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思考停止〔2〕 [思考実験]

昨年の〔ネットの記事〕にこんなのがありました。
【東大生が断言「行列店ではないラーメン屋の味をどう評価するか?」で”地頭の良し悪し“がわかる】
 結論から言えば、“行列店ではない(人気店ではない)ラーメン屋でも味の良し悪しを自分で判断できる人”は「地頭がいい」と思います。
 他人からの情報抜きでも本質的な味の部分を、きちんと自分の頭で評価できるのか。これはなにもラーメン屋に限らず、焼肉屋やイタリアンレストランでも同じです。
 大前提として、人間は事前に与えられた情報によって、大きく認知が左右される生き物。
基本的に他人任せなので、誰かの言ったことや、ネットに書いてある情報に従うしかできないはずです。
 ラーメンのような日常のささいなことからでもいいので「他人の評価や情報をあてにせず、自分の頭で考えてみる」ということを習慣づけてみるようにしましょう。
 ちいさなことの繰り返しによって、徐々に人生全体を通して「自分の頭で考えて行動できる人間」に近づけるはずです。

★みなさん、どうでしょうか?
言っている意味は分かりますよね?
さほど目新しい内容でもないですし。
でも、何か変ではありませんか?

もう気が付いた方もいらっしゃるでしょうね。
私はこの記事に対して速攻でコメントしたのです。
〔私のコメント〕
【東大生が断言】っていうのも、この話と一緒じゃないのかな?
〔[↑]64 [↓]4〕
〔私のコメントに対するコメント〕
このコメント天才!!
〔[↑]11 [↓]3〕
久々のヒット、大受けでした。
投稿した人は、
「他人の評価や情報に頼らないで自分の頭で考えろ」
と言っている人(東大生)の〈権威〉を利用して、その気にさせるのですから、結局は〈思考停止〉を促していることになるわけです。
実際、「天才!」とまで言われて、私がコメントするまで誰も気が付かなかったのですから、おそろしいと思います。
よく日本人は権威に弱いと言われますが、なにか、日本における宗教が〈カルト化〉するメカニズムが見えます。

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義理と人情 [中庸]

周知のとおり、近頃の日本はハラスメントだのコンプライアンスだのと、とかく野暮が蔓延しています。
まるで、法的な「不正」をなくしさえすれば、社会が清浄になり人々が幸福になると思い込んでいるようなのです。
「道徳や戒律では世の中清浄にならない」(ブッダの言葉)
をまったく弁えていないようです。
私に言わせれば、いつも言うようにそれは「唯物論(実在論)」に由来する「性善説の履き違え」なのですが、ますます深みに嵌まっているようでもあります。
私もつい最近、仕事のことでそういう目にあったので、たまらず取り上げました。

【*】
数年前、スカパーの時代劇専門チャンネルを観ていたら、たまたま初期の頃の『座頭市』(映画)を放映していました。
あまりにも印象が強かったので、今でも頭から離れません。
そこには、忘れられた日本人の義理人情が映し出されていました。
あらすじを掻い摘んで言います。

ある一家の男が旅路の座頭市に仇討ちを申し出た。
一家の男:「オレはおまえに恨みはねえ」
「だがなあ、仲間を殺されたヤクザの意地ってもんがあるんだ」
「こちとら、おまえの居合にやられて死ぬ覚悟はとっくにできているんだ」
「勝負しろ!」
市は堅気になって一緒になるつもりの若い女と並んで正座して言った。
市:「このとおり、あっしは、もう堅気になるんだ」
「許しちゃくれないか?」
一家の男:「ちぇっ!座頭市がなんてザマだぁ」
「よーし、それじゃ賽の目で決めよう」
「おまえが勝ったら、許してやる」
「オレが勝ったら、おまえの腕一本もらっていく」
「それでいいな?!」
一家の男が連れの女に結果を見届けるように言ってツボを振る。
市:「丁」
一家の男:「半」
ツボを上げると、どうやら半の目だ。
一家の男はやや躊躇いながらも、ゆっくりと片方のサイコロに指を置いて90度倒し、丁の目に変えた。
一家の男:「市、おまえの勝ちだ!」
「もう会わん」
そう言って、立ち去った。
市は低い声で連れの女に聞いた。
市:「半目だったんじゃないんですかい?」
女:「ええ」
市:「いい人ですねぇー」

一家の男は義理あるいは意地で仇討ちに来たのであって、勝ち負けではないのです。
そこで、市の片腕を持ち帰っても誰のためにもならないことは承知なのです。

【★】
ちょうど30年前のある日、仕事の後に私を含めて同僚10人ぐらいで、近くの中華屋さんで食事をし、そのとき私は紹興酒のボトルを一本空けてしまいました。
クルマで通勤していましたが、なんとか酔いが醒めた頃にクルマを運転して自宅に向かいました。
自宅まであと30秒という所で検問にかかり、酒気帯びでクルマを停めさせられ、降りて事情を訊かれました。
私がしっかりとしていたためでしょう。
警察官:「酒に強い方ですか?」
私:「はい」
警察官:「家は近いんですか?」
私:「はい、すぐそこです」
警察官:「職業は?」
私:「教師です」
すると、警察官は「にやっ」として、
警察官:「いろんな人が見てるから、気を付けてくださいよ」
「今日はいいですから、行ってください」
と言って、許してくれたのでした。
仕事(ノルマ)でやっているのであって、そこで私を捕まえたからといってどうなるわけでもないことは重々承知の上なのです。
当然ですけど、店が並ぶ繁華街で検問するほど警察は本来は野暮ではないのです。

【⁑】
昨今の政治家のパーティ券裏金の件で、亀井さんが検察官たちに苦言を呈していました。
「あんたたち、仕事でやってるんだろ?!」
「他人のアラばかり探るんじゃないよ!」

要するに、歯止めをかけるために業務として形式でやっているのであって、積極的に徹底してやれば世の中が良くなるというわけではないのです。
ともあれ正義を考えるなら、裁かれる側は、どんな悪法であっても罪を犯せばただ裁きを受け入れなければなりません。
でも人々の幸福を考えるならば、裁く側は、積極的に権力を行使するものではありません。
かつての日本人は、それを弁えていたのです。

日本はもう灰色が許されなくなったようです。
根本的な構造を変えないで、そのうえで、本来問題にしなくていい地上的な「不正」を問題にするようになりました。
義理人情が消えました。
日本列島は野暮天島になりました。
人間復活が望まれます。

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無償の愛 [霊的存在]

年末年始も病院は面会可です。
昨年6月頭から私は毎日、一日も欠かさず母に会いに行っています。
7カ月です。(ギネスブックに載るのではないか?)
もちろん母は調子の良い時と悪い時があり、月に一回ぐらいは感染症で熱が上がり、3日間は意識朦朧で話しができません。
今は食事も一日三食から一食へ。
少しづつ衰弱していきます。
母が入院してから1年と2カ月が経ち、途中、3月の下旬に老人ホームに移って10日でまた別の病院に救急車で搬送されて入院したのですが、実を言うと救急車を待っている間の応急措置のとき私は一度覚悟しました。(これで終わるのかな・・・)
以来私は9カ月間覚悟している状態です。(えっ?)
退院して家に帰る可能性も施設に移る可能性もなくなりました。
それでも私は、仕事の帰り、あるいは自宅から、猛暑でも極寒でも雨でも風でも、暗くなっても、病院に通い続けています。
面会の時間は30分と決められています。
その限られた時間で何をするかと言えば、まず、「抑制」という点滴を外さないように両腕を縛っている輪っかの紐を緩めて顔が痒い時に掻けるようにしてあげてから、枕を外して頭を抱えて、ブラシで髪をとかし頭の痒みを取り除いてあげます。
母は意識がはっきりしている日は必ず、
「ああ、気持ちいい」
と言います。
それから、足のマッサージをします。
足三里、三陰交、足裏・・・。
最近は退屈しのぎにと思って、最後にテレビをつけます。
4人部屋なので、イヤホンを耳に付けます。(外れないように、粘着テープを貼ります)
もちろん、そうしている間に会話をします。

私が到着すると、母は決まって、
「ああ、帰ってきたの?よかったぁ」
「やっぱりあなたがいるといい」
「どこ行ってたの?」
などと言います。
私は当然、
「自宅から来たんだよ」
とか
「仕事の帰りだよ」
と事実を言います。
途中の会話はその日によって異なりますが、いちばん多いのは以下です。

母:「死んだらあなたと会えなくなるのがイヤ」
「一緒にあの世へ行こう」
私:「一緒には行けないけど、行く所は一緒だからね」
「あとで一緒になるよ、20年かな、わからないけど」
「それより、先にあの世へ行った人たちがいるでしょ?」
「田島のお母さんやお父さん、伸悟叔父さん、竹下の伯母さん、おとうちゃん、おかあちゃん、・・・」
「そういう人たちが導いてくれるから、言うこと聞いて、ついていくんだよ!」
「あの世ではみんな一緒、というより一体だから」
「絶対にこの世に未練を残しちゃだめだよ」
もっとも、すぐ忘れるので、何度も繰り返し言います。(何十回言ったことか)
時間が来て、帰ることを告げると、決まって言うのです。
母:「どこへ帰るの?」
私:「自宅だよ」
母:「自宅って?」(母は病院にいる自覚がないので)
私:「ここは病院だよ」
母はとりあえず納得すると今度は、
母:「自宅に誰かいるの?」
私:「誰もいないよ」
母:「じゃ、つまんないじゃないの」
私:「つまんないって言ったってしようがないよ、誰も来てくれないんだから」
「そうじゃなくて、病院の決まりがあって、面会の時間が30分って決まっているから」
母:「ああそう、私も一緒に行こうかな」
私:「あのね、一緒に自宅に行っちゃうと、すぐ「キューッ」ていっちゃうの」
「看護師さんもいないし、お医者さんもいないから、何かあっても対処できないんだよ」
「大金持ちなら、専属の医者と看護師を雇って、一緒にいられるかもしれないけど、うちは大金持ちじゃないから」
私は何度もそう言い聞かせてなだめます。
それで、最後に、
私:「また明日来るからね」
「毎日来てるんだから」
「必ず来るんだから心配しないでね」
「もうこれしか方法がないんだから」
「これが最善の策なんだよ」
「というより、これがすべてなんだよ」
母:「うれしい・・・」
そう言って、なんとかその場から離れます。
帰り際に、看護師さんに、
「テレビがつけっぱなしなのでよろしくお願いします」
と断って、病院を離れます。

私は時々自分の日課を振り返ります。
毎日こうしていても地上的には進歩はなく、母が元気になって退院することはないし、私自身も明るい未来があるわけでもありません。
傍から見ると、カラクリ時計の人形のようにただ決まった行動を繰り返すだけです。
それに、終わったら終わったで、厳しい現実が待っているでしょうし、いずれは私も老いて死を迎えます。
その中で唯一、生産的で「生きている」と感じるのは、
「母と会って話したり髪をとかしたり足をもんだりすること」
です。
今の私にとっては、それが「すべて」なのです。
「私の前半生では、母が私に愛を注ぎ、母の後半生では、私が母に愛を注ぐ」
よく言われるのは、結婚して家庭を持って、
「家族に《無償の愛》を与えることによって《霊的進化》を促す」
ということですが、私には妻子がないので、その代わりが母だということです。
「肉親だから出来るのではないのか?」
と思われるかもしれませんが、無償であることことに変わりはなく、それが他の人や他の事に対する「愛」に繋げるようになれば、更なる霊的進化が望めるはずです。
いわゆる《スーパーラブ》です。
それがどの程度のことかわかりませんが、『ヘミシンク』の坂本氏によれば、《スーパーラブ》を実践できなければ、輪廻を克服することはできないと言います。

7年前にM親分がうつむき加減に私に残した真摯なメッセージ、
「お母さん(を)、大切にしたほうがいいよ」
の意味がやっと分かった気がします。
人間とは、
「自分が周りからどれだけ勝ち取るか」
ではなく、
「自分が他人や世の中にどれだけ施すことができるか」
ということです。
それが人生なのだということを、私の今の体験は教えてくれます。

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