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いま日本で何が起きているのか? [霊的存在]

いま、日本は暗いニュースで溢れて、嫌になっている人も多いと思います。
何が原因なのでしょうか?
どうすればいいのでしょうか?
おかしいとは感じているでしょうけど、何がどうなのかわからない人も多いと思います。
どうやら、外部ではなく、人の内部に原因がありそうです。
私に言わせれば、思考に原因があります。
対策とは解決ではなく思考の「明透化」、そして「解消」です。

★では、いま日本で何が起きているのか?
例を挙げるとこうです。
ゴルフ場のティーグラウンドは男性に比べて女性用は前にあります。
れっきとした〈差別〉です。
男女の身体的特性に合わせた「必要な差別」です。
ところが、女性はむしろ優遇されているにもかかわらず、
「女性を侮辱している」
と取る人がいるのです。
そして、それに反応して騒ぎ立てる変な第三者、その中に影響力を持つ要人や為政者がいます。
これが今の日本のすべてです。

〈平等〉という劇薬の副作用であり、〈女尊男卑〉になることさえあります。
問題にしなくていい差別や、必要な差別に対してすら、
「どう思ったか」
を問題にする輩が多いのです。
厄介なのは、そういう輩は、
【悪く思うこと】が【差別】だと言うのです。
その輩は、人が良かれと思ってした行為に、『負の価値』を勝手に付随させて非難するのだからたまったものではありません。(もちろん「思う」だけなら「問題」にすることはないのですが)
おまけに、「ティーグラウンド」を男女に分けたこと自体は【差別ではない(区別だ)】と言い出すのですから呆れます。
もっとも、話にならないから取り合わずに放っておけばよいのですけど、そういう輩に乗っかって一緒に問題にして非難する〈性善説〉を履き違えた左系の変な「第三者」がたくさんいるのも事実です。
この第三者が、いつも言う「何も考えていない人」です。
そういう輩が活躍すると、為政者などの影響力のある人たちが動き出し、まともに【言葉】が使えなくなり、世の中が息苦しくなり、他人と関われなくなるのです。
これでは社会が硬直しやがて崩壊します。
そして、賢人は隠遁します。
地上の法は、何かトラブルが起きた時にスムーズに「解決」を図るために「予め」決めておくものであって、けっして起きる前から「意識」して行動するためのものではありません。
地上の道徳は、トラブルがなるべく起こらないように、予め用意した偏った思想であって、むしろ「無意識」に行動できるのが望ましく、単に秩序を保つための方便(仮のもの)だということを省察する必要があります。
それがわからないのが(考えていないのが)、今の日本人の多数派です。
地上の〈仮の掟〉に帰依してしまって「野暮」が蔓延しています。
〔*言い訳をしてはいけない、プライド(自尊心)があってはならない、と「使われている者同士」が言い合っているとか、キリがありませんが〕

★今年の正月に古い友人の所へ行った時のこと。
法学部出身の友人が、未必の故意など、お得意の話をしていた時に、私はトイレに行く途中で、彼に問いかけました。
「死刑執行人は殺人罪にならないの?」
すると彼は、
「それは、手術の時に執刀医がメスで身体を切るのと一緒だ」
と答えました。(なぜ単刀直入に「立場が違うから」とか「はじめから偉い人がいなければ社会が成り立たないから」と言わないのか?)
私がトイレに行くので、途切れてしまいました。
その続きはありませんでしたが、彼に訊くつもりでした。
「じゃあ、執刀医は傷害罪にならないの?」
「なんで?」
おそらく、彼はこう答えたでしょう。(答えたがらないかもしれません)
「大義名分だよ」
そうです。
死刑も禁錮刑も、物質的には「殺人」や「監禁」と同じ行為です。(「いや、死刑は殺人ではない」と言い張る人もいます)
殺人や傷害、監禁も、物質的に同じ行為であっても、立場によって全く別の評価(言い方)になるのです。
つまり社会には「義」において必要な「悪」があるわけです。
ついでに言うと、「はじめから偉い人」がいなければ社会は成り立たない(秩序を保てない)ということです。
それを認めることです。(民主主義病、悪平等に冒された日本人には抵抗があるようですが)
「差別」も同じことです。
〔もちろん、秩序を保つことは平和や人間の幸福のための方便であって、平和や幸福そのものではありません〕
それがまったくわからない人が日本人にたくさんいます。
というより「何も考えていない人」が溢れています。
「平等だ!平等だ!・・・」
と地上的思想(小善)の一点張りで。(偉い人はみんなが決めるんだ!・・・と左翼系が)
その根源はやはり絶対的客観的なもの(適切か不適切かなど)があるという前提で思考や議論を始める「唯物論(実在論)」です。

*今、性加害が取り沙汰されているけど・・・。
両者の言い分が食い違い、「訴訟合戦」に及んでいます。
これもまた、ひとつの物質的事実に対して、特に初めに訴える側に、〈意識〉においても客観的絶対的なものがあるという前提(唯物論・実在論)が頭にこびり付いているということの顕れです。
〔*進化論を絶対的なものと見なし、生物が進化して人間が生まれた(物質の運動から知性が生まれた)というのは「事実なんだから」と言い張る共産党員を思い出します〕

★〔ネットの記事〕
【米兵に体を売る「パンパン」を笠置シヅ子は差別しなかった…夜の街に立つ娼婦とも友人づきあいをした情の深さ】
〔ある人「Iさん」のコメント〕
職業に貴賎なしと言いますが、昔も今も「大あり」だと思いますけどね。(個人の感想です)
〔それに対する私のコメント〕
自分が思うことはともあれ
「語り得ること」
客観的絶対的なものがあるとするのは
「語り得ぬこと」
ただそれだけ。(内側から境界付ける)
〔▲9 ▼0〕
*この場合も、「差別しなかった」ではなく、「侮蔑・排斥しなかった」と言うべきでしょう。
「パンパン」という職業に対して、誰でも何らかの思い(善悪・優劣などの価値)はあるはずです。
現象界・差別界ではともあれ「差別」をしているのです。
「言葉」で分けているのですから。
でも、それに対するその人の思いや扱いは人それぞれであり様々であって、優劣・貴賤・善悪およびその度合いはその人次第です。
そして、くどいようですが、扱いによる「実利害」が生じた場合にのみ、当事者同士が問題にしたり訴えたりして、裁く人が裁くことがあるだけです。
コメントの「Iさん」は、「個人の意見です」と言いながらも、自分が貴賤を決めているというよりは、客観的絶対的な貴賤がある、言い換えれば「(唯物論的に)職業そのものにはじめから貴賤が付随している」という前提で「大あり」と言っているような表現なので、私がコメントしたのです。
つまり、Iさんは「内側から境界付けていない」のです。
語り得ぬことを語っているのです。
この国に唯物論(実在論)的思考が蔓延しているようです。

※『5次元世界への超扉』の著者エハン・デラヴィ氏が、
「日本人に必要なことは、唯物論(実在論)を克服することだ」
と言っているように、とにかく、客観的絶対的なもの、特に「客観的絶対的時空」を前提にしないこと、早急にそれらを超越して、高い視点、霊的視点を設けることが必須なのです。

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無償の愛 [霊的存在]

年末年始も病院は面会可です。
昨年6月頭から私は毎日、一日も欠かさず母に会いに行っています。
7カ月です。(ギネスブックに載るのではないか?)
もちろん母は調子の良い時と悪い時があり、月に一回ぐらいは感染症で熱が上がり、3日間は意識朦朧で話しができません。
今は食事も一日三食から一食へ。
少しづつ衰弱していきます。
母が入院してから1年と2カ月が経ち、途中、3月の下旬に老人ホームに移って10日でまた別の病院に救急車で搬送されて入院したのですが、実を言うと救急車を待っている間の応急措置のとき私は一度覚悟しました。(これで終わるのかな・・・)
以来私は9カ月間覚悟している状態です。(えっ?)
退院して家に帰る可能性も施設に移る可能性もなくなりました。
それでも私は、仕事の帰り、あるいは自宅から、猛暑でも極寒でも雨でも風でも、暗くなっても、病院に通い続けています。
面会の時間は30分と決められています。
その限られた時間で何をするかと言えば、まず、「抑制」という点滴を外さないように両腕を縛っている輪っかの紐を緩めて顔が痒い時に掻けるようにしてあげてから、枕を外して頭を抱えて、ブラシで髪をとかし頭の痒みを取り除いてあげます。
母は意識がはっきりしている日は必ず、
「ああ、気持ちいい」
と言います。
それから、足のマッサージをします。
足三里、三陰交、足裏・・・。
最近は退屈しのぎにと思って、最後にテレビをつけます。
4人部屋なので、イヤホンを耳に付けます。(外れないように、粘着テープを貼ります)
もちろん、そうしている間に会話をします。

私が到着すると、母は決まって、
「ああ、帰ってきたの?よかったぁ」
「やっぱりあなたがいるといい」
「どこ行ってたの?」
などと言います。
私は当然、
「自宅から来たんだよ」
とか
「仕事の帰りだよ」
と事実を言います。
途中の会話はその日によって異なりますが、いちばん多いのは以下です。

母:「死んだらあなたと会えなくなるのがイヤ」
「一緒にあの世へ行こう」
私:「一緒には行けないけど、行く所は一緒だからね」
「あとで一緒になるよ、20年かな、わからないけど」
「それより、先にあの世へ行った人たちがいるでしょ?」
「田島のお母さんやお父さん、伸悟叔父さん、竹下の伯母さん、おとうちゃん、おかあちゃん、・・・」
「そういう人たちが導いてくれるから、言うこと聞いて、ついていくんだよ!」
「あの世ではみんな一緒、というより一体だから」
「絶対にこの世に未練を残しちゃだめだよ」
もっとも、すぐ忘れるので、何度も繰り返し言います。(何十回言ったことか)
時間が来て、帰ることを告げると、決まって言うのです。
母:「どこへ帰るの?」
私:「自宅だよ」
母:「自宅って?」(母は病院にいる自覚がないので)
私:「ここは病院だよ」
母はとりあえず納得すると今度は、
母:「自宅に誰かいるの?」
私:「誰もいないよ」
母:「じゃ、つまんないじゃないの」
私:「つまんないって言ったってしようがないよ、誰も来てくれないんだから」
「そうじゃなくて、病院の決まりがあって、面会の時間が30分って決まっているから」
母:「ああそう、私も一緒に行こうかな」
私:「あのね、一緒に自宅に行っちゃうと、すぐ「キューッ」ていっちゃうの」
「看護師さんもいないし、お医者さんもいないから、何かあっても対処できないんだよ」
「大金持ちなら、専属の医者と看護師を雇って、一緒にいられるかもしれないけど、うちは大金持ちじゃないから」
私は何度もそう言い聞かせてなだめます。
それで、最後に、
私:「また明日来るからね」
「毎日来てるんだから」
「必ず来るんだから心配しないでね」
「もうこれしか方法がないんだから」
「これが最善の策なんだよ」
「というより、これがすべてなんだよ」
母:「うれしい・・・」
そう言って、なんとかその場から離れます。
帰り際に、看護師さんに、
「テレビがつけっぱなしなのでよろしくお願いします」
と断って、病院を離れます。

私は時々自分の日課を振り返ります。
毎日こうしていても地上的には進歩はなく、母が元気になって退院することはないし、私自身も明るい未来があるわけでもありません。
傍から見ると、カラクリ時計の人形のようにただ決まった行動を繰り返すだけです。
それに、終わったら終わったで、厳しい現実が待っているでしょうし、いずれは私も老いて死を迎えます。
その中で唯一、生産的で「生きている」と感じるのは、
「母と会って話したり髪をとかしたり足をもんだりすること」
です。
今の私にとっては、それが「すべて」なのです。
「私の前半生では、母が私に愛を注ぎ、母の後半生では、私が母に愛を注ぐ」
よく言われるのは、結婚して家庭を持って、
「家族に《無償の愛》を与えることによって《霊的進化》を促す」
ということですが、私には妻子がないので、その代わりが母だということです。
「肉親だから出来るのではないのか?」
と思われるかもしれませんが、無償であることことに変わりはなく、それが他の人や他の事に対する「愛」に繋げるようになれば、更なる霊的進化が望めるはずです。
いわゆる《スーパーラブ》です。
それがどの程度のことかわかりませんが、『ヘミシンク』の坂本氏によれば、《スーパーラブ》を実践できなければ、輪廻を克服することはできないと言います。

7年前にM親分がうつむき加減に私に残した真摯なメッセージ、
「お母さん(を)、大切にしたほうがいいよ」
の意味がやっと分かった気がします。
人間とは、
「自分が周りからどれだけ勝ち取るか」
ではなく、
「自分が他人や世の中にどれだけ施すことができるか」
ということです。
それが人生なのだということを、私の今の体験は教えてくれます。

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神の存在の〈証明?〉 [霊的存在]

いきなりですけど、
「あなたがロボットでないことを、私に証明してください」
と、ある人に言われたら、あなたはどうしますか?
証明出来ますか?
〔またまた難しい話がオッパジマッタってか?〕

ネットを見ると、物理学者たちは、未だに地球外生命を発見しようと、他の星を探索しています。
でもなぜか、地球に環境が近い星だけにしか興味がありません。
そのへんをもし私が指摘すれば、人はたいがい、
「地球型生物ばかりでなく、まったく違う構造の可能性もあるだろうと思うだろうが、それは見当をつけるのが難しいから、(プロの学者の事情もあって)可能性の高い地球型を探すというのが当然だ」
と答えるでしょう。
とりあえず納得がいきます。
しかし、論点はそこではないのです。
地球に環境が似ているところを探すということは、とりもなおさず、
「地球の物質と環境が《生命》を生んだ」
ひいては、
「地球の生物の進化によって、人間(知性、意識、精神、自我、霊)が生まれた」
という『前提』で、探しているということです。
(例外的に、霊的存在が宿るに適する身体や環境を探すと考える人もいます)
それは、「唯物論」が蔓延しているということに他なりません。
ひいては、その根源に当たる「実在論」(時空が絶対的客観的にあって、それを見ている、主客分離)に陥っていることを意味します。
このことは根っ子が深く、これを克服しないことには、何も進歩がありません。
〔【実在論】については、当ブログの『実在論』を見てください〕

よく、ある人が臨死体験をして、自分が肉体ではなく《霊》だとわかったということが度々報告されます。
ある脳生理学者は、自分が臨死体験をしている間、脳の機能が停止していたことを知り、肉体の働きと自分の存在は別だと覚ったといいます。
さらにその脳生理学者は、臨死体験中に出会った若い女性が、幼い頃に生き別れて若くして亡くなった妹と判明し、死後の世界の存在を確信したといいます。

でもそれは、どんなに言い張っても「他人」の体験です。
聴く側はどうあがいても、それを「信じるか信じないか」だけに留まります。
自分という存在が《霊》であることは、神の存在と同じく、唯物論を前提とする「存在証明」とは無縁であり、いくら自分が自らの臨死体験で覚っても、他人を説得できません。
霊や神の存在は【自覚】でなければ意味がありません。
そうかと言って、誰もが臨死体験をして生還できるわけではありません。
誰でもヘミシンクで成功するとは限りません。
では臨死体験をしないで【自覚】することはできないのでしょうか?
実はその唯一の方法が《省察》なのです。
理性によって、霊や神を知る道です。
特別な修行は要りません。
自分の思考を反省するだけです。
そして、その手助けをするのが私の仕事です。

「《世界》とは「自分の世界」のことである(ヴィットゲンシュタイン)」
「《自分》とは「自分の世界」のことである」
すなわち、
「自分の身体から宇宙の果てまで《自分》である」
「あなたの身体から宇宙の果てまで《あなた》である」(主客合一、絶対矛盾的自己同一)
「あなたも私も、はじめから在る」
エドガーケーシーのリーディングに、
【ある時点で、神はご自身の中から一斉に魂を放出された。どの魂が新しく、どの魂が古いというのではない。同時に宇宙で存在を得た】
【我々自身が小さな創造主そのもの、クリエーター(創造主)である】
とあります。
あなたも私も、それぞれ一つの世界を形成し、神〔大霊〕の側面であり、独立しているのですが、一体であり、神との共同参画の一翼を担っているのです。(ワンネス)
こういうことは、特別な人たちに頼らなくても【省察】することで覚ることができるのです。
私はひたすらにそれを勧めます。

存在とは〈自分(その人)にとっての存在〉です。
誰にとっても存在するという絶対的客観的存在は、語り得ぬことを語る【顛倒妄想】に他なりません。
社会的活動をするために仕方なく『実在』としているだけです。
〈妄想〉があって社会が成立しているのですから、〈妄想〉があってはならないとは言いませんが、物事を理解するには、〈妄想〉であることを《省察》する必要があります。

「生命は地球の物質から生まれたのではない」
とか、
「我々人間のような知的生命または霊的存在は生物の進化から生まれたのではない」
「はじめから在るのだ」
などと言うと、唯物論者たちは例外なく、否定する根拠もないのに否定します。
そこで、彼らに、
『ではあなた自身は、地球の物質から生まれたと思いますか?』
と問い掛けると、本当はそう思わないのに、
「その疑問を解決するために、どうしても神の存在を認めたくなるのだろうが、云々」
と、敬虔な人に向かって、頭が弱い人が「在りもしないもの」に拠り所を求める愚行だと決めつけて言うのです。
そして、最後には、
「では、どうぞ神の存在を証明してください」
と言うのです。
まったくピントのずれた言動です。
まったく困った人たちです。
なぜ困った人なのかというと、《神》とは何かが分かっていないからです。
また、〈存在証明〉とは何かが分かっていないからです。
根っ子の深い、凝り固まった〈実在論者(唯物論者)〉です。
そもそも〈存在証明〉というのは、誰にとっても客観的に存在するものを示すことですから、「実在論(唯物論)」という【妄想】を前提とするのであって、《神》や《霊》とは相容れないのです。
なぜなら、〈実在論(唯物論)〉という妄想を克服した暁に、《霊的自覚》すなわち『神や霊』を「体感」できるからなのです。
神や霊は「証明」ではなく、【省察】によって体得するのです。

くどいのですが、言ってみれば、
「神(霊)の存在を証明してください」
というのは、語り得ぬことを語ることであり、(ロボットに自我がないと仮定すると)
「あなたがロボットでないことを私に証明してください」
「あなたの歯の痛みそのものを、今すぐ私に体感させてください」
と言うのと同じなのです。
たとえば、あなたが腹痛の時であっても、他人から、
「本当に腹が痛いのか?」
「そう言っているだけじゃないのか?」
「おまえはアンドロイドかもしれない」
と言われたらどうするでしょうか?
いくら言っても、言い負かすことはできないのですから。
それでも、あなたは自分に意識があることは自覚しているはずです。
でもどうやってそれを他人に証明するというのでしょうか?
出来るでしょうか?
〈証明〉はできません。
〈証明〉ではなく、《自覚》あるのみです。
「神(霊)の存在を証明してください」
という人たちは、そもそも《神(霊)》とは何かがまったく分かっていないということです。
確実に言えることは、外界のもの、どこかの空間を占めて、「自分の外」にあるものと思っているということです。
(光あれ、エイ、ヤーと言って・・・でもそれは神ではなく魔人です)
それは、「外界」という〈時空〉が自分の視点に関係なくはじめから前提としてあるという〈実在論〉(唯物論)そのものなのです。
そういう人たちのうち、神や霊を信じるという人が「(神)盲信者」です。
信じない人というのが「唯物論者」と言われる人です。
神盲信者は神がいる方に賭けているだけであって、頭の片隅に疑いは残ります。
「でも、居るか居ないかのどちらかであって、自分はいると思うから、神を拝んで救われるんだ」
という姿勢なのです。
まったく心得違いです。
聖人たちの言う《神(霊)》の存在とは、〈信じる〉(賭ける)のではなく、《知る》(体感する)のです。
一人ひとりが独立した霊であり、神の分霊であり、自由意志を持ち、神の側面を担い、神と世界を共同制作しているということです。
人間のレベルの霊にだけ、自由意志が与えられています。
〈人間に自由意志があるとすると、その人の未来を神は知らないことになり、神の全知全能性に反するのではないか〉
と、以前私は思ったものですが、自分が神の側面であり共同制作者だとすれば、合点がいきます。
肉体の死後、集合霊に組み込まれても、自分という実体(アートマン)はあり続けます。
(*よく、断見の人が輪廻転生を否定するときに「流転する」ということを理由にしますが、「何」が流転するのか(?)という主語の「何」が不滅だからこそ流転の意味があるのであり、不滅なものがなければ、単なる「別個」のものにすぎません)
【人間に与えられた特権の中で最も重要なものは、自由意志だ(エドガーケーシー)】
【Be yourself, yet One with ALL「あなたはあなたという自分を失うことない、しかしながら全体とひとつである(エドガーケーシー)」】
【私たちは創造エネルギーそのものであり、どんな人にも自分の核自我(コアセルフ)がある(ロバート・モンロー)】
【★】理解し難い『モナド(単子)』も、このように『実体(アートマン)』としてみれば、辻褄が合います。

繰り返しますが、インドの修行者に、「神はいるか?」と聞くと、自分の胸を指して、「ここに居る」と言います。
神は各人の中にあり、物質的に見れば、すべての人を包み込みます。
時空における森羅万象は神の反映です。
《内包》かつ〈外延〉です。

いわゆる「異星人」は、我々の同朋であり、
「人類」ではなく、
【人間】という霊的グループなのでしょう。〔フォーカス35〕
今の地球人類は、もともと他の星から来たもので、もっと『波動(物理学者は認めませんが)』が高かったのですが、〔ムーの頃〕訳があって人類に入り込んで〔アトランティスの頃〕波動が低くなったようです。
結果的に、他の星の宇宙人は今の地球人より波動が高くて普段は見えなくなっているけれど、まれに遭遇する「宇宙人」は、波動を落として人類に接するため、見えるということなのでしょう。
よって、
我々人類は地球で生物が進化して生まれたのではなく、他の宇宙人もその星の生物が進化して生まれたのではないようです。(他の天体で微生物を探しても波動が違うから無駄です)
【人間】は最初から「在る」のです。
〔ある時点で、神はご自身の中から一斉に魂を放出された。どの魂が新しく、どの魂が古いというのはない。同時に宇宙で存在を得た(エドガーケーシー)〕

〔【★】HITOPEDIA[ヒトペディア]より抜粋〕
ライプニッツの哲学において、あらゆる事物を構成する究極的要素となる、分割不可能の単純な実体をさす。モナドは、ギリシア語で一をあらわすモナスに由来し、能動的な活動性を持つ力の中心で、空間的な広がりを持つ物体的な原子(アトム)とは異なる。モナドの能動的な力は、物体を表象する精神の力となってあらわれ、モナドは、表象の明晰によって、暗い無意識な無機的物質から、明るい意識を持つ理性、さらには最高の神までの段階がある。モナドは、外部と交渉を持たない「窓のない」独立した実体であるが、個々のモナドの表象が一致して宇宙の調和的秩序が存在するように、神によってあらかじめ定められている(予定調和)。無数のモナドは、独自に全宇宙をみずからの内にうつし出す生きた鏡。宇宙全体を表象する小宇宙にたとえられる。

ライプニッツによる実体とは、単純にして広がりのない、不可分なものであり、その本質は作用する生き生きとした力であるとした。それはあらゆる有限的事物の根底に存在し、そしてみずから働くものであある。この点でデカルトやスピノザが考えた実体が単なる幾何学的・機械論的であったのに対して、ライプニッツは、生物学的・目的論であるといえる。そして、ライプニッツはこのような実体をモナド(MONADE)と名付けた。

「すべての被造物が各々の被造物と、また各々の被造物が他のすべての被造物とこのように結びつき対応しあっているということは、それぞれの単純な実体が、他のすべての単純な実体を表出する様々な関係をもっていること、したがって、単純な実体は、宇宙を映し出す永遠の生きた鏡であるということを、意味している。」

【モナドには窓がない】
モナドは無数に存在して全宇宙の根本本質になっている。一切のものはモナドによって成り立っているが、原子(アトム)のように空間的に満ちているものではないく、空間規定を超えた非物体的な実体、いわば形而上学的な点である。空間的な物体はモナドの働きによって生じた存在によって成り立っている。モナドは不可分で独立しており、永遠的なものであって生成・消滅することはできない。また、それは非空間的であるから、外部から影響を受けることができない。従ってモナドはそれぞれ独立的であり、相互の間には何ら因果関係が存在しない。「部分もなければ、ものがでたり入ったりできるような窓もない単純な実体であり、モナドはただ自己自身の働きによってその諸状態を変えていく。

【モナドは宇宙全体を映し出す鏡】
モナドの本質をなす働きとは、精神の働きからの類推による表象である、といえる。そしてその表象されるものは宇宙全体である。モナドは決して同一の仕方で宇宙を表象するのではなく、それぞれの立場からあるものは明瞭に、またあるものは、不明瞭に宇宙を表現するのであるが、とにかく宇宙全体はモナドの中に表現されているのであり、モナドは宇宙の全体を映し出している鏡であるといえる。

【神と予定調和】
モナドは相互に独立的であり、それぞれ自己の内部のちからによって表象を発展させてゆくのであるが、独立的なものが相互に対応するように調和させられている。これこそが神の働きによるものであり、神が予め各々のモナドをしてそれぞれの立場から宇宙を反映するように定めておいたからこそ、各々のモナドをしてそれぞれの立場から宇宙を反映するように定めておいたからこそ、各々のモナドの間には何の作用も属しないにもかかわらずお互いに調和を保っている。宇宙が神に寄って創造され、予め『予定調和』があるとすれば、世界に悪はなく最善でなければならない。悪を形而上学的悪、自然的悪、道徳的悪の三種類にわけているが、(*)このような悪は積極的な意味を持たず、完全性の欠如にすぎない。完全性の欠如により悪があるかのように思われるが、全体としては最善なのであり、(⁑)小さな悪はより大きな悪を防ぐべきものである。

(*)荀子の『性悪説』と孟子の『性善説』に相当します。
(⁑)日月神示の「ミロクの道は悪を抱き参らせてこそ進む」に相当します。

みなさんどうでしょう?
ネット民を見てわかったのですが、世間に蔓延る〈唯物論(実在論)〉に疑問を抱く人は意外と多いのです。
【自分=自分の肉体】ではないことを漠然と認めている人は多いのです。
半数を超えています。
ところが、それをどう表現したらいいのか、また唯物論者をどう説き伏せたらいいのかがわからないでいるようです。
このまえ、教え子の女生徒たち数人に、試験前の次週の時間に、《神》について上述のような《産婆術》を披露したしたところ、
「ハッセー、イエスのレベルじゃないの?」
「こんな所に居ちゃいけないよ」
「聞けて良かった」
なんて言って、感動していました。
ここに来てくださる皆さんにとっても、少しでも力になれば幸いです。

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霊的人生と結婚(2) [霊的存在]

私が幼少に頃、母に尋ねました。
「人はみんないつか死んじゃうのに、どうして生まれてきて生きてるの?」
すると母は、
「死ぬまで生きるのよ」
と答えるだけでした。
今思うと、最近聞いた『禅宗の坊さんの言葉』のようです。
周知のように、それ以来私は「考える人間」になったのです。
今やスピリチュアリズムに則って霊的行動を意識するまでになりましたが、どちらかというと「少年」すなわち「男」の思考や行動なのでしょう。
母はやはり「女」なのだと思います。
言ってみれば、「女性の悟り」でしょう。

4月6日、3カ月以上前のことです。
老人ホームでの夕食中、母は急に身体が震え出して、職員が救急車を呼び、その間手当てをしました。(高熱になり、嘔吐し、そのとき私は覚悟しました)
救急車が到着してから30分かけて探し当てた病院に緊急搬送された後、一時の危機を脱して、酸素マスクが不要になった頃合いに私に言うのでした。
「あなた、私より長生きしてね」
私は少し笑いながら、
「男はね、だいたい80歳前後なんだよ」
「95歳まで生きないよ」
と言いました。
しかし母は何を思ったか、
「それじゃ、あと5年ぐらい?」
と呟いたので、私は咄嗟に、
「わからないよ」
と答えて誤魔化しました。
長生きすることにどうしてこだわるのか?
何の意味があるのか?
そのときはよくわかりませんでしたが、あの幼少の時の母の返答と重ね合わせると理解できます。

翌日私が、
「またしばらく会えないけど元気でね」
と告げ、母が、
「どうしてよ」
と声を張り上げ、姉が、
「病院だから」
と説得させてその場を離れました。
半月が経って、担当医による説明を受け、短い時間ながら面会した時は、母は少し元気がなくなっていました。
担当医によると、本当は今日、施設の提案をするはずだったのですが、今日になって急に感染の数値が上がってしまったので、これからまたもっと強い抗生剤の治療をするとのことでした。

すっかり反応が遅くなった母は、私の顔をしばらく見つめた後、ボソッと呟きました。
「私の宝…」
けっして親孝行したと言えない私は、母にとっては自慢の息子ではなくとも宝であることには間違いないようです。

入院する前から母は私に何十回も繰り返し言っていました。
「あなたが生まれた直後に占い師に、『この子は必ず貴女のためになりますよ』って言われたけど、当たったねー」
私はそれに対して、
「それは単に九星気学の五行の関係で言ったんだよ」
「(母の)九紫火星と、(私の)三碧木星が【相生】の関係だから」
などと、少し興覚めした言い方で納得させたのですけど、母はすぐ忘れてまた言うのでした。
病床にあっても、常の私たち子孫のことを気遣っていて、
「あなたが健康であればそれでいいの」
と言います。

それでまた2週間後に来ることになりました。
そして2週間後、担当医から、
「あの直後にひどい下痢を起こしまして、どうもまったく別の菌が入り込んでいたらしく、点滴ではなく、飲み薬で治療したんです。それで食事もとれていないということなんです。」
と説明がありました。
その後は、静脈の点滴となったのですが、貧血になり、ギリギリの数値なので、輸血をしたりと、とにかく予期せぬことが次から次へと起こるので、とても退院して施設に移る状態ではなくなりました。
おまけに、その病院は、コロナが5類になっても、面会緩和の話がまったくなく、2週間に一度だけなのです。
これでは母にとって何の励みもなくなってしまうのではないかと思い、面会できる病院に移してもらうことさえ考えていました。
それにしても、こんな状況の時に会えなくなるなんて夢にも思いませんでした。
パンデミックで面会禁止なんて、誰が予想したでしょうか?
50年後の人が聞いたら、「なにそれ?」と言って笑うかもしれません。

繰り返しますが、母は何より私(と姉)が健康でいることを望んでいるのです。
母がいなくなった後に、私が沈んでばかりいたら母は嘆きます。
然らばどうするか?
パートナーを見つけることです。(えっ?)
母も何年も前から、
「誰か(私と一緒に暮らす女性が)いないかしら」
と心配していましたし、私がある中国の女性と一緒にいたことを話すと、
「その人がいいの?」
などと言って、いつも気にしていました。

少し前までは、経済的な理由もあって、今の家を売るか貸すかして、残りの20年を辺鄙な土地の安い物件に移り住んで、悠々自適に過ごそうと思っていました。
でも、この半年余り独り暮らしをしてみて、独り暮らしが自分には向かないことがわかったのです。
以前にも言いましたが、もともと私は独身主義者ではありません。
よく、独りは自由だとか気楽だとか言うのを聞きますが、私はそうは感じません。
生活に張りがないとしか感じないのです。

30年以上前のこと、父は亡くなる3年ほど前に、私に結婚のことを聞きました。
私はそのとき、
「いや、結婚しなくてもいいよ」
と言ったのですが、父はすかさず、
「でも結局、結婚しなきゃならなくなっちゃうんだよ」
と答えました。
私はそのとき意味がよく分かりませんでしたが、今はわかります。
頭ではなく、「身体」でわかります。

単なる物質的生活でもそうです。
仕事や外出の帰り、買い物をするのでも、今までは、
「これを買って帰れば、母が喜ぶかもしれない」
とか、
「試しに食べてみようか」
「これを鍋に入れてもらおうかな」
などと、いろいろ考えることができて、新しい発見があったり、失敗したり、生きている感覚がありました。
でも今は、陳列されている商品を見ても、
「ああ、どうせ独りなんだから、買っても余ってダメになるだけだし、簡単に済まそう」
という発想になってしまいます。
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もしこの先、経済的に余裕ができて遊んで暮らせても、誰かのためにこうしようとか、何かのためにああしようというものがなければ、死んだも同然です。
著作などのライフワークはあるとはいえ、それは普段の生活があってこそ活性化するのです。
人間とは、煩わしさの中に存在の意味があるのであって、観想的な生活に中には「霊的進歩」はありません。
冒頭の『禅宗の坊さんの話』のように、5年なら5年、30年なら30年、とにかく生きている間に充実した活動することが霊的進歩になるのです。

今住んでいる家は、築43年で建物の資産価値はありませんが、屋根は2回直し、床も直し、トイレも何度か直したので、壊すのはもったいないほどで、住むには良い状態です。
駅から徒歩7分、売っても大したことありませんが、買おうと思ってもなかなか買えない家です。
物質的条件はこれだけです。
残りの20年?を損得ではなく充実したものにすべく、この家を条件に素敵な(?)女性と過ごすのが最善だと思うようになったのです。
それが母親に対する「孝」に値すると考えます。
「今(62歳)から婚活?」
「それはかなり難しいのではないか?」
「全敗記録を更新する気か?」
という人もいると思います。
確かに難しいと思います。
《異星人》の一時の気の迷いか?
ある知人にその意思を伝えると、
「ハセガワさんのことをわかる女性はいない!」
「男だってほとんどいないよ」
「わかるのはオレだけか(笑)」
とキッパリと、たしなめられました。
でもどうでしょう?
感覚的にわかるとか理解するとかということと、結婚は別ではないでしょうか?
もとより私は、どちらも期待していません。
なぜなら、男と女は「別の生き物」だからです。
考えてみてください、今結婚している男女はわかり合っているのでしょうか?
理解しあっているのでしょうか?
そうではありません。
ただ契約して、一緒に生活しているのだと思います。
私も一緒に生活する「(深い意味での)パートナー」を求めているだけです。
それでも難しいでしょうけど。
〔ただ一緒に住む女性なら、いなくはないのですが・・・例の中国女性(51歳)〕

以前言ったかもしれませんが、17年前に浅草橋のガード下のある有名な女性占い師に見てもらったとき、
「女性は見える」
「でも子供は見えない」
と言われたのです。
どちらかというと「霊視」に近い感じでした。
その女性とは誰のことなのか?
結果はどうなるのか?
わかりません。

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死に対して(2) [霊的存在]

昨年度から同じ講師室の同僚となった1歳年上の公立高校上がりの数学教師(O先生)とこのまえ話をしました。
彼は妻帯者であり、退職金をもらって今後は遊んでも生活できる身分なのですが、
「ふらふらしていてもしょうがないでしょ?」
と奥さんから促されて、本人も言うように「暇つぶし?」に働きに来ているわけで、経済的には羨ましい限りです。
それで、今年は授業がすべて午前中という時間割表を見せてもらいました。
「えっ?午前だけなんですか?」
と私が聞くと、O先生は、
「実は父親の介護がありまして」
と答えました。
私はすぐに、
「ボクも母親が看取り介護なんですよ」
と言うと、彼はすかさず、
「私は去年、母親がそうだったんです」
「施設に入って、もう(認知症で)わからなくなっちゃってね」
私はただ、
「ああ、そうだったんですか・・・」
と答えるだけでした。
昨年度O先生は、まったくそんな素振りを見せなかったので、気が付かなかったのです。
私だったら、心情を隠すことができずに周りの人たちに覚られるでしょうし、むしろ知らせるでしょう。
そこで私は思いました。
「彼はなぜそんなに気丈でいられるのか?」
考えられることは私との境遇の違い、すなわち、「自分の家庭」があるということです。

一方の私は母親と生まれた時から離れたことがなく、特に父と別居し姉が結婚してからは、40年も2人で生活してきたわけで、母親がいなくなるということは、自分の身体の半分がなくなるのと同じ感覚なのです。
こうして母親がいつどうなるかわからない状態というのは、今のこの時点でさえ、寂しいとか悲しいとか苦しいなどという言葉ではとても表現し尽くせません。
もちろん肉体の死に関しては誰にでも訪れることとわかっていますし、役目を終えて、むしろ肉体の苦しみから解放されて自由な霊界へ行くというように積極的に捉えることはできます。
スピリチュアリズムに生きる私としては、本来なら明るく送りたいものですけれど、いざとなった時に、心情的にそんなに冷静でいられる自信がないのです。
それは、私が単に霊的に未熟だからなのでしょうか?

そこで、シルバーバーチの霊訓からの抜粋を見てください。

《死を悼むということは霊的知識が実際に適用されていないことを意味します。地上生活を地上だけの特殊なものとして区切って考える習癖を改めなくてはなりません。つまり一方に物質の世界だけに起きる特殊な出来事があり、他方にそれとは全く異質の、霊的な世界だけの出来事があって、その二つの世界の間に水も漏らさぬ仕切りがあるかのように考えるその習性から卒業しなくてはいけません。》
『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.42~43

《(亡くなった人を悲しむのは)一種の自己憐憫の情です。自分自身への哀れみであり、愛する人を失ったことを嘆いているのです。苦の世界から解放された人のために涙を流すべきではありません。(中略)
大部分の人にとっては、死は牢からの解放です。新しく発見した自由の中で、潜在する霊的資質を発揮する手段を見出します。無知の暗闇でなく、知識の陽光の中で生きることができるようになるのです。過ぎ去った日々の中に悲しい命日をもうけて故人を思い出すとおっしゃっいますが、いったい何のために思い出すのでしょう。そんなことをして、その霊にとってどんな良いことがあるというのでしょうか。何一つありません。》
『シルバーバーチの霊訓(8)』(潮文社)p.64

《苦痛と老齢と疲労と憂うつとから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探究心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。その悲しみには利己心が潜んでいます。自分が失ったものを悲しんでいるのです。自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。それは間違いです。(中略)
あなた方の悲しみは無知から生じております。》
『シルバーバーチの霊訓(3)』(潮文社)p.45~46

*戦死者の遺族に対してのシルバーバーチの言葉
《死んでいく人たちのために涙を流してはいけません。死に際のショック、その後の一時的な意識の混乱はあるにしても、死後の方がラクなのです。私は決して戦争の悲劇・恐怖・苦痛を軽く見くびるつもりはありませんが、地上世界から解放された人々のために涙を流すことはおやめなさい。》
『シルバーバーチの霊訓(5)』(潮文社)p.230

内容が重なりますが、この解説を添えておきます。
【霊訓の解説文】
〔*〕霊的真理によって霊界の素晴らしさを知りつつも、現実の死別に際してこの世の人々と同じように嘆き悲しむとするなら、それはせっかくの霊的真理を活用していないということになります。知識として知っているだけで、本当の理解には至っていないということなのです。真理を手にしたものの、実際には役立てていないのです。

〈死の悲しみは、自己憐憫(憐憫)の情にすぎない〉
死別を悲しむということは、「霊的事実」に照らすなら的外れです。その意味で、大半の人々は間違っていると言えます。死別を悲しむのは死んだ人を愛しているからだと思っているかもしれませんが、そうではありません。その悲しみは、実は死んだ人を愛しているのではなくて、自分を愛しているにすぎません。“死別を悲しむ”ということは、本当は自分自身を哀れんでいることなのです。

シルバーバーチの指摘は、あまりにも厳しすぎるように思われるかもしれませんが、霊界での他界者の実情を知れば当たり前のことと言えます。死によって霊界に行った人が悲しみ・苦しんでいるとするなら、地上人がその人を気の毒に思い悲しんだとしても問題はありません。

しかし実際には、霊界に行った人は地上の苦しみから解放され、心から喜び幸せに浸っているのです。地上時代より、ずっと幸せになっているのです。かわいそうだと思うことは、無知からの勘違いです。死別を悲しむということは、自分自身を哀れんでいるにすぎないのです。

〈死別の悲しみには利己性が内在〉
死別を悲しむことは、霊的真理を知らない一般の人々にとっては当たり前のことであっても、スピリチュアリストにとってはそうではありません。シルバーバーチは、死別の悲しみの中には“利己性”が内在していると厳しく述べています。

〔⁂〕死は悲劇ではなく喜びであり、決して悲しむようなことではありませんが、愛する人の死を前にしたとき、その通りに実践できる人はほとんどいないでしょう。しかし私たちは、常に理想を目指して努力していかなければなりません。それが真理を手にした者としての義務であり、責任でもあるのです。
最後に、愛する人との死別に直面して嘆き悲しんでいる人々に向けてのシルバーバーチの言葉を取り上げます。私たちは、シルバーバーチの言葉を自分自身に当てはめて、もし自分がこうした人々と同じような状況に至ったとしても、決して死を悲しむようなことはしないと決意を固めましょう。
【終】

みなさんどうでしょう?
「肉体の死は熟した実が樹の枝から落ちるようなもので、完成であり、祝福すべきこと」
「愛する人の死を悲しむのは、自己憐憫であって、自分が悲しいだけだということ」
「その悲しみを死者に付着させるのは間違いだ」
ということであり、シルバーバーチそのものはただ「これだけ」を言っているにすぎません。

でも、『解説文』〔*〕〔⁂〕は、頭でわかっていても実行できなければ、スピリチュアリズムはモノになっていないと言っています。
「理想」としながら「決意」とはどういうことでしょうか?
無理ではないでしょうか?

それに対して私は言いたいことがあります。
仏教ではもとより肉体の死そのものを忌み嫌いません。(浄土真宗では葬儀の後のお清めの塩はありません)
死に逝く人に対しては、霊的観点から完熟を祝福し、地上での愛に感謝します。
とはいっても私たちは肉体を持っているのですから、エゴもあり感情もあります。
今まで出来ていた意思疎通が以後急にできなくなり、ショックを受けるわけです。
自己憐憫は自己憐憫として認めながらも、悲しいものは悲しいのです。
それをいけないというのは寛容性がないと言わざるを得ません。
解説文を書いた人は日本人なのでしょう。
なにか、「死を悲しむ」ということにおいて、死者に手向けることと自己憐憫を一緒くたにしている感じがします。
死を悲しむのは、
「霊的観点に立っていないからだ」
すなわち、
「自己憐憫だということを自覚していないからだ」
と決め付けているかのようです。
そして、肝心なのは、
「自己憐憫=道徳的にしてはいけないこと」
という暗黙の前提のもとに言っているように思えるのです。
「道徳的に立派なこと」がそのまま霊的成長に繋がるとも取れます。
ここにも、日本人が陥っている〈性善説の履き違え〉が見られます。
輸血の拒否や合同結婚のように、
「霊界の掟をそのまま地上に反映させる」
というのもそうです。
ここに日本における宗教がカルト化する根本原因が見られます。

以前にも紹介した友人の死に対するW・モーツァルトのメッセージ、
「彼本人を可哀想だとは思いませんが、残された家族が可哀想でなりません」
を見てわかるように、明らかにモーツァルトは死そのものを忌み嫌うことがないにもかかわらず、友人の家族に対する憐憫を示しています。
キリスト教圏では、スピリチュアリズムの要素も浸透している一方で、地上の人間の利己性にも寛容的なのです。
理想はあくまで霊界の掟であり、地上では地上の事情を認めながら、完璧ではなく乗り越えるのが、地上経験における霊的進歩だと思うのです。
《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に》
《煩悩即成仏》
これが健全な人間社会だと思います。

ともあれ、私はどう乗り越えるか?
長いので次回以降にします。

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五次元・霊界・空 [霊的存在]

霊界を体験した人の本を読んでいると、ふと量子論的に見た人の行動を思い出しました。
さらに、それが仏教の「色即是空」と結びついていると直感的に思ったので、少しだけ書いてみました。

★班長が「どこへ行きたいですか」と聞きますから、山の下の方を指して、「あそこの村に行ってみたいです」と言いました。すると「この前教えたとおり、意識をその行きたいところに集中しなさい」と言い、そのとおりにすると、また一瞬で村の前に来ていました。
〔きたよしお『(永遠の命が輝く)霊界案内』より〕

☆【『5次元世界への超扉(エハン・デラヴィ)』より抜粋】
〈共時性(シンクロニシティ)は主観的な世界と客観的な世界のあるつながりを見せてくれる〉〔ユング〕
すべては心の反映です。
自分の毎日の体験はすべて心の働きであり、それこそ般若心経の世界、仏教の世界です。
病気も、事故も、不幸も含めて、起こることは、すべて自分の心の反映です。
(※)偶然は、まったくありません。
シンクロニシティとは、そういうことを常に意識することです。
意識のレベルが高くなればなるほど、すべてが「共時性」というレベルになって、それよりさらに上のレベルになると、すべてが神になります。
・・・・・〔略〕・・・・・
何も起こっていないという心境を私たちは想像できない。
自分の心がすべてを引き起こしていることを自覚できるレベルになると、自分の行い、一つひとつの発想にものすごく責任感が生まれて、注意を払うようになります。
私が以前見かけたきれいな女性のことを思い出していたら、友達と一緒にレストランから出てくる彼女と出くわした。
それがシンクロニシティです。
「それは偶然だ」と思うかもしれませんが、そうではなく、私はそういうことに注意を払ったわけです。
・・・・・〔略〕・・・・・
〔当ブログ『5次元世界』より〕

✤物が在るか無いかは、観測されることで確定します。
これは迷える観念論者や実在論者に完全な「主客合一」のきっかけを与えてくれました。
もちろんそれより以前から、一部の哲学や宗教ではその省察を実践しています。
例えば、円周率(π)を小数で表した場合の末端の数は、未だに明らかにされ続けています。
それらは、はじめから定まっているとも言えますし、創っていくとも言えます。
主客合一やいわゆる「普遍論争の終結」は省察を実践すればできます。
でも物質となると、よほど深い悟りに達しないと難しいでしょう。
しかし、量子論は物質に関して実証してくれました。
「知覚されるまでは、神の観念(イデア・『空』)として存在している」〔バークリー・今回のNewtonから抜粋〕
〔当ブログ『量子論とスピリチュアル』より〕

《空》(くう)とは何か?
たとえば、数でいうと、一生に一度使うかどうかという数や使われる前の虚数単位iなどは、意識すれば有るとわかりますが、意識する前は「無かった」と言うと変です。
なぜなら意識に上らないことを感覚の目で「無い」ということはできないのですから。
それは理性(魂の目)で「空」というしかないのです。
意識されたものの上で、「有るか無いか(有即是無・無即是有)」は感覚で捉えることができますが、意識されるかどうか、「色即是空・空即是色」は理性で捉えるほかにないわけです。

私は30年前の著作の中で、
「多重宇宙論は、人の行動が一通りしか選べないことの省察だ」
と表現したのですが、要するに、何通りの宇宙がすでにどこかに同時に存在しているというのではなく、自分の意識が、『空』としてあらかじめ内蔵されている世界の中で、どこに集中しているかに尽きると思うのです。

繰り返しますと、量子論では「5次元世界」とか「並行宇宙」と言い、スピリチュアリズムでは「霊界」と言い、仏教では「空」と言うだけです。

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叔母さんより [霊的存在]

2カ月空いてしまいました。
理由はひとえに母のことです。
身体のことよりも、5カ月近く会っていないので、精神状態が心配で、私は仕事も生活もいまひとつ気が乗らない状態が続いているのです。

1月の初め、叔母(91歳)から電話がありました。
(叔母は母の入院する前にお金を援助してくれました)
「お母様はその後どうですか?」

・2カ月前に母が入院してから週に1回程、様子を聞いています。
・母は3日前には食事が満足にできるようになって点滴が外れて、少し元気になったようでした。
・ちょうど昨日、担当の看護師さんに連絡したときに、母の携帯電話から直接会話させてくれたのですが、そのあと非情な通達がありました。
「本当はいけないんですけど、面会できないということなので、特別に許可しているんです」
「大部屋なので、今後は携帯で話すのを控えていただきたいんです」
まあ、上からの御達しでしょうけど、厳しいものです。
・一昨日、私が出向いて面談をした退院後に移る候補の施設(老健)は、面会はリモートのみで週に1回で5分間、携帯電話は自分で操作できる人だけで看護師は補助しないとのことで、私はかなり失望していました。

それらを叔母に伝えたところ、叔母は少し間を置いてから、静かにゆっくりと、
「姉妹だから言うんだけどね、(母は)94歳でもうすぐ95歳でしょ、元気になるのが良いことかどうか・・・」
「私たち老人はね、生きてるだけでも辛いのよ」
と意味深長な話を始めました。
さらに、こう続けました。
「だって、(歩けないから)もう家に帰ってくることはないんでしょ?」
「施設の費用も高いでしょうし」
「とにかく、やるだけのことをやればそれでいいのよ」
「寒いし、こうちゃん自身、身体に気をつけてね」
どうやら金銭面の不安をも見透かされているようでした。
第4コーナーを回った私の人生を儘ならぬものとならないように気遣ってくれているのがわかります。
叔母は長い人生でまるで霊感を備えたようで、すべてを見通しているかのようです。

退院後の入居先を探していたのですが、特養は江戸川区だけで800人待、老健は「面会」ができるという条件を満たす所はほとんどなく、月一回あるいは週一回でリモートだけの所がほとんどなので、ソシアルワーカーさんから(高いけど)「老人ホーム」を提案されて、いくつか見学して、3月になってようやく「面会完全解禁」の所を見つけ、そこに決めたのです。(3月27日入居)
ただし、12日後に行った時、そこで言われたのが母の様態で、どうやら『看取り介護』になるとのことでした。
もう食も細くなって貧血気味だということで、入居先は点滴ができないため、食べなければそのまま枯れて衰弱死するだけなのです。
かといって、また病院に逆戻りなら、一定の期間延命はできますが、延命するだけであって、会えないまま終わります。
それなら、短くてもいいから、私たち家族と毎日会って最後を穏やかに過ごしたほうが悔いは残らないと思ったのです。
コロナ過でなければ、病院でも会えますし、点滴で延命という選択もありましたが、苦渋の選択となったわけです。

その後、私は姉と一緒に母が入居先で必要な道具や衣類を買ったり、母の口座を他に移すために区役所に行ったり、都(固定資産税)や水道局などいろいろと連絡したりしました。
これから、まだ「RKS」なる不明な引き落としを突き止めなければなりませんし。
しかも、先が短いという絶望の中ですから、なんとも気が重く、下っ腹と背中に重りをぶら下げたような感じです。

病院には週一回、テレビカードを届けるという口実で行き、担当の看護師さんに会って様子を聞き、看護師さんの操作の助けで、毎日携帯電話で直接母と通話をするようにしています。
また、毎朝動画か画像付きのメールを送ります。
「あと7日で会えるんだからね!」
「食べる習慣をつけるんだよ!」
老人ホームになるべく長くいられることを願ってそうするのがやっとです。

肉体の死は自然の摂理であり、人生の完成であり、霊的に言えば本来は喜ばしいことです。
もちろん頭ではわかっているのですが、修行が足りないのか、私は感覚的には素直に受け止められません。
みんなが通る道だから、宿命だからと自分に言い聞かせてはいるものの、やはり辛いものです。
せめて悔いの残らないように。
それだけです。
叔母さんの、
「やることをやればそれでいいのよ」
が、今になって耳にこびり付いて離れません。

ただ、私自身もそんな先のことではないということ。
それが唯一の慰めです。

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スターシード [霊的存在]

《スターシード》とか《ライトウォーカー》とかスピリチュアルではよく言われます。
以前もヤコブ・モルガン氏の分類で、私が1割にも満たない「改革派」に当たることを言いましたが、特徴からして、私はどうやらそれらしく、その中のプレアデス(?)のようです。
どおりで、地球上の人間世界で起きていることを見ると、やけに地べたに這いつくばっているように見えるはずです。
もしそうなら、少数派ながら地球を光で満たす使命があってこの地球に生を受けたのですから、困難が続くのは当然のことです。

今、新興宗教の2世信者が虐待を受けたとか、偏見を持たれたとか、進学を断念したなど、実害を被ったと言って世間を賑わせています。
これは新興宗教に限らないことで、組織宗教には付き物です。
私から見れば、唯物論者は宗教に携わっていても、やはり唯物論者であり、思考や行動はあくまで地上的です。

エホバの「輸血(拒否)」にしても、統一教会の「結婚」や「養子縁組」にしても、キリスト教一派の「中絶(妨害)」にしても、霊的に正しいことと正しくないことを、一方的かつ一面的に地上の社会における人間の活動にそのまま反映させるというのがそもそも間違いです。

イエスの言った、
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」
を理解できないようです。
地上には地上の事情があり、それを神は超越するだけで、「否定」はしません。
神のものをカエサルに返してはいけません。
霊的な正不正をそのまま地上の正不正に反映させるのは間違いです。
これは、世界中のあらゆる宗教団体が陥る誤謬です。
特に盲信者が多いキリスト教は顕著です。

地上的に「否定」するのではなく、矛盾を認め、含んで、ただ「超越(止揚)」するだけです。
地上的なこと、感覚的なことや損得勘定に、ただ走らなくなるだけのことです。
地上の住人にならずに、地上の旅人になることです。(ただし、インパクトがありません)
この「中庸」を促すのが本来の宗教の役目なのです。

他では、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』標的に 環境活動家が頭突きつけ赤い液体を撒くという事件が起きたようです。
この活動家は「破壊」の意識をもって破壊を抑えているだけであって、同じ穴の狢です。
だから同じ行為ができるのです。
地上的に善か悪かと解決するのでは進歩はしません。
SDGsもこの環境活動家と同じ発想で提唱されたのだと思われますが、地上の解決だけでは根本的に「人間の幸福」をもたらしません。
地上的な善悪を超越(止揚)するのが人間の道です。

私の母はいま入院していまして、入院する少し前から立てません。
トイレにも行けません。
そうすると、どうしてもこう思うのです。
「立てることがどんなに幸せか?」
直後に、13年前にあの修行僧が言ったことをふと思い出しました。
私が、
「自分のできることで世の人々に問い、働きかけ、貢献したい。」
と言うと、
「それは欲ですね」
「雨露をしのぐことができるだけでも恵まれていると思うことです」
私は、直感的に違和感を覚えました。
「これだ、あるルーテル教会の信者が、『仏教は我慢しているだけだ』と誤解する要因は、修行者側にもあるのかもしれない」
「東洋の修行僧は自己実現に終始し、愛がない」
と、エドガーケーシーが言いましたが、その分岐点がここにあるようです。
こういうところで、『足るを知る者は富む』の曲解が生まれるのでしょう。
幸福は地上的な〈達成度〉で決まるわけではありません。
ということは逆に言えば、「足るを知る」は、
「出来ることの程度を我慢すること」
ではありません。
そもそも幸福とは「目に見えること」や「感覚的なこと」ではありません。
呼吸にしても、飲食にしても、立って歩くことにしても、
「満足している時は何も感じない」
ということを知ることです。
「感覚の目」で見るのではなく、「魂の目」で見るのです。(ソクラテス)
そうすれば、地上的、感覚的な〈善悪〉を全速力で追わなくなります。
誤解のないように、念のために言います。
魂の目で見ることで「足る」を知ったからといって、それで《愛》に目覚めるということではありません
「足るを知る」を「地上における(目に見える)達成度の下方修正」とするこの曲解が、内向きの自己実現にとどめさせ、世に働きかける《愛》を阻んでいると言っているのです。
いずれにしても、目に見えないことを目に見えることに、感じないことを感覚的なことに、「意識に上らないこと」を「意識すること」に、「神のもの」を「カエサルのもの」に、「鉛直」を「水平」へすり替える誤謬があらゆる場で生じています。

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5次元世界 [霊的存在]

みなさん(?)暑いところをわざわざ来てくださってありがとうございます。
気長にお付き合いください。

夏季休暇ということもあって、平日に姉が来ました。
いつものように姉は母と私に昼の食事を買ってきて、近況を語り母の認知症を一緒に嘆いていたのですが、点いたままのテレビで、たまたま沖縄の食べ物を紹介していたので、その話になりました。
姉が言いました。
「私は沖縄にはあまりいい印象はないのよね」
「だって、食べ物が合わないんだもん」
「良かったのはゴルフ場だけ」(会社の関係でゴルフに行くのです)
「いったい沖縄のどういうところがいいって言うの?」
私は一瞬言葉に詰まりました。
本当なら、
「食事は自分には合う、空気が違う、真夏は東京より熱くない、ただ青い海を見ているだけでいい・・・」
と言いたいところですが、説得力がなさそうなのでやめました。
沖縄には30代から40過ぎ頃にはよく行っていて、計10回ぐらいですが、一緒に行く仲間は同期の英語教師Nさんか高校時代の友人ぐらいで、自分一人で行ったこともありました。
でもそれ以来、20年近く行っていません。
理由はおもに経済的なこと。
今は母親の面倒でそれどころではなく、温泉にも行けません。
それにもう一つ、一通り経験したので新鮮味がないということです。
そこでやっと思いついて、姉にはこう言いました。
「今はもうそんなに行きたいとは思わないよ」
「経済的な理由で楽しめないし」
「30代の頃は経済的に心配なかったからね」
「Nさんと宮古島に行った時なんか、費用が高かったんだけど、何とも思わなかったよ、東急が仕切っているから高いんだとNさんに言われて、やっと意識したくらいでね」
「だから、何をしても楽しめたし、初めてのことばっかりで新鮮だったのもあるしね」
なにやら消極的かつ退廃的な言葉が支配するようになりました。

そうこうしているうちに3時になり、買い物に行くため、2階へ行って着替えをしていると、固定電話が鳴りました。
1階に居る姉が応対しました。
どうせどっかの業者だろうと思っていたのですが、どうも違う様子でした。
なんとNさんでした。
いつもは夜の8時頃なのに、この時間帯に掛けてくるというのはどういうことか?
話はいつもと変わらず、食事に行くことでしたが、今年3月にNさんに伝えた「年金」のこともありました。
「月収が47万を超えなければ厚生年金の分をもらえる」
という新しい情報です。(今年4月から、限度額が28万円から47万円になったのです)
そのときは「専任教師はダメだ」と伝えられたのですが、どうやら今になって、その一部がもらえたそうで、その報告もあったようです。
私は、ともかく「よかった、よかった」と言って、電話を終えて買い物に行きました。
途中、熱いので喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいると、ふと不思議な感覚になりました。
「あれっ?これって、いつかも同じことがあったなあ」
そうなのです、半年ぐらい前にも母親との会話の中で、
「Nさんって、何でも形にして結果を出してしまうところがすごいんだよ」
などと話していたら、1時間後にNさんから電話が掛かってきて、食事の誘いがありました。
そのときも私は偶然とは思えませんでした。
なぜなら、Nさんの話題を口に出すのも、Nさんから電話があるのも、多くて3か月に一度ぐらいだからです。

そこで、たまたま10年前に買って読んだそこにある本を開いたら、関連することがあったので紹介します。

【『5次元世界への超扉(エハン・デラヴィ)』より抜粋】
〈共時性(シンクロニシティ)は主観的な世界と客観的な世界のあるつながりを見せてくれる〉〔ユング〕
すべては心の反映です。
自分の毎日の体験はすべて心の働きであり、それこそ般若心経の世界、仏教の世界です。
病気も、事故も、不幸も含めて、起こることは、すべて自分の心の反映です。
(※)偶然は、まったくありません。
シンクロニシティとは、そういうことを常に意識することです。
意識のレベルが高くなればなるほど、すべてが「共時性」というレベルになって、それよりさらに上のレベルになると、すべてが神になります。
・・・・・〔略〕・・・・・
何も起こっていないという心境を私たちは想像できない。
自分の心がすべてを引き起こしていることを自覚できるレベルになると、自分の行い、一つひとつの発想にものすごく責任感が生まれて、注意を払うようになります。
私が以前見かけたきれいな女性のことを思い出していたら、友達と一緒にレストランから出てくる彼女と出くわした。
それがシンクロニシティです。
「それは偶然だ」と思うかもしれませんが、そうではなく、私はそういうことに注意を払ったわけです。
・・・・・〔略〕・・・・・
(⁂)5次元も中間の次元にすぎず、その先がまだまだあるのです。
アセンションの後に展開されるはずのシンクロニシティ文明は、日本人にはすごくよくわかるはずです。
日本には、「袖すり合うも他生の縁」とか、「一期一会」という言葉があります。
(*)英語には「縁」に相当する言葉も、そういう概念もありません。
日本人がなぜそういうセンスを持っているかと言うと、日本人はシンクロニシティに敏感な素質を持っているからです。
だから人との付き合いを非常に大切にする。
・・・・・〔以下略〕・・・・・
【終】

(※)偶然はないということは、すべては必然だと言えるかもしれませんが、必然という意識もなくなって(即非)、溶け合って「(霊的な)法則」となることが神の領域です。
上記の他にも、想像していたことが現実に起きた(良いことも悪いことも)ということが私には何度かあります。
(*)これに関しては、英語に「pretend」という語があります。
これは〈引き寄せ〉だと思うのですがどうでしょうか?
(⁂)5次元といえば、パラレルワールドの存在を証明(?)した女性物理学者リサ・ランドール博士を思い出します。
そのへんのことをエハン・デラヴィ氏はこう説明しています。
【抜粋】
パラレル次元、パラレル宇宙があるということは、私たちはこの3次元だけでなく、他の次元にも同時に存在していることになります。
(⁑)この次元における自分という存在は、氷山の一角がたまたま海の上に出ているだけ。海中のパラレル次元にはずっと存在し続けているということです。
だから、私たちには、もともと多様な側面があり、そのことをこの次元にいる自分が自覚していないだけなのです。
・・・・・〔略〕・・・・・
同じ魂が何度もこの次元に生まれ変わるという、いわゆる輪廻転生という考え方には、実は私は深い疑問を持っています。
幼児の前世の記憶の正しさや天才たちの実例を挙げて輪廻転生があることを証明したりします。
もちろん事実を否定したりしません。
でも、別のアプローチもある。
それは多次元というアプローチです。
つまり、1つの魂がパラレルで複数の次元に同時に存在し、すべての体験の記憶にアクセスできるならば、クレオパトラの記憶はあなたにもあるといえるわけです。
(⋆)現代人の60%以上は輪廻転生を信じていますが、それは多次元の記憶かもしれないということです。
輪廻転生はあるのかもしれないし、ないのかもしれない。
多次元意識論でいえば、それはどちらでもいいことです。
【終】

(⁑)これは樹の枝のように大本ではみな繋がっているという古来の考え方で、真我と偽我、潜在意識と顕在意識、大河の一滴、海と波、人間と神などといろいろ表現されていて、臨死体験者が「何とも表現しようがない」と言い、高級霊が「肉体を持った者にはわからない」と言うように、地上ではまず体験できない境地です。
(⋆)退行催眠でまったく関係ない人の記憶が出てしまうことは以前にも言いましたが、それはあくまでも、奥で繋がっていて記憶を共有しているということであり、その実体(アートマン)が幻だとか消滅するという結論には至りません。
エドガーケーシーのリーディングでも輪廻転生する「実体」を認めていますし、スピリチュアリズムにおいても、類魂として地上に生まれたり守護霊の側に回ったりと、一回きりか転生するかはわかりませんが、「実体」の不滅を前提として説いています。
また、デラヴィ氏は言います。
【抜粋】
(★)「5次元世界を理解するためにはまず、ある現代科学のドグマを乗り越えなければなりません。そのドグマとは、『脳が意識を作り出す』という妄想です。脳は、ラジオのような電波の受信機、あるいは端末機のパソコンのようなものにすぎません。」〔脳と意識は因果関係ではなく単なる対応関係〕
さらには、
(✤)「たとえスーパーマンになっても、愛がなければ無に等しい。それは『ラブ』ではなく『アガペー』(スピリチュアル・ラブ、無償の愛)です。人間はハート(心)とヘッド(頭脳)、この2つのHで混乱している。それがいちばんの問題です。愛は頭で理解することはできません。ハートがすべての秘訣を示してくれます。」
【終】

(★)再三言う『唯物論(実在論)』の克服です。
絶対的客観的に「物がある」とか「時間空間がある」という妄想、また、それがはじめに用意されていて、そこからすべてが生み出されすべてが起こるという「自然科学的世界観」の刷り込みを省察することが第一の関門です。
これはまた、我々の意識が、生物の進化で偶然生まれたものではなく、初めからあるものだということを言っています。
(✤)これは地上の〈善〉ではなく、霊的な《善》〔神仏の光、慈悲〕を言っているのです。
陰影を見るのではなく光源の存在を知れということです。

長くなってしまいました。
疲れました。

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像を拝むとは [霊的存在]

ある方のブログを拝見しました。
それは、「高級霊のメッセージ」を扱ったものです。〔定期的に更新していて、読者も数十人います〕
冒頭にこうあります。

《像を拝めばもはや自主的に考える力を失っており、自分の拝んでいるものが自分の思考を破壊する。なぜならば、その人は無智の中に迷い、自己の裡に宿る唯一無二の生ける神という真理を見ることができないからである。》
 
まあこれは、前回の盲信(思考停止)を排する私の活動と相通じるものです。
その中で特に根幹となる内容が、再三言う『神や霊の存在と実在論(唯物論)』であり、そのことが的確に示されています。
【引用①】
成る程、幾千にものぼるあなたたち(霊人)は、時間・空間の入らぬ境城で現に生きてい乍ら今この瞬間わたしの話に傾聴している。しかしまだ肉体の中に留まっているあなたたちの兄弟姉妹である人々にわたしが話をしている此処、外界では、彼らは時間と空間と(が存在している)と妄想している。時間と空間とは彼らがこの地上で克服しなければならない難問である。あらゆる者が克服しなければならぬ難問は時空感覚である。
あなたたちは未だ距離、年・月・日と時間(制)とを墨守している。
それは時間と空間との幻影である。
(既に)天国の中にある自分自身を観じてみるがよい。
自己の裡なるみ霊こそ世界を創造し給うたみ霊と同一のみ霊なのである。
このことが真に把握された時、あなたたちは時間・空間の世界を超越した彼方のことが解るようになるであろう。
【終】
肝心なのは、「時間・空間」がはじめから絶対的に存在しているということが〈顛倒妄想〉だということです。
それから、神盲信者に対しても、次のような啓示があります。
【引用②】
あなたたちは神の息子、娘なるが故に、神はアバ・アヴォン(おお、父よ、われらの父よ)と叫ぶあなたたちの胸(ハート)に神我というみ霊を送り込み給うた。故にあなたたちはもう(ただの)僕、はしためではなく、(神の)息子、娘であり、あなたたちの中に宿る神の一人子たる神我の故に、あなたたちは神の資産であるすべてのものの相続者である。
【終】
これも、空間のどこかを占める神が自分と離れて存在するという間違いを正したものです。
神は霊の集合体、本源であり、すべての人の内にあり、すべての人を包括します。

世の中には、それまでずっと無神論者だったけれど、ある時以降一転して神を信じるようになった人がいます。
その人が言うには、
「生まれてからこのかた神などいるわけがないと『思って』いたが、ある時、神に『出会った』ので神はいる」
とのことです。
いるわけがないと『思って』いたというのは、いるのならどこか空間を占める唯物論的実在として「五感」で捉えることができるはずだという意味であって、けっして理性でとらえようとしたわけではありません。
なので、その人が『出会った』とのいうのも「五感」で捉えたということであり、理性で捉えたわけではないのです。
神がいないと思っていた時と同じ唯物論的思考法で神を信じたのです。
つまり、その体験が事実だとしてもそれは神ではありません。

人の姿をした者が目の前に突如現れて、
「私は全知全能だ」
「光あれ!」
「えい、やー」
と言って、いろいろなものを作り出したとしても、それは単なる超人であって、(聖人たちの言う)神ではありません。

この方のように、ブログや著作で正しい霊的存在の在り方を発信している人はたくさんいます。
たしかにその通りなのです。
でもみなさんどうでしょう?
これでシックリいくでしょうか?
時間空間が妄想だと言う『実在論(唯物論)』の克服を唱えているものの、それを自分のものとして「体得」するための具体的方法あるいは、その切っ掛けを与えているでしょうか?
おそらく何十人もの読者は、
「へえー、そうなのか」
としか思わないのではないでしょうか?
(それでも心地いいでしょうけど)

高級霊の啓示として以前に取り上げた『日月神示』も、その時述べたようにその(中矢氏のブログの)読者のほとんどが「興味本位」だということが暴露されました。
読者は自分の理解力を超えると「偽物呼ばわり」するのです。(当ブログ『日月神示(補足)』参照)
依然として地上の言葉による地上的な善悪・白黒(平等=善、差別=悪、など)に終始していて、霊的視点を設けるに至っていないからです。
そもそも霊的に考えるとか行動するとかが、実践できていないということです。
その理由は、自らの省察によって体感したわけではないからです。
ならば、たくさんいる読者とは何なのでしょうか?

実は、冒頭に示したその方の「冒頭」にある《像》を拝んでいるということです。
「像を拝まないようにというメッセージ」を《像》として拝んでいるのです。
姿かたちはなくとも、高級霊という「権威」にすがっている(思考停止している)のです。

これは、あるキリスト教信者が、
「偶像崇拝はいけない」
という意味を、
「教祖という生身の人間を拝まないこと」
と受け止めて、イエスという過去の人物を神扱いして拝み、またある信者が、
「イエスという過去の人物を拝まないこと」と受け止めて、イエスの残した言葉(聖書)を聖遺物として拝み、その言葉を鵜吞みして再生するのと同じことです。
要するに、「権威」という《像》に従っているのです。
しかもそれに気付かないのです。

私がこう言うのを聞けば、引用したブログの方はムッとするかあるいはがっかりするかもしれませんが、そんなものなのです。

その点、私の活動では実際的な省察の方法を示しているはずなのですが、残念ながらイマイチ反応がありません。(当ブログも、多い時もありましたがここ数日訪問者数一桁、読者0です)
たしかに読んでいて心地よくはないでしょうし、実践するのは楽ではないでしょう。
また紋切り型の人はハナから「悪魔」扱いするでしょう。
でも、微力ながら私の助力によって『道』を得た方がもしいるならば、その人はこの上ない充実感を覚えることと確信するのですが、どうでしょうか?

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