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死に対して(2) [霊的存在]

昨年度から同じ講師室の同僚となった1歳年上の公立高校上がりの数学教師(O先生)とこのまえ話をしました。
彼は妻帯者であり、退職金をもらって今後は遊んでも生活できる身分なのですが、
「ふらふらしていてもしょうがないでしょ?」
と奥さんから促されて、本人も言うように「暇つぶし?」に働きに来ているわけで、経済的には羨ましい限りです。
それで、今年は授業がすべて午前中という時間割表を見せてもらいました。
「えっ?午前だけなんですか?」
と私が聞くと、O先生は、
「実は父親の介護がありまして」
と答えました。
私はすぐに、
「ボクも母親が看取り介護なんですよ」
と言うと、彼はすかさず、
「私は去年、母親がそうだったんです」
「施設に入って、もう(認知症で)わからなくなっちゃってね」
私はただ、
「ああ、そうだったんですか・・・」
と答えるだけでした。
昨年度O先生は、まったくそんな素振りを見せなかったので、気が付かなかったのです。
私だったら、心情を隠すことができずに周りの人たちに覚られるでしょうし、むしろ知らせるでしょう。
そこで私は思いました。
「彼はなぜそんなに気丈でいられるのか?」
考えられることは私との境遇の違い、すなわち、「自分の家庭」があるということです。

一方の私は母親と生まれた時から離れたことがなく、特に父と別居し姉が結婚してからは、40年も2人で生活してきたわけで、母親がいなくなるということは、自分の身体の半分がなくなるのと同じ感覚なのです。
こうして母親がいつどうなるかわからない状態というのは、今のこの時点でさえ、寂しいとか悲しいとか苦しいなどという言葉ではとても表現し尽くせません。
もちろん肉体の死に関しては誰にでも訪れることとわかっていますし、役目を終えて、むしろ肉体の苦しみから解放されて自由な霊界へ行くというように積極的に捉えることはできます。
スピリチュアリズムに生きる私としては、本来なら明るく送りたいものですけれど、いざとなった時に、心情的にそんなに冷静でいられる自信がないのです。
それは、私が単に霊的に未熟だからなのでしょうか?

そこで、シルバーバーチの霊訓からの抜粋を見てください。

《死を悼むということは霊的知識が実際に適用されていないことを意味します。地上生活を地上だけの特殊なものとして区切って考える習癖を改めなくてはなりません。つまり一方に物質の世界だけに起きる特殊な出来事があり、他方にそれとは全く異質の、霊的な世界だけの出来事があって、その二つの世界の間に水も漏らさぬ仕切りがあるかのように考えるその習性から卒業しなくてはいけません。》
『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.42~43

《(亡くなった人を悲しむのは)一種の自己憐憫の情です。自分自身への哀れみであり、愛する人を失ったことを嘆いているのです。苦の世界から解放された人のために涙を流すべきではありません。(中略)
大部分の人にとっては、死は牢からの解放です。新しく発見した自由の中で、潜在する霊的資質を発揮する手段を見出します。無知の暗闇でなく、知識の陽光の中で生きることができるようになるのです。過ぎ去った日々の中に悲しい命日をもうけて故人を思い出すとおっしゃっいますが、いったい何のために思い出すのでしょう。そんなことをして、その霊にとってどんな良いことがあるというのでしょうか。何一つありません。》
『シルバーバーチの霊訓(8)』(潮文社)p.64

《苦痛と老齢と疲労と憂うつとから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探究心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。その悲しみには利己心が潜んでいます。自分が失ったものを悲しんでいるのです。自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。それは間違いです。(中略)
あなた方の悲しみは無知から生じております。》
『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.45~46

*戦死者の遺族に対してのシルバーバーチの言葉
《死んでいく人たちのために涙を流してはいけません。死に際のショック、その後の一時的な意識の混乱はあるにしても、死後の方がラクなのです。私は決して戦争の悲劇・恐怖・苦痛を軽く見くびるつもりはありませんが、地上世界から解放された人々のために涙を流すことはおやめなさい。》
『シルバーバーチの霊訓(5)』(潮文社)p.230

内容が重なりますが、この解説を添えておきます。
【霊訓の解説文】
〔*〕霊的真理によって霊界の素晴らしさを知りつつも、現実の死別に際してこの世の人々と同じように嘆き悲しむとするなら、それはせっかくの霊的真理を活用していないということになります。知識として知っているだけで、本当の理解には至っていないということなのです。真理を手にしたものの、実際には役立てていないのです。

〈死の悲しみは、自己憐憫(憐憫)の情にすぎない〉
死別を悲しむということは、「霊的事実」に照らすなら的外れです。その意味で、大半の人々は間違っていると言えます。死別を悲しむのは死んだ人を愛しているからだと思っているかもしれませんが、そうではありません。その悲しみは、実は死んだ人を愛しているのではなくて、自分を愛しているにすぎません。“死別を悲しむ”ということは、本当は自分自身を哀れんでいることなのです。

シルバーバーチの指摘は、あまりにも厳しすぎるように思われるかもしれませんが、霊界での他界者の実情を知れば当たり前のことと言えます。死によって霊界に行った人が悲しみ・苦しんでいるとするなら、地上人がその人を気の毒に思い悲しんだとしても問題はありません。

しかし実際には、霊界に行った人は地上の苦しみから解放され、心から喜び幸せに浸っているのです。地上時代より、ずっと幸せになっているのです。かわいそうだと思うことは、無知からの勘違いです。死別を悲しむということは、自分自身を哀れんでいるにすぎないのです。

〈死別の悲しみには利己性が内在〉
死別を悲しむことは、霊的真理を知らない一般の人々にとっては当たり前のことであっても、スピリチュアリストにとってはそうではありません。シルバーバーチは、死別の悲しみの中には“利己性”が内在していると厳しく述べています。

〔⁂〕死は悲劇ではなく喜びであり、決して悲しむようなことではありませんが、愛する人の死を前にしたとき、その通りに実践できる人はほとんどいないでしょう。しかし私たちは、常に理想を目指して努力していかなければなりません。それが真理を手にした者としての義務であり、責任でもあるのです。
最後に、愛する人との死別に直面して嘆き悲しんでいる人々に向けてのシルバーバーチの言葉を取り上げます。私たちは、シルバーバーチの言葉を自分自身に当てはめて、もし自分がこうした人々と同じような状況に至ったとしても、決して死を悲しむようなことはしないと決意を固めましょう。
【終】

みなさんどうでしょう?
「肉体の死は熟した実が樹の枝から落ちるようなもので、完成であり、祝福すべきこと」
「愛する人の死を悲しむのは、自己憐憫であって、自分が悲しいだけだということ」
「その悲しみを死者に付着させるのは間違いだ」
ということであり、シルバーバーチそのものはただ「これだけ」を言っているにすぎません。

でも、『解説文』〔*〕〔⁂〕は、頭でわかっていても実行できなければ、スピリチュアリズムはモノになっていないと言っています。
「理想」としながら「決意」とはどういうことでしょうか?
無理ではないでしょうか?

それに対して私は言いたいことがあります。
仏教ではもとより肉体の死そのものを忌み嫌いません。(浄土真宗では葬儀の後のお清めの塩はありません)
死に逝く人に対しては、霊的観点から完熟を祝福し、地上での愛に感謝します。
とはいっても私たちは肉体を持っているのですから、エゴもあり感情もあります。
今まで出来ていた意思疎通が以後急にできなくなり、ショックを受けるわけです。
自己憐憫は自己憐憫として認めながらも、悲しいものは悲しいのです。
それをいけないというのは寛容性がないと言わざるを得ません。
解説文を書いた人は日本人なのでしょう。
なにか、「死を悲しむ」ということにおいて、死者に手向けることと自己憐憫を一緒くたにしている感じがします。
死を悲しむのは、
「霊的観点に立っていないからだ」
すなわち、
「自己憐憫だということを自覚していないからだ」
と決め付けているかのようです。
そして、肝心なのは、
「自己憐憫=道徳的にしてはいけないこと」
という暗黙の前提のもとに言っているように思えるのです。
「道徳的に立派なこと」がそのまま霊的成長に繋がるとも取れます。
ここにも、日本人が陥っている〈性善説の履き違え〉が見られます。
輸血の拒否や合同結婚のように、
「霊界の掟をそのまま地上に反映させる」
というのもそうです。
ここに日本における宗教がカルト化する根本原因が見られます。

以前にも紹介した友人の死に対するW・モーツァルトのメッセージ、
「彼本人を可哀想だとは思いませんが、残された家族が可哀想でなりません」
を見てわかるように、明らかにモーツァルトは死そのものを忌み嫌うことがないにもかかわらず、友人の家族に対する憐憫を示しています。
キリスト教圏では、スピリチュアリズムの要素も浸透している一方で、地上の人間の利己性にも寛容的なのです。
理想はあくまで霊界の掟であり、地上では地上の事情を認めながら、完璧ではなく乗り越えるのが、地上経験における霊的進歩だと思うのです。
《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に》
《煩悩即成仏》
これが健全な人間社会だと思います。

ともあれ、私はどう乗り越えるか?
長いので次回以降にします。

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