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五井先生(2) [霊的存在]

前回の続きです。

「キリストを信じた人だけが永遠の生命を得られると、イエスが説いているが、そうだと、クリスチャンだけが永遠の生命を得られるという不公平なことになるのでは?」
という質問に、五井先生は、
〔抜粋〕「キリストを信ずれば永遠の生命が得られる、ということは本当です。ただ、イエスを信じれば、というのとは違うのです。真理を表す神のみ心そのままを表した時、そこにキリストが現れるわけです。(中略)イエスという肉体を信ずれば、というように勘違いすると困る。肉体がなくなったら信じようがないです。ですから『キリスト=真理』を信じるということです。」
と答えています。

もちろん、肉体のあるものを崇拝するのは論外です。
イエスは肉体を纏った人間です。
神の言葉を伝える預言者であり、高級霊が宿った稀な人間です。(それを言うと憤慨して、「イエスは神だ!」と食って掛かる盲信者もいますが)
もっとも、それを言ったら、われわれ人間はみな神の分生命、神の子であり、水路のはずなのですが。

ただ、この質問者は、そういう意味ではなく、
「キリストという神だけなのか?」
「アッラーや阿弥陀仏ではいけないのか?」
を聞きたかったのではないかと私は思うのです。
でも、それは、冷静に考えればわかることで、その地域や時代で、名前が変わるだけのことです。
みな二級神であり、みな真理です。

ここで、みなさんはたぶん疑問を抱くと思われます。
キリストやアッラーや阿弥陀仏という二級神を崇拝するのではなく、直接「大霊(大神)」を崇拝すればよいではないかと思われるでしょう。
実は私もそう思っています。
シルバーバーチはその啓示の中で、
「私に帰依するのではなく、大霊に帰依せよ」
と言っているのを覚えています。
しかし、五井先生によると、大神と肉体を持った人間では波動が違い過ぎるので、人間の祈りが直接大神には届かないとのことです。
そこで、自分たちの身近な守護霊守護神に祈り、あるいは二級神に帰依することで、その上に行けるようにしてもらえるということです。(会社組織の中で、社長に直接ハンコをもらおうとしても無理で、自分の上司にハンコをもらってから、その上、またその上と、順々に行って、社長にハンコを押してもらうのと同じだということです)
スピリチュアリズムにおいても、いったん集合霊に組み込まれないとその上の次元には上昇できない仕組みになっているらしいのです。
(そうするとシルバーバーチは、高級霊ではあっても、霊を束ねるレベルではないということになりそうです)
ともあれ、
「弥陀の大船に乗る」
というのは、確かでしょう。

しかしここでまた私の出番ですが、帰依するとか祈るとか言っても、口だけでよいのでしょうか?
祈る動作だけでよいのでしょうか?
私がクリスチャンや浄土系の信者によく、
「本当に神(阿弥陀仏)を信じている?」
と聞くのですが、正直な人は黙ってしまいます。
正直でない人は、
「信じている」
と口では言います。
私に言わせれば、そのほとんどが盲信者です。
なぜそれが判るのかというと、お互いに他の宗教や他の宗派を末端のところで貶したり否定したりするからです。
本質を見ていないということは明らかで、自分の宗教や宗派のことがわかっていないことになるからです。
当然のこととして、他人には、
「ただ信じろ」
だけで、どうやったら本当に信じることができるかは、けっして教えてくれません。
(みなさんも、周りに紋切り型の信者がいましたら、試してください)

深信を得るには、どの様式であっても本質を見ること、「理性」による信仰、そのためには省察が必要です。
本来、神仏を信じるというのは、そういう存在が形を持ってどこかに居るという希望などではなく、「真理」を得ることです。
そういうわけで、私は神仏に対しては、「信じる」という言葉は使いません。






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コメント 2

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私は以前、五井昌久という人を救世主と狂信妄信し、世界平和の祈りにのめりこんでいました。結果、心身に障害という後遺症を背負うことになりました。宗教には単純化という要素があると思います。奈良平安の仏教は出家した秀才によるもので知識を主とし万巻の経典を読んだわけです。ところが法然親鸞が出て南無阿弥陀仏と唱えれば、向こうから救っていただけると知識や努力を否定して単純化したわけですね。日蓮なども、この影響を受けて南無妙法蓮華経を、ひたすら唱えろと単純化する。道元の禅なども、ひたすら座禅しろになる。単純化したので大衆に普及し、それが日本の代表的宗教になる。キリスト教なども要するに、キリストを信じなさい、そうすれば救われると言ってるわけでしょう。五井昌久も同じ。この人は30冊ほどの本をだしましたが、要するに、世界平和の祈りを祈りなさい、そうすれば救われると言ったわけです。しかし、世界は平和にはならないし、個人も救われないというのが答えでしょう。これだけやってればよいという単純化が宗教の特徴になってるが、これが問題でしょうね。救う神仏と救われる人間という構図は、どうやらまちがいで、あなたを救うのは、あなた自身であるという、言わば自助論的思想が真理つまり宇宙の法則のようですね。
by お名前(必須) (2017-07-11 04:51) 

光一郎

遅れて申し訳ありません。
コメントありがとうございます。
私の周りは盲信者と唯物論者で溢れ、悩んでいます。
私の友人にも教会の盲信者がいますが、何事も自分で考えずに何か権威のあるものに頼る性格からか、思考停止して鬱になり、また、「考えること取るに足らない人智」とする教会に洗脳され、さらに思考停止で鬱になるという悪循環に陥っています。
スピリチュアリズムでいえば、理性を捨てることによって「低級霊」に乗っ取られて、鬱になるのです。
「信仰=祈り」ではないわけで、真の信仰は「利他愛」の実践が伴うはずです。
この地上に生まれた理由は実践による霊的進化であり、祈るだけでいいのならわざわざ地上に生まれる必要はありません。
それから、親鸞は『歎異抄』で「深信」を説いていますし、日蓮は「方便」による実践を説く法華経を重んじています。
宗祖たちはけっして盲信を勧めていません。
後世の信者たちが形骸化しているものと思われます。
by 光一郎 (2017-07-26 00:44) 

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