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像を拝むとは [霊的存在]

ある方のブログを拝見しました。
それは、「高級霊のメッセージ」を扱ったものです。〔定期的に更新していて、読者も数十人います〕
冒頭にこうあります。

《像を拝めばもはや自主的に考える力を失っており、自分の拝んでいるものが自分の思考を破壊する。なぜならば、その人は無智の中に迷い、自己の裡に宿る唯一無二の生ける神という真理を見ることができないからである。》
 
まあこれは、前回の盲信(思考停止)を排する私の活動と相通じるものです。
その中で特に根幹となる内容が、再三言う『神や霊の存在と実在論(唯物論)』であり、そのことが的確に示されています。
【引用①】
成る程、幾千にものぼるあなたたち(霊人)は、時間・空間の入らぬ境城で現に生きてい乍ら今この瞬間わたしの話に傾聴している。しかしまだ肉体の中に留まっているあなたたちの兄弟姉妹である人々にわたしが話をしている此処、外界では、彼らは時間と空間と(が存在している)と妄想している。時間と空間とは彼らがこの地上で克服しなければならない難問である。あらゆる者が克服しなければならぬ難問は時空感覚である。
あなたたちは未だ距離、年・月・日と時間(制)とを墨守している。
それは時間と空間との幻影である。
(既に)天国の中にある自分自身を観じてみるがよい。
自己の裡なるみ霊こそ世界を創造し給うたみ霊と同一のみ霊なのである。
このことが真に把握された時、あなたたちは時間・空間の世界を超越した彼方のことが解るようになるであろう。
【終】
肝心なのは、「時間・空間」がはじめから絶対的に存在しているということが〈顛倒妄想〉だということです。
それから、神盲信者に対しても、次のような啓示があります。
【引用②】
あなたたちは神の息子、娘なるが故に、神はアバ・アヴォン(おお、父よ、われらの父よ)と叫ぶあなたたちの胸(ハート)に神我というみ霊を送り込み給うた。故にあなたたちはもう(ただの)僕、はしためではなく、(神の)息子、娘であり、あなたたちの中に宿る神の一人子たる神我の故に、あなたたちは神の資産であるすべてのものの相続者である。
【終】
これも、空間のどこかを占める神が自分と離れて存在するという間違いを正したものです。
神は霊の集合体、本源であり、すべての人の内にあり、すべての人を包括します。

世の中には、それまでずっと無神論者だったけれど、ある時以降一転して神を信じるようになった人がいます。
その人が言うには、
「生まれてからこのかた神などいるわけがないと『思って』いたが、ある時、神に『出会った』ので神はいる」
とのことです。
いるわけがないと『思って』いたというのは、いるのならどこか空間を占める唯物論的実在として「五感」で捉えることができるはずだという意味であって、けっして理性でとらえようとしたわけではありません。
なので、その人が『出会った』とのいうのも「五感」で捉えたということであり、理性で捉えたわけではないのです。
神がいないと思っていた時と同じ唯物論的思考法で神を信じたのです。
つまり、その体験が事実だとしてもそれは神ではありません。

人の姿をした者が目の前に突如現れて、
「私は全知全能だ」
「光あれ!」
「えい、やー」
と言って、いろいろなものを作り出したとしても、それは単なる超人であって、(聖人たちの言う)神ではありません。

この方のように、ブログや著作で正しい霊的存在の在り方を発信している人はたくさんいます。
たしかにその通りなのです。
でもみなさんどうでしょう?
これでシックリいくでしょうか?
時間空間が妄想だと言う『実在論(唯物論)』の克服を唱えているものの、それを自分のものとして「体得」するための具体的方法あるいは、その切っ掛けを与えているでしょうか?
おそらく何十人もの読者は、
「へえー、そうなのか」
としか思わないのではないでしょうか?
(それでも心地いいでしょうけど)

高級霊の啓示として以前に取り上げた『日月神示』も、その時述べたようにその(中矢氏のブログの)読者のほとんどが「興味本位」だということが暴露されました。
読者は自分の理解力を超えると「偽物呼ばわり」するのです。(当ブログ『日月神示(補足)』参照)
依然として地上の言葉による地上的な善悪・白黒(平等=善、差別=悪、など)に終始していて、霊的視点を設けるに至っていないからです。
そもそも霊的に考えるとか行動するとかが、実践できていないということです。
その理由は、自らの省察によって体感したわけではないからです。
ならば、たくさんいる読者とは何なのでしょうか?

実は、冒頭に示したその方の「冒頭」にある《像》を拝んでいるということです。
「像を拝まないようにというメッセージ」を《像》として拝んでいるのです。
姿かたちはなくとも、高級霊という「権威」にすがっている(思考停止している)のです。

これは、あるキリスト教信者が、
「偶像崇拝はいけない」
という意味を、
「教祖という生身の人間を拝まないこと」
と受け止めて、イエスという過去の人物を神扱いして拝み、またある信者が、
「イエスという過去の人物を拝まないこと」と受け止めて、イエスの残した言葉(聖書)を聖遺物として拝み、その言葉を鵜吞みして再生するのと同じことです。
要するに、「権威」という《像》に従っているのです。
しかもそれに気付かないのです。

私がこう言うのを聞けば、引用したブログの方はムッとするかあるいはがっかりするかもしれませんが、そんなものなのです。

その点、私の活動では実際的な省察の方法を示しているはずなのですが、残念ながらイマイチ反応がありません。(当ブログも、多い時もありましたがここ数日訪問者数一桁、読者0です)
たしかに読んでいて心地よくはないでしょうし、実践するのは楽ではないでしょう。
また紋切り型の人はハナから「悪魔」扱いするでしょう。
でも、微力ながら私の助力によって『道』を得た方がもしいるならば、その人はこの上ない充実感を覚えることと確信するのですが、どうでしょうか?

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心のよりどころ [中庸]

ここに来てくださるみなさんはもう私が何を言うかわかると思います。
今回の事件で、今の地上宗教がいかに本質から離れているかが窺えると思います。
もっと言えば、推進する側も非難する側も、紋切り型の盲信者もすべてを否定する無神論者及び唯物論者も、いかにピントがずれているかがわかります。
インペレーターやシルバーバーチの嘆きが聞こえます。

さっそくある報道番組で、かの宗教団体の献金の問題を取り上げていました。
そして最後に、お決まりの念押しのひと言がありました。
「断っておきますが、宗教は『心のよりどころ』となるものであって、宗教そのものが悪いわけではありません。ただそれを悪用することがいけないのです」
でもどうでしょう?
一見すると公正で健全な見解のようですが。

ここが核心部分です。
まさにこの《よりどころ》というのが曲者で、私に言わせれば、
「悪用してください」
と言っているようなものなのです。
なぜなら「思考停止」を意味するからです。
よくネットの書き込みで、
「宗教施設に行って話を聞くと、楽になるのはなぜでしょうか?」
というのがありますが、私は返信します。
「思考を委ねて〈思考停止〉するから楽になるのです」
そう言うと、
「楽になるからそれではそれで良いではないか?」
と言う方もいらっしゃるかもしれません。

たしかに地上的には「思考停止」は必要だとも言えます。
地上生活では楽になることは重要です。
社会においては、偏ったものとして刷り込まれた思想があってこそ速やかな行動ができます。
躾とか常識などもそのためにあります。
もちろん、あとで言うように「仮のもの」だという省察は必要ではありますが、ある程度思い込みがあってよいのです。
振り返れば、私たちは社会契約をして身柄を世法や国の権力に委ねているからこそ、信用して人と接し安心して街を歩けるのですから。
むしろ損得や自己保存など地上的計らいに関しては「すべて自己責任」では身が持たず、適当に思考停止したほうが、ストレスを回避し余裕を持って文化的な行動ができます。

しかし、霊的には「思考停止」はいけません。
地上での修行にならないからです。
霊的に進歩しないからです。
教会や寺の人がこう言ったからとか、聖書や仏典にこう書いてあるからと、権威に依存して本質を捉えることなく、儀式やノルマに終始する「外で熱心な信者〔良きクリスチャンにして悪しき聖職者〕」になり、あとはただ神仏に委ねて祈るだけというのは道を外れています。
(金銭問題の有無にかかわらず)魂の奴隷または家畜になってしまいます。

先ほど言った地上的な思想が「仮のもの」であること、白黒や損得という感覚的なものを追求することで幸福が訪れるというのが「幻」だということを、「自らの省察」によって体得し、それらを超越して霊的視点を設けること、中庸を得ることが地上経験における課題です。
肝心なこととして、神仏を内在するものであり包括するもの(内包かつ外延)と覚ることであり、けっして外界のものとして自分と切り離さないことです。(神仏は信じるのではなく知るのです)
そして、その切っ掛けを与えることが聖人であり、聖人の言葉を受け継ぐ宗教団体の役目です。
宗教は「切っ掛け(啓発・産婆術)」だけでいいのです。
〔既述のように、イエスや孔子はそれであり、聖書や論語にも表れています。鵜呑みにしないということ。わかる人だけにわかるように隠れています〕
それ以上のことは余計であり、むしろ思考を奪って盲信を促し無理解を生むだけです。

日本では、宗教と聞くとどうしても「カルト教団[→]洗脳[→]テロ」だとして、なくていいとかないほうがいいと言う人が多いでしょうけど、宗教とは本来は「心の問題」あるいは「心の教育」であり、他の国では当たり前のように必要なこととされています。
では日本は何がいけないのでしょうか?
悪い人が悪用するからではありません。
冒頭で示したように、「心の《よりどころ》」とすることです。
平たく言えば、「考えないことがいいことだ」という教えが各宗教団体で蔓延っているということです。(人智は神に及ばないから捨てるものだと)
「考える切っ掛けを授けられて、自分で道を得る」
という心構えがほとんど見られません。(これなら本当にないほうがいいと思いますが)
これは私自身がいろいろな宗教団体の人たちと接して率直に感じたことです。

そして、繰り返すように、冒頭のTVの出演者たちが当たり前のように宗教に対して、
「心の《よりどころ》であり〈楽になる〉から」
で止まっていること、そして本来の宗教の意味を言わない(言えない?)のを見ると、悲観せざるを得ません。
そんな中でも私は地道に活動を続けます。

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