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神盲信と無神論 [霊的存在]

いつもいただく幸福の科学の冊子の中にこういう個所がありました。
国際問題については、バイデン氏が主張する、
「〈民主主義国家〉対〈専制国家〉」
ではなく、
「《神仏への信仰心を持つ国家》対《無神論・唯物論国家》」
の対立として考えれば「勝てる可能性がある」と指摘。
神を信じているプーチン氏を西側に引き込むことの重要性を説きました。
〔2022年1月9日時点〕

今生きるみなさんは、
「あれっ?『勝てる』って、どこに対して?」
「プーチン?なに寝言を言っているんだ」
と、首をかしげるかもしれません。
もちろん、時期から言って、わざとコロナ感染させたと目の敵にする「中国」に対してですけれど。

ご存じのように私は以前から、「民主が善、専制(独裁)が悪」の判別が当たり前のように世間に浸透しているのが気になっていて、もっと霊的視点を設けるように促していました。
「民主vs専制」という地上的様式の対立で、どっちが良い悪いと白黒つけるのではなく、「霊的に高いか低いか」で、指導者が君主か否かを判断することが必要だと再三言ってきました。
今般、私が言うのではなく、影響力のある大川氏が言ってくれたことで、たくさんの人が考えるきっかけとなって、世の中が平和へ向かう突破口となるのかなと一瞬思いました。
ところが、地上世界はご覧のとおりです。
ウクライナ侵攻を見れば、プーチン氏が霊的に高い指導者でないことは明らかです。
完全に見込み違いであって、「神を信じていること」が、けっして「霊的に高いこと」ではないということがわかります。
この手の「神を信じる」は完全に盲信であって、霊的に高くありません。
深信は「神を知る」です。
あくまで「知」と「信」は一体です。
かりに盲信者が信仰心のない者をやっつけても、霊的に何も偉くありません。(同じ穴の狢ですから)

今起きている戦争は、専門家によればどうやら「ロシア正教会」が大きく関わっているようで、大まかに言うと、「ウクライナ正教会」の独立を認めるとか認めないとかで、以前から「ロシア正教会」と確執があるということです。
【引用】
教会の独立は、地域を管轄する教会の承認が必要となりますが、モスクワ総主教庁の管理下に置かれたウクライナ正教会は、何度交渉しても承認しないモスクワ総主教庁を飛び越えて、コンスタンティノープル総主教庁と交渉します。先述の通り、コンスタンティノープル総主教庁はその歴史的な経緯から正教会の代表格とされていますので、第一人者と交渉しようとしたわけです。(本来どこにもその独立の正当性を認める組織が存在しないのですが)
【終】
そのほかに、ある組織がロシア正教会を政治利用しているとも言われます。
詳しい人の情報を知る限り、力関係とか駆け引きとか、とにかく、思考が極めて「地上的」であって、地上の攻防に終始し、霊的思考など入り込む余地はありません。
これではとても平和など望めません。

それから、中国が無神論・唯物論国家だと大川氏は以前から言っていますが、私が知る限り、首脳はともかく一般の中国の人は信仰心があると思います。
ただ、「神」という言葉は彼らはほとんど使わないかもしれません。
一つの理由は、孔子の教え「論語」が浸透していて、以前にも触れた、
《民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく。知といふべし》
が根底にあるからだと思います。(またか?)
神仏を崇拝するにしても、地上においては、地上で為すべきことを為すと教えられていると思います。

【再び引用】(既読の方はスルーしてください)
樊遅(はんち)知を問ふ。
子曰く、「民の義を務(つと)め、鬼神(きしん)を敬して之(これ)を遠ざく。知と謂(い)ふ可(べ)し」。
仁を問ふ。
曰く、「仁者は難(かた)きを先にして獲(う)ることを後にす。仁と謂ふ可し」。
〈解説〉
樊遅が知とは何か、と孔子にたずねた。
「われわれは、ややもすれば人間を超えた存在に頼る気を起こしがちだ。
しかし、まず人間としてやらねばならぬことは何かと考えること、それが知だ」
樊遅はさらに仁についてたずねた。
「人間として正しいことは、たとい労多くして功少なしと知っていても、
あえて実践する態度、それが仁なのだ」【終】

また、老子の思想「道(タオ)」も浸透していて、
〈何をするにも、まずは腹を満たして身体を整えてから〉
と考える習慣があるようです。
実際、私もうまくいかないときに、知り合いの中国人にそのように忠告されことがあります。

【引用】『タオ』(加島祥造)
世間が頭のいいやつを褒めるもんだから、ひとはみんな利口になろうとあくせくする。
金や宝石を大事にするから、盗人がふえる。
世の中が生きるのに必要のないものまでやたらに欲しがらせるから、みんなの心がうわずってしまうんだ。
だから道(タオ)につながる人はあれこれ欲しがる心を抑えて、飯だけはたっぷり喰う。
野心のほうは止めにして、骨をしっかりこしらえるんだ。〔以下略〕【終】

この唯物論は、以前にも言ったと思いますが、「方便」であり、
「健全な身体に健全な魂が宿る」(健全な魂が健全な身体を作るとも言える)
という「方法論」であって、彼らはけっして、死んだら終わりとか、働かないで生活ができるなら遊んでいていい、などということは言いません。

それから、前回、前々回同様、言葉の欺きもあります。
「~主義(~イズム,…ism)」という言葉がどうも厄介で、地上的方便なのか、霊的に健全か病気か、2つがあってそれがゴッチャになっているのもあります。
一般の中国人の「唯物主義」は地上的方便であって、「拝金主義」や「エゴイズム」や「rheumatism」のような病気のことではありません。
「神を信じている」という意味が「盲信」を含むならば、
「無神論者は信仰心がない」
とは言えないようです。

どうやら大川氏は、中国憎さからか、
「神を信じる=信仰心がある=霊性が高い=平和的」
「無神論=唯物論=信仰心がない=霊性が低い=攻撃的」
という一面的な思考に陥っていると思われます。

では、神など存在しないと断言する筋金入りの「無神論者」で本当に「信仰心がない人」はいないのでしょうか?
当然、たくさんいます。
その手の無神論者たちは、
「神というのは、人を支配するために人が都合よく作ったものだ」
「そして、人を束ねて戦争を起こすんだ」
と口をそろえて言い張ります。
たしかに形骸化した宗教組織は結果としてそういう事実もあり、間違いではありませんが、自発的に菩提心を起こすことなく、霊的自覚することがないため、形骸化した組織の弊害の面だけを見ているからです。(そういう人は、儒教でさえ、「過去に戦争に利用されたから危険だ」と言う短絡的な思考回路なのです)
それは「神盲信者」の対極にある地上にへばり付いた同一直線上の延長上の「無神論者」の言うことです。
というより、そもそも「神の存在」を履き違えているのです。
もちろん、いくら省察を促しても聞く耳を持ちません。

ではもし、その手の無神論者から、
「それなら神の存在を証明して見せろ」
と問い詰められたら、あなたはどうするでしょうか?
(私の経験上、「物ではないから『証明』とは無縁だ」と言っても無駄です)
答えられなければ、その手の無神論者はそのまま先程のことを言い張ります。

今の私なら手っ取り早い方法としてこう言います。
「では、あなたは存在しますか?」
もし、
「見ての通りここにいますよ」
と答えたら、
「いえ、あなたの肉体ではなく、あなた(の世界)が存在するという自覚がありますか?」
と問い直します。
もし、
「はい、たしかに私は存在します」
と答えたら、
「だから神は存在するのです」
「なぜなら〈あなた〉が神だからです」
と言います。
ヤケクソのようですけど、これしかありません。

【※以下は何度も繰り返し言っていることなので、見なくても結構です】
私たちはみな神の子です。
神の側面、分霊です。
私たちの霊の集合体、母体、本源が神です。
なので、神と呼ばなくてもよいのです。
神を「信じる」のではなく、「知る」のです。
自分がどういう状態かではなく、〈自分がいること〉が神秘的なのです。

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