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乾し草 [中庸]

ひと月余り面倒な業務が続きましたが、ようやく一段落しました。
世間では相変わらず蔑視発言が取り沙汰されていますが、それも一段落したようです。
というより、周囲の人を見る限り、商業的な報道に対して案外覚めているようです。
むしろ私のほうが前回までのことを引き摺っていて、野暮用でバタバタしている間もいろいろと思考を巡らせていました。
もうウンザリだと思う方もおられるでしょうけど、今回のことに限らず病める日本にとって大事なことだと思うので、敢えて言及します。
とはいえ、どうも纏まりがつかなくて、何回かに分けてお届けすることになりそうです。
内容が前後しますが、ご容赦ください。

もうひと月前になりますけど、やっと言ってくれたって感じです。
朝の某TV番組である女性識者が熱く語って、思考の反省を促していました。

【機会が平等であっても、結果的に数に差が出来てしまう。「機会が平等」だからと言って、「数を同じにする」とか「同じことをする」というのは違うんです。もともと違うものなのですから】

「機会が平等」というのは「問わない」という消極的で意識に上らないことであり、それをを「平等」という意識に上る言葉で積極的に推進するのは違うのです。
現に政治家への道は男女を問わないのに、実際なるのは男性が多いのです。
これは能力の問題ではなく、意向や資質のためです。
女性の多くは、政治家になりたくないのです。
政治家に限らず、仕事は同等以上に出来ても、出産の関係もあって、家庭に入りたいという女性もたくさんいます。
それを多様性だとか言って、無理やり数を同じに持っていこうとするのは、違うと思います。
こう言い方は好きではありませんが、「男が多いのは良くない」と思うことこそ、「男性蔑視」ではないでしょうか?
と言うより、報道は女性の存在価値以上に男性の存在価値を明確にしていません。

それから、ある女子アスリートのコメントです。
【日本には他の人と同じことをしないといけない文化が アメリカに渡り、他者への視線の違いを痛感した。アメリカではすべて肯定から入るというか、その人がいいと思うならいいっていう風に受け入れてくれます。日本の文化や日本人のよさはありますが、他の人と同じことをしないといけないとか同じ意見でないといけないという文化が同時に存在している。人は一人ひとり違うというのが普通で、一人ずつ違う個性があって、それを受け入れるのが目指すべき社会だと思います。でも今、日本はそうなっていない】

一方で「多様性」を主張していながら、同時に他方で「(数もやることも)同じでなければいけない」と言っているのですから、正気の沙汰ではありません。
池波先生ではありませんが、頭がおかしくならないほうがおかしいのです。
そしてさらに、一つ上の階級で「そういうことがおかしい」と思っても、自己防衛のためか、実に多くの人が、その日本的な「同調圧力」に屈してしまうのです。
(その辺のことに関しては、また後で言います)

前回までの内容に対する反応を見て、どうやら私の説く「平等の一面性(危険性)」や「必要な差別」に賛同されない方が多いということが伝わります。(ネットの状況を見て、だいたい「1:3」くらいでしょうか)
私のような非権威者がいくら熱弁をふるっても、大多数の人はまず聞く耳を持たないでしょうけれど、今回このように著名な識者がTVでひと言発すれば、「分からず屋」たちも、「あれ、何かな?」くらいは思うかもしれません。
「権威のない人間の百回の戯言は、権威のある人のひと声に如かず」
まあ、そんなもんでしょう。
根本的には理解していないことになるので、本来は望ましくないのですが、少しでも大衆に考えるきっかけを与えるのならそれでも良いと思います。

ただ、その番組の司会者が女性識者の発言を何とか止めようとしていました。
なにか都合の悪いのでしょうか?
そうです。
マスゴミは「考える人」が増えてもらっては都合が悪いのです。
どこかの支配者たちと癒着しているのかもしれません。
利己的支配者は、老若男女問わずたくさんの人を安い賃金で使うことによって、人手が足りて余っているにもかかわらず、「(都合のいい者の)人手不足」を訴え、結果的に就職難になることから、しがみ付かせて、魂の奴隷を作ろうという魂胆があります。

夜の番組でも、「夫婦別姓」を主張する夫婦が“亀井さん”に会って話をする場面がありましたが、亀井氏は、
「そんなの得手勝手だ!」
「だったら結婚しなければいい」
「愛し合っているんだろ?それだったら一つになることだ!」
「日本は天皇の国なんだ。国家の恩恵を受けておきながら、国家に何もしないなんて勝手すぎる」
と少々憤慨していました。(西洋でも、結婚すれば妻は夫の姓を付けます)
私もそう思います。(「天皇の国」は大袈裟かもしれませんが)
なにかすべてが自分(個人)本位になっている感じです。
家族や国家や人類に対する「義」が失われているのです。
それに、事情はあるとはいえ、こんなことで折り合いを付けることができないなのなら、所詮うまくいくわけがないと思うのですが、どうでしょうか?
(私が以前4年間在職したT校の職員室には夫婦がいました。職務上の都合で別姓を名乗っていましたが、戸籍上は同姓と思われます)

ここから少し話が飛躍します。
ある識者が言うように、もはや資本主義及び貨幣制度は行き詰まりました。
被支配者の庶民が働けば働くほど、そして成果を上げれば上げるほど、経済活性化の利益が支配者に吸い上げられ、庶民は相対的にますます貧しくなる構造になっています。
被支配者が貧困から脱するには、競争して「模範囚」の座を勝ち取るしかありません。

どうやら言葉の一面性が「自由平等」を独り歩きさせ、強欲を野放しにしてしまったようです。
ムヒカ大統領の言葉を借りますが、みんな幸せになるために生まれてきたのに、これ以上なぜ限られた富を、老若男女が一斉に心身をすり減らしてまで争って奪い合う必要があるのでしょうか?

それを知ってか、最近の若い人たち、特に一流大学の学生たちの中には、
「なんでわざわざ使われる側になろうとするんだ?」
と言って、起業することを考える者が増えているようです。
そうして成功すれば、比較にならないほどの収入を得ることができるし社会貢献もできるというのが彼らの言い分です。
でもどうでしょう?
一見真っ当なようで、何か抜けていませんか?
本人にとっては使われているより、世の中のために何か役になっているという充実感は生まれるでしょうけど、全体を客観的に見渡せば、使う側に回っただけであって、資本主義や貨幣制度そのものが変わるわけではないので、雇用に関しては相変わらず霊的奴隷を作り続けます。
大川氏の言葉を借りると、本気で社会貢献を考えるのなら、資本主義や貨幣制度そのものを取っ払うなどの時代破壊的行動をする必要があります。
エゴのための空気は読まないことが前提です。
(“職人”が生きる社会になってほしいものです)

概して、日本の中の優秀と言われる人たちの思考が、世間から認められる立派な人間、あるいは世間が羨む社会的成功者になることだけになっているように思えます。
「義」がないこと、これが小野田少尉の言っていた「利己主義」に当たるのでしょうか。
よく価値観の違いだと言う人がいますが、そうではないと思います。
どこまでも「地上的」なのです。(物質に限らず、末端の表現である言葉もそうです)
では、地上的な物に執著し地上的な事に終始し続けるとどうなるのでしょうか?

kannsousha.jpg
H.ボスの『乾草車』を見てください。
乾し草(地上的なものの象徴)の取り合いです。
行き着く所は地獄です。
「ならば、どうせ行く先は同じなんだから、どう考えてもどう行動しても一緒じゃないか?」
と思う方もいると思います。
でもそれは、スピリチュアリズム及び量子論からすれば、並行宇宙の選択肢の一つであって、地獄は自分が招くのです。
ということは、自分次第で深みに嵌まるのを防ぐことができるはずです。
地上経験において、深みに嵌まらずカルマを清算すること、地上の住人とならずに地上の旅人になることです。
繰り返しますが、私のような類の人間はみな、人々がそのきっかけを掴むために活動しているのです。
自分次第で「光」を選択することができるはずです。

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