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盲信者への対応(3) [霊的存在]

「一年の計は元旦にあり」
と言ってはみたものの、年が明けてから、例年のような鮮明な初夢を見ることもなく、ブログを更新するネタがないままやがて仕事が始まりました。
(その割にはその間のアクセス数が多く、1日に100を超えることもありましたが、これはけっして良いことではないということが『詳しい人』によってわかりました)
以前にも言いましたが、現在私は非常勤ながら土日も予習や問題作りなど雑用に追われ、思索や文化的活動に耽る暇がありません。
ネタと言えば、幸福の科学の女性やエホバの証人の小母さん(2人)が懲りもせず訪問し、私も懲りもせず真面に応対した時のことぐらいです。

先週、夜9時半頃、雑用を半分終えてからブログを更新しようと思ったところ、突然友人から電話があり、なんと4時間近く話してしまい、結局何も捗りませんでした。
友人というのは、専任教師として勤めたときの同期の英語の先生(Nさん)です。
彼は旅行が好きで、今回も暮れから正月にかけて8日間エチオピアに行ってきたということで、その話でかなり時間を費やしました。
その中で、彼に同行したツアーのメンバーの中に、年に5回も海外旅行に行くという人がいて、
「よく出来るなあ、そんなに収入があるのか?」
なんて話になりました。
私は、「それじゃあ、彼(友人)はどうなのか?」と思ったので聞いてみました。
「Nさん、たしか結婚したての頃、『急に貧乏人になったみたいだ』って言ってたけど、最近はなんか余裕があるみたいだよねえ」
それに対して彼は、
「まあ、あれから月十数万昇給したからね」
とあっさり答えました。
そういえば、51歳の別の友人も、バツ2ながら今はマンションに1人暮らしで、一つの会社に長年勤めているためか、
「月に20万は遊びに使っている」
などと言っていました。
どうやら周りの人たちは金銭的にヌカリなく生活しているようです。
なんだか取り残された感じがしますが、思えば大学卒業の頃になっても就職のことなど微塵も考えていなかったこの私が今更思い悩むのは滑稽の極みというものでしょう。
根本的に地上人生における役割が違うのですから。
そのへんのことを絡めて、エホバの証人の小母さんたちとのやり取りを少し紹介します。

今年最初に訪れたときに、私が役割を自覚して世の人々に発信していることを告げました。
ただ、頭ごなしに「愛」だのなんだの言っても、現代人には通じないということ、それを邪魔しているエゴイズムを「内側からの光(省察・理性)」によって消す活動をしているということを言いました。
また、苦難を乗り越えて、熟して幸福になるという類のことを話しました。
最後に、話を短くするために私はこう言ったのです。
「共通して聖人たちの言っていることは、『無垢の獲得』なんです」

2度目に訪れたとき、前回の私の言動を記憶していたのか録音していたのか、またまた聖書が書かれているタブレットを見せて言いました。
「見てください。あなたが聖書に書かれているとおりの人だということがわかります」
見るとそこには、
「霊的自覚をしている」
「純粋である」
「義に生きる」
「穏和である」
「平和を求めている」
などということが書かれていました。
もちろん私のとっては特に驚くに値しません。
仏典、コーラン、フィロン、シルバーバーチ他、どれを読んでも自分の思考や行動とほとんど合致しているので、自信を持つことはあっても、啓蒙されることはありません。
むしろ、もともとの自身の在り方が聖書や仏典の表現となって表れているといった感じなのですから。
なので、様式に違いはあっても本質はみな同じであることと、同時に末端の表現の拙さも判ります。
小母さんたちの言うことには、
『自分の肉体が自分だ』
『死後の世界はない』
『地上で永遠に生きる』
私には「言葉の限界(一面性)」としてそう表現され得る(ある意味、人間は死なないのですから)ことが一応わかりますが、これはどう考えても一般の現代人には受け入れられないでしょう。(それでも布教しようというのが組織宗教の凄いところですが)

ともあれ、エホバの証人の小母さんたちは、聖書を読むにあたって、1人よりも2人あるいは3人いたほうがいいだろうと言って、なんとか一緒に活動しようと勧誘するのです。
内なる光を優先している私は、当然のことながら、
「その必要はありません」
と言いました。
そう言い終わる直前に私の母親が出てきて、
「いったい何なの?まだやってるの?」
と、不機嫌そうな顔で言ったためか、小母さんたちは気まずくなって出て行こうとしました。
私は咄嗟に、
「あのう、うちの母親はこういうのに興味ないんです。気にしないでください」
と言って見届けました。

思うに彼らは聖書によって啓蒙されたのでしょうが、私に言わせれば、聖書を読んだからといって、けっして、霊的自覚をしたり、純粋になったり、義に生きるようになったり、穏和になったり、平和を求めることはありません。
なぜなら、不完全な人間の言葉で表現されているからです。
そこから出発すれば必ずといっていいほど他の様式のものを否定します。
よって、平和をもたらすことはありません。
今年も大変な1年になりそうです。







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