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矛盾の上に [中庸]

先月の22日(日)に高校の同級生Nが亡くなりました。
時の経過を感じざるを得ません。
私を含めた5人の仲間は、高1の時に同じクラス(1人は高2の時)だった者同士で、卒業後、それぞれ別の大学に行ってもよく一緒に遊びに行き、就職してからも毎年旅行に行きました。
彼とは3年前のゴールデンウイークに4人(あと1人は引きこもり)であった時が最後で、その半年後に難病に罹り、肺移植などをして(あとで知った)治療を受けていたのですが、幸い飲酒以外は普通の生活ができて会社にも行っていたので、それほど心配はしていませんでした。
ところが、今年4月に仲間の1人から電話があり、Nは昨年の秋から入院していて会社に行っていないことを知らされました。
というより、Nの奥さんの話ではもう意識がないとのことでした。
ひと月後に連絡があり、「話せないけど意識が回復した」と聞いた直後にまた連絡があり、容態が急変して亡くなったことを知らされました。
あいにくのコロナ過で、病院は受け付けないので見舞いにも行けず、葬儀は昼間だけなので連絡してくれた一人以外は私ともう1人は行けず、結局何もできませんでした。
私としては気が済まないので、彼の家に佐賀県産の完熟マンゴーを送りました。
当然奥さんから電話があり、出られなかったので、翌日授業の合間に折り返し奥さんに連絡し、携帯電話で30分ほど(えっ?)話してしまいました。
(私にはこんなことしかできなくて申し訳ありません。彼はやり尽くした、熟したんだということを込めて『完熟』にしたんです…等々)

上述したように彼とは高1の時に同じクラスにいたのですが、その4月の初めに1人ずつ自己紹介したとき、彼の話し方が明らかに異様で、鼻にかかった声でひと塊を早口でクシャクシャッと、間が空いてまたひと塊を早口で一気にという具合で、誰にとっても聞き取りにくかったわけです。
ということで、間もなく周りからからかわれるようになりました。
ある日、周りのみんながからかうばかりで、誰もまともに話をしようとしないので、彼は両手で顔を隠すように机に伏せて塞ぎ込んでしまいました。
見かねた私は、彼の前の不在の席の椅子に逆向きに座って話しかけました。
はじめ彼はまたからかいに来たのかと思い込んでいる様子でしたが、すぐにそうではないと覚って、私と真面目な話をしました。
早速その日、方向が同じということもあって一緒に帰り、東西線の中で、彼が幼少の時から『ドモリ』だったことを打ち明けられました。
「これでも小さい頃から比べるとマシになったんだよ」
と言った通り、その後は歳を重ねるごとに気にならなくなりました。
その後のことは上述の通りです。

就職してからのことですが、会うたびに彼は時折哲学的な言葉を発するのを耳にしました。
「なぜ在るのか」
「観測者による」
まあ、宇宙論や量子力学などその時々の話題に興味があったのでしょう。
そして、これが今回のテーマなのですが、20年近く前に沖縄に行った時、レンタカーの中で私と話していて、
「社会は矛盾の上に成り立っている」
ということで合意した後、私が、
「中には矛盾を認めない奴がいるからねえ」
と言うと、彼はすかさず、
「矛盾を認めない奴はもはや社会で通用しないよ」
と返しました。【※】
学生時代は政治や経済に関心があり、「自分で世界を動かしてみたい」と言っていましたし、歴史、特に日本史の戦国時代に精通していて、「戦争のない時代はつまらない」とさえ言っていたくらいで、私からすれば彼は完全に地上的な人間に見えました。
ところが、30代になってから変化が感じられて、『ガンダム』を「他のアニメとは違う」と支持するなど、「力には力」以外のことに関心が移っていったようでした。
要するに、昨今の日本に蔓延っている「野暮」あるいは「勧善懲悪」といった地上的な白か黒の価値判断に疑問を抱いていたのです。

戦争をなくそうと言って反戦運動をいくらしても、それは疑似平和であり真の平和(平穏)は得られません。
差別はいけないと言って一方的に「平等」を謳えば、それは悪平等であり、社会に力が出ず、「和」は生まれません。(賢人は和して同ぜず、愚人は同じて和せず)
束縛はイヤだと言って自由を追求すれば、すべてが自己責任となり、人を殺すのも自由となり、「社会=人間」そのものが解体します。
専制と民主も然り。
日本では怠惰はよくないと言って勤勉を善としますが、ヨーロッパではむしろある意味で怠惰を善とします。

地上的な善悪はその土地や時代で変わることもあり、秩序を保つための方便として決めておくだけであって、地上的な「善」を追求することで平和や幸福はけっして訪れないのです。

ここ3年間会っていなかったので確証はありませんが、彼には「SDGs」も滑稽に思えたことでしょう。
人間は「矛盾の上」に生きているのであって、矛盾がなければ社会で生きていません。
それを認めることが中庸の前提であり霊的に生きる道の第一歩なのです。
彼はそれに向かったというだけで充分に人生の収穫があったと言えます。

【※】3年ほど前、埼玉県のある私立中学で講師をやっていた時、いやに気になったことがあります。
中2の授業で、どうやら生徒たちが、とにかく「矛盾」というものがあってはならないみたいなことを植え付けられていたようなのです。(悪いという価値が付随しているせいか)
私はすかさず、
「矛盾があるから社会人なんだよ」
「矛盾がなかったら社会人じゃないよ」
「そんなこと社会科の時間に教わらなかったのか?」
と声を荒げて言いました。
時間と教科の都合で詳しくは説明しませんでしたけど、これはかなり重症だと思います。
言ってもわからないのか、言う人がいないのか。
これに関しては、18年前の拙著『本物の思考力』に載せてあるので紹介します。
社会人の義務といえば、教育と労働と納税です。
いずれも本心とは裏腹のことです。
なので、好きでやっている仕事とか研究は除きます。
中学生にとってはこのうち主に「教育」ですが、ほとんどは必要性で仕方なくやっていると言えます。
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社会人である限り、《思っていること》と〈やっていること〉は矛盾しているはずです。
そのうち、[言っていること]が〈やっていること〉が一致している(自分を偽っている)社会人がオトナであり、矛盾している(不平不満を言う)社会人がコドモです。
オトナは嘘つきでコドモは正直だと言われるのはこれです。
いずれにしても、3つのどれかが矛盾しているのが社会人です。
ところが中には、どれも矛盾していてはいけないというとんでもない人がいます。
処世術として「オトナになれ」と諭すのならまだいいでしょう。
でも、《思っていること》も矛盾を認めないというのは完全な間違いです。
そういう人が実際に学校組織などにいて社会人のつもりでいるのですから恐ろしいのです。〔特に理系の人に多くいます。[→]ユリゼンの徒(しもべ)〕
本当に今の日本はおかしくなったと思います。

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