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律儀が過ぎると [中庸]

16年前のこと。
私はT校で1年間だけ常勤講師として高2の学級担任をやり、年度の終わりの3月中旬に修学旅行の引率をしました。
行きは、大回りになりますが東京駅から指定された時刻の「成田エクスプレス」に乗って、車内で他の教員と合流し、成田空港からオーストラリアへ出発しました。
成田エクスプレスの特急代は、あらかじめチケットを学校が用意してくれていたので、問題ありませんでした。
ただ、帰りはチケットが用意されていないので、自分で買って乗って、あとで学校に代金を請求する形となっていました。
ところが、成田空港から自宅までは、在来線のほうが近いので、「快速」で小岩まで帰りました。
数日後、学校で交通費の請求をするときに、学年主任に言いました。
「実は私、帰りは快速で帰ったんですよ」
「どう書いたらいいんですか?」
学年主任はすかさず言いました。
「成田エクスプレスの代金を請求すればいいじゃないか」
私は少しためらいました。
というのも、先に貰ったのならともかく、また当然貰うべきものとはいえ、
「ウソをついてまで請求するというのは誠実さに欠けるのではないのか?」
結局、先か後かの違いだけであり、快速の料金を調べるのが面倒くさいこともあって、成田エクスプレス代を請求しました。
もちろん律儀な人ならば、かたくなに拒み、しっかり調べて快速代だけを請求することでしょう。
それでは、私の行動は霊的に不正になるのでしょうか?
律儀な人に言わせれば、私の行動は明らかに堕落でしょう。
でも神の目から見ると、けっして許されないことではないはずです。
なぜなら、神は地上の人間の損得や〈善悪〉には寛容であり、「否定」はしませんから。
いわゆる「地上の住人」ならば、迷わず成田エクスプレス代を請求するでしょう。
「損得勘定で得だから、金銭のためならウソをついてでも貰うのが当然だ」
という思考が霊的不正なのです。
「迷いがないこと」が霊格の低さを表しているのです。
地上の〈損得〉に執著しているということです。

では私はというと、「その気」にならなかっただけです。
「誠実」が先立ち、迷いが生じ、積極的な損得の意識が上らなかったのです。
ただ、徹底はしません。
要するに、欲はあっても強欲はないわけです。
そういう在り方は、ある種の地上的成功者からは「無能」に見えることでしょう。
ここが分かれ目なのです。
ならば、「律儀な人」はどうでしょう。
損得の観点から見て「道徳的に立派」なのであって、争い事は起きませんが、徹底しているということは、むしろ地上的な「執著」が強いということでもあります。
霊格が高いということは、「カネ」がないことではなく、「カネへの執著」がないことです。

まとめます。
本来の神仏の光、メッセージ、宗教というものは、感覚的なことではなく意識に上らないため、インパクトがなく、つい地上的なことにすり替えて解決に走ってしまいます。
ある人が言う「機会平等」を「結果平等」にすり替えることもそれを顕しています。
喩えれば、健康な状態に戻すはずの「漢方薬」は効き目が弱く遅いために、つい即効性のある「西洋の薬」に頼ってその場を解決してしまいますが、それだけだと身体を蝕んでしまいます。
神仏とは何か、宗教とは何かを感覚ではなく魂の目で(省察で)とらえることが必要不可欠です。

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エクスタシー [中庸]

一方で、盲信者、特に神盲信者は相変わらず根っ子が深いようです。
ある仏教寺院の住職がある欧米の教会に行った時の証言です。
「十字架から下ろしたイエスさまをマリアさまが抱いている像なんですが、時空が歪むような聖性を感じて、その前から動けなくなったんです。」
住職はいっそのこと洗礼を受けようと思いましたが、周囲から止められたそうです。

そういう霊感の強い人はみな、おそらく霊が直接注入されるような「エクスタシー」を覚えることでしょう。
そして、キリスト教に嵌まる人たちはみなこう言います。
「それはキリスト教信者でなければわからない」
と。
でも、あいにくそれは神ではありません。
高級霊でもありません。
ハッキリ言いますが、そこに居るのは〈(大勢の)人の想念が作った低級神〉です。
一足飛びに天国に行けるように救いを求めて祈るおびただしい盲信者の想念が作った「アンドロイド神」です。
キリスト教だけでなく、イスラム教もユダヤ教も同様です。
このことは、ペトル・ホボット氏ほか「霊に通じている人たち(霊格が高いとは限りません)」のすべてが証言しています。【*】
もはやそれは宗教ではありません。
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聖書も他の聖典もすべて地上の人間の「言葉」で書かれています。
言葉は末端の表現であり、一面的で不完全です。
ところが、ほとんどの信者は、末端の表現に囚われ、「本質」を見抜けません。
エクスタシーを覚えたうえでのことですから、聖典を『聖遺物』として扱い、一字一句を付け足したり削ってはいけないという「盲信」に簡単に陥るのです。
結果、自分の宗教は「鵜呑み、鸚鵡返し」、他の宗教に対しては「ツバメ返し」、挙句の果てに、
「コーランを暗唱できない人質は射殺する」
となるわけです。

宗教とは(字のごとく)切っ掛けを与える「教え」があって、実践して「中庸」を得ることです。
人間の活動を何もしないで救われるのは「宗教」ではありません。
ダンテは神に一足飛びに天国に行けるように救われることを願ったのですが、それは許されず、直接天国へ行く道には猛獣が立ちはだかっていて通れず、やむなく地獄煉獄巡りをすることになったのです。
「可愛い子には旅をさせよ」と言うように、ペットを飼うように箱に入れるだけで旅をさせないのは本当の親ではありません。
同様に、息子を放蕩させないでシャブ漬けにして引きこもらせるのは本物の神であるはずがありません。
それでもシャブ中の息子はエクスタシーを覚えて、救われた気でいるわけです。
これはいわゆる「疑似天国」という地獄の一種であり、死後も続きます。
もちろん、教会に居座る霊的存在が本物の神かアンドロイド神か、霊能者でない私には判断できませんし、このシャブ中の息子たちも一般人である限り判断できません。
私は霊に通じている人たちの証言を受け入れることと、放蕩息子に放蕩させる機会を奪うということで偽物と判断するだけです。
宗教的体験と言っても、神や仏と出会うことは、けっして「エクスタシー」の体験ではありません。
ひとえに中庸です。
しかしそれを言うと、キリスト教盲信者は、
「そんな東洋のものとはレベルが違うんだ」
と言い張り、あくまでもキリスト教の優位性を主張します。
でも一説によると、イエスは若い頃にインドに行ってインド哲学やインド占星術を学んだと言われます。
イエスの霊感もただで開花したわけでなく、何らかの刺激があって地上人生に具現化されたのです。
だいいちに、キリスト教自体が4世紀に別なものに変えられています。
聖書も教会組織に都合よく書き換えられています。
それでも聖書におけるイエスの言葉は、私からすれば、すべて「中庸」を促すものとして読み取れるのです。
「中庸」とは、即非や絶対矛盾的自己同一、性善説と性悪説の正しい解釈など、あくまで自分の実践によって、地上の〈善悪〉や〈白黒〉を超越し苦難を乗り越えることです。
悪人正機(性悪説・機の深信)によって、
「もう自分は救われないんだ」
と思った(覚った)とき、《霊の窓》が開いて、そこに上から神仏の光が差し込むのです。(性善説・法の深信)
放蕩息子は自分の経験を機に自分の意思で帰宅するのです。
そのときの境地はけっして受け身の「エクスタシー」ではありません。
地上経験の課題を克服したときのこの上ない《充実感》(親鸞会の言葉を借りれば渋柿が樽柿になって甘味になる)です。

当ブログでいつか言いましたが、〔2021.1.5〕
ジャコウネズミ:「無駄じゃ、無駄じゃ、まったく無駄じゃ、すべて無駄じゃ」
スナフキン:「無駄なことをするのが人間じゃないのかね?」
がすべてを語っています。
と言っても、けっしてジャコウネズミが思い違いをしているわけではありません。
ジャコウネズミのおじさんは、長い地上経験の末にその境地に達したのですから、それでいいのです。
いけないのは、それをはじめから若者や子供に押し付けることです。
あくまで『本人によるその過程そのもの』が、地上に生を受けた意味なのです。

【*】ホボット氏によれば、《神道》は良い、《仏教》は「人間が他の動物に輪廻転生するということはないが、そのことを除けば良い」とのことです。

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スターシード [霊的存在]

《スターシード》とか《ライトウォーカー》とかスピリチュアルではよく言われます。
以前もヤコブ・モルガン氏の分類で、私が1割にも満たない「改革派」に当たることを言いましたが、特徴からして、私はどうやらそれらしく、その中のプレアデス(?)のようです。
どおりで、地球上の人間世界で起きていることを見ると、やけに地べたに這いつくばっているように見えるはずです。
もしそうなら、少数派ながら地球を光で満たす使命があってこの地球に生を受けたのですから、困難が続くのは当然のことです。

今、新興宗教の2世信者が虐待を受けたとか、偏見を持たれたとか、進学を断念したなど、実害を被ったと言って世間を賑わせています。
これは新興宗教に限らないことで、組織宗教には付き物です。
私から見れば、唯物論者は宗教に携わっていても、やはり唯物論者であり、思考や行動はあくまで地上的です。

エホバの「輸血(拒否)」にしても、統一教会の「結婚」や「養子縁組」にしても、キリスト教一派の「中絶(妨害)」にしても、霊的に正しいことと正しくないことを、一方的かつ一面的に地上の社会における人間の活動にそのまま反映させるというのがそもそも間違いです。

イエスの言った、
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」
を理解できないようです。
地上には地上の事情があり、それを神は超越するだけで、「否定」はしません。
神のものをカエサルに返してはいけません。
霊的な正不正をそのまま地上の正不正に反映させるのは間違いです。
これは、世界中のあらゆる宗教団体が陥る誤謬です。
特に盲信者が多いキリスト教は顕著です。

地上的に「否定」するのではなく、矛盾を認め、含んで、ただ「超越(止揚)」するだけです。
地上的なこと、感覚的なことや損得勘定に、ただ走らなくなるだけのことです。
地上の住人にならずに、地上の旅人になることです。(ただし、インパクトがありません)
この「中庸」を促すのが本来の宗教の役目なのです。

他では、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』標的に 環境活動家が頭突きつけ赤い液体を撒くという事件が起きたようです。
この活動家は「破壊」の意識をもって破壊を抑えているだけであって、同じ穴の狢です。
だから同じ行為ができるのです。
地上的に善か悪かと解決するのでは進歩はしません。
SDGsもこの環境活動家と同じ発想で提唱されたのだと思われますが、地上の解決だけでは根本的に「人間の幸福」をもたらしません。
地上的な善悪を超越(止揚)するのが人間の道です。

私の母はいま入院していまして、入院する少し前から立てません。
トイレにも行けません。
そうすると、どうしてもこう思うのです。
「立てることがどんなに幸せか?」
直後に、13年前にあの修行僧が言ったことをふと思い出しました。
私が、
「自分のできることで世の人々に問い、働きかけ、貢献したい。」
と言うと、
「それは欲ですね」
「雨露をしのぐことができるだけでも恵まれていると思うことです」
私は、直感的に違和感を覚えました。
「これだ、あるルーテル教会の信者が、『仏教は我慢しているだけだ』と誤解する要因は、修行者側にもあるのかもしれない」
「東洋の修行僧は自己実現に終始し、愛がない」
と、エドガーケーシーが言いましたが、その分岐点がここにあるようです。
こういうところで、『足るを知る者は富む』の曲解が生まれるのでしょう。
幸福は地上的な〈達成度〉で決まるわけではありません。
ということは逆に言えば、「足るを知る」は、
「出来ることの程度を我慢すること」
ではありません。
そもそも幸福とは「目に見えること」や「感覚的なこと」ではありません。
呼吸にしても、飲食にしても、立って歩くことにしても、
「満足している時は何も感じない」
ということを知ることです。
「感覚の目」で見るのではなく、「魂の目」で見るのです。(ソクラテス)
そうすれば、地上的、感覚的な〈善悪〉を全速力で追わなくなります。
誤解のないように、念のために言います。
魂の目で見ることで「足る」を知ったからといって、それで《愛》に目覚めるということではありません
「足るを知る」を「地上における(目に見える)達成度の下方修正」とするこの曲解が、内向きの自己実現にとどめさせ、世に働きかける《愛》を阻んでいると言っているのです。
いずれにしても、目に見えないことを目に見えることに、感じないことを感覚的なことに、「意識に上らないこと」を「意識すること」に、「神のもの」を「カエサルのもの」に、「鉛直」を「水平」へすり替える誤謬があらゆる場で生じています。

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