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《善》とは [中庸]

先日のこと。
混雑している地元の駅の『スタバ』に入り、1つだけ空いていた2人用の席にカバンを置き、カウンターでコーヒーを受け取って戻り、ゆっくりと飲んでいました。
「これからどこへ行くでもなく、1人だし、家に帰ってからまた夕食に出かけるとするか」
そんな感覚で時間を過ごしていると、そこへ、50代ぐらいの男性が入ってきて、私と同じように店内を見渡し、席が空いていないことを確認して、出ていこうとしました。
そこで私は咄嗟に立ち上がり、幸いその人がこちらを向いたので、今居た席を指差し、無言で「もう出るからどうぞ」と、意思を示しました。
私はカップの底に残っていた微量のコーヒーを飲み干し、カバンをもって立ち去ろうとした時、その人は、
「ご親切にありがとうございます」
とお礼を言いました。
私はただひと言、
「ええ、もう終わりますから」
と小声で言って、出ていきました。
まあ、よくある日常のやり取りなのですが、もし私が底に残っていた微量のコーヒーを飲むという「自分の都合」でその場にとどまって、その男性を追い遣ったとしたらどうなったのかと、思い返したのです。
ふと8年前のことを思い浮かべました。
「カネを使うと、なぜかカネが入ってくるんだよ」
とM親分に言ったら、
「そう、それ不思議だよね」
と返ってきました。
景気の好循環はこれに尽きるのですけど、自分一人がやってもすぐにどうなるわけではありません。
ただ、この世界は「五次元世界」です。
みな「自分」なのです。
みな繋がっているのですから、何らか影響を与えていることは間違いないでしょう。
今回も私が席を譲ったからといって、すぐに世の中が動くわけではありませんが、積極的に働きかけることで、何らかの形で結果となって表れるはずです。
そんなことを思い巡らせていました。
でも、「結果」を期待するのは、なにか変です。

その男性の言った
「ご親切に・・・」
そこで思い出しました。
3カ月ほど前のこと、空き時間に外に食事に行く途中、いつもの道を歩いていたら、向こうから歩いてきた60歳前後の男性が私に会釈をしました。
知り合いかと思って私も咄嗟に会釈をしましたが、そうではないらしく、どうも駅へ行く道がわからないので教えてほしいということでした。
私は「えーと」と辺りを見渡した後、「ああ、こっちです」と言って道案内することになって、脇道に入って一緒に歩き始めると、その男性は言いました。
「わざわざご親切に」
「何か信仰していらっしゃるんですか?」
と聞くので、私は事情を説明しようか一瞬迷いましたが、もしも宗教団体の人だったら、かえって面倒なことになるので、
「いえ、まあ日本人はみんなそうじゃないですか?」
「どうせこっちに用があるので」
とはぐらかし、大通りに差し掛かった角で、右手で指し示して、
「ここを真っ直ぐ行けば駅です」
と言って別れました。
それにしても、「親切にする」というのがそんなに特別なことなのでしょうか?
私は当たり前だと思っていたのですが、どうもそうではないらしいと今さらながら知りました。
【すべてはみな繋がっていて、世界=自分の世界=自分そのもの】
そのような私の省察が行動に顕れているのか、その男性がその筋の人だったのか、いずれにしても《敬虔さ》を見破られてしまったわけです。
おそらく、私は霊的自覚を通して、エゴを「消す」ことはできなくても「エゴイズム」には陥らなくなり、それが「親切な行為」となって顕れているのかもしれません。

この「自発的な衝動」が『性善説』や『善知識』の《善》に当たると考えればよいでしょう。
神仏の光とか、慈悲とか、愛とか、どう表現してもいいと思います。
反映として現れる地上道徳的な善行(小善)ではなく、根源にあるものです。
それは霊的自覚や諦観によって体得されるものです。

神仏の「光(愛・Agapē)」が地上の人間に当たって、その人や集団の価値観やその場の事情によって「明と暗」に分かれ、世間一般では「情愛(Affection)=明・非情(Heartless)=暗」、ある場合(職人の師弟関係など)には「情愛(Affection)=暗・非情(Heartless)=明」となって顕れます。(厳しさが優しさ、愛の鞭)
私の場合はほとんど前者ですが。
世間一般の“間違い”は、この地上における「影」の〈小善〉を『性善説』の《善》だと受け止めてしまうことです。
私が再三言う〈『性善説』の履き違え〉とはこれです。
ソクラテスの「善く生きる」というのは、価値観によって変わってしまう地上の〈小善〉ではなく、地上を超越した《大善》のことであって、「諦観」をもって生きること、真の意味で「幸福」であることを知って生きることと言えます。

いずれにしても地上にへばり付くことが《大悪》であり、〈エゴイズム〉とは自分のエゴを超越(諦観)できないことによる《大悪》です。
地上の〈小悪⇔小善〉を超越すること、
田坂広志氏の言葉を借りれば、
「エゴがある自分を認めて、もう一人の自分を設けて、静かに見つめること、諦観すること」
が《大悪》から離れること(荀子の『性悪説』の真意)であり、それがすなわち《大善》なのです。
三木清が言った、
「他人に施したから幸福なのではなく、幸福だから人に施すことができる」
というときのこの「幸福」とは、「霊的自覚」あるいは「霊性を得ること」と言えます。
つまり神仏の「光」に気付くことです。
そのように振り返ると、私がスタバで席を空けて譲ったことも、結果を想定した「計算」ではなく、(雑毒の善であったとしても)ふと自発的に出た行動だと自覚できるわけです。
この自発的な部分、純粋な部分に着目していただきたいのです。
順番を考え直していただきたいのです。
地上の「小善⇔小悪」を超えた《善》が孟子の伝える真意です。

《聖人や賢人またはスピリチュアリスト》が言う【善悪】とは、《大善⇔大悪》〔神のもの・天国・極楽浄土〕のことであり、地上の〈小善⇔小悪〉〔カエサルのもの・地獄〕を含んではいるものの、「仮のもの」であると知るため白か黒かに終始せず、諦観をもって超越しています。
なお、地上的な「正当・不当」に関しては、〈実利害損得〉のみ問題にし、世法をもって処理するだけで、それ以上は追及しません。
それに対して、〈多数派である地上の住人たち〉が言う【善悪】とは、〈小善⇔小悪〉〔カエサルのもの・地獄〕のことでしかないため、小善、偽善の延長に「本物の善」を追い求めてしまって、対極の〈小悪〉をすべての元凶として駆逐しようとするため、価値観の違いで争い事が絶えず起こり、時には自分自身を攻撃してしまいます。(まさに地獄です)
なお、聖人や賢人の「小悪を含んで超越するあり方」を「悪を“正当化”している」と受け止めるのです。

*昨日は『バーミヤン』で、隣にいた親子(父母と小学生の女の子)が帰ろうとした時に、座席に何か黒い衣類のようなものが見えたので、最後に去ろうとした女の子に、
「あっ!忘れ物かな?」
と声をかけ、事なきを得ました。
女の子は、「ありがとうございます」と言って軽く会釈をして去りました。
⁑今日は夕飯に行く途中、駅近くで自分の前を歩いていた若い女性が、カギを落としていったので、すぐに私は拾い、追いかけて声をかけました。
「鍵を落としましたよ」
それでも一向に振り向かないので、速足で近くまで行って声をかけましたがやはり振り向かず、たまたまそこにいたお巡りさんが、女性の肩を叩いて気付かせて、ようやく鍵を渡すことができました。
「ああ、ありがとうございます」
と言う日本語からして、どうやらその女性は中国の人でした。
お巡りさんは私に、
「ご苦労様!」
とひと言いました。
何の変哲もない日常の営みの中に、実は重要な意味が含まれているのです。

【※参考】〔『太陽の法』より引用〕
古来から、善悪二元論については、様々なことが言われてきました。その根本問題は、人気のつくられた世界に、なぜ、悪が存在するのか、悪とは、仏自らのなかにひそむ性質なのかということでした。しかし、悪は、もちろんのことながら、仏自らの性質、すなわち仏性ではありません。悪とは、仏の大願成就を阻害することです。あるいは、仏から自由を与えられた者同士の相剋、お互いの自由と自由がぶつかりあって、一定の時間、ゆがみなり、ひずみが、心の世界に、あるいは、現象世界にあらわれているものにすぎないのです。つまり、(叡智界・実存界における)根源的存在論としてではなく、(地上現象界・差別界における)機能論、行為論として悪(小善に対する小悪)はあるのです。〔日月神示:弥勒は悪を抱いて参る〕

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