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「聞く耳を持つ」の真意 [中庸]

ある浄土系の人の喩えでは、
『ある石を徹底的に磨いたが、宝石にはならなかった。それは、単に原石が宝石ではなかったから。ダイヤモンドやルビーの原石を磨いて、はじめて宝石になる。』
自力は三乗、他力は六乗。
善行や勤行などの自力で救われるのは限られた者だと言います。

ならば、宝石の原石ではないと思われる石は、ただ神や阿弥陀仏を信じれば救われるというのでしょうか?
人間の計らいでは神や仏の世界に入れないからと言って、ただ神や仏を賛美したり拝していれば神や仏が降りてくるというのでしょうか?
スピリチュアリズムではそれはありません。
それに、宝石の原石は限られた者であって、なれない者はどうやってもなれないというのも疑わしいのです。(ある意味ではそのとおりですけど)

そもそも宝石の原石とはどういう人なのでしょうか?
ひと言で言えば、「聞く耳を持つ人」のことです。
「えっ?」
と思うかもしれません。
私がいつも言う、理性によって神や仏の光を受けていることを知る人のことです。

順番を間違えないように願います。
浄土系においては、あくまで信不退であって、行不退ではありません。
「信(深信)」があって初めて「行(利他業)」が効いてくるのです。
中には、
「そうは言っても、深信なんて、それはもともと宝石の原石の為せる業であって、自分は所詮普通の石ころだから無理だ」
とはじめから自分に限界を作る人がいるかもしれませんが、それは早すぎます。
聞く耳さえあればできます。
その「聞く耳がある」ということが宝石の原石の証しだからです。

聖書にも、所々に「聞く耳を持つ者は」というイエスの言葉が記されています。
もちろん、聞く耳を持たない者もいます。
「聞く耳」とは何か?
イエスなどの聖人や預言者の言うことを鵜呑みにすることではけっしてありません。
イエスなどの聖人や預言者の言うことを切っ掛けに、自分の理性で実践することです。
乱暴な言い方をすれば、
「私の言うことを真に受けるな」
というあたかも自己矛盾のような教えに応えることです。
(シルバーバーチも「納得できなければどうぞ拒絶してください」と言っています)

それもあって、聖書などでは内容が象徴で書かれています。
それは実践する人でなければわからないようになっています。
「立派な土の上に蒔かれたもの、これはみ言葉を聞いて、その意味を悟る人のことです」〔マタイによる福音書より〕
聞く耳を持つというのは、『自分で悟ること』なのです。
その効果はともかく、無駄に盲信者を蔓延らせないために象徴で書かれているのです。
「持っていない人、その人はさらに持っているものさえ取り去られるのです」〔マタイによる福音書より〕

しかし、そのように言うと、理性を捨てた盲信者は、
「そのように分析しちゃだめだよ」
と、見下すように鼻で笑って言います。
内容がわからないことを逆手にとって、「一行一句も変えてはいけない」と聖書を聖遺物として戴くことで自己防御を計るだけなのです。(盲信者については次回にします)








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