言うのです。
〈言葉〉とはあくまで客観的な行動を指すもので、人によって正負・善悪・損得が曖昧なこと、すなわち「善悪の意識」にやたらと使うものではありません。
それを破ってしまったから日本人はおかしくなったのです。
それで〈野暮〉が蔓延しているのです。

最近、
【生徒の英語に「garbage〔ゴミ〕」発言 外国籍の教師“アメリカンジョークだった”】
という見出しがありました。
〔私のコメント〕
「温室育ち」を「腫れもの扱い」し、
学校側も
「不適切なものだった」
と「自己保身」を図る。
(仮のものである)地上の道徳や法律、コンプライアンス等で、自分や他人を縛り付けているのが今の日本。
これじゃ「幸福度が低い」のは当たり前。
どこに「人間」があるのかね?
〔[↑]1 [↓]3〕

【福岡・宮若市長「女は子供を産んで初めて女になる」…新たな不適切発言が発覚し陳謝】
〔私のコメント〕
「不適切」かどうか、そんなのとり方次第でしょ?
この件に限らず、こんな議論もうやめな!
〔[↑]23 [↓]34〕

言葉そのものに「誰にとっても絶対的に決まった正負の感情や価値」が予め付随していると思い込んでいるのです。(思考が地上にへばり付いた唯物論・実在論)
そのような人が日本に溢れているのでは、今にどんな【言葉】も使えなくなってしまいます。
結果的に、そのような人たちは、「あんたは偉い!」などと言って【ほめ殺し】をする輩に軽くひねられてしまうのです。

一方で、近頃こんな記事がよく見られます。
【「心の病」で休職した公立教員、過去最多 前年度比10.9%増】
〔私のコメント〕
日本そのものが〈精神疾患〉なのだから、教員が〈精神疾患〉になるのはむしろ正常な反応だ。
ならない人は「鈍感」と言える。
作家の池波先生が、
「戦後の日本人は、〈白だ〉でなければ〈黒だ〉と言う」
「頭がおかしくならないほうがおかしい」
と言ったのが、まさにこれなのだ。
[黒ハート]1 〔[↑]7 [↓]0〕
要するに、日本がおかしくなっていることは、実はほとんどの人が認めているのです。
ただ、その原因やメカニズムが解っていないのです。
多数派が、その原因と対策を〈制度〉とか言葉の〈表現〉とか、「末端のもの・地上的なもの」に求め、そしてまた白か黒かと地上的に「解決」しようとしているのであり、ピントがずれているということです。
胃腸炎の患者に、医者が風邪薬を処方して、余計に悪化しているという具合です。

★以前にも取り上げた、
「スピリチュアリズム普及会による『シルバーバーチの霊訓』の翻訳」
においても顕れています。
キリスト教でも仏教でも、人の死そのものを忌み嫌うことはありません。
誰もがみな死ぬのですから。
(☆社会通念としてある死を忌み嫌う思想は、殺人が横行しないように、秩序を保つために仮に置くものです)
それはまた、「自分=自分の肉体」ではないこと、自分が霊的存在であることを自覚することでもあります。
むしろ肉体の死は人生の完成(目的)を意味し、霊的観点からすれば祝福すべきなのです。
だからと言って、『愛する人の死を悲しむのはいけない』ということではないのです。
誰だって愛する人が死ねば悲しいに決まっています。
地上の人間には地上の事情があるわけであり、それを酌むのが聖人の教えです。
愛する人の死に際して悲しむのは、たしかに「自己憐憫」です。(シルバーバーチはそれだけを言っているのです)
ところが、スピリチュアリズム普及会の人の言い方からすると、実際に愛する人に死に際して「自己憐憫」で悲しんでいるのは、
「死んだ人を憐れんでいるのだ」すなわち「霊界の真理を知らないからだ」
と決め付けるような解釈なのです。
それならば、学校の卒業式で泣く人は、バラバラになる友達の卒業や門出を祝福しないというのでしょうか?
いささか短絡的な思考法です。
そうではなく、「自己憐憫」は「自己憐憫」でよいのです。【カエサルのものはカエサルに】
肉体を持っているのですし、感情もあります。
意思疎通ができなくなって、ショックを受けるのは当然です。
だからと言って、誰もが死んだ人に「不幸」をなすり付けているわけではないでしょう。
もちろんスピリチュアリズムの真理を弁えていれば、悲しみに「のめり込む」ことはないということです。【神のものは神に】
それだけのことです。
(*再三登場モーツァルトが友人Hが亡くなった時に記述した、「Hを気の毒だとは思いませんが、残された家族が気の毒でなりません」がすべてを物語っています)
スピリチュアリズム普及会の人間とあろう者がこのような思考であることに、むしろ私は嘆きます。
スピリチュアリズム普及会の人たちも、やはり今の日本人なのでしょうか。
ハッキリ言って、「地上の道徳」に毒されています。
概して地上の掟にのめり込むと、〈差別〉や〈怠惰〉の例のように、思考が白か黒かになって「寛容性」を失います。

「勤勉=善、怠惰=悪」という〈刷り込み〉は、偏った思想すなわち地上の道徳であり、日本という独特な国の秩序を保つための方便として必要ではありますが、あくまで「仮のもの」であって、それを省察抜きに「帰依」してしまうと危険なのです。
イエスやブッダなど古今東西の聖人たちはこれ(仮のものだということ)を言っているのであり、その点で今の日本人は道徳律を司る〈偽神(ユリゼン)〉に帰依してしまっていて、霊的に最悪の状態なのです。
つまり地上の道徳の〈(小)善・(小)悪〉に思考がへばり付いてしまって超越できないのです。
カエサルのものを神(偽神)に返しているのです。
これが《大悪》と呼ばれるものです。
専ら戦後の左翼思想に因るかどうかは微妙ですが、再三言う〈性善説の履き違え〉が原因です。
〔※性善説の善は、地上の〈小善〉ではなく、〈小善⇔小悪〉を超越した《大善》です〕
〔※昨今の著名人や有名人が、道徳に反することをしたとかで、プライベートなのにもかかわらず吊るし上げて仕事から排除するのも、その反映です〕

上述のイタリア人をはじめとする欧米人の価値観は日本人と真逆でしょう。
地上の価値観(仮のもの、小善・小悪)なので、どちらが良いとか悪いとか決めることはできません。
「価値観(の違い)」の問題ではないのです。
ただ、その真逆の思想があることを知って、自分たちの思想が地上における〈仮のもの〉であることを《省察》するきっかけを与えてくれるのです。
まさに「〈小悪〉によって、《大悪》を防ぐ」のです。
そして、〈小悪〉によって地上の善は〈小善〉と覚り、《大悪》から逃れて《大善》に向かうのです。
〈荀子〉を理解することによって、《孟子》を真に理解するのです。
地上(現象界・差別界)にいる人間は〈影〉しか追えないけれど、それを知ることで、全速力で〈影〉を追わなくなります。
〈第一の絶望〉を認めることで、《第二の絶望》に陥ることから逃れます。
そして聖人たちの言うように《善く生きる》ことができます。〔この善は大善のこと〕

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外国人差別? [中庸]

★数か月前のこと、行きつけの中華居酒屋で、隣のテーブルに座っていた4人の男性がなにやら仕事の話をしていました。
よく見ると、そのうちの1人は東南アジアの国の人らしく、英語は話せるようでしたが日本語があまり話せないようでした。
向かい側の日本人男性が新しい仕事と職場のことを伝えようとしていましたが、
「(外国人)差別がない」〔というより本来は(国籍)差別がない〕
ということを英語でどう言っていいかわからない様子でした。
次に、職場の「雰囲気」は良いと伝えたいらしいのですが、英語がわからず、咄嗟に横にいた私に、
「雰囲気」って英語で何て言うんですか?
と振ってきました。
私は、
「『atmosphere』だったと思いますけど」
と答え、ついでに先に言った「差別がない」を英語で、
「『no discrimination』と言うんです」
と教えて、直接その東南アジア人の男性に言いました。
伝わったようでした。
この話はまさしく〈差別〉なのです。
この場合の国籍差別は、日本においては日本人に比べて外国人を冷遇するという〈利害〉が付随しますが、当事者の外国人たちが「問題」にしなくていい差別なのか、国家の義において「必要」な差別なのか、というところでしょう。
この〈差別〉には、特に「侮蔑」や「迫害」の負の価値の付随はなく、いやあっても、それをどうこう言うのではないのであって、ただ単に、「言葉や慣習」などにおいて日本人ほど「期待できない」から給与が安いなど冷遇されるわけで、当の外国人たちの中にも「不当」だと思っていない人もいるでしょう。
もちろん「不当」だと言う人もいるでしょう。
いずれにせよ、ここは日本であって、日本人が仕切っているわけであるから、日本人の都合で決めているのであって、言っても仕方ないと諦めているのかもしれません。

〔ネットの記事〕
【人種や国籍、肌の色だけを理由に職務質問を行うのは差別で違法だ】
〔私のコメント〕
そりゃどこの国でも、よそ者に対しては「偏見」があるよ。
実際、扱いが変わる。
すなわち「差別」は付き物だよ。
ただそれを
「問題にするかしないか」
「訴えるか訴えないか」
「解決するかしないか」
だけのことだよ。
履き違えないでもらいたい。
「差別そのもの」
が違法なのではない。
〔[↑]39 [↓]6〕

【因みに】
間違えてはなりません。
日本で「肌色」という言葉(差別・区別)が使われなくなったのは、ひとえに国際化のためです。
白人や黒人などの外国人が日本にたくさん住むようになったために、ただ「不都合」が生じるからであって、(排斥するとかしないとかという意味での)肌の色の違う人たちへの気遣いではありません。

⁂という言葉です。
かつて石原都知事が街頭演説で使って、日本に住む中国人や韓国人から非難を浴びたことがあります。
もちろん、その世代の日本人は「三国人」(第三の国の人)という言葉に特に負の価値は持たせていません。
私の親は今でも使います。
私の親たちは昔から、中国人や韓国人は同じ日本人に比べて、価値観や生活習慣が違うことから、やはり見方や扱い方を変えていたようで、何らか分け隔てをしていたのでしょう。
日本の中で日本人が言うのですから。
ただ分けるというのはなく、そういう価値を伴うからこそ言葉で分けるのであって、だからこそ「三国人」という言葉を使っていたはずなのです。
戦前生まれの人にとっては何気ない言葉でしょうけど、よくよく振り返れば、やはり「よそ者扱い」というのは否めないのです。
何らかの優劣が含まれているのはむしろ自然です。
つまり、「言葉」そのものが差別・区別なのです。
この現象界・差別界では、人は誰でも「差別」をしているのです。
どんなに言い張ってもみなが差別をしているのです。
それをまず認めてもらいたいと思います。

ただ、優劣や善悪は、する側もマチマチであり、受け取る側も様々なのですから、言葉そのものに絶対的客観的な優劣や善悪があるとするのは唯物論から来る〈妄想〉です。
よく言われる、ある人の表現が「適切か不適切か」などと言って議論するのは、まったく論理の使い方の間違いなのです。

もちろん、以前から一般の日本国民がそれを言っても、誰も問題にしませんでした。
なぜなら、利害損得がほとんど生じないからです。
ところが、政治的影響力のある石原都知事が言うとなると、これは中国人や韓国人たちにとって、「排除」を意味し、実利害が生じる可能性があり、「死活問題」になるのです。
それで〈当事者〉たちが問題にして抗議したまでのことなのです。
もっとも、それを言ったら、日本において石原都知事が、「中国人」、「韓国人」、「外国人」と言っても、同じことでしょうけど。
なので、石原都知事は、不適切だと認めたのではなく、
「話しても分からないから、無駄だから」
と言いう理由で今後「三国人」という言葉を使わないと決めたのです。

どんな場合も、(当事者たちにとって)問題にする必要があるのは客観的な【実利害】であって、けっして「意識」ではありません。
そこを一般人は履き違えてはならなりません。

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差別はあってはならないものなのか? (2) [中庸]

★記憶に新しいと思いますが、未だに、ある政治家が、
「差別をなくす」を「不当な差別をなくす」
に変更したことに対して、非難する人が大勢いました。
断言しますが、後者のほうが「真っ当」なのです。
なぜなら、
?地上の人間はみな【差別】をしているからです。
「えっ?」と思われるかもしれませんけど、社会とは何か、人間とは何か、言葉とは何かを例を挙げて省察すればわかります。
〔*もっとも、「なくす」というのは無理です。交通事故と同じでなくなりません。その都度「解決する」だけです。冷遇されている当事者が「不当だ」と訴え、裁くものが裁いて、解決して、平穏と秩序を回復するだけです〕
ハッキリ言って、上述のように非難する人は「何も考えていない」のです。
そういう人たちというのは、どうやら、
「不当なもの」を〈差別〉
と言い、
「不当でないもの」は〈差別ではない〉
と言うらしいのです。
単純に言えば、「侮蔑」や「迫害」を〈差別〉と呼んでいます。
それで、非難するのでしょう。
でも、「不当か不当でないか」を誰が決めるのでしょうか?

★もっとも、「侮蔑」や「迫害」または「排斥」でも、不当とは限らないはずです。
そうされても仕方がないとか当然だという輩がいるのではないでしょうか?
誰にでも一人ぐらいは思い当たる人がいるはずです。

日本人は狂ったのでしょうか?
地上の人間社会は、〈現象界・差別界〉と言って、あらゆるもの人間の都合で〈差別〉しているのです。
そのときの道具として「言葉」があるのです。
*まずそれを認めることです。
思い当たりませんか?
たとえば、自分が「外国人」と言った場合、外国人とそうでないものを分けるのは、自分の都合で見方や接し方を変える必要があるからであって、何らか偏見を持っているはずです。
★ある有名な弁護士が、◯◯人を誹謗中傷する人とケンカして、
「〈◯◯人〉と一括りにするな!」
と言っていました。
たしかに余計な属性は付加しないに越したことはありません。(オッカムの剃刀)
しかし、私たち人間は地上という〈差別界〉で社会生活をしているのであって、何事も「一括り」した言葉を使って、偏見と差別(区別)によって秩序と流動性を保っているのです。
「一括り」がいけないのであれば、「男は」、「女は」とか、「老人は」、「子供は」とか、「日本人は」、「中国人は」などと、言ってはいけないことになり、使える言葉がなくなってしまいます。
言葉そのものが「差別・偏見」なのです。
つまり、社会は「差別」や「偏見」で成り立っているのです。
「なくて済めばないほうがよいものがあるのが社会」
「しなくて済めばしないほうがよいことをするのが人間」
〔ジャコウネズミの小父さんとスナフキンの対決〕
私たち地上の人間は、【矛盾】の上に生きている、ということを胸に刻んでほしいのです。

もちろんそこで、◯◯人も様々であって、「不当だ」と問題にする人が現れます。
しかし、不当かどうかは、当事者が訴えて、裁く人が裁くのであって、第三者が訴えるのは筋違いなのです。
〔?客観的絶対的に不当なもの、不適切なものはないのです。それは唯物論から来る妄想です。〕

よく考えると、差別そのものは、優遇されるものと冷遇されるものがセットになっているはずであって、〈負の価値だけ〉というのはあり得ません。
本来は、男女差別であって、女性差別はおかしいのです。
同じく、年齢差別はありますが、老人差別は成り立ちません。
同じく、人種差別はありますが、黒人差別はありません。
これらは、権限のある方、優位に立つ側、多数派、牛耳っている人たちが言うことから、一方的な(上から下へ侮蔑する)言い方になるわけです。
〔*まれに下から上へ尊敬する言い方になることがあります〕
〔*アメリカにおける人種差別は本来は「白人と黒人」を差別するのであって、「黒人」を差別するというのは適切な言葉の使い方ではありません。しかし牛耳っている白人が言うので、それを日本人は「黒人差別」と表現するのです〕
〔*なにか、「差別」という言葉や行為に、勝手にはじめから前提として「負の価値」を付随させて話をしているようです。そうなる原因の一つは、優位に立つ側が、劣位に立つ側に対して冷遇し、たいがい「冷遇される劣位の側」が訴えるからでしょう〕

アメリカなどの人種差別(人種区別とは言わなかったこと)が原因なのか、本来は、
「Cが、AとBを差別(区別)する」
という言い方が正しいのですが、ある国における外国人を扱う時に、
「Cが、CとBを差別(区別)する」
事情ができて、それを、
「Cが、Bを差別する」(Cが、Bを区別するとは何故か言わない)
という言い方に変えて、それが定着して、〈差別〉が、上から下に「侮蔑」する意味になってしまったと思われます。
そういう事情で、日本語の【差別】と【区別】の意味が勝手に分離してしまったものと察します。

〔ネットの記事〕
【聖マリ医科大の入試「合理的理由なく女性を差別」 地裁が賠償命じる】
〔私のコメント〕
大学側は「理由(合理性)」があって差別したんだよ。
でも学生側は、「合理性がない」すなわち「不当な差別だ」と訴えたわけだ。
日本人のみなさん、【差別】には、
「問題にしなくていい差別」や「必要な差別」
があるということを知ってもらいたい。
そして、その差別が、
「正当か不当か」
は、当事者同士が主張して、裁く人が裁いて決めることだということ。
(絶対的客観的に不当(正当)な差別などありはしないのだ)
(絶対的客観的なものあるとするのが〈妄想〉であり、日本人の多数派が克服すべき〈唯物論〉が根底にあるのだ)
間違えないでほしい。
差別は「侮蔑」や「迫害」や「排斥」を伴うことはあるが、
「侮蔑」、「迫害」、「排斥」そのものではないのだ。
〔[↑]3 [↓]1〕

少し前、こんな記事がありました。
【「人殺しの息子」と石を投げられ16歳でホームレスに…「加害者家族」として差別され続けた男性の23年間の苦悩とは】
毎日、どこかで起きている様々な犯罪。加害者が罪を償うのは当然のことですが、同時に加害者の家族が差別や嫌がらせなどの被害に遭っているという現実があります。
「加害者の息子」として、そして同時に母親を殺された被害者として生きて来た男性の、20年以上にわたる苦悩と現実に密着しました。
父親が母親を殺害「人殺しの息子」として社会から排除される日々・・・・・

これって、〈差別〉なのでしょうか?
厳密には、〈迫害〉や〈排斥〉でしょう。
もちろん、言葉で「加害者」と「加害者でない」に分けているのですから、たしかに〈差別〉はしているのですけど。(差別が迫害や排斥になるとは限りません)
(本来は、「加害者でない」人たちと、セットで「差別」なのです)
ともあれ、当事者の「加害者家族」が扱いを「不当」だと訴えるかどうか。
それとも、「仕方がないこと」と受け止めて我慢するかどうか。
ということは、「問題」になるかどうかは当事者しだいではないでしょうか?
第三者が「問題」にするのはいかがなものでしょうか?

元来国語辞典には、「差別」に負(-)の意味はありません。
「区別」や「差異」と同義です。
それに対して、
「今は違うんだ」
「人間に対して『侮蔑』や『迫害』や『排斥』を【差別】と言うんだ」
「それ以外を【区別】と言うんだ」
と言って、居直る人たちが必ず存在します。
しかし、先人の作った言葉を勝手に捻じ曲げてよいという道理はありません。
それは冒涜です。
現に今でも、「商品の差別化」とか「無差別殺人」とか「無差別級」などと言う場合があり、その「差別」に負(-)の付加阿値はありません。
むしろ、正(+)の付加価値さえあります。
「人間に対して」という限定もありません。
単に分け隔てるだけで、「区別」や「差異」とほとんど同じ使い方です。
★この時点で、「今は今だ」という人は【間違い】です。
甚だ遺憾です。
実際、困るのです。
(*以前、日本における「トルコ風呂」を知って、怒ったトルコ人が呼び名を変えさせた事実がありますが、「同じもの」を「違う言葉」で表したり、「違うもの」を「同じ言葉」にしてしまうと不都合が生じるのは当然です)

〔※もう一度まとめて言います。〕
昔の辞書の表現を借りれば、先人たちはこの地上の人間社会を〈現象界・差別界〉と言って、人間の都合で、あらゆるものを〈差別〉しているのです。
その道具が「言葉」なのです。
社会は「差別や偏見」で(やっと)成り立っているのです。
そのために「言葉」が必要となるのです。
すなわち「言葉そのもの」が「差別・区別・差異・判別など」です。
当然、差別にせよ区別にせよ判別にせよ、人間の都合で分けているので、その人たちにおける善悪、損得、優劣といった「価値」が付随します。
もちろん、様々な価値観の人の都合で分けているため、そのときに当然「利害」が発生することがあります。
というより、何らかの利害が付随します。
みな「都合」で分けているのですから。
でも、たいがいは「問題」にしません。
いずれの場合も、それを基本的に当事者が「問題」にするかしないかだけです。
いずれの場合も、その問題を当事者同士が「解決」するかしないかだけです。
第三者が介入することではありません。
また、自分の価値観で分けているので、そのときに〈言葉そのもの〉に暗黙のうちに「正・負の価値」が付随します。
もちろん自分がある言葉に正や負の価値を付随させるのは「任意(勝手)」であるから、誰も問題にしませんが、そのことを《自覚》していないと、誰にとっても同じ正や負の付加価値を伴うものと決め付けてしまい、それによって「言葉そのもの」に正や負の価値が付随しているものだと思い込んでしまうのです。(客観的絶対的なものを前提とする唯物論)
結果、他人が同一の言葉を使った時に「悪く言った」と勝手に決めつける愚行が起きます。
「考えていない現代人」が使う〈差別〉という言葉がそれです。
それをする人は往々にして、自分の利害に関係ない「第三者」なのに、憤慨したり非難したりします。

とかく現代人は〈唯物論・実在論〉に侵され、《性善説》を履き違えています。
絶対的客観的な物や事が前提にあって、皆がそれを同様に感じているはずだ、という思い込みで、人と接しているのです。
ですから、言葉そのものにその「絶対的客観的な価値」が付随しているという思い込みから抜けられないでいるのです。
〔★〕「人は他人のことを良く思えば人間の中身が良くなる、良く思えるようになる、そうすれば世の中が清浄になる」と思い込んでいる人は、(性善説を履き違えた)〈ユリゼン信仰者〉です。
そういう人は、思考が〈地上〉にへばり付いているのです。(大悪・地獄)

そこから抜けるには、即座に省察が必要です。
地上の人間は、【小悪⇔小善(偽善)】の直線から逃れられません。
地上道徳によって人間の中身が良くなることはありません、他人を良く思えるようになりません、世の中は清浄になりません。
人の言動や行動は、所詮は偽善(小善)であり、偽善の延長上に本物の善はありません。

〔★〕私は処世術を言う柄ではありませんが、今の日本の状態を見かねて言わせてもらいます。
とりあえず他人があなたのことをどう言っているか気になったら、
【人は他人のことを良く言わないもんだ】
【他人は自分のことを良く言わないもんだ】
くらいに思っておけばいいでしょう。

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義理と人情 [中庸]

周知のとおり、近頃の日本はハラスメントだのコンプライアンスだのと、とかく野暮が蔓延しています。
まるで、法的な「不正」をなくしさえすれば、社会が清浄になり人々が幸福になると思い込んでいるようなのです。
「道徳や戒律では世の中清浄にならない」(ブッダの言葉)
をまったく弁えていないようです。
私に言わせれば、いつも言うようにそれは「唯物論(実在論)」に由来する「性善説の履き違え」なのですが、ますます深みに嵌まっているようでもあります。
私もつい最近、仕事のことでそういう目にあったので、たまらず取り上げました。

【*】
数年前、スカパーの時代劇専門チャンネルを観ていたら、たまたま初期の頃の『座頭市』(映画)を放映していました。
あまりにも印象が強かったので、今でも頭から離れません。
そこには、忘れられた日本人の義理人情が映し出されていました。
あらすじを掻い摘んで言います。

ある一家の男が旅路の座頭市に仇討ちを申し出た。
一家の男:「オレはおまえに恨みはねえ」
「だがなあ、仲間を殺されたヤクザの意地ってもんがあるんだ」
「こちとら、おまえの居合にやられて死ぬ覚悟はとっくにできているんだ」
「勝負しろ!」
市は堅気になって一緒になるつもりの若い女と並んで正座して言った。
市:「このとおり、あっしは、もう堅気になるんだ」
「許しちゃくれないか?」
一家の男:「ちぇっ!座頭市がなんてザマだぁ」
「よーし、それじゃ賽の目で決めよう」
「おまえが勝ったら、許してやる」
「オレが勝ったら、おまえの腕一本もらっていく」
「それでいいな?!」
一家の男が連れの女に結果を見届けるように言ってツボを振る。
市:「丁」
一家の男:「半」
ツボを上げると、どうやら半の目だ。
一家の男はやや躊躇いながらも、ゆっくりと片方のサイコロに指を置いて90度倒し、丁の目に変えた。
一家の男:「市、おまえの勝ちだ!」
「もう会わん」
そう言って、立ち去った。
市は低い声で連れの女に聞いた。
市:「半目だったんじゃないんですかい?」
女:「ええ」
市:「いい人ですねぇー」

一家の男は義理あるいは意地で仇討ちに来たのであって、勝ち負けではないのです。
そこで、市の片腕を持ち帰っても誰のためにもならないことは承知なのです。

【★】
ちょうど30年前のある日、仕事の後に私を含めて同僚10人ぐらいで、近くの中華屋さんで食事をし、そのとき私は紹興酒のボトルを一本空けてしまいました。
クルマで通勤していましたが、なんとか酔いが醒めた頃にクルマを運転して自宅に向かいました。
自宅まであと30秒という所で検問にかかり、酒気帯びでクルマを停めさせられ、降りて事情を訊かれました。
私がしっかりとしていたためでしょう。
警察官:「酒に強い方ですか?」
私:「はい」
警察官:「家は近いんですか?」
私:「はい、すぐそこです」
警察官:「職業は?」
私:「教師です」
すると、警察官は「にやっ」として、
警察官:「いろんな人が見てるから、気を付けてくださいよ」
「今日はいいですから、行ってください」
と言って、許してくれたのでした。
仕事(ノルマ)でやっているのであって、そこで私を捕まえたからといってどうなるわけでもないことは重々承知の上なのです。
当然ですけど、店が並ぶ繁華街で検問するほど警察は本来は野暮ではないのです。

【⁑】
昨今の政治家のパーティ券裏金の件で、亀井さんが検察官たちに苦言を呈していました。
「あんたたち、仕事でやってるんだろ?!」
「他人のアラばかり探るんじゃないよ!」

要するに、歯止めをかけるために業務として形式でやっているのであって、積極的に徹底してやれば世の中が良くなるというわけではないのです。
ともあれ正義を考えるなら、裁かれる側は、どんな悪法であっても罪を犯せばただ裁きを受け入れなければなりません。
でも人々の幸福を考えるならば、裁く側は、積極的に権力を行使するものではありません。
かつての日本人は、それを弁えていたのです。

日本はもう灰色が許されなくなったようです。
根本的な構造を変えないで、そのうえで、本来問題にしなくていい地上的な「不正」を問題にするようになりました。
義理人情が消えました。
日本列島は野暮天島になりました。
人間復活が望まれます。

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近況 [中庸]

母が再入院して3カ月以上が経ちました。
当ブログも前回から3カ月が経とうとしています。
その間いろいろありました。
ブログは、1年前の事件以来、訪問者が激減して、回復の兆しがありません。
私は見切りをつけて、ネットのコメントに時間と労力を注いでいました。

ネットの記事はと言うと、これまた投稿者やマスコミがあたかも〈ユダヤ〉の回し者のようで、明らかに「愚民政策」と言えます。
「地上の善悪」に終始して見えなくなっている人(ユリゼンの僕)たちや、「社会的成功=幸福」が当たり前でそれを前提に損か得かの議論を進める人(ベリアルの子)たちで溢れかえり、とても霊的な人生など入り込む余地がないほど日本は地獄と化しています。
往年のTV番組の名を借りれば、
「〈野暮天島〉に〈奴隷の王国〉あり」
と言ったところでしょうか。
(奴隷とは、ユリゼンやベリアルといった〈偽神〉に帰依しているという意味)
中でも、「犯罪者」に対しては、無条件に叩き潰す人が多く、1年前の事件に関しても、
「盗人にも三分の理」
を唱えようものなら、その人に対して、
「犯罪を正当化(肯定)するのか?」
の一点張りなのです。(アホか?)
明らかに地べたにへばりつて見えなくなっています。(地獄を作っている)
超越できる人は、
「正当化」
などしていないのです。
「カエサルのものはカエサルに」(神のものは神に)
なのです。
それがわからない人が、日本には溢れています。
きたよしお氏も大川隆法氏も、日本は地獄に行く人で溢れていると言っていますが、そういうことです。
〔*法律万能主義だけで「法治国家では、法こそが神である」という感じで思っているのだとしたら、「それはちょっと違います」ということは言っておきたい。〕(大川氏)

それでも私が執拗にコメントしていたからでしょうか(?)、だんだんネットの参加している人の考えが変わってきたような気がします。
たとえば、少子化の最大の原因は【男女平等】であり、その原理を事細かく何度も何度も、仮にいくら叩かれても、「これでもか」というくらい、コメントしました。
その結果、最近では「賛同」する人が6割を超えました。
それと、「差別」について、今年の初めに当ブログ(Facebookにも投稿)で掲げたためか、「一方的な差別撤廃」を訴える記事があまり見られなくなったような気がします。
まあ、気のせいだとしても、自分が世の中に影響を与えているという実感はあり、収穫はあったと思います。
ネット記事と私のコメントをいくつか掲げます。

?《とても先進国とは言えない」日本、世界最底辺の男女格差 世界125位…特に深刻な政治分野、岸田政権の「女性活躍」は本気?》
【私のコメント】
「人口の半数を占める女性がその能力を十分に発揮できない国に未来はない。」?
・・・・・その「女性の能力」とは何ですか?
男と同じことをすることですか?
もしそう思うのなら、未来はありません。
〔▲72 ▼9〕
?《日本の女性役員比率,G7で大差の最下位30%達成ハードル高く》
【私のコメント】
「女性が活躍できる環境の整備は出生率の引き上げにもつながる」?
・・・・・逆効果です!
〔▲11 ▼0〕
[☆]《女子生徒と性行為,男性教諭ら2人を懲戒免職 都教委》
【私のコメント】
女子生徒が被害届を出したんですか?
もしそうでなければ、問題にすることではありません。
(法律とは、何か問題が起きた時、というより誰かが問題にしたときに速やかに判決を下すためにあらかじめ用意しているものであって、意識して行動するためのものではありません)
(実際被害届を出していないし、合意。誰かに話して、聞いた人が通告しただけ。「合意でもダメ」と新たに決めたのなら、女子生徒のほうも処罰されるべきです)
〔▲27 ▼7〕
★《『少子化対策はすでに敗北』…今,本当にすべきことは“正規・非正規の社会保障格差”なくしと“高等教育の無償化”》
「男女ともに正社員で子供を育てているカップルが、東京では多いんです。」?
・・・・・それは、非正規の数が多いから、正社員の収入は相対的に価値が上がり、いわゆる「パワーカップル」でいられるのです。
全員が正規になったら、全員が非正規と同じであり、経済的に余裕がなくなり、子供は難しくなります。
「非正規雇用など経済的に不安定な人たちが結婚できない」?
・・・・・女性ならば非正規雇用者でも、正規雇用者の男性と結婚してうまくやっている人はたくさんいますよ。
でも、逆はありません。
いずれにしても、女性が正規雇用者ならば、上昇婚はあっても、結婚する「必要」はなくなります。
概して女性は、必要がなければ行動しません。
よって、男性の大半は、
「結婚できなく」
なります。
つまり、
「全員が正規雇用者」[→]「少子化が解消される」
は幻です。
まあほとんど不可能ですが、これしかありません。
「男性全員が正規雇用者で女性が専業主婦または非正規」[→]「自動的に子供が増える」
〔▲8 ▼1〕
まあとにかく、少子化対策に関しては、ピントがずれているのと、〈平等〉が先立ってそれを前提に思考が働いているため、男女の根本的な「性差」を考えていませんね。
それから、貨幣価値は「相対的」ということが分かってない人がなぜか多すぎます。
また、いつも言うように、法で取り締まれば世の中が良くなるとか、道徳や法律で押さえれば良い人間になれる、と思っている人が相変わらず溢れていますね。
〈地上の善悪〉は単に秩序維持のための方便であって、仮のものだということ(国や時代によって変わる)が省察できていない人が多すぎます。

話は変わります。
母親のほうは担当医の先生が細かく治療を施してくれて、なんとか身体は維持しています。
ただ、認知症が進み、反応が悪くなり、会話の内容がわからなくなりました。
6月から面会が私の家族だけ「フリー」になり、私は一日も欠かさず母に会いに行っています。
1時間ほど居て、手と足と頭のマッサージをし、刺激を与えています。
ただ、無意識に点滴を抜いてしまう恐れがあるので、両手はリストバンドと紐でベッドの囲いのパイプに繋がれて、可動範囲が制限されているので、顔や頭が痒くてもなかなか掻けない状態です。
代わりに私が痒い所を掻いたりします。
「苦しい?」
と聞くと、
「苦しくない」
と答えるのですが、なにぶん点滴とバルーンカテーテル、食事は流動食のみ(食べるのは少しだけ)、おまけに両手を縛られているのですから。
こんな不自由な状態では、生きているのも辛いはずです。
今の母にとって、「私が会いに来ること」だけが生きる理由となりました。
それで毎日行くのです。
時折、顔を近づけて話すとき、
「あなたと別れたくない」
「一緒にあの世に行こう」
と、ボソッと言うのです。
私が、
「それはね、神様が決めることなの」
「自分で勝手に決めちゃダメなんだよ」
「一人ひとり順番に行くんだよ」
「この世ではいったん別れるけど、あの世、霊界ではまた一緒になるんだから、心配しなくていいよ」
母は、
「それじゃあ、化けて出る」
などと言うので、私は、
「それは、いちばんしちゃいけないことなんだよ」
「もし死んだら、先に逝った人たちが迎えに来るから、その人たちの言うことを聞いて、導いてもらうんだよ」
「そうじゃないと先に進めないからね」
まあ、そんなことの繰り返しで、ひと月が過ぎました。
去年母が入院してから7カ月が過ぎ、その間、有料老人ホームに入ったりして、費用も重なりました。
私の預金残高も年金受給までもつかどうか正直不安です。
でも選択肢はないので、成り行きに任せます。
もとより母と私は一蓮托生、というより一心同体です。
一緒にあの世に行くことはできませんが、経済に関しては母と心中ということになりました。


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「差別」はあってはならないものなのか? [中庸]

なにやら、相変わらず「差別発言」をしたとか、責任をとるとか、世間を賑わせているようです。
まるで「差別」があってはならないこととして、それが当たり前のように、そしてそれを前提として話を進めているようです。
でも本当にそうでしょうか?
私はたまらず書き込んでしまいました。
同じく疑問を持つ人は一読ください。
ではなぜそうなってしまったのか、その根底にあるもの、そもそも「差別」とは何かを掘り下げてみたいと思います。

今の中国の動画を視た人も多いと思います。
理髪店に入ろうとする客に、店員が、
「(新型コロナ)陽性になったことがありますか?」
と聞きました。客が、
「ない」
と答えると、店員は、
「ダメ、ダメ」
と言って、追い返しました。
感染したことがあれば店に入れて、なければ入れません。
陽性経験者が多数派で未経験者が少数派のため、もはや「はしか」のような扱いです。
その客はちょっと不平を言ったものの、「本人のため」という理由もあり、納得して渋々帰りました。
もちろん納得がいかない客もいるでしょう。
これはれっきとした「差別(区別)」です。
正当か不当かは当事者が決めることであって、はじめから正当か不当が決まっている差別(区別)はありません。
要するに、問題にするかしないかだけです。
いずれにせよ、〈第三者〉がとやかく言うことではありません。

2年前頃だったか、ある国の飲食店で、「ワクチン接種済み」か「ワクチン未接種」かで、席を「内と外」に分けている光景を見ました。
いわゆる「ワクチン差別」です。
ほとんどに人は不満はあってもそれに従いましたが、中にはそれを「不当だ」と訴える人もいたようです。
私が客なら、やはり従います。
不愉快ではありますが、この差別は社会の「義」に基づく「必要な差別」だと判断するからです。

何が言いたいかと言うと、よく世間では、
「これは正当だから差別ではない、区別だ」
「これは不当だから差別だ」
と勝手に「差別」の定義をして、
「あってはならないことをしてはいけない」
と「何様だ!」と言いたくなるほど口出しする人がいます。
しかし、言動や行動そのものにはじめから客観的に「正当か不当か」が決まっているものなどないはずです。
よって、〈第三者〉が口出しすることは滑稽であり無意味です。
「何かおかしい???」
「変な思考の迷路に嵌まっている」
「いつからなのか?」
「どうしてなのか?」
そこで私は、もともとはどうだったのかを調べました。
高1の時に古本屋で買った『大日本國語辭典』〔松井簡治・上田萬年編 大正十年初版〕を引きました。(状態がボロボロで、手が汚れました)
【さ‐べつ 差別】 区別すること。ちがひ。けぢめ。しやべつ。白居易詩「一音無差別」
【さべつ‐かい 差別界】(名)物事の差別ある世界。平等ならざる世界。即ち、現象界。
【さべつ‐くぁんぜい 差別關税】(名)原産地の差別輸入方法の差異。船舶國籍の異同、協定税率の區別又は報復等によりて、同種類の商品に課する税率に差別ある關税。

見ての通り、昔の辞書には【差別】に卑下、侮蔑、迫害などの負の意味は一切ありません。
もともとは、【区別、差異】と同義であって、当人の都合(損得)で人や物事を分け隔てる限り、意図に関わらず結果として他の人に利害損得が生じることはあっても、はじめから一方的に〈悪〉だという意味はありません。
まして、「あってはならない」という暗黙の条件などは付加していません。
上記の〈差別界=現象界〉とは、人間の視点で地上の出来事をとらえれば必ず「差別」があるということです。
よって、人間が社会に生き、都合で言動や行動をする限り、原理的に「差別・区別・差異」があります。
言い換えれば、社会生活を営む上で必要だということです。
(後年の慣習からか、後年の辞書に、「卑下する」という意味を付け加えたようです)
(また、学校では、区別や差異とは別の意味として教えているようです)

行動とか措置で差別・区別するのなら、利害がはっきりするのですが、言葉で差別・区別するといういわゆる『差別用語』となると厄介です。
言葉を発する側が悪意をもっていようと善意を持っていようと、卑下しようと称賛しようと勝手であり、外部からはよくわかりません。
受け取る側も悪意ととるか善意ととるか卑下か称賛か勝手であり、予測できません。
当然、当事者同士はいちいち気にしていたらキリがないので、たいがいは問題にしません。
厄介なのはある手の〈第三者〉が「問題」にするということです。
それが「差別」あるいは『差別用語』の誕生です。
差別・区別が正当か不当かは、当事者にとって様々であり、その当事者が決めるわけですから、言葉そのものにはじめから正当や不当が備わっているわけではありません。
正当か不当かは、原因ではなく結果です。
言葉に『差別用語』と「差別用語でない語」があると言うのは誤謬です。
よって、『差別用語』なるものは幻です。
〔(1970年代)父:メクラはメクラだよ・・・これがすべてです〕
[☆]「〈客観的絶対的な時間空間〉が前提に在って、それを見ている」という「唯物論(実在論)」と同じ顛倒妄想です。〔詳しくは当ブログの『実在論』にあります〕
[☆]「神盲信」も神がどこかの空間を占めて客観的絶対的に存在するとする妄想です。

現代のその手の〈第三者〉は、その『差別用語』なるものに、「卑下、侮蔑、迫害」の意味を勝手に付加したうえで、「あってはならないこと」という条件をはじめから付加されているかのように前提として話を進めるのですから、常軌を逸していると言わざるを得ません。
しかも、対象となる人がどこにもいないにもかかわらず、ただ『差別用語』なる言葉を発するだけでその人を非難するのですから、はっきり言って狂気の沙汰です。

★その手の〈第三者〉とはどういう人なのか、どういう誤謬に陥っているのかが今回の『焦点』です。(もっとも、過去に扱っていますが)

昭和50年代頃からか、「差別」や『差別用語』なるものをやたらと取り沙汰するようになったのを覚えています。
ではなぜそうなってしまったのでしょうか?
なぜ「差別」とか『差別用語』とかいうものが取り沙汰されるようになったのか、根底には何があるのか、その根本原因を考えていただきたいのです。

30年ほど前のこと、同僚のある数学教師が『差別用語』なるものにいつも敏感で、ある時、誰かがある人の姿を見て『福助』という言葉を発したのを問題視して、言った人を問い質したというのです。
hukusuke2.jpg
『福助』はある種の身体障害者を卑下する『差別用語』だというのです。
それを聞いた私は、その話をした人たちに咄嗟に言いました。
「福助は福助でしょ?」
「そんなことを言ったら、石原3丁目の福助百貨店つぶれちゃうよ!」
その後、機会があった時に、私はその同僚をいつもの調子で真摯に説得し、幸いそれを機に呪縛が解けたようでした。
その同僚の数学教師はいわゆる「左翼思想」に染まっていたのです。

言葉はみな区別・差異・差別です。
すべて人の都合(損得)で分けているのです。

案外気がつかないことなのですが、忘れてはならないことは、差別(区別)することで、「不利益」を被る者がいれば、必ず「利益」を得る者がいるということです。
求人で「50歳未満」という条件を付ければ、当然50歳未満の人は優遇され、50歳以上の人は冷遇されることになります。
アメリカにおいて、白人が黒人を物理的に冷遇するいわゆる「人種差別」は、同時に白人を「優遇」することでもあります。
不利益を被る側が「問題」にするものですから、その手の〈第三者〉が「差別」と聞くと「負」の意味が付随してしまうのです。
では、徴兵制が始まったとして、「男子のみ」という条件が付いたとしたら、それは男性は優遇され、女性は冷遇されているのでしょうか?
それとも逆でしょうか?
少し迷うと思います。
いずれにしても、これらはれっきとした「人種差別」、「年齢差別」、「性差別」です。

特に「権力者や影響力のある人」の言動や行動の場合、それによって他のある人が物質的および心情的に利益や不利益を被ることはあります。
〔白人が権限を握っているアメリカで、黒人に卑下して(しなくても)「黒」と言うと、それは黒人にとって物理的に「不利益」に繋がるから問題になるのであって、ケニアやタンザニアで「黒」と叫んでも、アメリカで「白」と叫ぶのと同じで、誰も問題にしないでしょう〕

そこで、あなたの言動や行動を振り返ってみてください。
あなたの言動や行為によって「他人に利害が生じない」と言い切れるでしょうか?
何らか影響があるはずです。
それを当事者が「問題」にするかしないか、解決するかどうかだけのことです。
でも、たいがいは問題にもしません。
なぜならあなたは、たいがいは権力者や影響力のある人ではないからです。
いずれにせよ、〈第三者〉がとやかく言うことではありません。

〈第三者〉でありながらとやかく言う人というのは、地上の道徳や世法を〈仮のもの〉と弁えず、それを司る偽神(※ユリゼン)に帰依してしまっている人です。
他人のことを「良く言えば」とか、卑下しなくなれば、その人の人間性が高まり、世の中が「良くなる」と思っているのです。
でもそれは幻想です。
人の中身は変わりません。
これは《性善説》の履き違え〔地上の〈善〉の延長上に本物の《善》があると思い込んで追求すること、またそれによって〈悪〉が消えると思い込むこと〕です。
地上の〈善悪〉は単なる秩序維持のための方便にすぎません。

【※ユリゼン信仰者・ユリゼンの僕】
(左翼系の人、理系の人に多い、悪平等に染まった人、偽善を認めない大偽善者)
・侮蔑とか卑下とか迫害をなくせば、世の中が良くなると思い込んでいる人、
・警察が徹底的に取り締まれば世の中が清浄になると思い込んでいる人
・六法全書を持ち歩いて、法律に触れないように常に注意を払って行動すれば良い人間になれると思っている人
・思考が常に「平等」から出発する人
・子供にしつけるときに言い聞かせる〈地上の道徳〉を大人になっても常に意識し、大人に対しても言い聞かせる人
・「人に見られて困るようなことをするな」と他人に言う人(とは言うものの自分が出来ていないことに不甲斐なさを覚え自虐的になっている人)
・しかも以上のことを、皆がするべきだと思っている人

地上人はみな「悪善(偽善)」から逃れることはできません。
いくら地上の道徳で表面は変えても人の思うこと(心の中)は変えられません。
肉体と知性がある限り「エゴ」は消えませんし、強欲がある限り詐欺や殺人はなくなりません。
ただ、利害が生じた場合に、問題にして解決をして、ひとまず秩序を保つだけのことです。
世に言う〈勧善懲悪〉とはこれだけのことであって、人間の幸福そのものをもたらすわけではありません。

真の平和、霊的な《善》は、「中庸」を得ることです。
すなわち地上の「悪善(偽善)」を霊的視点を設けて超越することで得られます。
ただし、中庸を得たからといって、地上的に犯罪や不道徳を起こさないとは限りません。
むしろ聖人の域に達すると、地上の掟(〈善悪〉)にはむしろ無頓着になるので、処世術に長けた「地上の住人」よりも地上の法に引っかかる可能性があります。(『洞窟の比喩』:イエスもソクラテスも受刑者です)
超越は否定ではないのです。
《ミロクの道は悪を抱き参らせてこそ進む(日月神示)》
ここを見直さなければ、上述のような低俗な言い争いが永遠に繰り返されることになります。
地上の「問題や犯罪」をなくすのではなく、自分の中の「無益な争い」をなくすのが天国なのです。(「解決」ではなくなりません)

それから、もう一つの要因として「平等」という〈劇薬〉の副作用があります。
そこでまたまた、中矢伸一氏のブログから一部を拝借しました。

《「差別」や「平等」という言葉に騙されるな》〔2020.06.08〕
当然、人種による差別はいけないことですし、男女は人として平等であるべきですが、そういう聞こえの良い言葉を表に立てて、裏では秩序や伝統を破壊し、最終的には国そのものを潰そうとたくらむ、悪魔のような人々がいるということです。
またそういう連中に何の疑いもなく騙されてしまい、自分たちが正義の行動をしていると本気で信じてしまう大勢の「善良な」人たちがいる。
日本国内にもたくさんいます。
▲ヤコブ・モルガン氏も指摘しています。
・男子を軟弱化し、女子の闘争心をあおる。
・マスコミを総動員して愚民化をはかる。

日月神示には、ここのところが小気味いいぐらいにハッキリ書かれています。
【引用】
「差別、則(そく)平等と申してあろう。取り違い禁物ぞ」(『冬の巻』全1帖)
「平等愛とは、差別愛のことぞ。公平という声に騙されるなよ」(『黄金の巻』第56帖)
「悪平等は悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ」(『黄金の巻』第88帖)
「平等とか公平とか申すのは悪魔の罠(わな)であるぞ、天地をよく見よ、人民の申すごとき平等も公平もないであろうがな、一寸伸びる草もあれば一尺伸びる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの」(『五葉之巻』第9帖)
「区別すると力出るぞ、同じであってはならん。平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である」(『月光の巻』第7帖)

こうした神示は、日月神示の後半部分にあたる「下巻」や「五十黙示録」に多く出されているのですが、日月神示を批判する人の中には、とくにこの後半部分を「偽物の神示だ」と決めつける人が多いのです。
さて、それはなぜでしょうか・・・?【終】
〔?昨今話題になっている杉田議員は、まさに神の意思を言葉に表していると言えます。男女の根本的性差と役割を説いている貴重な人物です。〕(実は賛同者多数)

みなさん、どうでしょうか?
『平等=善、差別=悪』の呪縛から解放されたでしょうか?
もとよりあなたは、はじめから呪縛されていない人でしょうか?
それとも『日月神示』を「偽物扱い」する人たちの1人でしょうか?

概して世間は、相変わらず「唯物論(実在論)」、「ユリゼン(偽神)信仰」、「悪平等」、「性善説・性悪説の曲解」で溢れ、思考が地上にへばり付いています。
私も相変わらず、真の平和を実現するために微力ながら少数派として「(?)可能性のある少数派」の人たちに働きかけています。
【?】考える切っ掛け、すなわち「道」を与えられても、「それができるのは聖人だけだ」と言って拒絶し居直る人がたくさんいます。
最後にオマケとして最新のネット記事を掲げます。

〈「差別だ」日本の水際対策を中国が批判 検査&隔離代も全面的に負担しているのに…〉
【周氏は「日本に対する非難の声も徐々に高まりを見せています。しかし、個人的にはPCR検査や隔離にかかる費用を全面的に負担する日本政府の対応は好意的で、差別的には見えません。また現在、変異株のゲノム解析を行っていない中国からの入国者に対して行っている水際対策は当然の措置と言えるでしょう。中国側の『差別』との主張は根拠に欠けるのではないでしょうか」と指摘している。】

《私のコメント》
必要な差別です。
ある人に対する言動や行動はすべて「差別(区別)」です。
問題にするかしないかだけです。
ある人にとって「不利益」が生じるということは、別の人にとっては必ず「利益」があるわけです。
この場合、中国の人にとっては「不愉快」でしょうけど、日本の平和のためには(義において)「必要」です。
言葉を正しく使ってください。
《終》
ところが、反応は〔良5・悪1〕で、理解者はいるものの、今一つであり、他の人たちのコメントに賛同する人のほうが圧倒的に多いのです。

〈他の人たちのコメント〉
・左翼共産は二言目には差別だ、だな。
同じ穴の狢が日本にも生息しているから分かりやすいな。
もう騙されないで皆さん。
・来るな塵共。
・日本も中国人にビザ発給停止すればいい。
・日本も中国からの入国禁止措置を執れば良い事だ。非常識国家中国に文句を言っても始まらない!
・内政干渉しないでもらいたい
・中国人の入国を原則禁止に
共産中国への渡航を原則禁止にしましょう。
〈終〉
反応はだいたい〔最良7・良5・悪1〕です。

要するに、他の人たちのコメントはただ「分かり易い」というだけで、なぜ、
「差別がどうのこうの」
と騒いで非難し合うようになったのか、その根本原因を突き止めて無駄な論争を止めようとはしません。
宗教に関しても、何か事があると、大衆は「寄付金」や「癒着」といった組織の堕落にばかりに焦点を当てて、その根底にある「盲信」の原理の解明と解消にはまったく関心を示しません。
私はいつもそれが歯痒いのです。
世間はみな「地上的な解決」はするけれど、〈地上的な善悪〉を「超越」する動きはないということです。

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目には目を [中庸]

ネットを見たら、10万人のフォロワーがいるというMさんの記事がありました。

【引用】
『聖書の教え「目には目を、歯には歯を」、誤解されやすいフレーズの「意外な真意」 「復讐の連鎖」を望んではいない』

《目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。》(出エジプト記21:24~25)

「目には目を、歯には歯を」と言うと、「相手にされたことを、同じだけやりかえしてやれ」と、復讐を肯定し推奨するフレーズだと思っている方が少なくありません。
しかし実は聖書が意図しているのはこれとは正反対に、過剰な復讐を抑制することなんです。
このフレーズが真に意図することは「目をつぶされたとしても、相手の目をつぶすだけにとどめなさい。歯を折られたとしても、相手の歯を折るだけにとどめておきなさい」ということです。
一昔前に「倍返しだ!」なんて言葉が流行しましたけれど、この言葉が象徴するように人間というのはついつい、人に何か嫌なことをされると、相手にはそれ以上に嫌な目にあってもらわないと気が済まない、と思ってしまう性質を持っています。
それは聖書の時代から同じだったようで、当時は「片目をつぶされて頭にきたから両目ともつぶしてやった」とか「歯を折られて頭にきたから殺してやった」とか、過剰な復讐が横行していました。
これをやってしまうと、復讐から復讐の復讐、さらに復讐の復讐の復讐……と復讐の連鎖が止まりませんし、連鎖するたびに行為はエスカレートしていきます。
現代の刑法にも通じる聖書の教え
「倍返しだ!」の例で計算すれば復讐で2倍、復讐の復讐は4倍、復讐の復讐の復讐は8倍……と、雪だるま式に、難しい言葉で言えば指数関数的に行為がエスカレートしてしまいます。
あのアインシュタインさんは「人類の最大の発見は複利だ」と言ったとか言わなかったとか言われていますが、こんな調子で復讐がエスカレートしたら「一人殺されたから家族を皆殺しだ」「家族を殺されたから村ごと皆殺しだ」「村を滅ぼされたから国ごと滅ぼしてやる」と、あっという間に世界が滅亡しかねません。
だから神様はそんな人間を見かねて「目をつぶされたら目だけにしておけ。歯を折られたら歯だけにしておけ」と、復讐のエスカレートを止めたわけです。
そして神様は別の箇所では「復讐はしてはならない」とも言っています。ですから聖書全体のニュアンスで言うならば「復讐はダメ。でもどうしてもというのなら、目には目を歯には歯をくらいで止めておきなさい」くらいです。

神様は「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」とか「自分で復讐してはいけません」とも言います。これは現代の刑法の理論にも通じるものです。
少なくとも現代日本の刑法ではいわゆる「仇討ち」を禁止しています。これは自分で復讐する代わりに、国や社会がその悪者に罰を下すから自分でやってはいけません、ということですが、これと同じことを刑法が確立するずっと前から神様は言っているんです。
せめて「倍返し」はやめませんか
つまり「悪い奴には私がちゃんとお仕置きをするから、君が自分でそいつにお仕置きしなくてもいいんだよ。君の時間と労力はもっと他のことに使うべきだよ」ということです。
「復讐は何も生み出さない」なんてよく言われます。それに同意する方も多いかと思います。しかし実際に自分が被害者になると、たとえ頭では「復讐はいけない」とわかっていても、心がそれを許さなかったりします。
そして社会や刑法による処罰も、「被害者はひどい目にあって死んでしまったのに加害者はのうのうと生きている」とか「詐欺で逮捕されて服役したけれど、出所した後は裕福に暮らしている」とか、必ずしも加害者をちゃんと懲らしめていると言えないことが多々あります。
そんな時には「やっぱり復讐は自分で」と思ってしまうかもしれません。
人の作った法では被害者に寄り添うことはできません。しかし神様は「最終的に私がすべてを完全に裁くから安心しなさい」と、被害者心理に寄り添ってくれます。
それは必ずしも目には見えないものですから、被害者たる僕たちは理不尽を感じることもあるかもしれません。だからこそ僕たちは往々にして復讐を自分でしてしまうものです。
だからこそ「倍返し」なんて言葉が流行したりもするんです。しかしだからこそ、せめて「倍返し」はやめませんか、と思うんです。
【終】

それに対して、何名かのコメントがありました。
【Aさん】
『聖書は、キリスト教の布教を理由に他民族を征服して植民地化するために造られたバイブルなのではないか?〇〇キリスト教会は日本人のお金を奪って韓国を豊かにする為に考えたと教祖(韓国人)が言っています。』

【Bさん】
聖書とかって他人を不幸にさせるための書物でしょ。
だから、争いが絶えないと感じます。そんなの捨てて人が喜ぶ事を考え、尽くす。その考えだけが真の姿かと。

【Cさん】
イエスに騙されての他国侵略の例は枚挙に厭いません。それを「神が最終的に…」などと言うのは詭弁そのもの。神の詭弁・駄弁によってどれだけの人間がこの2千年の間どん底に落とされてきたか、この人知っている…?

もうわかりますね。
Mさんの見解はとても聖職者のものとは思えません。
それに対する他の方たちも、ピントがズレていて、話になりません。
昨今の宗教団体の金銭や癒着の問題に目がくらんで、本来の宗教はどうかという肝心なことが何も見えなくなっています。
そのためか、「宗教」と聞いただけで、拒絶する人がほとんどになりました。
組織の腐敗をイエスのせいにするなどは、戦争を天皇のせいにするのと同じ思考です。
概して思考があまりにも「地上的」です。
(それでも賛同する人が多いのですから呆れます)

私はたまらずコメントしました。
もっとも、理解していただけるとは思いませんが。

【私】
イエスの教えと、キリスト教の教義は別物です。
後世の教会(組織)が信者を手懐けて教会の権威を保つために都合よく作り替えただけです。
イエスは聖人であって、地上の法(善悪)に関しては、具体的には言及しません。
(カエサルのものはカエサルに)
聖書は比喩で表されていますから、解る人にだけ解かるようにできています。
「特定の竿で測る者は、自らがその竿で測られる」
「人を裁くものは、自分も裁かれる」
わかりやすく言えば、
「1円を笑う者は、1円に泣く」
ということです。
お金が多いか少ないかを気にする人は、お金に「執著」があるということです。
ダンテの神曲の地獄篇に、「浪費家と吝嗇家」がいがみ合っている場面がありますが、同じ穴の狢であり、どちらも「自分自身を攻撃している」ということです。
イエスは、こういった「執著」や「地上の攻防」を超越すること(中庸)を説いているのです。
それを後世の〈地上の住人〉たちは理解できずに、曲解して、別のものを作り上げたのです。
【終】

コメントを書き込んでからすぐに食事と買い物のために私は外出し、お隣の市川へ行きました。
駅ビルを出たところで、あるキリスト教会の女性から一枚の印刷物をもらいました。
https://photos.app.goo.gl/zpyPbRtXfGqU9ABTA
宗教にとって逆風の中、果敢に活動しているのですから感心します。
でも内容は、相変わらず、「信じるか信じないか」という〈賭け事〉になっています。
(盲信だからかえって挫けないのかもしれません)
何が天国で、何が地獄か。
賭け事ではなく、上記の〈浪費家と吝嗇家のいがみ合い〉からもわかるように、自らの省察という実践によって覚ることなのです。
イエスはそれを促すように「道」を与えているだけなのです。
また、「永遠の命を与えた」というのは本来は、「自分=自分の肉体」ではなく霊的存在だという『霊的自覚』を意味しているのですが、この文章では、イエスの超能力者ぶりがかえって邪魔して、《永遠の命》を〈肉体の永遠〉と曲解させてしまいます。

私はもう失望のどん底です。
私の活動がどれだけ無力か、痛感させられます。
地上の経験もせいぜいあと20年。
母親もすっかり老いてしまいましたし、送る責務を終えた後は、残りの人生に何の意味があるというのでしょうか。
早く『故郷?』に帰りたいという気持ちです。

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律儀が過ぎると [中庸]

16年前のこと。
私はT校で1年間だけ常勤講師として高2の学級担任をやり、年度の終わりの3月中旬に修学旅行の引率をしました。
行きは、大回りになりますが東京駅から指定された時刻の「成田エクスプレス」に乗って、車内で他の教員と合流し、成田空港からオーストラリアへ出発しました。
成田エクスプレスの特急代は、あらかじめチケットを学校が用意してくれていたので、問題ありませんでした。
ただ、帰りはチケットが用意されていないので、自分で買って乗って、あとで学校に代金を請求する形となっていました。
ところが、成田空港から自宅までは、在来線のほうが近いので、「快速」で小岩まで帰りました。
数日後、学校で交通費の請求をするときに、学年主任に言いました。
「実は私、帰りは快速で帰ったんですよ」
「どう書いたらいいんですか?」
学年主任はすかさず言いました。
「成田エクスプレスの代金を請求すればいいじゃないか」
私は少しためらいました。
というのも、先に貰ったのならともかく、また当然貰うべきものとはいえ、
「ウソをついてまで請求するというのは誠実さに欠けるのではないのか?」
結局、先か後かの違いだけであり、快速の料金を調べるのが面倒くさいこともあって、成田エクスプレス代を請求しました。
もちろん律儀な人ならば、かたくなに拒み、しっかり調べて快速代だけを請求することでしょう。
それでは、私の行動は霊的に不正になるのでしょうか?
律儀な人に言わせれば、私の行動は明らかに堕落でしょう。
でも神の目から見ると、けっして許されないことではないはずです。
なぜなら、神は地上の人間の損得や〈善悪〉には寛容であり、「否定」はしませんから。
いわゆる「地上の住人」ならば、迷わず成田エクスプレス代を請求するでしょう。
「損得勘定で得だから、金銭のためならウソをついてでも貰うのが当然だ」
という思考が霊的不正なのです。
「迷いがないこと」が霊格の低さを表しているのです。
地上の〈損得〉に執著しているということです。

では私はというと、「その気」にならなかっただけです。
「誠実」が先立ち、迷いが生じ、積極的な損得の意識が上らなかったのです。
ただ、徹底はしません。
要するに、欲はあっても強欲はないわけです。
そういう在り方は、ある種の地上的成功者からは「無能」に見えることでしょう。
ここが分かれ目なのです。
ならば、「律儀な人」はどうでしょう。
損得の観点から見て「道徳的に立派」なのであって、争い事は起きませんが、徹底しているということは、むしろ地上的な「執著」が強いということでもあります。
霊格が高いということは、「カネ」がないことではなく、「カネへの執著」がないことです。

まとめます。
本来の神仏の光、メッセージ、宗教というものは、感覚的なことではなく意識に上らないため、インパクトがなく、つい地上的なことにすり替えて解決に走ってしまいます。
ある人が言う「機会平等」を「結果平等」にすり替えることもそれを顕しています。
喩えれば、健康な状態に戻すはずの「漢方薬」は効き目が弱く遅いために、つい即効性のある「西洋の薬」に頼ってその場を解決してしまいますが、それだけだと身体を蝕んでしまいます。
神仏とは何か、宗教とは何かを感覚ではなく魂の目で(省察で)とらえることが必要不可欠です。

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エクスタシー [中庸]

一方で、盲信者、特に神盲信者は相変わらず根っ子が深いようです。
ある仏教寺院の住職がある欧米の教会に行った時の証言です。
「十字架から下ろしたイエスさまをマリアさまが抱いている像なんですが、時空が歪むような聖性を感じて、その前から動けなくなったんです。」
住職はいっそのこと洗礼を受けようと思いましたが、周囲から止められたそうです。

そういう霊感の強い人はみな、おそらく霊が直接注入されるような「エクスタシー」を覚えることでしょう。
そして、キリスト教に嵌まる人たちはみなこう言います。
「それはキリスト教信者でなければわからない」
と。
でも、あいにくそれは神ではありません。
高級霊でもありません。
ハッキリ言いますが、そこに居るのは〈(大勢の)人の想念が作った低級神〉です。
一足飛びに天国に行けるように救いを求めて祈るおびただしい盲信者の想念が作った「アンドロイド神」です。
キリスト教だけでなく、イスラム教もユダヤ教も同様です。
このことは、ペトル・ホボット氏ほか「霊に通じている人たち(霊格が高いとは限りません)」のすべてが証言しています。【*】
もはやそれは宗教ではありません。
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聖書も他の聖典もすべて地上の人間の「言葉」で書かれています。
言葉は末端の表現であり、一面的で不完全です。
ところが、ほとんどの信者は、末端の表現に囚われ、「本質」を見抜けません。
エクスタシーを覚えたうえでのことですから、聖典を『聖遺物』として扱い、一字一句を付け足したり削ってはいけないという「盲信」に簡単に陥るのです。
結果、自分の宗教は「鵜呑み、鸚鵡返し」、他の宗教に対しては「ツバメ返し」、挙句の果てに、
「コーランを暗唱できない人質は射殺する」
となるわけです。

宗教とは(字のごとく)切っ掛けを与える「教え」があって、実践して「中庸」を得ることです。
人間の活動を何もしないで救われるのは「宗教」ではありません。
ダンテは神に一足飛びに天国に行けるように救われることを願ったのですが、それは許されず、直接天国へ行く道には猛獣が立ちはだかっていて通れず、やむなく地獄煉獄巡りをすることになったのです。
「可愛い子には旅をさせよ」と言うように、ペットを飼うように箱に入れるだけで旅をさせないのは本当の親ではありません。
同様に、息子を放蕩させないでシャブ漬けにして引きこもらせるのは本物の神であるはずがありません。
それでもシャブ中の息子はエクスタシーを覚えて、救われた気でいるわけです。
これはいわゆる「疑似天国」という地獄の一種であり、死後も続きます。
もちろん、教会に居座る霊的存在が本物の神かアンドロイド神か、霊能者でない私には判断できませんし、このシャブ中の息子たちも一般人である限り判断できません。
私は霊に通じている人たちの証言を受け入れることと、放蕩息子に放蕩させる機会を奪うということで偽物と判断するだけです。
宗教的体験と言っても、神や仏と出会うことは、けっして「エクスタシー」の体験ではありません。
ひとえに中庸です。
しかしそれを言うと、キリスト教盲信者は、
「そんな東洋のものとはレベルが違うんだ」
と言い張り、あくまでもキリスト教の優位性を主張します。
でも一説によると、イエスは若い頃にインドに行ってインド哲学やインド占星術を学んだと言われます。
イエスの霊感もただで開花したわけでなく、何らかの刺激があって地上人生に具現化されたのです。
だいいちに、キリスト教自体が4世紀に別なものに変えられています。
聖書も教会組織に都合よく書き換えられています。
それでも聖書におけるイエスの言葉は、私からすれば、すべて「中庸」を促すものとして読み取れるのです。
「中庸」とは、即非や絶対矛盾的自己同一、性善説と性悪説の正しい解釈など、あくまで自分の実践によって、地上の〈善悪〉や〈白黒〉を超越し苦難を乗り越えることです。
悪人正機(性悪説・機の深信)によって、
「もう自分は救われないんだ」
と思った(覚った)とき、《霊の窓》が開いて、そこに上から神仏の光が差し込むのです。(性善説・法の深信)
放蕩息子は自分の経験を機に自分の意思で帰宅するのです。
そのときの境地はけっして受け身の「エクスタシー」ではありません。
地上経験の課題を克服したときのこの上ない《充実感》(親鸞会の言葉を借りれば渋柿が樽柿になって甘味になる)です。

当ブログでいつか言いましたが、〔2021.1.5〕
ジャコウネズミ:「無駄じゃ、無駄じゃ、まったく無駄じゃ、すべて無駄じゃ」
スナフキン:「無駄なことをするのが人間じゃないのかね?」
がすべてを語っています。
と言っても、けっしてジャコウネズミが思い違いをしているわけではありません。
ジャコウネズミのおじさんは、長い地上経験の末にその境地に達したのですから、それでいいのです。
いけないのは、それをはじめから若者や子供に押し付けることです。
あくまで『本人によるその過程そのもの』が、地上に生を受けた意味なのです。

【*】ホボット氏によれば、《神道》は良い、《仏教》は「人間が他の動物に輪廻転生するということはないが、そのことを除けば良い」とのことです。

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