SSブログ

外国人差別? [中庸]

★数か月前のこと、行きつけの中華居酒屋で、隣のテーブルに座っていた4人の男性がなにやら仕事の話をしていました。
よく見ると、そのうちの1人は東南アジアの国の人らしく、英語は話せるようでしたが日本語があまり話せないようでした。
向かい側の日本人男性が新しい仕事と職場のことを伝えようとしていましたが、
「(外国人)差別がない」〔というより本来は(国籍)差別がない〕
ということを英語でどう言っていいかわからない様子でした。
次に、職場の「雰囲気」は良いと伝えたいらしいのですが、英語がわからず、咄嗟に横にいた私に、
「雰囲気」って英語で何て言うんですか?
と振ってきました。
私は、
「『atmosphere』だったと思いますけど」
と答え、ついでに先に言った「差別がない」を英語で、
「『no discrimination』と言うんです」
と教えて、直接その東南アジア人の男性に言いました。
伝わったようでした。
この話はまさしく〈差別〉なのです。
この場合の国籍差別は、日本においては日本人に比べて外国人を冷遇するという〈利害〉が付随しますが、当事者の外国人たちが「問題」にしなくていい差別なのか、国家の義において「必要」な差別なのか、というところでしょう。
この〈差別〉には、特に「侮蔑」や「迫害」の負の価値の付随はなく、いやあっても、それをどうこう言うのではないのであって、ただ単に、「言葉や慣習」などにおいて日本人ほど「期待できない」から給与が安いなど冷遇されるわけで、当の外国人たちの中にも「不当」だと思っていない人もいるでしょう。
もちろん「不当」だと言う人もいるでしょう。
いずれにせよ、ここは日本であって、日本人が仕切っているわけであるから、日本人の都合で決めているのであって、言っても仕方ないと諦めているのかもしれません。

〔ネットの記事〕
【人種や国籍、肌の色だけを理由に職務質問を行うのは差別で違法だ】
〔私のコメント〕
そりゃどこの国でも、よそ者に対しては「偏見」があるよ。
実際、扱いが変わる。
すなわち「差別」は付き物だよ。
ただそれを
「問題にするかしないか」
「訴えるか訴えないか」
「解決するかしないか」
だけのことだよ。
履き違えないでもらいたい。
「差別そのもの」
が違法なのではない。
〔[↑]39 [↓]6〕

【因みに】
間違えてはなりません。
日本で「肌色」という言葉(差別・区別)が使われなくなったのは、ひとえに国際化のためです。
白人や黒人などの外国人が日本にたくさん住むようになったために、ただ「不都合」が生じるからであって、(排斥するとかしないとかという意味での)肌の色の違う人たちへの気遣いではありません。

⁂という言葉です。
かつて石原都知事が街頭演説で使って、日本に住む中国人や韓国人から非難を浴びたことがあります。
もちろん、その世代の日本人は「三国人」(第三の国の人)という言葉に特に負の価値は持たせていません。
私の親は今でも使います。
私の親たちは昔から、中国人や韓国人は同じ日本人に比べて、価値観や生活習慣が違うことから、やはり見方や扱い方を変えていたようで、何らか分け隔てをしていたのでしょう。
日本の中で日本人が言うのですから。
ただ分けるというのはなく、そういう価値を伴うからこそ言葉で分けるのであって、だからこそ「三国人」という言葉を使っていたはずなのです。
戦前生まれの人にとっては何気ない言葉でしょうけど、よくよく振り返れば、やはり「よそ者扱い」というのは否めないのです。
何らかの優劣が含まれているのはむしろ自然です。
つまり、「言葉」そのものが差別・区別なのです。
この現象界・差別界では、人は誰でも「差別」をしているのです。
どんなに言い張ってもみなが差別をしているのです。
それをまず認めてもらいたいと思います。

ただ、優劣や善悪は、する側もマチマチであり、受け取る側も様々なのですから、言葉そのものに絶対的客観的な優劣や善悪があるとするのは唯物論から来る〈妄想〉です。
よく言われる、ある人の表現が「適切か不適切か」などと言って議論するのは、まったく論理の使い方の間違いなのです。

もちろん、以前から一般の日本国民がそれを言っても、誰も問題にしませんでした。
なぜなら、利害損得がほとんど生じないからです。
ところが、政治的影響力のある石原都知事が言うとなると、これは中国人や韓国人たちにとって、「排除」を意味し、実利害が生じる可能性があり、「死活問題」になるのです。
それで〈当事者〉たちが問題にして抗議したまでのことなのです。
もっとも、それを言ったら、日本において石原都知事が、「中国人」、「韓国人」、「外国人」と言っても、同じことでしょうけど。
なので、石原都知事は、不適切だと認めたのではなく、
「話しても分からないから、無駄だから」
と言いう理由で今後「三国人」という言葉を使わないと決めたのです。

どんな場合も、(当事者たちにとって)問題にする必要があるのは客観的な【実利害】であって、けっして「意識」ではありません。
そこを一般人は履き違えてはならなりません。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。