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よきもの [中庸]

9月になって、寺からもらったカレンダーをめくると、

『わがこころよければ往生すべしとおもふべからず』
(自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり)
とありました。
〈解説文の一部〉それまで自分を「よきもの」として正当化しようとし、ごまかし、言い逃れを続けてきた自己中心的なあり方が白日のもとにさらされる、どうにも否定しようがない姿が言い当てられる。それは私にとって、本当に逃げ場のない厳しいできごとです。そして、その私にとって最も大切な出逢いは、私と共にある存在をとおしてなされます。
 ところが、おそろしいことに私は、そうした自分自身のどうしようもない姿を照らされ知らされた大切な事実をも、すぐにまた、自らを「よきもの」として立てていくことに利用しようとするのです。その時はすでに、自らのあり方を照らされ、言い当てられた時の身の置きどころのなさ、恥ずかしさは消え失せてしまっています。

「わがこころよければ往生すべし」というのは、「私は自力を捨てたからもう大丈夫だ」という心です。
それは自力の計らいですから、浄土真宗では真実の報土へは往生できません。

ならば、人間の活動は「往生する道を歩むこと」に全く無力なのでしょうか?
もしそうなら、
「何をしてもどうせ自力なのだから何もしないで阿弥陀仏にお任せするだけだ」
と、また「自力を捨てたから大丈夫だ」という思考になり、いつまでも「自力」を繰り返すだけでしょう。
そこで、かつて当ブログでも取り上げた『論語』の中の、
「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく」(務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣)
を思い起こしてください。

*樊遅が知とは何か、と孔子にたずねた。
「われわれは、ややもすれば人間を超えた存在に頼る気を起こしがちだ。
しかし、まず人間としてやらねばならぬことは何かと考えること、それが知だ」
⁂人間はあくまで人間の次元において判断し、行動すること。
他方、鬼神には尊崇の念をもちながらも、あくまで人間を超えた存在として扱うこと。
この二つを截然(せつぜん)と分かつのが知であるという。

すなわち、人間の活動は往生に不可欠ではあるのです。

ならば、ここで云う「人間としてやらねばならぬこと」とか「人間の次元」とは何を指しているのでしょうか?
みなさん、この一見矛盾するようなことに対して、どうすればよいと思われますか?

どうやら、こうすれば悟れるとか、ああすれば往生できるとか、そうすれば神や仏に近づくとか、要するに「道」の中に計らいを入れてしまうのが間違いだと言えそうです。
「これだけ他人に施したのだから」
と見返りを期待する「雑毒の善」がその例です。
他力に必要な人間の計らいとは、神仏の光を受けているということを確信するために、それを阻止している曇りを晴らす行為、すなわち思考の反省(省察)、理性の発動です。
これは「神仏の次元」ではなく「人間の次元」です。
盲信者はこれを混同して「自力スパイラル」に陥るわけです。

以前に述べた『幸福』でもそうですが、「幸福になる」のではなく、「幸福である」のです。
人間の計らいによって直接幸福を得るのではなく、理性を発動することで「幸福であること」を知るのです。
あくまでもその結果として無償の愛が実現すると言えます。

そう言っている私は、母親の面倒を契機として、最近ようやく、友人たちその他に対して、真実味を持って接することができるようになりました。
しかし、よきものになったという自覚はありません。
相変わらず煩悩は残り、降りかかる災難や不運を周りの所為にしたくなります。
今後の不安も消えません。
ただそういうものを否定せず、一方的なことに走らないで生きる。
それが往生道なのでしょう。

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