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差別はあってはならないものなのか? (2) [中庸]

★記憶に新しいと思いますが、未だに、ある政治家が、
「差別をなくす」を「不当な差別をなくす」
に変更したことに対して、非難する人が大勢いました。
断言しますが、後者のほうが「真っ当」なのです。
なぜなら、
?地上の人間はみな【差別】をしているからです。
「えっ?」と思われるかもしれませんけど、社会とは何か、人間とは何か、言葉とは何かを例を挙げて省察すればわかります。
〔*もっとも、「なくす」というのは無理です。交通事故と同じでなくなりません。その都度「解決する」だけです。冷遇されている当事者が「不当だ」と訴え、裁くものが裁いて、解決して、平穏と秩序を回復するだけです〕
ハッキリ言って、上述のように非難する人は「何も考えていない」のです。
そういう人たちというのは、どうやら、
「不当なもの」を〈差別〉
と言い、
「不当でないもの」は〈差別ではない〉
と言うらしいのです。
単純に言えば、「侮蔑」や「迫害」を〈差別〉と呼んでいます。
それで、非難するのでしょう。
でも、「不当か不当でないか」を誰が決めるのでしょうか?

★もっとも、「侮蔑」や「迫害」または「排斥」でも、不当とは限らないはずです。
そうされても仕方がないとか当然だという輩がいるのではないでしょうか?
誰にでも一人ぐらいは思い当たる人がいるはずです。

日本人は狂ったのでしょうか?
地上の人間社会は、〈現象界・差別界〉と言って、あらゆるもの人間の都合で〈差別〉しているのです。
そのときの道具として「言葉」があるのです。
*まずそれを認めることです。
思い当たりませんか?
たとえば、自分が「外国人」と言った場合、外国人とそうでないものを分けるのは、自分の都合で見方や接し方を変える必要があるからであって、何らか偏見を持っているはずです。
★ある有名な弁護士が、◯◯人を誹謗中傷する人とケンカして、
「〈◯◯人〉と一括りにするな!」
と言っていました。
たしかに余計な属性は付加しないに越したことはありません。(オッカムの剃刀)
しかし、私たち人間は地上という〈差別界〉で社会生活をしているのであって、何事も「一括り」した言葉を使って、偏見と差別(区別)によって秩序と流動性を保っているのです。
「一括り」がいけないのであれば、「男は」、「女は」とか、「老人は」、「子供は」とか、「日本人は」、「中国人は」などと、言ってはいけないことになり、使える言葉がなくなってしまいます。
言葉そのものが「差別・偏見」なのです。
つまり、社会は「差別」や「偏見」で成り立っているのです。
「なくて済めばないほうがよいものがあるのが社会」
「しなくて済めばしないほうがよいことをするのが人間」
〔ジャコウネズミの小父さんとスナフキンの対決〕
私たち地上の人間は、【矛盾】の上に生きている、ということを胸に刻んでほしいのです。

もちろんそこで、◯◯人も様々であって、「不当だ」と問題にする人が現れます。
しかし、不当かどうかは、当事者が訴えて、裁く人が裁くのであって、第三者が訴えるのは筋違いなのです。
〔?客観的絶対的に不当なもの、不適切なものはないのです。それは唯物論から来る妄想です。〕

よく考えると、差別そのものは、優遇されるものと冷遇されるものがセットになっているはずであって、〈負の価値だけ〉というのはあり得ません。
本来は、男女差別であって、女性差別はおかしいのです。
同じく、年齢差別はありますが、老人差別は成り立ちません。
同じく、人種差別はありますが、黒人差別はありません。
これらは、権限のある方、優位に立つ側、多数派、牛耳っている人たちが言うことから、一方的な(上から下へ侮蔑する)言い方になるわけです。
〔*まれに下から上へ尊敬する言い方になることがあります〕
〔*アメリカにおける人種差別は本来は「白人と黒人」を差別するのであって、「黒人」を差別するというのは適切な言葉の使い方ではありません。しかし牛耳っている白人が言うので、それを日本人は「黒人差別」と表現するのです〕
〔*なにか、「差別」という言葉や行為に、勝手にはじめから前提として「負の価値」を付随させて話をしているようです。そうなる原因の一つは、優位に立つ側が、劣位に立つ側に対して冷遇し、たいがい「冷遇される劣位の側」が訴えるからでしょう〕

アメリカなどの人種差別(人種区別とは言わなかったこと)が原因なのか、本来は、
「Cが、AとBを差別(区別)する」
という言い方が正しいのですが、ある国における外国人を扱う時に、
「Cが、CとBを差別(区別)する」
事情ができて、それを、
「Cが、Bを差別する」(Cが、Bを区別するとは何故か言わない)
という言い方に変えて、それが定着して、〈差別〉が、上から下に「侮蔑」する意味になってしまったと思われます。
そういう事情で、日本語の【差別】と【区別】の意味が勝手に分離してしまったものと察します。

〔ネットの記事〕
【聖マリ医科大の入試「合理的理由なく女性を差別」 地裁が賠償命じる】
〔私のコメント〕
大学側は「理由(合理性)」があって差別したんだよ。
でも学生側は、「合理性がない」すなわち「不当な差別だ」と訴えたわけだ。
日本人のみなさん、【差別】には、
「問題にしなくていい差別」や「必要な差別」
があるということを知ってもらいたい。
そして、その差別が、
「正当か不当か」
は、当事者同士が主張して、裁く人が裁いて決めることだということ。
(絶対的客観的に不当(正当)な差別などありはしないのだ)
(絶対的客観的なものあるとするのが〈妄想〉であり、日本人の多数派が克服すべき〈唯物論〉が根底にあるのだ)
間違えないでほしい。
差別は「侮蔑」や「迫害」や「排斥」を伴うことはあるが、
「侮蔑」、「迫害」、「排斥」そのものではないのだ。
〔[↑]3 [↓]1〕

少し前、こんな記事がありました。
【「人殺しの息子」と石を投げられ16歳でホームレスに…「加害者家族」として差別され続けた男性の23年間の苦悩とは】
毎日、どこかで起きている様々な犯罪。加害者が罪を償うのは当然のことですが、同時に加害者の家族が差別や嫌がらせなどの被害に遭っているという現実があります。
「加害者の息子」として、そして同時に母親を殺された被害者として生きて来た男性の、20年以上にわたる苦悩と現実に密着しました。
父親が母親を殺害「人殺しの息子」として社会から排除される日々・・・・・

これって、〈差別〉なのでしょうか?
厳密には、〈迫害〉や〈排斥〉でしょう。
もちろん、言葉で「加害者」と「加害者でない」に分けているのですから、たしかに〈差別〉はしているのですけど。(差別が迫害や排斥になるとは限りません)
(本来は、「加害者でない」人たちと、セットで「差別」なのです)
ともあれ、当事者の「加害者家族」が扱いを「不当」だと訴えるかどうか。
それとも、「仕方がないこと」と受け止めて我慢するかどうか。
ということは、「問題」になるかどうかは当事者しだいではないでしょうか?
第三者が「問題」にするのはいかがなものでしょうか?

元来国語辞典には、「差別」に負(-)の意味はありません。
「区別」や「差異」と同義です。
それに対して、
「今は違うんだ」
「人間に対して『侮蔑』や『迫害』や『排斥』を【差別】と言うんだ」
「それ以外を【区別】と言うんだ」
と言って、居直る人たちが必ず存在します。
しかし、先人の作った言葉を勝手に捻じ曲げてよいという道理はありません。
それは冒涜です。
現に今でも、「商品の差別化」とか「無差別殺人」とか「無差別級」などと言う場合があり、その「差別」に負(-)の付加阿値はありません。
むしろ、正(+)の付加価値さえあります。
「人間に対して」という限定もありません。
単に分け隔てるだけで、「区別」や「差異」とほとんど同じ使い方です。
★この時点で、「今は今だ」という人は【間違い】です。
甚だ遺憾です。
実際、困るのです。
(*以前、日本における「トルコ風呂」を知って、怒ったトルコ人が呼び名を変えさせた事実がありますが、「同じもの」を「違う言葉」で表したり、「違うもの」を「同じ言葉」にしてしまうと不都合が生じるのは当然です)

〔※もう一度まとめて言います。〕
昔の辞書の表現を借りれば、先人たちはこの地上の人間社会を〈現象界・差別界〉と言って、人間の都合で、あらゆるものを〈差別〉しているのです。
その道具が「言葉」なのです。
社会は「差別や偏見」で(やっと)成り立っているのです。
そのために「言葉」が必要となるのです。
すなわち「言葉そのもの」が「差別・区別・差異・判別など」です。
当然、差別にせよ区別にせよ判別にせよ、人間の都合で分けているので、その人たちにおける善悪、損得、優劣といった「価値」が付随します。
もちろん、様々な価値観の人の都合で分けているため、そのときに当然「利害」が発生することがあります。
というより、何らかの利害が付随します。
みな「都合」で分けているのですから。
でも、たいがいは「問題」にしません。
いずれの場合も、それを基本的に当事者が「問題」にするかしないかだけです。
いずれの場合も、その問題を当事者同士が「解決」するかしないかだけです。
第三者が介入することではありません。
また、自分の価値観で分けているので、そのときに〈言葉そのもの〉に暗黙のうちに「正・負の価値」が付随します。
もちろん自分がある言葉に正や負の価値を付随させるのは「任意(勝手)」であるから、誰も問題にしませんが、そのことを《自覚》していないと、誰にとっても同じ正や負の付加価値を伴うものと決め付けてしまい、それによって「言葉そのもの」に正や負の価値が付随しているものだと思い込んでしまうのです。(客観的絶対的なものを前提とする唯物論)
結果、他人が同一の言葉を使った時に「悪く言った」と勝手に決めつける愚行が起きます。
「考えていない現代人」が使う〈差別〉という言葉がそれです。
それをする人は往々にして、自分の利害に関係ない「第三者」なのに、憤慨したり非難したりします。

とかく現代人は〈唯物論・実在論〉に侵され、《性善説》を履き違えています。
絶対的客観的な物や事が前提にあって、皆がそれを同様に感じているはずだ、という思い込みで、人と接しているのです。
ですから、言葉そのものにその「絶対的客観的な価値」が付随しているという思い込みから抜けられないでいるのです。
〔★〕「人は他人のことを良く思えば人間の中身が良くなる、良く思えるようになる、そうすれば世の中が清浄になる」と思い込んでいる人は、(性善説を履き違えた)〈ユリゼン信仰者〉です。
そういう人は、思考が〈地上〉にへばり付いているのです。(大悪・地獄)

そこから抜けるには、即座に省察が必要です。
地上の人間は、【小悪⇔小善(偽善)】の直線から逃れられません。
地上道徳によって人間の中身が良くなることはありません、他人を良く思えるようになりません、世の中は清浄になりません。
人の言動や行動は、所詮は偽善(小善)であり、偽善の延長上に本物の善はありません。

〔★〕私は処世術を言う柄ではありませんが、今の日本の状態を見かねて言わせてもらいます。
とりあえず他人があなたのことをどう言っているか気になったら、
【人は他人のことを良く言わないもんだ】
【他人は自分のことを良く言わないもんだ】
くらいに思っておけばいいでしょう。

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