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小悪が大悪を防ぐ [中庸]

★サッチャー元首相の言及。
「確かに戦争は悪です。しかし、その戦争によってもっと巨大な悪をストップせねばならぬこともあります。もし連合国がヒトラーをストップしなかったら今頃世界はどうなっていましたか」
【私のコメント】
確かに戦争は悪(小悪)です。しかし、その戦争によってもっと巨大な悪(大悪)をストップせねばならぬこともあります」
(小悪によって大悪を征す)
・・・・・教師の「体罰禁止」をさかんに唱えて、教師を「銃や警棒を使えない警官」にして、面白がっている輩に聞かせてあげたいね。
「確かに体罰は悪です。しかし、その体罰によってもっと巨大な悪(悪魔・モンスターの活躍)をストップせねばならぬこともあります」ってね。
自分が平穏であっても、相手が攻撃しないとは限らない。
好戦的な輩は必ずいる。
地上の人間には「知性」があり欲があるからだ。
特に、思考が地上的で「感覚の目」だけ捉える人は「強欲・貪欲」が尽きない。

戦争は誰もしたくない。
でも広い意味での「防衛」は平和実現の〈方便〉として必要だ。
小悪は大悪を防ぐ。
弥勒は悪を抱きて参る。(日月神示)
戦争の対は平和ではなく、非戦だ。
〈戦争(小悪)-非戦(小善)〉という一本の地上の直線を超越してこそ、《平和(大善)》を実現し、地上の直線にへばり付く〈地獄(大悪)〉から抜けられる。

★「言葉そのものにはじめから絶対的な正や負の価値がある」
と思い込まされるというのは、意外と深刻なことであって、省察しないと、他人を理解し無益な中傷誹謗を回避するうえでかなり障害になるのです。
たとえば、「勤勉と怠惰」です。
日本人のほとんどは「勤勉=善、怠惰=悪」と幼少から教え込まれているでしょう。
ところが欧米では「勤勉=悪、怠惰=善」が一般人の価値観なのです。
「そんなバカな!」
とほとんどの日本人は言うかもしれません。
「勤勉は確かに考えようで、日本人でも、健康面を考えれば必ずしも善とは言えない」
「でも、怠惰は怠惰であって、良いわけがない」
「それは〈怠惰〉ではなく他の言葉が使われているに違いない」
ときっと思うでしょう。
実は私も「怠惰=善」というのは違和感があります。
良い意味で使われることがほとんど見当たらないからです。
でも人生で一回だけ経験しました。
イラストの師匠、清藤先生の言葉、
「怠けようよ・・・」
です。
絵を描くうえで、「手を抜く」ということは、むしろインパクトや強調効果を考えた場合に必要なことで、「必要以外に描き込まない」のが鉄則だからです。
欧米人にとって、「生活」よりも「人生」を充実させるためにむしろ「怠惰」が重要だということです。
日本人は、
「今日できることは今日のうちに済ませろ」
と刷り込まれていますが、欧米人は、
「明日できることは明日に回せ」
と刷り込まれているようです。
「待ち合わせは、最後に来た人に合わせる」
「自由に仕事し、いつでもサボる」〔『最後はうまくいくイタリア人』より〕

それでも、日本人の中には、
「欧米人は、必要ないからやらないだけであって、それは怠惰ではない」
「必要なのにやらないから怠惰なのだ」
と食い下がる人もいるでしょう。
ところが私たち日本人は、「怠惰」という言葉のうちに暗黙のうちに「あってはいけないこと」という負の価値がはじめからあると思い込んでこの言葉を使っているのです。
(〈考えていない日本人〉の【差別】と同じ)
私も日本人だからその気持ちはわかります。
なぜそうなるのでしょうか?
欧米人は(清藤先生も)必要か必要でないかはともかく、「怠ける」とか「サボる」という行為に対して、「後ろめたさ」などの負の感情はないと言います。
「手を抜く」という肉体的表面的な〈行動〉をただ「怠惰」と表現しているだけなのです。
もう一度取り上げますが、
日本人は、
「今日できることは今日のうちに済ませろ」
欧米人は、
「明日でもできることは明日に回せ」
言い換えれば、
日本人は、
「出来るのなら『必要がなくてもやる』のが望ましい」
欧米人は、
「出来ても『必要がなければやらない』ほうが望ましい」
です。
それに加えて、日本人は「必要なのにやらない」という道徳的に負の価値をはじめから付随しているものとして「怠惰」という言葉を使うため、上記の、
★『必要がなくてもやる』という〈道徳的必要性〉
に反すると、
☆「後ろめたさ」という〈負の感情〉
が働いて、それを【怠惰】と表現するのです。
〈負の価値そのもの〉が【怠惰】になってしまっているのです。
〔思考停止した日本人の【差別】も同じ原理〕

*左寄りの日本人にとって〈地上的道徳〉は絶対であって、守らなければ人間失格であり、怠惰はその〈道徳心〉に反するからです。
地上の〈(小)善・(小)悪〉に思考がへばり付いているからです。(ユリゼンの僕)

⁑右寄りの日本人は〈権力〉に対して絶対視し、一方的な思考が働きます。
私は散々経験しましたが、右寄りの人は権力に「従わないこと」ではなく、権力に
【媚びないこと】
を悪とするのです。(ベリアルの子)
「なんで媚びないんだ」
「順応しなきゃだめじゃないか!」
という具合に。
順応性の高い女性はもとより、中学生までもが言うのです。
私にはそれは、
「この町の人はみなコレラに罹っている」
「だから、あなたもコレラに感染しなければならない」
というように聞こえるのです。(何度も言いましたけど)

※池波正太郎が言っていた戦後日本の、
「白だ、でなければ黒だ」
とはこれです。
まったく、頭がおかしくならない方がおかしいのです。

組織内部では、前述のように、
「プライド(自尊心)は余計なものだ」
「言い訳をしてはいけない」
などと、従業員同士で言い合っているのです。
これでは日本人は幸せになるはずがありません。
物質的生活の確保のためとはいえ、「権力」と「地上道徳」に帰依して「思考停止」してしまっては、霊的に言って進歩がなく、地上人生の意味がありません。
それを「我を捨てている」と美化する寺の住職もいるというのだから呆れます。
我(欲)を捨てているどころか、我(欲)があるからこそ「魂(なくてはならないプライド)」を売ってしまっているのです。
自らが奴隷となって身の安全を確保し安堵を得るという「奴隷意識」です。
それを「お国柄だ」(思想、様式の違い)と言って誤魔化す人もいます。
もちろん、欧米人にはそんなものはありません。(あっても嫌います)
むしろ真逆です。(アメリカの脱走の映画を見よ)
「プライド(自尊心)は必要なものだ」(冒頭のサッチャーの言及)
「言い訳をしてもいい、むしろ言い訳をしなければやっていけない」

そのため、それを「思想の違い」として片付ける人が多いのですけど。
様式の問題ではありません。
日本は病気なのです。
そういう人たちは、そうでない人に対して、
「あんたは外人なんだよ」
と言って、ノケモノにするだけなのです。
〈様式〉の(違いの)問題ではなく、地上の仮のものである「思想」にへばり付いて一方的にしか思考が働かない《状態》が霊的に大問題なのです。
地上の善悪に対して、〈白〉か〈黒〉なってしまっているのです。
超越して高い視点(霊的視点)に立てないのです。
《大悪》なのです。
霊的病気なのです。
「権力(ベリアル)」も「地上道徳(ユリゼン)」も〈仮の掟(偽神)〉であり、あくまで〈秩序〉を保つために方便としてあるものであって、帰依するものではありません。
帰依したからといって、社会が《平和》になるわけでもなく人間が《幸福》になるわけでもありません。
今の日本は、それを省察する習慣も切っ掛けもありません。
私自身はというと、ともあれ権力には「従う」けれども、「媚びる」ことはありません。
私がそんなことを言うと、
「それは逃避だ」
「逃げ口上だ」
「自己弁護だ」
という人が必ず現れます。
私は「魂の奴隷」になることから逃れているだけなのです。

これもまた話は同じで、「逃げる」という言葉に、はじめから「負の価値」が付随しているという前提で言うのです。
ならば、その人は在宅中の自宅が火事でも逃げないのでしょうか?
日本中、今はまさに自宅が家事なのです。
まさに『(天山)遯』の状態なのです。
その人たちは、「地上の掟に帰依している」というまさに「火事の状態」だということが分かっていないのです。
実際に私はそれで《人間》が崩壊した人をたくさん知っています。

【差別】も同様に本来は表面的な「行動」を言うのです。
〈言葉〉とはあくまで客観的な行動を指すもので、人によって正負・善悪・損得が曖昧なこと、すなわち「善悪の意識」にやたらと使うものではありません。
それを破ってしまったから日本人はおかしくなったのです。
それで〈野暮〉が蔓延しているのです。

最近、
【生徒の英語に「garbage〔ゴミ〕」発言 外国籍の教師“アメリカンジョークだった”】
という見出しがありました。
〔私のコメント〕
「温室育ち」を「腫れもの扱い」し、
学校側も
「不適切なものだった」
と「自己保身」を図る。
(仮のものである)地上の道徳や法律、コンプライアンス等で、自分や他人を縛り付けているのが今の日本。
これじゃ「幸福度が低い」のは当たり前。
どこに「人間」があるのかね?
〔[↑]1 [↓]3〕

【福岡・宮若市長「女は子供を産んで初めて女になる」…新たな不適切発言が発覚し陳謝】
〔私のコメント〕
「不適切」かどうか、そんなのとり方次第でしょ?
この件に限らず、こんな議論もうやめな!
〔[↑]23 [↓]34〕

言葉そのものに「誰にとっても絶対的に決まった正負の感情や価値」が予め付随していると思い込んでいるのです。(思考が地上にへばり付いた唯物論・実在論)
そのような人が日本に溢れているのでは、今にどんな【言葉】も使えなくなってしまいます。
結果的に、そのような人たちは、「あんたは偉い!」などと言って【ほめ殺し】をする輩に軽くひねられてしまうのです。

一方で、近頃こんな記事がよく見られます。
【「心の病」で休職した公立教員、過去最多 前年度比10.9%増】
〔私のコメント〕
日本そのものが〈精神疾患〉なのだから、教員が〈精神疾患〉になるのはむしろ正常な反応だ。
ならない人は「鈍感」と言える。
作家の池波先生が、
「戦後の日本人は、〈白だ〉でなければ〈黒だ〉と言う」
「頭がおかしくならないほうがおかしい」
と言ったのが、まさにこれなのだ。
[黒ハート]1 〔[↑]7 [↓]0〕
要するに、日本がおかしくなっていることは、実はほとんどの人が認めているのです。
ただ、その原因やメカニズムが解っていないのです。
多数派が、その原因と対策を〈制度〉とか言葉の〈表現〉とか、「末端のもの・地上的なもの」に求め、そしてまた白か黒かと地上的に「解決」しようとしているのであり、ピントがずれているということです。
胃腸炎の患者に、医者が風邪薬を処方して、余計に悪化しているという具合です。

★以前にも取り上げた、
「スピリチュアリズム普及会による『シルバーバーチの霊訓』の翻訳」
においても顕れています。
キリスト教でも仏教でも、人の死そのものを忌み嫌うことはありません。
誰もがみな死ぬのですから。
(☆社会通念としてある死を忌み嫌う思想は、殺人が横行しないように、秩序を保つために仮に置くものです)
それはまた、「自分=自分の肉体」ではないこと、自分が霊的存在であることを自覚することでもあります。
むしろ肉体の死は人生の完成(目的)を意味し、霊的観点からすれば祝福すべきなのです。
だからと言って、『愛する人の死を悲しむのはいけない』ということではないのです。
誰だって愛する人が死ねば悲しいに決まっています。
地上の人間には地上の事情があるわけであり、それを酌むのが聖人の教えです。
愛する人の死に際して悲しむのは、たしかに「自己憐憫」です。(シルバーバーチはそれだけを言っているのです)
ところが、スピリチュアリズム普及会の人の言い方からすると、実際に愛する人に死に際して「自己憐憫」で悲しんでいるのは、
「死んだ人を憐れんでいるのだ」すなわち「霊界の真理を知らないからだ」
と決め付けるような解釈なのです。
それならば、学校の卒業式で泣く人は、バラバラになる友達の卒業や門出を祝福しないというのでしょうか?
いささか短絡的な思考法です。
そうではなく、「自己憐憫」は「自己憐憫」でよいのです。【カエサルのものはカエサルに】
肉体を持っているのですし、感情もあります。
意思疎通ができなくなって、ショックを受けるのは当然です。
だからと言って、誰もが死んだ人に「不幸」をなすり付けているわけではないでしょう。
もちろんスピリチュアリズムの真理を弁えていれば、悲しみに「のめり込む」ことはないということです。【神のものは神に】
それだけのことです。
(*再三登場モーツァルトが友人Hが亡くなった時に記述した、「Hを気の毒だとは思いませんが、残された家族が気の毒でなりません」がすべてを物語っています)
スピリチュアリズム普及会の人間とあろう者がこのような思考であることに、むしろ私は嘆きます。
スピリチュアリズム普及会の人たちも、やはり今の日本人なのでしょうか。
ハッキリ言って、「地上の道徳」に毒されています。
概して地上の掟にのめり込むと、〈差別〉や〈怠惰〉の例のように、思考が白か黒かになって「寛容性」を失います。

「勤勉=善、怠惰=悪」という〈刷り込み〉は、偏った思想すなわち地上の道徳であり、日本という独特な国の秩序を保つための方便として必要ではありますが、あくまで「仮のもの」であって、それを省察抜きに「帰依」してしまうと危険なのです。
イエスやブッダなど古今東西の聖人たちはこれ(仮のものだということ)を言っているのであり、その点で今の日本人は道徳律を司る〈偽神(ユリゼン)〉に帰依してしまっていて、霊的に最悪の状態なのです。
つまり地上の道徳の〈(小)善・(小)悪〉に思考がへばり付いてしまって超越できないのです。
カエサルのものを神(偽神)に返しているのです。
これが《大悪》と呼ばれるものです。
専ら戦後の左翼思想に因るかどうかは微妙ですが、再三言う〈性善説の履き違え〉が原因です。
〔※性善説の善は、地上の〈小善〉ではなく、〈小善⇔小悪〉を超越した《大善》です〕
〔※昨今の著名人や有名人が、道徳に反することをしたとかで、プライベートなのにもかかわらず吊るし上げて仕事から排除するのも、その反映です〕

上述のイタリア人をはじめとする欧米人の価値観は日本人と真逆でしょう。
地上の価値観(仮のもの、小善・小悪)なので、どちらが良いとか悪いとか決めることはできません。
「価値観(の違い)」の問題ではないのです。
ただ、その真逆の思想があることを知って、自分たちの思想が地上における〈仮のもの〉であることを《省察》するきっかけを与えてくれるのです。
まさに「〈小悪〉によって、《大悪》を防ぐ」のです。
そして、〈小悪〉によって地上の善は〈小善〉と覚り、《大悪》から逃れて《大善》に向かうのです。
〈荀子〉を理解することによって、《孟子》を真に理解するのです。
地上(現象界・差別界)にいる人間は〈影〉しか追えないけれど、それを知ることで、全速力で〈影〉を追わなくなります。
〈第一の絶望〉を認めることで、《第二の絶望》に陥ることから逃れます。
そして聖人たちの言うように《善く生きる》ことができます。〔この善は大善のこと〕

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