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欠伸はうつる? [謎]

欠伸をすると近くにいる人にうつるというのは本当でしょうか?
そういう経験をしたことのある人は多いと思います。
偶然でしょうか?
それとも、何か見えない力が働いているのでしょうか?
偶然にしてはあまりにも回数が多すぎます。
神秘主義者はどうしても、そこに一種のテレパシーを関与させたくなるでしょう。
かりに物質的なもので説明するにしても、もっと波動が細かい物質を考えることでしょう。

ところがプロの科学者や心理学者たちは、けっして神秘的なものや未確認のもので説明しようとはしません。
20年以上前、ある科学者がこれについて、
「そこの部屋が酸素欠乏になるわけだから、同じ場所にいる人が同じように欠伸をするのは当然だ」
と説明していたのを覚えています。
しかし、いくら空気が悪い同じ部屋に居ると言っても、ほとんど同時に欠伸をするというのは、どうも解せません。

それから、数年前に、ある心理学者が、
「人間というのは近くにいる人に気を使ってその人の表情に合わせるという習性がある。だからそばにいる人が大きく口を開けると、それを見てその人に合わせようと自分も大きく口を開けるのだ」
と唱えていました。
でも、それを聞いたとき、私はやはり納得がいきませんでした。
なぜなら私の経験では、自分が欠伸をしてそばにいる人にうつるのを確認したとき、必ずしも相手はこちらを向いてないからです。

それではと、実際にもう一度確かめることにしました。
ある夜、同じ部屋にいる母親を観察しました。
これまでも、同時に欠伸をすることが何度もありましたが、顔が見える状態だったので、今度は、わざと電気炬燵とお膳が死角となってお互いの顔が見えない位置関係で構えていました。
そして、私が欠伸をしたときに、咄嗟に母親の顔を覗き込んだのです。
すると、母親はやはり欠伸をしていました。
しかも、そっぽを向いて。
それからも同じことが何度も起きました。

私なりの考えです。
いつか放送大学の心理学の講義で、「観点がうつる実験」を紹介していました。
ある地域の人の集団に、白黒の斑模様の絵を見せて、
「何に見えるか?」
を問いました。
はじめは、
「ただの模様にしか見えない」
と言いました。
ところが、その模様のような絵は、実はイエス・キリストの顔を斑模様のように崩した絵でした。
それをその集団の人たちに告げると、全員、その絵がイエス・キリストの顔に見え始めました。
すると、そればかりか、同じ実験をしている地球の裏側の人たちも、何も教えていないのに、急にその絵がイエス・キリストの顔に見えるようになったということです。

昔から、ほかにもこのような実験結果は報告されていますし、経験的には、人の思念が他の人に通じるというのは間違いありません。
ただ、そのメカニズムがわからないのです。
なにか新しい物質または波で説明できないものでしょうか?
私は物理学者でも生理学者でも心理学者でもありませんから解明できません。
プロの学者には、保守的にならずに、ぜひ新しい視点に立って、納得のいく説明をしていただきたいと思います。
具体的に言えば、今認められている物質よりも波動の細かい物質、「第4密度」や「気」のような存在を認めていただきたいのです。
それは、スピリチュアリズムの普及のためには大変有効だからです。

また、「眠気」もうつると言われます。
クルマの助手席に座る人は眠らないように注意されたりします。
こういうことは、いわゆる「都市伝説」で終わらせてほしくありません。


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変な生き物 [謎]

この地球には奇妙な生物がいるもので、およそ人間の生活様式からは考えられないような形態や生態の生物と稀に遭遇します。

私が大学を出てすぐ勤めた私立高校は、校長も管理職の人も古い日本人で、「俸給」「検閲」「逐電」などの死語が平気で飛び交う旧態依然とした組織でした。
そうなると、当然のことながら建物や設備や道具も古いままで、昭和が終わり平成に入っても教室に冷房はなく、職員室にある唯一の冷房装置は、昭和40年前後に普及した、タンクに張ってある水の気化熱を奪う方式の原始的なものでした。
話の主役の場はその職員室なのですが、私はそこでは床が三越本店張りの木製タイルであることを誇りに思い、冷房にしても、むしろ最新型のものよりも空気が乾燥しなくて心地よく健康的だと、良い方に解釈して過ごしたものです。
そして問題は暖房器具です。
平成元年度まではダルマストーブだったのです。

その平成元年度の冬のこと、職員室で空き時間を過ごしていた私は、少し退屈し、寒かったので、真ん中の通路に置いてあるダルマストーブの前に立って、両手を突き出して当たっていました。
ダルマストーブの上には真鍮製のヤカンが載せてあり、中に水を入れて沸騰させて室内の湿気を保つと同時に、沸かしたお湯でお茶を入れて飲んだりもしていました。

湯が沸騰して注ぎ口から勢いよく湯気を出すヤカンをなんとなく見つめていると、なにやら小さなゴミのようなものが表面をすばやく移動するではありませんか。
はじめ我が目を疑い、今度は目を凝らして正体を突き止めようと試みました。
しかし、あまりにも動きがすばやく小さいのでなかなか確認できません。
そうしている間にも、それが生き物なのか、それとも高温状態に起きる化学的現象なのか悩んでいました。
「こんな熱い所に生物がいるわけがない」
「いや、どう見てもこれは生物の一種だ」
私はいつになく執念深く観察しました。
なにぶん、一秒と制止することなく別の所へ移動し、視界から消えてしまうものですから、凝視を許さないのです。
それでも、形が左右対称だということはハッキリ見て取れたので、ゴミではないと確信しました。

その得体の知れない生物は、毛糸の屑のような形態で、大きさは直径1mmくらい、色は青みがかったグレー。
もちろんそんな生物は本でも見たことがありませんし、話にも聞いたことがありません。

hennna2.jpg
【パステルで描いてみました。なにぶん20年以上前のことなので、正確ではありません。】

私は微かな希望を抱いて、近くに坐っている理科の先生に声をかけました。
「このヤカンの上にいるのは虫ですかねぇ」
「こんな熱い所に生物なんているんですか?」
すると、その理科の先生は面倒くさそうに、顔だけこちらに向けて、腰を上げませんでした。
今度は私が執拗にヤカンを指して、
「これ、これですよ」
と言うと、理科の先生はようやく椅子から腰を上げて、ダルマストーブに近づき、ほとんど見た振りをしただけで、素早く席へ戻り、
「だって、100度の熱湯の中に棲んでいるバクテリアだっているくらいですから」
と無愛想に呟きました。
もっとも、その手のバクテリアなら、私だってどこかで聞いたことがあります。
しかし、それは常時100度の熱湯という環境なのですから、それほど不思議ではありません。

それに比べると、この生き物は、
「熱いヤカンがないときはどこで何をしているのか?」
という疑問が残ります。
もしかすると、「真鍮(黄銅:銅6割,亜鉛4割の合金)という金属に何らか関係がある生き物」かもしれません。

誰か謎を解き明かしてくれる人はいないでしょうか?
と言ったところで、まず、いないでしょう。
「そんなもの自分で突き止めろ!」
という声が聞こえてきそうです。
もちろん、真鍮製のヤカンやダルマストーブ、それに木製タイルの床など、条件を揃えるのは至難ですし、かりに出来たとしても、たとえ突き止めたとしても、1銭にもなりませんし、役に立つわけではないので、誰も関心を持たないでしょう。
所詮、こういう存在は、話題とともに闇から闇へと葬り去られる宿命なのでしょうか?
私自身と重なるようで、身につまされます。


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紫色の謎 [謎]

虹のいちばん内側の色は紫色です。
紫色といえば、可視光線の中でいちばん振動数が高い色です。
ところが、絵の具で紫色を作るときは青と赤を混ぜます。
いちばん振動数の高い色が、振動数の高い青にいちばん振動数の低い赤を混ぜることで作られるというのは一体どういうことでしょうか?
私は長年このことで悩んでいます。



ブログ画像.png

絵の具の色はあくまで反射光であって、虹のような透過光とは別なのでしょうか?
そう言えば、色の三原色が「赤、青、黄」なのに対して、光の三原色は「赤、青、緑」ですし。
これもやはり、透過光は絵の具を混ぜて作るのとはわけが違うということを表しているような気がします。
しかし、もしそうだとしても、なぜ反射光と透過光でそのような感覚的なズレが生じるのか、また新たな疑問が生まれてしまいます。
私は紫色の謎を解く鍵がそこに潜んでいるのではないかと、長年思っていました。

以前、同僚の物理の先生に聞いたことがあるのですが、
「長谷川さんの話はいつも難しくてね」
と受け流され、明確な答えは得られませんでした。
その後、大学時代の友人に言ったところ、
「脳には色を感知するいくつか限られた穴があって・・・」
と、中途半端ではありますが、何かを匂わせる説明を受けました。

【ここから(*)まで、ご存知の方は素通りしてください】(図を用意できず失礼)
後年、判ったことは、色の三原色は「赤、青、黄」ではなく、正確には「マゼンタ、シアン、イエロー(黄)」だということです。
マゼンタは赤と青を足したもの、シアンは青と緑を足したもの、イエローは緑と赤を足したものだということを知りました。
しかし、ここで引っ掛かるのがやはり「緑」です。
緑というとどうも固定観念からか、足し算で得られるものと決め付けたくなるのですが、光で説明すると、緑はイエローから赤を引いたもの、あるいはシアンから青を引いたもの、あるいはまた白からマゼンタを引いたものとして得られます。
つまり緑は「引き算」で、逆にイエローは「足し算」で得られるのです。
ここが絵の具を使って絵を描いてきた私たちが理解し難いところでしょう。

それから、絵の具の色を混ぜることは光では「白からの消去法(補集合)」であり、数多く混ぜるほど暗くなります。
例えば、「青と黄を混ぜれば緑になる」という長い経験で頭にこびりついた事実は、光で説明すると、「シアン(赤なし)とイエロー(青なし)の消去法」であり、「緑が残る」という具合です。(*)

まあ、こんなふうにして三原色についてはなんとなく解ったつもりですが、それでも紫色に関しては解せません。

学説によれば、どうやら、人間の脳の仕組からして、限られた振動数の光にしか刺激を受けないらしく、それが、赤、緑、青の三つだということです。
黄色は赤と緑が半々混ざった光であって、黄色という振動数の光に脳が反応しているわけではないそうです。
同様に、空色は緑と青が、マゼンタ(赤紫)は赤と青が、それぞれ半々混ざった光であって、空色やマゼンタという振動数の光に脳が反応しているわけではないということです。

その中で、マゼンタは虹の帯の中にはありませんが、赤と青を重ねれば出来る光です。
ということは、色(反射光)と同じく、やはり 光(透過光)でも赤と青を合わせれることによって、マゼンタという「赤紫」が出来ることになります。
そこで肝腎な「紫」のことですが、紫外線になる前のギリギリの可視光線が「紫」なのはどういうことなのでしょうか?
振動数の高い「青」に振動数の低い「赤」を合わせた光だというのは間違いなさそうです。
「青」より振動数が高い光がなぜ「紫」なのでしょうか?
みなさんどうお考えですか?

まず、虹の帯をよーく見ていただきたいのです。
可視光線ギリギリの紫は、マゼンタのような明るい光ではなく、隣の青より暗い光です。
そこでさらに、赤錐体の感度、緑錐体の感度、青錐体の感度の曲線をよーく見てください。

ブログ画像4.jpg

可視光線ギリギリの紫に対応する赤錐体の感度と青錐体の感度の波がともに低くなり、その二つの割合が近い値になっています。
「青」のところの青錐体の感度の波は、赤錐体の感度の波に比べて、はるかに高い値です。

私なりの解釈ですが、可視光線ギリギリの紫は、
「隣の青に赤を足したのではなく、青から青を引いたものだ」
と考えられます。
それによって、結果的に赤と青の割合が近くなって、
「青よりも赤みを帯びた光」
に見えるのではないでしょうか?
これで、紫色の謎は解けたのでしょうか?
もし、もっと良い説明があったら、教えてください。




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