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小悪が大悪を防ぐ [中庸]

★サッチャー元首相の言及。
「確かに戦争は悪です。しかし、その戦争によってもっと巨大な悪をストップせねばならぬこともあります。もし連合国がヒトラーをストップしなかったら今頃世界はどうなっていましたか」
【私のコメント】
確かに戦争は悪(小悪)です。しかし、その戦争によってもっと巨大な悪(大悪)をストップせねばならぬこともあります」
(小悪によって大悪を征す)
・・・・・教師の「体罰禁止」をさかんに唱えて、教師を「銃や警棒を使えない警官」にして、面白がっている輩に聞かせてあげたいね。
「確かに体罰は悪です。しかし、その体罰によってもっと巨大な悪(悪魔・モンスターの活躍)をストップせねばならぬこともあります」ってね。
自分が平穏であっても、相手が攻撃しないとは限らない。
好戦的な輩は必ずいる。
地上の人間には「知性」があり欲があるからだ。
特に、思考が地上的で「感覚の目」だけ捉える人は「強欲・貪欲」が尽きない。

戦争は誰もしたくない。
でも広い意味での「防衛」は平和実現の〈方便〉として必要だ。
小悪は大悪を防ぐ。
弥勒は悪を抱きて参る。(日月神示)
戦争の対は平和ではなく、非戦だ。
〈戦争(小悪)-非戦(小善)〉という一本の地上の直線を超越してこそ、《平和(大善)》を実現し、地上の直線にへばり付く〈地獄(大悪)〉から抜けられる。

★「言葉そのものにはじめから絶対的な正や負の価値がある」
と思い込まされるというのは、意外と深刻なことであって、省察しないと、他人を理解し無益な中傷誹謗を回避するうえでかなり障害になるのです。
たとえば、「勤勉と怠惰」です。
日本人のほとんどは「勤勉=善、怠惰=悪」と幼少から教え込まれているでしょう。
ところが欧米では「勤勉=悪、怠惰=善」が一般人の価値観なのです。
「そんなバカな!」
とほとんどの日本人は言うかもしれません。
「勤勉は確かに考えようで、日本人でも、健康面を考えれば必ずしも善とは言えない」
「でも、怠惰は怠惰であって、良いわけがない」
「それは〈怠惰〉ではなく他の言葉が使われているに違いない」
ときっと思うでしょう。
実は私も「怠惰=善」というのは違和感があります。
良い意味で使われることがほとんど見当たらないからです。
でも人生で一回だけ経験しました。
イラストの師匠、清藤先生の言葉、
「怠けようよ・・・」
です。
絵を描くうえで、「手を抜く」ということは、むしろインパクトや強調効果を考えた場合に必要なことで、「必要以外に描き込まない」のが鉄則だからです。
欧米人にとって、「生活」よりも「人生」を充実させるためにむしろ「怠惰」が重要だということです。
日本人は、
「今日できることは今日のうちに済ませろ」
と刷り込まれていますが、欧米人は、
「明日できることは明日に回せ」
と刷り込まれているようです。
「待ち合わせは、最後に来た人に合わせる」
「自由に仕事し、いつでもサボる」〔『最後はうまくいくイタリア人』より〕

それでも、日本人の中には、
「欧米人は、必要ないからやらないだけであって、それは怠惰ではない」
「必要なのにやらないから怠惰なのだ」
と食い下がる人もいるでしょう。
ところが私たち日本人は、「怠惰」という言葉のうちに暗黙のうちに「あってはいけないこと」という負の価値がはじめからあると思い込んでこの言葉を使っているのです。
(〈考えていない日本人〉の【差別】と同じ)
私も日本人だからその気持ちはわかります。
なぜそうなるのでしょうか?
欧米人は(清藤先生も)必要か必要でないかはともかく、「怠ける」とか「サボる」という行為に対して、「後ろめたさ」などの負の感情はないと言います。
「手を抜く」という肉体的表面的な〈行動〉をただ「怠惰」と表現しているだけなのです。
もう一度取り上げますが、
日本人は、
「今日できることは今日のうちに済ませろ」
欧米人は、
「明日でもできることは明日に回せ」
言い換えれば、
日本人は、
「出来るのなら『必要がなくてもやる』のが望ましい」
欧米人は、
「出来ても『必要がなければやらない』ほうが望ましい」
です。
それに加えて、日本人は「必要なのにやらない」という道徳的に負の価値をはじめから付随しているものとして「怠惰」という言葉を使うため、上記の、
★『必要がなくてもやる』という〈道徳的必要性〉
に反すると、
☆「後ろめたさ」という〈負の感情〉
が働いて、それを【怠惰】と表現するのです。
〈負の価値そのもの〉が【怠惰】になってしまっているのです。
〔思考停止した日本人の【差別】も同じ原理〕

*左寄りの日本人にとって〈地上的道徳〉は絶対であって、守らなければ人間失格であり、怠惰はその〈道徳心〉に反するからです。
地上の〈(小)善・(小)悪〉に思考がへばり付いているからです。(ユリゼンの僕)

⁑右寄りの日本人は〈権力〉に対して絶対視し、一方的な思考が働きます。
私は散々経験しましたが、右寄りの人は権力に「従わないこと」ではなく、権力に
【媚びないこと】
を悪とするのです。(ベリアルの子)
「なんで媚びないんだ」
「順応しなきゃだめじゃないか!」
という具合に。
順応性の高い女性はもとより、中学生までもが言うのです。
私にはそれは、
「この町の人はみなコレラに罹っている」
「だから、あなたもコレラに感染しなければならない」
というように聞こえるのです。(何度も言いましたけど)

※池波正太郎が言っていた戦後日本の、
「白だ、でなければ黒だ」
とはこれです。
まったく、頭がおかしくならない方がおかしいのです。

組織内部では、前述のように、
「プライド(自尊心)は余計なものだ」
「言い訳をしてはいけない」
などと、従業員同士で言い合っているのです。
これでは日本人は幸せになるはずがありません。
物質的生活の確保のためとはいえ、「権力」と「地上道徳」に帰依して「思考停止」してしまっては、霊的に言って進歩がなく、地上人生の意味がありません。
それを「我を捨てている」と美化する寺の住職もいるというのだから呆れます。
我(欲)を捨てているどころか、我(欲)があるからこそ「魂(なくてはならないプライド)」を売ってしまっているのです。
自らが奴隷となって身の安全を確保し安堵を得るという「奴隷意識」です。
それを「お国柄だ」(思想、様式の違い)と言って誤魔化す人もいます。
もちろん、欧米人にはそんなものはありません。(あっても嫌います)
むしろ真逆です。(アメリカの脱走の映画を見よ)
「プライド(自尊心)は必要なものだ」(冒頭のサッチャーの言及)
「言い訳をしてもいい、むしろ言い訳をしなければやっていけない」

そのため、それを「思想の違い」として片付ける人が多いのですけど。
様式の問題ではありません。
日本は病気なのです。
そういう人たちは、そうでない人に対して、
「あんたは外人なんだよ」
と言って、ノケモノにするだけなのです。
〈様式〉の(違いの)問題ではなく、地上の仮のものである「思想」にへばり付いて一方的にしか思考が働かない《状態》が霊的に大問題なのです。
地上の善悪に対して、〈白〉か〈黒〉なってしまっているのです。
超越して高い視点(霊的視点)に立てないのです。
《大悪》なのです。
霊的病気なのです。
「権力(ベリアル)」も「地上道徳(ユリゼン)」も〈仮の掟(偽神)〉であり、あくまで〈秩序〉を保つために方便としてあるものであって、帰依するものではありません。
帰依したからといって、社会が《平和》になるわけでもなく人間が《幸福》になるわけでもありません。
今の日本は、それを省察する習慣も切っ掛けもありません。
私自身はというと、ともあれ権力には「従う」けれども、「媚びる」ことはありません。
私がそんなことを言うと、
「それは逃避だ」
「逃げ口上だ」
「自己弁護だ」
という人が必ず現れます。
私は「魂の奴隷」になることから逃れているだけなのです。

これもまた話は同じで、「逃げる」という言葉に、はじめから「負の価値」が付随しているという前提で言うのです。
ならば、その人は在宅中の自宅が火事でも逃げないのでしょうか?
日本中、今はまさに自宅が家事なのです。
まさに『(天山)遯』の状態なのです。
その人たちは、「地上の掟に帰依している」というまさに「火事の状態」だということが分かっていないのです。
実際に私はそれで《人間》が崩壊した人をたくさん知っています。

【差別】も同様に本来は表面的な「行動」を言うのです。
〈言葉〉とはあくまで客観的な行動を指すもので、人によって正負・善悪・損得が曖昧なこと、すなわち「善悪の意識」にやたらと使うものではありません。
それを破ってしまったから日本人はおかしくなったのです。
それで〈野暮〉が蔓延しているのです。

最近、
【生徒の英語に「garbage〔ゴミ〕」発言 外国籍の教師“アメリカンジョークだった”】
という見出しがありました。
〔私のコメント〕
「温室育ち」を「腫れもの扱い」し、
学校側も
「不適切なものだった」
と「自己保身」を図る。
(仮のものである)地上の道徳や法律、コンプライアンス等で、自分や他人を縛り付けているのが今の日本。
これじゃ「幸福度が低い」のは当たり前。
どこに「人間」があるのかね?
〔[↑]1 [↓]3〕

【福岡・宮若市長「女は子供を産んで初めて女になる」…新たな不適切発言が発覚し陳謝】
〔私のコメント〕
「不適切」かどうか、そんなのとり方次第でしょ?
この件に限らず、こんな議論もうやめな!
〔[↑]23 [↓]34〕

言葉そのものに「誰にとっても絶対的に決まった正負の感情や価値」が予め付随していると思い込んでいるのです。(思考が地上にへばり付いた唯物論・実在論)
そのような人が日本に溢れているのでは、今にどんな【言葉】も使えなくなってしまいます。
結果的に、そのような人たちは、「あんたは偉い!」などと言って【ほめ殺し】をする輩に軽くひねられてしまうのです。

一方で、近頃こんな記事がよく見られます。
【「心の病」で休職した公立教員、過去最多 前年度比10.9%増】
〔私のコメント〕
日本そのものが〈精神疾患〉なのだから、教員が〈精神疾患〉になるのはむしろ正常な反応だ。
ならない人は「鈍感」と言える。
作家の池波先生が、
「戦後の日本人は、〈白だ〉でなければ〈黒だ〉と言う」
「頭がおかしくならないほうがおかしい」
と言ったのが、まさにこれなのだ。
[黒ハート]1 〔[↑]7 [↓]0〕
要するに、日本がおかしくなっていることは、実はほとんどの人が認めているのです。
ただ、その原因やメカニズムが解っていないのです。
多数派が、その原因と対策を〈制度〉とか言葉の〈表現〉とか、「末端のもの・地上的なもの」に求め、そしてまた白か黒かと地上的に「解決」しようとしているのであり、ピントがずれているということです。
胃腸炎の患者に、医者が風邪薬を処方して、余計に悪化しているという具合です。

★以前にも取り上げた、
「スピリチュアリズム普及会による『シルバーバーチの霊訓』の翻訳」
においても顕れています。
キリスト教でも仏教でも、人の死そのものを忌み嫌うことはありません。
誰もがみな死ぬのですから。
(☆社会通念としてある死を忌み嫌う思想は、殺人が横行しないように、秩序を保つために仮に置くものです)
それはまた、「自分=自分の肉体」ではないこと、自分が霊的存在であることを自覚することでもあります。
むしろ肉体の死は人生の完成(目的)を意味し、霊的観点からすれば祝福すべきなのです。
だからと言って、『愛する人の死を悲しむのはいけない』ということではないのです。
誰だって愛する人が死ねば悲しいに決まっています。
地上の人間には地上の事情があるわけであり、それを酌むのが聖人の教えです。
愛する人の死に際して悲しむのは、たしかに「自己憐憫」です。(シルバーバーチはそれだけを言っているのです)
ところが、スピリチュアリズム普及会の人の言い方からすると、実際に愛する人に死に際して「自己憐憫」で悲しんでいるのは、
「死んだ人を憐れんでいるのだ」すなわち「霊界の真理を知らないからだ」
と決め付けるような解釈なのです。
それならば、学校の卒業式で泣く人は、バラバラになる友達の卒業や門出を祝福しないというのでしょうか?
いささか短絡的な思考法です。
そうではなく、「自己憐憫」は「自己憐憫」でよいのです。【カエサルのものはカエサルに】
肉体を持っているのですし、感情もあります。
意思疎通ができなくなって、ショックを受けるのは当然です。
だからと言って、誰もが死んだ人に「不幸」をなすり付けているわけではないでしょう。
もちろんスピリチュアリズムの真理を弁えていれば、悲しみに「のめり込む」ことはないということです。【神のものは神に】
それだけのことです。
(*再三登場モーツァルトが友人Hが亡くなった時に記述した、「Hを気の毒だとは思いませんが、残された家族が気の毒でなりません」がすべてを物語っています)
スピリチュアリズム普及会の人間とあろう者がこのような思考であることに、むしろ私は嘆きます。
スピリチュアリズム普及会の人たちも、やはり今の日本人なのでしょうか。
ハッキリ言って、「地上の道徳」に毒されています。
概して地上の掟にのめり込むと、〈差別〉や〈怠惰〉の例のように、思考が白か黒かになって「寛容性」を失います。

「勤勉=善、怠惰=悪」という〈刷り込み〉は、偏った思想すなわち地上の道徳であり、日本という独特な国の秩序を保つための方便として必要ではありますが、あくまで「仮のもの」であって、それを省察抜きに「帰依」してしまうと危険なのです。
イエスやブッダなど古今東西の聖人たちはこれ(仮のものだということ)を言っているのであり、その点で今の日本人は道徳律を司る〈偽神(ユリゼン)〉に帰依してしまっていて、霊的に最悪の状態なのです。
つまり地上の道徳の〈(小)善・(小)悪〉に思考がへばり付いてしまって超越できないのです。
カエサルのものを神(偽神)に返しているのです。
これが《大悪》と呼ばれるものです。
専ら戦後の左翼思想に因るかどうかは微妙ですが、再三言う〈性善説の履き違え〉が原因です。
〔※性善説の善は、地上の〈小善〉ではなく、〈小善⇔小悪〉を超越した《大善》です〕
〔※昨今の著名人や有名人が、道徳に反することをしたとかで、プライベートなのにもかかわらず吊るし上げて仕事から排除するのも、その反映です〕

上述のイタリア人をはじめとする欧米人の価値観は日本人と真逆でしょう。
地上の価値観(仮のもの、小善・小悪)なので、どちらが良いとか悪いとか決めることはできません。
「価値観(の違い)」の問題ではないのです。
ただ、その真逆の思想があることを知って、自分たちの思想が地上における〈仮のもの〉であることを《省察》するきっかけを与えてくれるのです。
まさに「〈小悪〉によって、《大悪》を防ぐ」のです。
そして、〈小悪〉によって地上の善は〈小善〉と覚り、《大悪》から逃れて《大善》に向かうのです。
〈荀子〉を理解することによって、《孟子》を真に理解するのです。
地上(現象界・差別界)にいる人間は〈影〉しか追えないけれど、それを知ることで、全速力で〈影〉を追わなくなります。
〈第一の絶望〉を認めることで、《第二の絶望》に陥ることから逃れます。
そして聖人たちの言うように《善く生きる》ことができます。〔この善は大善のこと〕

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いま日本で何が起きているのか? [霊的存在]

いま、日本は暗いニュースで溢れて、嫌になっている人も多いと思います。
何が原因なのでしょうか?
どうすればいいのでしょうか?
おかしいとは感じているでしょうけど、何がどうなのかわからない人も多いと思います。
どうやら、外部ではなく、人の内部に原因がありそうです。
私に言わせれば、思考に原因があります。
対策とは解決ではなく思考の「明透化」、そして「解消」です。

★では、いま日本で何が起きているのか?
例を挙げるとこうです。
ゴルフ場のティーグラウンドは男性に比べて女性用は前にあります。
れっきとした〈差別〉です。
男女の身体的特性に合わせた「必要な差別」です。
ところが、女性はむしろ優遇されているにもかかわらず、
「女性を侮辱している」
と取る人がいるのです。
そして、それに反応して騒ぎ立てる変な第三者、その中に影響力を持つ要人や為政者がいます。
これが今の日本のすべてです。

〈平等〉という劇薬の副作用であり、〈女尊男卑〉になることさえあります。
問題にしなくていい差別や、必要な差別に対してすら、
「どう思ったか」
を問題にする輩が多いのです。
厄介なのは、そういう輩は、
【悪く思うこと】が【差別】だと言うのです。
その輩は、人が良かれと思ってした行為に、『負の価値』を勝手に付随させて非難するのだからたまったものではありません。(もちろん「思う」だけなら「問題」にすることはないのですが)
おまけに、「ティーグラウンド」を男女に分けたこと自体は【差別ではない(区別だ)】と言い出すのですから呆れます。
もっとも、話にならないから取り合わずに放っておけばよいのですけど、そういう輩に乗っかって一緒に問題にして非難する〈性善説〉を履き違えた左系の変な「第三者」がたくさんいるのも事実です。
この第三者が、いつも言う「何も考えていない人」です。
そういう輩が活躍すると、為政者などの影響力のある人たちが動き出し、まともに【言葉】が使えなくなり、世の中が息苦しくなり、他人と関われなくなるのです。
これでは社会が硬直しやがて崩壊します。
そして、賢人は隠遁します。
地上の法は、何かトラブルが起きた時にスムーズに「解決」を図るために「予め」決めておくものであって、けっして起きる前から「意識」して行動するためのものではありません。
地上の道徳は、トラブルがなるべく起こらないように、予め用意した偏った思想であって、むしろ「無意識」に行動できるのが望ましく、単に秩序を保つための方便(仮のもの)だということを省察する必要があります。
それがわからないのが(考えていないのが)、今の日本人の多数派です。
地上の〈仮の掟〉に帰依してしまって「野暮」が蔓延しています。
〔*言い訳をしてはいけない、プライド(自尊心)があってはならない、と「使われている者同士」が言い合っているとか、キリがありませんが〕

★今年の正月に古い友人の所へ行った時のこと。
法学部出身の友人が、未必の故意など、お得意の話をしていた時に、私はトイレに行く途中で、彼に問いかけました。
「死刑執行人は殺人罪にならないの?」
すると彼は、
「それは、手術の時に執刀医がメスで身体を切るのと一緒だ」
と答えました。(なぜ単刀直入に「立場が違うから」とか「はじめから偉い人がいなければ社会が成り立たないから」と言わないのか?)
私がトイレに行くので、途切れてしまいました。
その続きはありませんでしたが、彼に訊くつもりでした。
「じゃあ、執刀医は傷害罪にならないの?」
「なんで?」
おそらく、彼はこう答えたでしょう。(答えたがらないかもしれません)
「大義名分だよ」
そうです。
死刑も禁錮刑も、物質的には「殺人」や「監禁」と同じ行為です。(「いや、死刑は殺人ではない」と言い張る人もいます)
殺人や傷害、監禁も、物質的に同じ行為であっても、立場によって全く別の評価(言い方)になるのです。
つまり社会には「義」において必要な「悪」があるわけです。
ついでに言うと、「はじめから偉い人」がいなければ社会は成り立たない(秩序を保てない)ということです。
それを認めることです。(民主主義病、悪平等に冒された日本人には抵抗があるようですが)
「差別」も同じことです。
〔もちろん、秩序を保つことは平和や人間の幸福のための方便であって、平和や幸福そのものではありません〕
それがまったくわからない人が日本人にたくさんいます。
というより「何も考えていない人」が溢れています。
「平等だ!平等だ!・・・」
と地上的思想(小善)の一点張りで。(偉い人はみんなが決めるんだ!・・・と左翼系が)
その根源はやはり絶対的客観的なもの(適切か不適切かなど)があるという前提で思考や議論を始める「唯物論(実在論)」です。

*今、性加害が取り沙汰されているけど・・・。
両者の言い分が食い違い、「訴訟合戦」に及んでいます。
これもまた、ひとつの物質的事実に対して、特に初めに訴える側に、〈意識〉においても客観的絶対的なものがあるという前提(唯物論・実在論)が頭にこびり付いているということの顕れです。
〔*進化論を絶対的なものと見なし、生物が進化して人間が生まれた(物質の運動から知性が生まれた)というのは「事実なんだから」と言い張る共産党員を思い出します〕

★〔ネットの記事〕
【米兵に体を売る「パンパン」を笠置シヅ子は差別しなかった…夜の街に立つ娼婦とも友人づきあいをした情の深さ】
〔ある人「Iさん」のコメント〕
職業に貴賎なしと言いますが、昔も今も「大あり」だと思いますけどね。(個人の感想です)
〔それに対する私のコメント〕
自分が思うことはともあれ
「語り得ること」
客観的絶対的なものがあるとするのは
「語り得ぬこと」
ただそれだけ。(内側から境界付ける)
〔▲9 ▼0〕
*この場合も、「差別しなかった」ではなく、「侮蔑・排斥しなかった」と言うべきでしょう。
「パンパン」という職業に対して、誰でも何らかの思い(善悪・優劣などの価値)はあるはずです。
現象界・差別界ではともあれ「差別」をしているのです。
「言葉」で分けているのですから。
でも、それに対するその人の思いや扱いは人それぞれであり様々であって、優劣・貴賤・善悪およびその度合いはその人次第です。
そして、くどいようですが、扱いによる「実利害」が生じた場合にのみ、当事者同士が問題にしたり訴えたりして、裁く人が裁くことがあるだけです。
コメントの「Iさん」は、「個人の意見です」と言いながらも、自分が貴賤を決めているというよりは、客観的絶対的な貴賤がある、言い換えれば「(唯物論的に)職業そのものにはじめから貴賤が付随している」という前提で「大あり」と言っているような表現なので、私がコメントしたのです。
つまり、Iさんは「内側から境界付けていない」のです。
語り得ぬことを語っているのです。
この国に唯物論(実在論)的思考が蔓延しているようです。

※『5次元世界への超扉』の著者エハン・デラヴィ氏が、
「日本人に必要なことは、唯物論(実在論)を克服することだ」
と言っているように、とにかく、客観的絶対的なもの、特に「客観的絶対的時空」を前提にしないこと、早急にそれらを超越して、高い視点、霊的視点を設けることが必須なのです。

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外国人差別? [中庸]

★数か月前のこと、行きつけの中華居酒屋で、隣のテーブルに座っていた4人の男性がなにやら仕事の話をしていました。
よく見ると、そのうちの1人は東南アジアの国の人らしく、英語は話せるようでしたが日本語があまり話せないようでした。
向かい側の日本人男性が新しい仕事と職場のことを伝えようとしていましたが、
「(外国人)差別がない」〔というより本来は(国籍)差別がない〕
ということを英語でどう言っていいかわからない様子でした。
次に、職場の「雰囲気」は良いと伝えたいらしいのですが、英語がわからず、咄嗟に横にいた私に、
「雰囲気」って英語で何て言うんですか?
と振ってきました。
私は、
「『atmosphere』だったと思いますけど」
と答え、ついでに先に言った「差別がない」を英語で、
「『no discrimination』と言うんです」
と教えて、直接その東南アジア人の男性に言いました。
伝わったようでした。
この話はまさしく〈差別〉なのです。
この場合の国籍差別は、日本においては日本人に比べて外国人を冷遇するという〈利害〉が付随しますが、当事者の外国人たちが「問題」にしなくていい差別なのか、国家の義において「必要」な差別なのか、というところでしょう。
この〈差別〉には、特に「侮蔑」や「迫害」の負の価値の付随はなく、いやあっても、それをどうこう言うのではないのであって、ただ単に、「言葉や慣習」などにおいて日本人ほど「期待できない」から給与が安いなど冷遇されるわけで、当の外国人たちの中にも「不当」だと思っていない人もいるでしょう。
もちろん「不当」だと言う人もいるでしょう。
いずれにせよ、ここは日本であって、日本人が仕切っているわけであるから、日本人の都合で決めているのであって、言っても仕方ないと諦めているのかもしれません。

〔ネットの記事〕
【人種や国籍、肌の色だけを理由に職務質問を行うのは差別で違法だ】
〔私のコメント〕
そりゃどこの国でも、よそ者に対しては「偏見」があるよ。
実際、扱いが変わる。
すなわち「差別」は付き物だよ。
ただそれを
「問題にするかしないか」
「訴えるか訴えないか」
「解決するかしないか」
だけのことだよ。
履き違えないでもらいたい。
「差別そのもの」
が違法なのではない。
〔[↑]39 [↓]6〕

【因みに】
間違えてはなりません。
日本で「肌色」という言葉(差別・区別)が使われなくなったのは、ひとえに国際化のためです。
白人や黒人などの外国人が日本にたくさん住むようになったために、ただ「不都合」が生じるからであって、(排斥するとかしないとかという意味での)肌の色の違う人たちへの気遣いではありません。

⁂という言葉です。
かつて石原都知事が街頭演説で使って、日本に住む中国人や韓国人から非難を浴びたことがあります。
もちろん、その世代の日本人は「三国人」(第三の国の人)という言葉に特に負の価値は持たせていません。
私の親は今でも使います。
私の親たちは昔から、中国人や韓国人は同じ日本人に比べて、価値観や生活習慣が違うことから、やはり見方や扱い方を変えていたようで、何らか分け隔てをしていたのでしょう。
日本の中で日本人が言うのですから。
ただ分けるというのはなく、そういう価値を伴うからこそ言葉で分けるのであって、だからこそ「三国人」という言葉を使っていたはずなのです。
戦前生まれの人にとっては何気ない言葉でしょうけど、よくよく振り返れば、やはり「よそ者扱い」というのは否めないのです。
何らかの優劣が含まれているのはむしろ自然です。
つまり、「言葉」そのものが差別・区別なのです。
この現象界・差別界では、人は誰でも「差別」をしているのです。
どんなに言い張ってもみなが差別をしているのです。
それをまず認めてもらいたいと思います。

ただ、優劣や善悪は、する側もマチマチであり、受け取る側も様々なのですから、言葉そのものに絶対的客観的な優劣や善悪があるとするのは唯物論から来る〈妄想〉です。
よく言われる、ある人の表現が「適切か不適切か」などと言って議論するのは、まったく論理の使い方の間違いなのです。

もちろん、以前から一般の日本国民がそれを言っても、誰も問題にしませんでした。
なぜなら、利害損得がほとんど生じないからです。
ところが、政治的影響力のある石原都知事が言うとなると、これは中国人や韓国人たちにとって、「排除」を意味し、実利害が生じる可能性があり、「死活問題」になるのです。
それで〈当事者〉たちが問題にして抗議したまでのことなのです。
もっとも、それを言ったら、日本において石原都知事が、「中国人」、「韓国人」、「外国人」と言っても、同じことでしょうけど。
なので、石原都知事は、不適切だと認めたのではなく、
「話しても分からないから、無駄だから」
と言いう理由で今後「三国人」という言葉を使わないと決めたのです。

どんな場合も、(当事者たちにとって)問題にする必要があるのは客観的な【実利害】であって、けっして「意識」ではありません。
そこを一般人は履き違えてはならなりません。

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差別はあってはならないものなのか? (2) [中庸]

★記憶に新しいと思いますが、未だに、ある政治家が、
「差別をなくす」を「不当な差別をなくす」
に変更したことに対して、非難する人が大勢いました。
断言しますが、後者のほうが「真っ当」なのです。
なぜなら、
?地上の人間はみな【差別】をしているからです。
「えっ?」と思われるかもしれませんけど、社会とは何か、人間とは何か、言葉とは何かを例を挙げて省察すればわかります。
〔*もっとも、「なくす」というのは無理です。交通事故と同じでなくなりません。その都度「解決する」だけです。冷遇されている当事者が「不当だ」と訴え、裁くものが裁いて、解決して、平穏と秩序を回復するだけです〕
ハッキリ言って、上述のように非難する人は「何も考えていない」のです。
そういう人たちというのは、どうやら、
「不当なもの」を〈差別〉
と言い、
「不当でないもの」は〈差別ではない〉
と言うらしいのです。
単純に言えば、「侮蔑」や「迫害」を〈差別〉と呼んでいます。
それで、非難するのでしょう。
でも、「不当か不当でないか」を誰が決めるのでしょうか?

★もっとも、「侮蔑」や「迫害」または「排斥」でも、不当とは限らないはずです。
そうされても仕方がないとか当然だという輩がいるのではないでしょうか?
誰にでも一人ぐらいは思い当たる人がいるはずです。

日本人は狂ったのでしょうか?
地上の人間社会は、〈現象界・差別界〉と言って、あらゆるもの人間の都合で〈差別〉しているのです。
そのときの道具として「言葉」があるのです。
*まずそれを認めることです。
思い当たりませんか?
たとえば、自分が「外国人」と言った場合、外国人とそうでないものを分けるのは、自分の都合で見方や接し方を変える必要があるからであって、何らか偏見を持っているはずです。
★ある有名な弁護士が、◯◯人を誹謗中傷する人とケンカして、
「〈◯◯人〉と一括りにするな!」
と言っていました。
たしかに余計な属性は付加しないに越したことはありません。(オッカムの剃刀)
しかし、私たち人間は地上という〈差別界〉で社会生活をしているのであって、何事も「一括り」した言葉を使って、偏見と差別(区別)によって秩序と流動性を保っているのです。
「一括り」がいけないのであれば、「男は」、「女は」とか、「老人は」、「子供は」とか、「日本人は」、「中国人は」などと、言ってはいけないことになり、使える言葉がなくなってしまいます。
言葉そのものが「差別・偏見」なのです。
つまり、社会は「差別」や「偏見」で成り立っているのです。
「なくて済めばないほうがよいものがあるのが社会」
「しなくて済めばしないほうがよいことをするのが人間」
〔ジャコウネズミの小父さんとスナフキンの対決〕
私たち地上の人間は、【矛盾】の上に生きている、ということを胸に刻んでほしいのです。

もちろんそこで、◯◯人も様々であって、「不当だ」と問題にする人が現れます。
しかし、不当かどうかは、当事者が訴えて、裁く人が裁くのであって、第三者が訴えるのは筋違いなのです。
〔?客観的絶対的に不当なもの、不適切なものはないのです。それは唯物論から来る妄想です。〕

よく考えると、差別そのものは、優遇されるものと冷遇されるものがセットになっているはずであって、〈負の価値だけ〉というのはあり得ません。
本来は、男女差別であって、女性差別はおかしいのです。
同じく、年齢差別はありますが、老人差別は成り立ちません。
同じく、人種差別はありますが、黒人差別はありません。
これらは、権限のある方、優位に立つ側、多数派、牛耳っている人たちが言うことから、一方的な(上から下へ侮蔑する)言い方になるわけです。
〔*まれに下から上へ尊敬する言い方になることがあります〕
〔*アメリカにおける人種差別は本来は「白人と黒人」を差別するのであって、「黒人」を差別するというのは適切な言葉の使い方ではありません。しかし牛耳っている白人が言うので、それを日本人は「黒人差別」と表現するのです〕
〔*なにか、「差別」という言葉や行為に、勝手にはじめから前提として「負の価値」を付随させて話をしているようです。そうなる原因の一つは、優位に立つ側が、劣位に立つ側に対して冷遇し、たいがい「冷遇される劣位の側」が訴えるからでしょう〕

アメリカなどの人種差別(人種区別とは言わなかったこと)が原因なのか、本来は、
「Cが、AとBを差別(区別)する」
という言い方が正しいのですが、ある国における外国人を扱う時に、
「Cが、CとBを差別(区別)する」
事情ができて、それを、
「Cが、Bを差別する」(Cが、Bを区別するとは何故か言わない)
という言い方に変えて、それが定着して、〈差別〉が、上から下に「侮蔑」する意味になってしまったと思われます。
そういう事情で、日本語の【差別】と【区別】の意味が勝手に分離してしまったものと察します。

〔ネットの記事〕
【聖マリ医科大の入試「合理的理由なく女性を差別」 地裁が賠償命じる】
〔私のコメント〕
大学側は「理由(合理性)」があって差別したんだよ。
でも学生側は、「合理性がない」すなわち「不当な差別だ」と訴えたわけだ。
日本人のみなさん、【差別】には、
「問題にしなくていい差別」や「必要な差別」
があるということを知ってもらいたい。
そして、その差別が、
「正当か不当か」
は、当事者同士が主張して、裁く人が裁いて決めることだということ。
(絶対的客観的に不当(正当)な差別などありはしないのだ)
(絶対的客観的なものあるとするのが〈妄想〉であり、日本人の多数派が克服すべき〈唯物論〉が根底にあるのだ)
間違えないでほしい。
差別は「侮蔑」や「迫害」や「排斥」を伴うことはあるが、
「侮蔑」、「迫害」、「排斥」そのものではないのだ。
〔[↑]3 [↓]1〕

少し前、こんな記事がありました。
【「人殺しの息子」と石を投げられ16歳でホームレスに…「加害者家族」として差別され続けた男性の23年間の苦悩とは】
毎日、どこかで起きている様々な犯罪。加害者が罪を償うのは当然のことですが、同時に加害者の家族が差別や嫌がらせなどの被害に遭っているという現実があります。
「加害者の息子」として、そして同時に母親を殺された被害者として生きて来た男性の、20年以上にわたる苦悩と現実に密着しました。
父親が母親を殺害「人殺しの息子」として社会から排除される日々・・・・・

これって、〈差別〉なのでしょうか?
厳密には、〈迫害〉や〈排斥〉でしょう。
もちろん、言葉で「加害者」と「加害者でない」に分けているのですから、たしかに〈差別〉はしているのですけど。(差別が迫害や排斥になるとは限りません)
(本来は、「加害者でない」人たちと、セットで「差別」なのです)
ともあれ、当事者の「加害者家族」が扱いを「不当」だと訴えるかどうか。
それとも、「仕方がないこと」と受け止めて我慢するかどうか。
ということは、「問題」になるかどうかは当事者しだいではないでしょうか?
第三者が「問題」にするのはいかがなものでしょうか?

元来国語辞典には、「差別」に負(-)の意味はありません。
「区別」や「差異」と同義です。
それに対して、
「今は違うんだ」
「人間に対して『侮蔑』や『迫害』や『排斥』を【差別】と言うんだ」
「それ以外を【区別】と言うんだ」
と言って、居直る人たちが必ず存在します。
しかし、先人の作った言葉を勝手に捻じ曲げてよいという道理はありません。
それは冒涜です。
現に今でも、「商品の差別化」とか「無差別殺人」とか「無差別級」などと言う場合があり、その「差別」に負(-)の付加阿値はありません。
むしろ、正(+)の付加価値さえあります。
「人間に対して」という限定もありません。
単に分け隔てるだけで、「区別」や「差異」とほとんど同じ使い方です。
★この時点で、「今は今だ」という人は【間違い】です。
甚だ遺憾です。
実際、困るのです。
(*以前、日本における「トルコ風呂」を知って、怒ったトルコ人が呼び名を変えさせた事実がありますが、「同じもの」を「違う言葉」で表したり、「違うもの」を「同じ言葉」にしてしまうと不都合が生じるのは当然です)

〔※もう一度まとめて言います。〕
昔の辞書の表現を借りれば、先人たちはこの地上の人間社会を〈現象界・差別界〉と言って、人間の都合で、あらゆるものを〈差別〉しているのです。
その道具が「言葉」なのです。
社会は「差別や偏見」で(やっと)成り立っているのです。
そのために「言葉」が必要となるのです。
すなわち「言葉そのもの」が「差別・区別・差異・判別など」です。
当然、差別にせよ区別にせよ判別にせよ、人間の都合で分けているので、その人たちにおける善悪、損得、優劣といった「価値」が付随します。
もちろん、様々な価値観の人の都合で分けているため、そのときに当然「利害」が発生することがあります。
というより、何らかの利害が付随します。
みな「都合」で分けているのですから。
でも、たいがいは「問題」にしません。
いずれの場合も、それを基本的に当事者が「問題」にするかしないかだけです。
いずれの場合も、その問題を当事者同士が「解決」するかしないかだけです。
第三者が介入することではありません。
また、自分の価値観で分けているので、そのときに〈言葉そのもの〉に暗黙のうちに「正・負の価値」が付随します。
もちろん自分がある言葉に正や負の価値を付随させるのは「任意(勝手)」であるから、誰も問題にしませんが、そのことを《自覚》していないと、誰にとっても同じ正や負の付加価値を伴うものと決め付けてしまい、それによって「言葉そのもの」に正や負の価値が付随しているものだと思い込んでしまうのです。(客観的絶対的なものを前提とする唯物論)
結果、他人が同一の言葉を使った時に「悪く言った」と勝手に決めつける愚行が起きます。
「考えていない現代人」が使う〈差別〉という言葉がそれです。
それをする人は往々にして、自分の利害に関係ない「第三者」なのに、憤慨したり非難したりします。

とかく現代人は〈唯物論・実在論〉に侵され、《性善説》を履き違えています。
絶対的客観的な物や事が前提にあって、皆がそれを同様に感じているはずだ、という思い込みで、人と接しているのです。
ですから、言葉そのものにその「絶対的客観的な価値」が付随しているという思い込みから抜けられないでいるのです。
〔★〕「人は他人のことを良く思えば人間の中身が良くなる、良く思えるようになる、そうすれば世の中が清浄になる」と思い込んでいる人は、(性善説を履き違えた)〈ユリゼン信仰者〉です。
そういう人は、思考が〈地上〉にへばり付いているのです。(大悪・地獄)

そこから抜けるには、即座に省察が必要です。
地上の人間は、【小悪⇔小善(偽善)】の直線から逃れられません。
地上道徳によって人間の中身が良くなることはありません、他人を良く思えるようになりません、世の中は清浄になりません。
人の言動や行動は、所詮は偽善(小善)であり、偽善の延長上に本物の善はありません。

〔★〕私は処世術を言う柄ではありませんが、今の日本の状態を見かねて言わせてもらいます。
とりあえず他人があなたのことをどう言っているか気になったら、
【人は他人のことを良く言わないもんだ】
【他人は自分のことを良く言わないもんだ】
くらいに思っておけばいいでしょう。

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