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反共 [中庸]

「日本という国に希望が持てなくなった」
と叫ばれるようになって何年も経ちました。
今日、報道番組である知識人が民主主義の劣化を指摘していました。
少子化で若者が少なくなり、選挙に行っても超マイノリティーゆえ影響力がないから行かないという「シルバー民主主義」がその象徴です。
もともとは資本主義において、支配者の暴走を防ぐという意味での民主主義だったと言います。
しかし、所詮民主主義とは〈多数派による暴力〉です。
民主主義は必ず劣化します。
選挙において多数派が《和》を重んじる代表者すなわち君主(霊的指導者)を選ぶのなら良いのですが、実際は自分の損得上都合の良い代表者、《和》を重んじない代表者を選びます。(?和して同ぜずの和です)
霊的に思考する人は常に少数派ですから、原理的に民主主義からは君主は生まれません。
つまり、利己主義に陥った多数派の国民が選んだその代表者が指導者なのです。
今の日本の指導者は、利己主義の国民の象徴なのです。
当然、自己保存のため政治家は票集めに奔走します。(学校の教員も然り)
これが民主主義の末路です。
〔再度言います。20年ほど前に大島監督が『国民がみな守りに入ってしまった。これは危険なことだ』と言いましたが、私はバブル崩壊後にすでにそれを感じました〕
報道番組でも紹介されていたように、世界的に見ても、ここ10年では民主主義国家は何においてもうまくいかず、むしろ専制国家のほうが成長しているようです。

私が絶望するのは、こういう状況下でさえ、ほとんどの人が民主主義を〈善〉として押し進め、ジェンダー平等を〈善〉とする(結果的に同じことをする)のが当然のこととして実現しようとしていることです。
今世間を賑わす報道を見ていると、私は人類全体が地べたに押し潰されるような感覚になります。

そんな中で特に気になったことがあります。
“旧統一教会が「反共産主義」を掲げるがゆえに自民党と親しい”
という報告です。
これって、その時点で本来の宗教からかけ離れているのではないでしょうか?
そもそも政治と宗教は、人間の活動として「一体」ではあっても、「別の次元」なのですから。
共産主義であろうと資本主義であろうと、主義というのは地上のイデオロギーであって、流動性確保や秩序維持の方便です。
神はそれらを超越するだけで、「肯定」したり「否定」したりはしないはずです。

現代の地上社会はあまりにも一方的なことが蔓延しているので、真っ当なことを言っても真っ当なことをしても通じないというのは確かです。
そのため、やはり極端なことや一方的なことをしなければ、影響力を持ち得ません。
結果、地上の攻防に終始して、神の心から離れてしまうのでしょう。

たしかに今の地上の人間は、概して言葉による極端で一方的な思考で動いています。
ジェンダー平等を善、ジェンダー不平等を悪と一方的に謳うのは悪平等です。
そこで旧統一教会はタリバン同様、「ジェンダー平等反対」を掲げます。(本来は男女分離であって、権利は平等、役割は別)
結婚の条件が経済力や社会的立場や容姿に偏るのは、ほとんど霊的に正しい結びつきではありません。
そこで旧統一教会は、霊的に正しい結びつきを教祖が決める「合同結婚式」を遂行します。
(※私はどちらもダメです。前者は条件が揃いません。後者は不可能です)
(☆純粋な意味では賛同するところもあります)
〈一方的なもの〉に対しては、どうしても〈一方的なもの〉で対抗しなければ太刀打ちできないという地上の事情はわかります。
でもその太刀打ちするというのは、どんな事情があるにしても本来の宗教のあり方ではありません。

ところで『共産主義』とはどういうものなのでしょうか?
あいにく歴史的背景や政治的な影響などに関して私は詳しく知りません。
ネットなどで調べても、曖昧なところや国や時代によって異なるところがあって、ひと言では言い切れないようです。
少なくとも経験として私が共産党の人たちと関わって感じることは以下のことです。

・はじめから偉い人がいてはいけない
・偉い人とはみんなが偉いと認めた人だ(ある意味民主主義的)
・ただし、そのよりどころが「地上の道徳」であり、偉い人とは、目に見える形で世の中を改善した人、犯罪者にならない人など、地上道徳的に立派な人である(理性神・偽神ユリゼン信仰)
・地上の延長上に本物の《善》があると思っているため、偽善はいけないと言って地上に本物の《善》を求め続け、結果として周りからは〈偽善者〉だという陰口が多くなる
・ただし、「勤勉と怠惰」のように、地上の〈善〉と〈悪〉はその場のよって逆転することがあることは認めている
・イエスやソクラテスなどの聖人は地上的には受刑者であり、地上的には権力者をやっつけられずに屈しただけであるから、ちっとも偉くないとする
・人間の意識はすべて脳の産物であり、色や形は誰にとっても同じに見えるはずだと、「語り得ぬこと」を語る(唯物論)
・生物の進化によって「人間(知性・社会)」が生まれた
・神や霊といった目に見えないものは根拠がないと言ってひとまず否定する
・宗教は神仏を「恐れ多いもの」として支配者や権力者の統率や戦争に利用されることはあっても、世の中を良い方に変えるような政治的な「力」はまったく持たないとする
・宗教に関しては、まったく認めないわけではないが、良い宗教と悪い宗教があって、その違いが、「カネをとるか取らないか」である
・組織における「上からの圧力」に対しては徹底して抗い、利己的でなく、自身のことでなくても「義」をもって行動する
〔⁑異論はあるかもしれませんがご容赦願います〕

何度も言いますが、社会には「落差」がなければすべてが流れません。
それに、唯物論(実在論)は顛倒妄想であって、人類の進化を阻んでいます。
そういう意味では、各宗教団体は動機としては「純粋なもの」があったと思われます。
まあ、共産主義が宗教を否定するから、宗教団体は反共産主義だというのは当然のことでしょう。
しかし、反共産主義がなぜ自民党に傾くのでしょうか?

友人に尋ねると、自民党はある右翼団体と関係があるのだと。
ネットで調べたら、それらしき事実はあるものの、自民党の「右翼」の意味が「国粋主義」ということではなく、単に「保守政党」だから「右翼的」ということらしいのです。
共産党が左翼的だから反共は右翼的というのは短絡的な気もしますが。
どうやらリベラル(左派)の対は、保守(右派)というよりパターナル(権威主義)らしいのです。
もはや反共というより勝共という感じです。
要するに、権力を得て政治的に「支配」の側に立つという目論見があるのでしょう。
創価学会も幸福の科学もそれで政治参入を図っているようです。

たしかに「神の王国」や「仏国土」の実現のために地上的力にじかに対抗するには、方便としても地上的力が必要です。
そして、地上的力で勝れば神の王国や仏国土が実現するはずだと想像することはできます。
しかし本来の宗教としては、同時にその時点で必ず堕落の道へと進みます。
なぜなら、いたずらに盲信者や悪しき聖職者を増やすことになるからです。
人間には知性があり貪欲があるからです。
そしてその組織のトップや幹部たちは、神の子からベリアルの子へ成り下がります。
最初に純粋な動機があったにせよ、いつの間にか、「ベリアルvs.ユリゼン」(正反対とは限らない)という地上の攻防になってしまいます。
共産側からすれば、
『見えないものを排除する』から「見えるものと闘う」への変換です。
《鉛直》から〈水平〉への移行です。
そもそも権力とか権威というものは、本来の宗教と相容れないものです。
あってはならないというのではなく、執著から離れる、超越するのが宗教です。
人間は社会的な生き物であって、権力とか権威とか差別などの「落差」があって流動性や秩序が保たれるわけですから、神の心の中にあることはあります。
ただそこで分岐点があって、知性が貪欲を生んで、いわゆる「媚び諂い」になると、ベリアルの子への道へ進みます。
地上的勝利を目の前にぶら下げられて魂を売ることはすなわち霊的敗北です。
純粋な宗教者、道の人にとっては、パンを得るために純粋無垢を捨てるくらいなら、飢え死にしたほうがマシなのです。
親鸞聖人のように流刑にされても、あるいは西田先生のように退学させられても、また究極的にイエスやソクラテスのように死刑にされても、信念を貫くのが道であり霊的勝利なのです。

【反共産主義に関するネットでのある方のコメント】
これまでの皆さんのご意見には大きなポイントが抜けています。
共産主義は宗教を否定しています。
(*)「宗教はアヘンだ」とまで言っています。
(⁑)唯物論からは帰結として無神論となります。
ここが宗教との大きな対立点となり、公明党と共産党が激しく対立しているのはこのためですし、キリスト教もイスラム教も神道も共産主義には反対です。
【終】

一方で、本来の宗教を実践するある仏教寺院の住職は言います。

《本当の宗教とは「迷う力」を与えるものです》
《生きる苦しさから逃げる宗教はすべてニセモノです。》

まさにその通りです。
本来の宗教は、「道」を行く切っ掛けと力を与えるものです。
キリスト教的に言えば、単に息子を帰宅させるのではなく、息子に放蕩するだけの力と帰宅する機会を与えるものです。(はじめからおとなしく家に居るような「いい子」にはさせません)

何度も言いますが、今の地上の組織宗教のほとんどが「ニセモノ」です。
思考停止の盲信です。
神という見えないものが、空間を占めるように自分とは別にどこかに居ると「信じる」という神盲信です。
信じれば救われる(=楽になる)、すなわち家畜になるというのが信仰の目的になってしまっているのです。
その前提で言えば、共産主義者の言うように、間違いなく宗教はアヘンです。
ある共産党員が、
「坊主に何ができる」
と、口癖のように言っていましたが、まさに、
「アヘン中毒者に何の力もない」
ということになります。
たしかに今蔓延るエセ宗教なら、共産主義が宗教を否定するのはもっともなことです。

でも実は、共産主義が宗教を否定するのは、それが「ニセモノだから」というわけではないのです。
〔★そもそも本物が何かを知らないので、ニセモノかどうかを見破れません。ひとえに、思考がすべて「地上的」だからです。一般に〈地上の住人〉には自分が地上にへばり付いていることさえわからないのです〕
唯物史観が前提にあるので、目に見えないものはすべて物質から生まれた副次的なもので、あらゆる問題は物質ですべて解決できるという思考なのです。
「神というものは、支配者や権力者が大衆を恐れさせて、従わせるために人間が作ったものだ」
とまで決め込むのです。
やはり、共産主義も神仏や霊的な存在を「信じるか信じないか」の域を超えず、「信じない」というだけなのです。

*もっとも、何を言っても解らない〈地上の住人〉たちは、この『放蕩息子の帰宅』でさえ〈敗者〉だと言うでしょう。
*〈地上の住人〉の支配者は、魂を売らないで権力に媚びない人に対しても、「逃げ口上」だとか「自己弁護」だとか言って、唆して奮い立たせようとします。
*概して、状況にアジャストして自己保身で解決するだけの〈地上の住民〉は、道を説く人の《逃避》を、盲信者の〈苦しさから逃げること〉(アヘン)と一緒くたにして、宗教全体を排除してしまいます。
*良心のある人は、自分や周囲の人々の首を絞めることに助力するだけで、媚びるのが馬鹿馬鹿しいから、(給料をもらえるという)執著から離れるのです。〔天山遯〕
〔⁂保健所の職員は、保証金目当てで『陽性』を装う人たちに健康を気遣うのがバカらしくなって辞める人が続出しているそうです〕

まとめるとこうなります。
今のほとんどの組織宗教と共産主義は、いずれも唯物論(実在論)を前提とする地上的思考法であり、
「信じるか信じないか」
「神盲信か無神論か」
の違いに尽きます。
どちらも、自らの省察による霊的自覚から神仏を「知る」ことはしません。
よって、現在目にするような地上の攻防に終始することになるわけです。
いずれもそこから生まれた統率者は、あくまでも地上的であり、霊的指導者ではあり得ないので、過去の事実を見れば明らかなように、一般の民衆は人間性を阻害されることになります。

みなさんどうでしょう。
地上的観点で、一方を立ててもう一方を排除するということが、いかに地獄的かがわかると思います。
それよりも、良心で生きる私たちは霊的視点に立って、たとえ小規模であっても、《義》をもって責任ある充実した行動をとろうではありませんか。
今回も長くなりました。

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5次元世界 [霊的存在]

みなさん(?)暑いところをわざわざ来てくださってありがとうございます。
気長にお付き合いください。

夏季休暇ということもあって、平日に姉が来ました。
いつものように姉は母と私に昼の食事を買ってきて、近況を語り母の認知症を一緒に嘆いていたのですが、点いたままのテレビで、たまたま沖縄の食べ物を紹介していたので、その話になりました。
姉が言いました。
「私は沖縄にはあまりいい印象はないのよね」
「だって、食べ物が合わないんだもん」
「良かったのはゴルフ場だけ」(会社の関係でゴルフに行くのです)
「いったい沖縄のどういうところがいいって言うの?」
私は一瞬言葉に詰まりました。
本当なら、
「食事は自分には合う、空気が違う、真夏は東京より熱くない、ただ青い海を見ているだけでいい・・・」
と言いたいところですが、説得力がなさそうなのでやめました。
沖縄には30代から40過ぎ頃にはよく行っていて、計10回ぐらいですが、一緒に行く仲間は同期の英語教師Nさんか高校時代の友人ぐらいで、自分一人で行ったこともありました。
でもそれ以来、20年近く行っていません。
理由はおもに経済的なこと。
今は母親の面倒でそれどころではなく、温泉にも行けません。
それにもう一つ、一通り経験したので新鮮味がないということです。
そこでやっと思いついて、姉にはこう言いました。
「今はもうそんなに行きたいとは思わないよ」
「経済的な理由で楽しめないし」
「30代の頃は経済的に心配なかったからね」
「Nさんと宮古島に行った時なんか、費用が高かったんだけど、何とも思わなかったよ、東急が仕切っているから高いんだとNさんに言われて、やっと意識したくらいでね」
「だから、何をしても楽しめたし、初めてのことばっかりで新鮮だったのもあるしね」
なにやら消極的かつ退廃的な言葉が支配するようになりました。

そうこうしているうちに3時になり、買い物に行くため、2階へ行って着替えをしていると、固定電話が鳴りました。
1階に居る姉が応対しました。
どうせどっかの業者だろうと思っていたのですが、どうも違う様子でした。
なんとNさんでした。
いつもは夜の8時頃なのに、この時間帯に掛けてくるというのはどういうことか?
話はいつもと変わらず、食事に行くことでしたが、今年3月にNさんに伝えた「年金」のこともありました。
「月収が47万を超えなければ厚生年金の分をもらえる」
という新しい情報です。(今年4月から、限度額が28万円から47万円になったのです)
そのときは「専任教師はダメだ」と伝えられたのですが、どうやら今になって、その一部がもらえたそうで、その報告もあったようです。
私は、ともかく「よかった、よかった」と言って、電話を終えて買い物に行きました。
途中、熱いので喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいると、ふと不思議な感覚になりました。
「あれっ?これって、いつかも同じことがあったなあ」
そうなのです、半年ぐらい前にも母親との会話の中で、
「Nさんって、何でも形にして結果を出してしまうところがすごいんだよ」
などと話していたら、1時間後にNさんから電話が掛かってきて、食事の誘いがありました。
そのときも私は偶然とは思えませんでした。
なぜなら、Nさんの話題を口に出すのも、Nさんから電話があるのも、多くて3か月に一度ぐらいだからです。

そこで、たまたま10年前に買って読んだそこにある本を開いたら、関連することがあったので紹介します。

【『5次元世界への超扉(エハン・デラヴィ)』より抜粋】
〈共時性(シンクロニシティ)は主観的な世界と客観的な世界のあるつながりを見せてくれる〉〔ユング〕
すべては心の反映です。
自分の毎日の体験はすべて心の働きであり、それこそ般若心経の世界、仏教の世界です。
病気も、事故も、不幸も含めて、起こることは、すべて自分の心の反映です。
(※)偶然は、まったくありません。
シンクロニシティとは、そういうことを常に意識することです。
意識のレベルが高くなればなるほど、すべてが「共時性」というレベルになって、それよりさらに上のレベルになると、すべてが神になります。
・・・・・〔略〕・・・・・
何も起こっていないという心境を私たちは想像できない。
自分の心がすべてを引き起こしていることを自覚できるレベルになると、自分の行い、一つひとつの発想にものすごく責任感が生まれて、注意を払うようになります。
私が以前見かけたきれいな女性のことを思い出していたら、友達と一緒にレストランから出てくる彼女と出くわした。
それがシンクロニシティです。
「それは偶然だ」と思うかもしれませんが、そうではなく、私はそういうことに注意を払ったわけです。
・・・・・〔略〕・・・・・
(⁂)5次元も中間の次元にすぎず、その先がまだまだあるのです。
アセンションの後に展開されるはずのシンクロニシティ文明は、日本人にはすごくよくわかるはずです。
日本には、「袖すり合うも他生の縁」とか、「一期一会」という言葉があります。
(*)英語には「縁」に相当する言葉も、そういう概念もありません。
日本人がなぜそういうセンスを持っているかと言うと、日本人はシンクロニシティに敏感な素質を持っているからです。
だから人との付き合いを非常に大切にする。
・・・・・〔以下略〕・・・・・
【終】

(※)偶然はないということは、すべては必然だと言えるかもしれませんが、必然という意識もなくなって(即非)、溶け合って「(霊的な)法則」となることが神の領域です。
上記の他にも、想像していたことが現実に起きた(良いことも悪いことも)ということが私には何度かあります。
(*)これに関しては、英語に「pretend」という語があります。
これは〈引き寄せ〉だと思うのですがどうでしょうか?
(⁂)5次元といえば、パラレルワールドの存在を証明(?)した女性物理学者リサ・ランドール博士を思い出します。
そのへんのことをエハン・デラヴィ氏はこう説明しています。
【抜粋】
パラレル次元、パラレル宇宙があるということは、私たちはこの3次元だけでなく、他の次元にも同時に存在していることになります。
(⁑)この次元における自分という存在は、氷山の一角がたまたま海の上に出ているだけ。海中のパラレル次元にはずっと存在し続けているということです。
だから、私たちには、もともと多様な側面があり、そのことをこの次元にいる自分が自覚していないだけなのです。
・・・・・〔略〕・・・・・
同じ魂が何度もこの次元に生まれ変わるという、いわゆる輪廻転生という考え方には、実は私は深い疑問を持っています。
幼児の前世の記憶の正しさや天才たちの実例を挙げて輪廻転生があることを証明したりします。
もちろん事実を否定したりしません。
でも、別のアプローチもある。
それは多次元というアプローチです。
つまり、1つの魂がパラレルで複数の次元に同時に存在し、すべての体験の記憶にアクセスできるならば、クレオパトラの記憶はあなたにもあるといえるわけです。
(⋆)現代人の60%以上は輪廻転生を信じていますが、それは多次元の記憶かもしれないということです。
輪廻転生はあるのかもしれないし、ないのかもしれない。
多次元意識論でいえば、それはどちらでもいいことです。
【終】

(⁑)これは樹の枝のように大本ではみな繋がっているという古来の考え方で、真我と偽我、潜在意識と顕在意識、大河の一滴、海と波、人間と神などといろいろ表現されていて、臨死体験者が「何とも表現しようがない」と言い、高級霊が「肉体を持った者にはわからない」と言うように、地上ではまず体験できない境地です。
(⋆)退行催眠でまったく関係ない人の記憶が出てしまうことは以前にも言いましたが、それはあくまでも、奥で繋がっていて記憶を共有しているということであり、その実体(アートマン)が幻だとか消滅するという結論には至りません。
エドガーケーシーのリーディングでも輪廻転生する「実体」を認めていますし、スピリチュアリズムにおいても、類魂として地上に生まれたり守護霊の側に回ったりと、一回きりか転生するかはわかりませんが、「実体」の不滅を前提として説いています。
また、デラヴィ氏は言います。
【抜粋】
(★)「5次元世界を理解するためにはまず、ある現代科学のドグマを乗り越えなければなりません。そのドグマとは、『脳が意識を作り出す』という妄想です。脳は、ラジオのような電波の受信機、あるいは端末機のパソコンのようなものにすぎません。」〔脳と意識は因果関係ではなく単なる対応関係〕
さらには、
(✤)「たとえスーパーマンになっても、愛がなければ無に等しい。それは『ラブ』ではなく『アガペー』(スピリチュアル・ラブ、無償の愛)です。人間はハート(心)とヘッド(頭脳)、この2つのHで混乱している。それがいちばんの問題です。愛は頭で理解することはできません。ハートがすべての秘訣を示してくれます。」
【終】

(★)再三言う『唯物論(実在論)』の克服です。
絶対的客観的に「物がある」とか「時間空間がある」という妄想、また、それがはじめに用意されていて、そこからすべてが生み出されすべてが起こるという「自然科学的世界観」の刷り込みを省察することが第一の関門です。
これはまた、我々の意識が、生物の進化で偶然生まれたものではなく、初めからあるものだということを言っています。
(✤)これは地上の〈善〉ではなく、霊的な《善》〔神仏の光、慈悲〕を言っているのです。
陰影を見るのではなく光源の存在を知れということです。

長くなってしまいました。
疲れました。

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地獄から天国へ(改) [中庸]

ポストを見ると、幸福の科学の冊子が入っていました。(No.426 ‘地獄も知らないで・・・’)
しばらく放っておいたのですが、暇になったこともあって捲ってみると、最初の見開きに気になることが書かれていました。

【引用】
世の中には、
勉強をすればするほど、
知恵を失い、バカになる人がいる。
シンプルな真理がわからなくて、
複雑に考えすぎたり、
「エポケー」という判断中止(*)に逃げこんだり、
懐疑論者(*)になることを、
知者になることだと思い込んでいる人がいる。

今の学校教育では、
魂も、天国、地獄も教わらない。
調査報道とかにあこがれるマスコミ人も、
この世のことしか扱わない。
幽霊話はエンタメになり、
幽体離脱は、
脳と神経の作用(?)ということにしてしまう。
いつから人間は、
こんな愚かになってしまったのだろう。

善悪(?)が分かるということは、
天国的か地獄的か(?)がわかるということだ。
地獄も知らないで、
地位や名誉、
財産や異性への欲望を追い求めて、
「知の巨人」もあったものではない。
・・・・・・・・・・・・
【以下略】

どうでしょう?
相変わらずですね。
まあそう言いたくなる気持ちは解ります。
〔そう言っている私も相変わらずですが〕
でも唯物論と自然科学世界観が浸透した現代社会で、シンプルな真理をまともに受け止めることができる人がいるでしょうか?
また、これを読んだ人はこのように言われて考えが変わるでしょうか?
というより、おそらく大半の人は善悪とか天国的とか地獄的とか、用語そのものの意味すら分からないと思うのです。

(*)複雑に考えたり、判断中止したり、懐疑することはむしろ重要です。
というより不可欠です。
そして、
「すべてを疑っても、(自分の世界を経験している)自分が居ることは疑いようがない」〔われ思う故にわれ在り〕
と覚ります。
ヴィットゲンシュタイン流に言えば、
「ともあれ語り得ることは語り得る、語り得ぬことは沈黙しなければならない」
「世界とは自分の世界である」
「自分がどの様であるかではなく、自分が居ることそのものが神秘的なのである」
つまり、《自分≠自分の肉体》であること、自分が霊的存在であることを知ります。(霊的自覚であり、唯物論(実在論)を前提とする証明ではありません)
哲学にしても宗教にしてもスピリチュアリズムにおいても、すべてはここから始まるのです。
もしそれを抜きにして受け止めればすなわち思考停止し盲信に繋がります。
その後の付随する弊害は見てのとおりです。

(?)あるいは、唯物論(実在論)と自然科学的世界観から抜けられずに、霊や神仏は脳の産物であり「肉体が死んだら終わり」になってしまいます。
その弊害は義のない利己主義者の無責任な行動を見ればわかります。

もちろん、大川氏の言うこともわからないではありません。
判断中止や懐疑論で止まってしまうと、斬新なことを受け入れるのに積極的でなくなり進歩がなくなります。
よくプロの学者が、《気》や《異なる波動の物質》あるいは《異星人》の存在を鼻で笑ってハナから否定することがあります。(そうすればいろいろな意味で安泰ですから)
もっとも、それは学問的に、さらに科学的に正しい姿勢ではありません。

何はともあれ、理性による《霊的自覚》が大前提です。

(?)ここで言う《善悪》とは、地上の〈善悪〉(小善小悪)とは別の次元・階層であって、霊的な《善悪》(天国か地獄か)です。
地上の〈善悪〉に執著すること(浪費吝嗇、自由束縛、平等差別、などを対立させて、一方を肯定、もう一方を否定と白か黒かに終始する)が地獄的なのです。
すなわち悪平等の《悪》です。
それら直線全体を超越すること、上からの光があって地上でその陰影を見ているだけだと知ることが、天国的なのです。
すなわち善知識や性善説の《善》です。
カエサルのものと神のものを区別する必要があるということです。

しかしながらいつも言うように、それを体感する具体的な方法が示されていません。
本来は、即非や絶対矛盾自己同一などの地道な哲学的省察から始まり、人によっては学業や芸術などの必要無駄が助けになります。
あとは本人の実践あるのみです。
残念ながら、大川氏が再三言う「教え」とか「 奇蹟」によっては定着しません。
足が地に着いていないので、それだけではいずれ消えてしまいます。〔ダンテの『神曲』の冒頭を参照されたし〕

つい先ほど、あるネットの書き込みを見て気になったことがあります。
それはやはり宗教における「救われる」ということが、「癒されること」と当たり前のように同義になっているということです。
それはギャンブルや麻薬と一緒で、宗教団体がカルトであろうとなかろうと、本人の問題であって、他人がとやかく言うことではないと言うのです。
もちろん私も、組織がどうであろうと本人次第だと思います。

ただ、「救い=癒し(麻薬)」が世間一般で通っていることには危機感を覚えます。
繰り返しますが、「救い」とは「道を行かせること」、またその切っ掛けを与えることです。
けっして楽にさせることではなく、むしろ迷わせることです。
それが地獄から天国へ移行させることです。

ついでに言いますと、天国や極楽浄土は「終着点」ではありません。
迷いながら行く「道」の出発点です。
解脱への第一関門に当たる「預流果」にやっと達したという段階です。

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