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神の存在の〈証明?〉 [霊的存在]

いきなりですけど、
「あなたがロボットでないことを、私に証明してください」
と、ある人に言われたら、あなたはどうしますか?
証明出来ますか?
〔またまた難しい話がオッパジマッタってか?〕

ネットを見ると、物理学者たちは、未だに地球外生命を発見しようと、他の星を探索しています。
でもなぜか、地球に環境が近い星だけにしか興味がありません。
そのへんをもし私が指摘すれば、人はたいがい、
「地球型生物ばかりでなく、まったく違う構造の可能性もあるだろうと思うだろうが、それは見当をつけるのが難しいから、(プロの学者の事情もあって)可能性の高い地球型を探すというのが当然だ」
と答えるでしょう。
とりあえず納得がいきます。
しかし、論点はそこではないのです。
地球に環境が似ているところを探すということは、とりもなおさず、
「地球の物質と環境が《生命》を生んだ」
ひいては、
「地球の生物の進化によって、人間(知性、意識、精神、自我、霊)が生まれた」
という『前提』で、探しているということです。
(例外的に、霊的存在が宿るに適する身体や環境を探すと考える人もいます)
それは、「唯物論」が蔓延しているということに他なりません。
ひいては、その根源に当たる「実在論」(時空が絶対的客観的にあって、それを見ている、主客分離)に陥っていることを意味します。
このことは根っ子が深く、これを克服しないことには、何も進歩がありません。
〔【実在論】については、当ブログの『実在論』を見てください〕

よく、ある人が臨死体験をして、自分が肉体ではなく《霊》だとわかったということが度々報告されます。
ある脳生理学者は、自分が臨死体験をしている間、脳の機能が停止していたことを知り、肉体の働きと自分の存在は別だと覚ったといいます。
さらにその脳生理学者は、臨死体験中に出会った若い女性が、幼い頃に生き別れて若くして亡くなった妹と判明し、死後の世界の存在を確信したといいます。

でもそれは、どんなに言い張っても「他人」の体験です。
聴く側はどうあがいても、それを「信じるか信じないか」だけに留まります。
自分という存在が《霊》であることは、神の存在と同じく、唯物論を前提とする「存在証明」とは無縁であり、いくら自分が自らの臨死体験で覚っても、他人を説得できません。
霊や神の存在は【自覚】でなければ意味がありません。
そうかと言って、誰もが臨死体験をして生還できるわけではありません。
誰でもヘミシンクで成功するとは限りません。
では臨死体験をしないで【自覚】することはできないのでしょうか?
実はその唯一の方法が《省察》なのです。
理性によって、霊や神を知る道です。
特別な修行は要りません。
自分の思考を反省するだけです。
そして、その手助けをするのが私の仕事です。

「《世界》とは「自分の世界」のことである(ヴィットゲンシュタイン)」
「《自分》とは「自分の世界」のことである」
すなわち、
「自分の身体から宇宙の果てまで《自分》である」
「あなたの身体から宇宙の果てまで《あなた》である」(主客合一、絶対矛盾的自己同一)
「あなたも私も、はじめから在る」
エドガーケーシーのリーディングに、
【ある時点で、神はご自身の中から一斉に魂を放出された。どの魂が新しく、どの魂が古いというのではない。同時に宇宙で存在を得た】
【我々自身が小さな創造主そのもの、クリエーター(創造主)である】
とあります。
あなたも私も、それぞれ一つの世界を形成し、神〔大霊〕の側面であり、独立しているのですが、一体であり、神との共同参画の一翼を担っているのです。(ワンネス)
こういうことは、特別な人たちに頼らなくても【省察】することで覚ることができるのです。
私はひたすらにそれを勧めます。

存在とは〈自分(その人)にとっての存在〉です。
誰にとっても存在するという絶対的客観的存在は、語り得ぬことを語る【顛倒妄想】に他なりません。
社会的活動をするために仕方なく『実在』としているだけです。
〈妄想〉があって社会が成立しているのですから、〈妄想〉があってはならないとは言いませんが、物事を理解するには、〈妄想〉であることを《省察》する必要があります。

「生命は地球の物質から生まれたのではない」
とか、
「我々人間のような知的生命または霊的存在は生物の進化から生まれたのではない」
「はじめから在るのだ」
などと言うと、唯物論者たちは例外なく、否定する根拠もないのに否定します。
そこで、彼らに、
『ではあなた自身は、地球の物質から生まれたと思いますか?』
と問い掛けると、本当はそう思わないのに、
「その疑問を解決するために、どうしても神の存在を認めたくなるのだろうが、云々」
と、敬虔な人に向かって、頭が弱い人が「在りもしないもの」に拠り所を求める愚行だと決めつけて言うのです。
そして、最後には、
「では、どうぞ神の存在を証明してください」
と言うのです。
まったくピントのずれた言動です。
まったく困った人たちです。
なぜ困った人なのかというと、《神》とは何かが分かっていないからです。
また、〈存在証明〉とは何かが分かっていないからです。
根っ子の深い、凝り固まった〈実在論者(唯物論者)〉です。
そもそも〈存在証明〉というのは、誰にとっても客観的に存在するものを示すことですから、「実在論(唯物論)」という【妄想】を前提とするのであって、《神》や《霊》とは相容れないのです。
なぜなら、〈実在論(唯物論)〉という妄想を克服した暁に、《霊的自覚》すなわち『神や霊』を「体感」できるからなのです。
神や霊は「証明」ではなく、【省察】によって体得するのです。

くどいのですが、言ってみれば、
「神(霊)の存在を証明してください」
というのは、語り得ぬことを語ることであり、(ロボットに自我がないと仮定すると)
「あなたがロボットでないことを私に証明してください」
「あなたの歯の痛みそのものを、今すぐ私に体感させてください」
と言うのと同じなのです。
たとえば、あなたが腹痛の時であっても、他人から、
「本当に腹が痛いのか?」
「そう言っているだけじゃないのか?」
「おまえはアンドロイドかもしれない」
と言われたらどうするでしょうか?
いくら言っても、言い負かすことはできないのですから。
それでも、あなたは自分に意識があることは自覚しているはずです。
でもどうやってそれを他人に証明するというのでしょうか?
出来るでしょうか?
〈証明〉はできません。
〈証明〉ではなく、《自覚》あるのみです。
「神(霊)の存在を証明してください」
という人たちは、そもそも《神(霊)》とは何かがまったく分かっていないということです。
確実に言えることは、外界のもの、どこかの空間を占めて、「自分の外」にあるものと思っているということです。
(光あれ、エイ、ヤーと言って・・・でもそれは神ではなく魔人です)
それは、「外界」という〈時空〉が自分の視点に関係なくはじめから前提としてあるという〈実在論〉(唯物論)そのものなのです。
そういう人たちのうち、神や霊を信じるという人が「(神)盲信者」です。
信じない人というのが「唯物論者」と言われる人です。
神盲信者は神がいる方に賭けているだけであって、頭の片隅に疑いは残ります。
「でも、居るか居ないかのどちらかであって、自分はいると思うから、神を拝んで救われるんだ」
という姿勢なのです。
まったく心得違いです。
聖人たちの言う《神(霊)》の存在とは、〈信じる〉(賭ける)のではなく、《知る》(体感する)のです。
一人ひとりが独立した霊であり、神の分霊であり、自由意志を持ち、神の側面を担い、神と世界を共同制作しているということです。
人間のレベルの霊にだけ、自由意志が与えられています。
〈人間に自由意志があるとすると、その人の未来を神は知らないことになり、神の全知全能性に反するのではないか〉
と、以前私は思ったものですが、自分が神の側面であり共同制作者だとすれば、合点がいきます。
肉体の死後、集合霊に組み込まれても、自分という実体(アートマン)はあり続けます。
(*よく、断見の人が輪廻転生を否定するときに「流転する」ということを理由にしますが、「何」が流転するのか(?)という主語の「何」が不滅だからこそ流転の意味があるのであり、不滅なものがなければ、単なる「別個」のものにすぎません)
【人間に与えられた特権の中で最も重要なものは、自由意志だ(エドガーケーシー)】
【Be yourself, yet One with ALL「あなたはあなたという自分を失うことない、しかしながら全体とひとつである(エドガーケーシー)」】
【私たちは創造エネルギーそのものであり、どんな人にも自分の核自我(コアセルフ)がある(ロバート・モンロー)】
【★】理解し難い『モナド(単子)』も、このように『実体(アートマン)』としてみれば、辻褄が合います。

繰り返しますが、インドの修行者に、「神はいるか?」と聞くと、自分の胸を指して、「ここに居る」と言います。
神は各人の中にあり、物質的に見れば、すべての人を包み込みます。
時空における森羅万象は神の反映です。
《内包》かつ〈外延〉です。

いわゆる「異星人」は、我々の同朋であり、
「人類」ではなく、
【人間】という霊的グループなのでしょう。〔フォーカス35〕
今の地球人類は、もともと他の星から来たもので、もっと『波動(物理学者は認めませんが)』が高かったのですが、〔ムーの頃〕訳があって人類に入り込んで〔アトランティスの頃〕波動が低くなったようです。
結果的に、他の星の宇宙人は今の地球人より波動が高くて普段は見えなくなっているけれど、まれに遭遇する「宇宙人」は、波動を落として人類に接するため、見えるということなのでしょう。
よって、
我々人類は地球で生物が進化して生まれたのではなく、他の宇宙人もその星の生物が進化して生まれたのではないようです。(他の天体で微生物を探しても波動が違うから無駄です)
【人間】は最初から「在る」のです。
〔ある時点で、神はご自身の中から一斉に魂を放出された。どの魂が新しく、どの魂が古いというのはない。同時に宇宙で存在を得た(エドガーケーシー)〕

〔【★】HITOPEDIA[ヒトペディア]より抜粋〕
ライプニッツの哲学において、あらゆる事物を構成する究極的要素となる、分割不可能の単純な実体をさす。モナドは、ギリシア語で一をあらわすモナスに由来し、能動的な活動性を持つ力の中心で、空間的な広がりを持つ物体的な原子(アトム)とは異なる。モナドの能動的な力は、物体を表象する精神の力となってあらわれ、モナドは、表象の明晰によって、暗い無意識な無機的物質から、明るい意識を持つ理性、さらには最高の神までの段階がある。モナドは、外部と交渉を持たない「窓のない」独立した実体であるが、個々のモナドの表象が一致して宇宙の調和的秩序が存在するように、神によってあらかじめ定められている(予定調和)。無数のモナドは、独自に全宇宙をみずからの内にうつし出す生きた鏡。宇宙全体を表象する小宇宙にたとえられる。

ライプニッツによる実体とは、単純にして広がりのない、不可分なものであり、その本質は作用する生き生きとした力であるとした。それはあらゆる有限的事物の根底に存在し、そしてみずから働くものであある。この点でデカルトやスピノザが考えた実体が単なる幾何学的・機械論的であったのに対して、ライプニッツは、生物学的・目的論であるといえる。そして、ライプニッツはこのような実体をモナド(MONADE)と名付けた。

「すべての被造物が各々の被造物と、また各々の被造物が他のすべての被造物とこのように結びつき対応しあっているということは、それぞれの単純な実体が、他のすべての単純な実体を表出する様々な関係をもっていること、したがって、単純な実体は、宇宙を映し出す永遠の生きた鏡であるということを、意味している。」

【モナドには窓がない】
モナドは無数に存在して全宇宙の根本本質になっている。一切のものはモナドによって成り立っているが、原子(アトム)のように空間的に満ちているものではないく、空間規定を超えた非物体的な実体、いわば形而上学的な点である。空間的な物体はモナドの働きによって生じた存在によって成り立っている。モナドは不可分で独立しており、永遠的なものであって生成・消滅することはできない。また、それは非空間的であるから、外部から影響を受けることができない。従ってモナドはそれぞれ独立的であり、相互の間には何ら因果関係が存在しない。「部分もなければ、ものがでたり入ったりできるような窓もない単純な実体であり、モナドはただ自己自身の働きによってその諸状態を変えていく。

【モナドは宇宙全体を映し出す鏡】
モナドの本質をなす働きとは、精神の働きからの類推による表象である、といえる。そしてその表象されるものは宇宙全体である。モナドは決して同一の仕方で宇宙を表象するのではなく、それぞれの立場からあるものは明瞭に、またあるものは、不明瞭に宇宙を表現するのであるが、とにかく宇宙全体はモナドの中に表現されているのであり、モナドは宇宙の全体を映し出している鏡であるといえる。

【神と予定調和】
モナドは相互に独立的であり、それぞれ自己の内部のちからによって表象を発展させてゆくのであるが、独立的なものが相互に対応するように調和させられている。これこそが神の働きによるものであり、神が予め各々のモナドをしてそれぞれの立場から宇宙を反映するように定めておいたからこそ、各々のモナドをしてそれぞれの立場から宇宙を反映するように定めておいたからこそ、各々のモナドの間には何の作用も属しないにもかかわらずお互いに調和を保っている。宇宙が神に寄って創造され、予め『予定調和』があるとすれば、世界に悪はなく最善でなければならない。悪を形而上学的悪、自然的悪、道徳的悪の三種類にわけているが、(*)このような悪は積極的な意味を持たず、完全性の欠如にすぎない。完全性の欠如により悪があるかのように思われるが、全体としては最善なのであり、(⁑)小さな悪はより大きな悪を防ぐべきものである。

(*)荀子の『性悪説』と孟子の『性善説』に相当します。
(⁑)日月神示の「ミロクの道は悪を抱き参らせてこそ進む」に相当します。

みなさんどうでしょう?
ネット民を見てわかったのですが、世間に蔓延る〈唯物論(実在論)〉に疑問を抱く人は意外と多いのです。
【自分=自分の肉体】ではないことを漠然と認めている人は多いのです。
半数を超えています。
ところが、それをどう表現したらいいのか、また唯物論者をどう説き伏せたらいいのかがわからないでいるようです。
このまえ、教え子の女生徒たち数人に、試験前の次週の時間に、《神》について上述のような《産婆術》を披露したしたところ、
「ハッセー、イエスのレベルじゃないの?」
「こんな所に居ちゃいけないよ」
「聞けて良かった」
なんて言って、感動していました。
ここに来てくださる皆さんにとっても、少しでも力になれば幸いです。

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