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反共 [中庸]

「日本という国に希望が持てなくなった」
と叫ばれるようになって何年も経ちました。
今日、報道番組である知識人が民主主義の劣化を指摘していました。
少子化で若者が少なくなり、選挙に行っても超マイノリティーゆえ影響力がないから行かないという「シルバー民主主義」がその象徴です。
もともとは資本主義において、支配者の暴走を防ぐという意味での民主主義だったと言います。
しかし、所詮民主主義とは〈多数派による暴力〉です。
民主主義は必ず劣化します。
選挙において多数派が《和》を重んじる代表者すなわち君主(霊的指導者)を選ぶのなら良いのですが、実際は自分の損得上都合の良い代表者、《和》を重んじない代表者を選びます。(?和して同ぜずの和です)
霊的に思考する人は常に少数派ですから、原理的に民主主義からは君主は生まれません。
つまり、利己主義に陥った多数派の国民が選んだその代表者が指導者なのです。
今の日本の指導者は、利己主義の国民の象徴なのです。
当然、自己保存のため政治家は票集めに奔走します。(学校の教員も然り)
これが民主主義の末路です。
〔再度言います。20年ほど前に大島監督が『国民がみな守りに入ってしまった。これは危険なことだ』と言いましたが、私はバブル崩壊後にすでにそれを感じました〕
報道番組でも紹介されていたように、世界的に見ても、ここ10年では民主主義国家は何においてもうまくいかず、むしろ専制国家のほうが成長しているようです。

私が絶望するのは、こういう状況下でさえ、ほとんどの人が民主主義を〈善〉として押し進め、ジェンダー平等を〈善〉とする(結果的に同じことをする)のが当然のこととして実現しようとしていることです。
今世間を賑わす報道を見ていると、私は人類全体が地べたに押し潰されるような感覚になります。

そんな中で特に気になったことがあります。
“旧統一教会が「反共産主義」を掲げるがゆえに自民党と親しい”
という報告です。
これって、その時点で本来の宗教からかけ離れているのではないでしょうか?
そもそも政治と宗教は、人間の活動として「一体」ではあっても、「別の次元」なのですから。
共産主義であろうと資本主義であろうと、主義というのは地上のイデオロギーであって、流動性確保や秩序維持の方便です。
神はそれらを超越するだけで、「肯定」したり「否定」したりはしないはずです。

現代の地上社会はあまりにも一方的なことが蔓延しているので、真っ当なことを言っても真っ当なことをしても通じないというのは確かです。
そのため、やはり極端なことや一方的なことをしなければ、影響力を持ち得ません。
結果、地上の攻防に終始して、神の心から離れてしまうのでしょう。

たしかに今の地上の人間は、概して言葉による極端で一方的な思考で動いています。
ジェンダー平等を善、ジェンダー不平等を悪と一方的に謳うのは悪平等です。
そこで旧統一教会はタリバン同様、「ジェンダー平等反対」を掲げます。(本来は男女分離であって、権利は平等、役割は別)
結婚の条件が経済力や社会的立場や容姿に偏るのは、ほとんど霊的に正しい結びつきではありません。
そこで旧統一教会は、霊的に正しい結びつきを教祖が決める「合同結婚式」を遂行します。
(※私はどちらもダメです。前者は条件が揃いません。後者は不可能です)
(☆純粋な意味では賛同するところもあります)
〈一方的なもの〉に対しては、どうしても〈一方的なもの〉で対抗しなければ太刀打ちできないという地上の事情はわかります。
でもその太刀打ちするというのは、どんな事情があるにしても本来の宗教のあり方ではありません。

ところで『共産主義』とはどういうものなのでしょうか?
あいにく歴史的背景や政治的な影響などに関して私は詳しく知りません。
ネットなどで調べても、曖昧なところや国や時代によって異なるところがあって、ひと言では言い切れないようです。
少なくとも経験として私が共産党の人たちと関わって感じることは以下のことです。

・はじめから偉い人がいてはいけない
・偉い人とはみんなが偉いと認めた人だ(ある意味民主主義的)
・ただし、そのよりどころが「地上の道徳」であり、偉い人とは、目に見える形で世の中を改善した人、犯罪者にならない人など、地上道徳的に立派な人である(理性神・偽神ユリゼン信仰)
・地上の延長上に本物の《善》があると思っているため、偽善はいけないと言って地上に本物の《善》を求め続け、結果として周りからは〈偽善者〉だという陰口が多くなる
・ただし、「勤勉と怠惰」のように、地上の〈善〉と〈悪〉はその場のよって逆転することがあることは認めている
・イエスやソクラテスなどの聖人は地上的には受刑者であり、地上的には権力者をやっつけられずに屈しただけであるから、ちっとも偉くないとする
・人間の意識はすべて脳の産物であり、色や形は誰にとっても同じに見えるはずだと、「語り得ぬこと」を語る(唯物論)
・生物の進化によって「人間(知性・社会)」が生まれた
・神や霊といった目に見えないものは根拠がないと言ってひとまず否定する
・宗教は神仏を「恐れ多いもの」として支配者や権力者の統率や戦争に利用されることはあっても、世の中を良い方に変えるような政治的な「力」はまったく持たないとする
・宗教に関しては、まったく認めないわけではないが、良い宗教と悪い宗教があって、その違いが、「カネをとるか取らないか」である
・組織における「上からの圧力」に対しては徹底して抗い、利己的でなく、自身のことでなくても「義」をもって行動する
〔⁑異論はあるかもしれませんがご容赦願います〕

何度も言いますが、社会には「落差」がなければすべてが流れません。
それに、唯物論(実在論)は顛倒妄想であって、人類の進化を阻んでいます。
そういう意味では、各宗教団体は動機としては「純粋なもの」があったと思われます。
まあ、共産主義が宗教を否定するから、宗教団体は反共産主義だというのは当然のことでしょう。
しかし、反共産主義がなぜ自民党に傾くのでしょうか?

友人に尋ねると、自民党はある右翼団体と関係があるのだと。
ネットで調べたら、それらしき事実はあるものの、自民党の「右翼」の意味が「国粋主義」ということではなく、単に「保守政党」だから「右翼的」ということらしいのです。
共産党が左翼的だから反共は右翼的というのは短絡的な気もしますが。
どうやらリベラル(左派)の対は、保守(右派)というよりパターナル(権威主義)らしいのです。
もはや反共というより勝共という感じです。
要するに、権力を得て政治的に「支配」の側に立つという目論見があるのでしょう。
創価学会も幸福の科学もそれで政治参入を図っているようです。

たしかに「神の王国」や「仏国土」の実現のために地上的力にじかに対抗するには、方便としても地上的力が必要です。
そして、地上的力で勝れば神の王国や仏国土が実現するはずだと想像することはできます。
しかし本来の宗教としては、同時にその時点で必ず堕落の道へと進みます。
なぜなら、いたずらに盲信者や悪しき聖職者を増やすことになるからです。
人間には知性があり貪欲があるからです。
そしてその組織のトップや幹部たちは、神の子からベリアルの子へ成り下がります。
最初に純粋な動機があったにせよ、いつの間にか、「ベリアルvs.ユリゼン」(正反対とは限らない)という地上の攻防になってしまいます。
共産側からすれば、
『見えないものを排除する』から「見えるものと闘う」への変換です。
《鉛直》から〈水平〉への移行です。
そもそも権力とか権威というものは、本来の宗教と相容れないものです。
あってはならないというのではなく、執著から離れる、超越するのが宗教です。
人間は社会的な生き物であって、権力とか権威とか差別などの「落差」があって流動性や秩序が保たれるわけですから、神の心の中にあることはあります。
ただそこで分岐点があって、知性が貪欲を生んで、いわゆる「媚び諂い」になると、ベリアルの子への道へ進みます。
地上的勝利を目の前にぶら下げられて魂を売ることはすなわち霊的敗北です。
純粋な宗教者、道の人にとっては、パンを得るために純粋無垢を捨てるくらいなら、飢え死にしたほうがマシなのです。
親鸞聖人のように流刑にされても、あるいは西田先生のように退学させられても、また究極的にイエスやソクラテスのように死刑にされても、信念を貫くのが道であり霊的勝利なのです。

【反共産主義に関するネットでのある方のコメント】
これまでの皆さんのご意見には大きなポイントが抜けています。
共産主義は宗教を否定しています。
(*)「宗教はアヘンだ」とまで言っています。
(⁑)唯物論からは帰結として無神論となります。
ここが宗教との大きな対立点となり、公明党と共産党が激しく対立しているのはこのためですし、キリスト教もイスラム教も神道も共産主義には反対です。
【終】

一方で、本来の宗教を実践するある仏教寺院の住職は言います。

《本当の宗教とは「迷う力」を与えるものです》
《生きる苦しさから逃げる宗教はすべてニセモノです。》

まさにその通りです。
本来の宗教は、「道」を行く切っ掛けと力を与えるものです。
キリスト教的に言えば、単に息子を帰宅させるのではなく、息子に放蕩するだけの力と帰宅する機会を与えるものです。(はじめからおとなしく家に居るような「いい子」にはさせません)

何度も言いますが、今の地上の組織宗教のほとんどが「ニセモノ」です。
思考停止の盲信です。
神という見えないものが、空間を占めるように自分とは別にどこかに居ると「信じる」という神盲信です。
信じれば救われる(=楽になる)、すなわち家畜になるというのが信仰の目的になってしまっているのです。
その前提で言えば、共産主義者の言うように、間違いなく宗教はアヘンです。
ある共産党員が、
「坊主に何ができる」
と、口癖のように言っていましたが、まさに、
「アヘン中毒者に何の力もない」
ということになります。
たしかに今蔓延るエセ宗教なら、共産主義が宗教を否定するのはもっともなことです。

でも実は、共産主義が宗教を否定するのは、それが「ニセモノだから」というわけではないのです。
〔★そもそも本物が何かを知らないので、ニセモノかどうかを見破れません。ひとえに、思考がすべて「地上的」だからです。一般に〈地上の住人〉には自分が地上にへばり付いていることさえわからないのです〕
唯物史観が前提にあるので、目に見えないものはすべて物質から生まれた副次的なもので、あらゆる問題は物質ですべて解決できるという思考なのです。
「神というものは、支配者や権力者が大衆を恐れさせて、従わせるために人間が作ったものだ」
とまで決め込むのです。
やはり、共産主義も神仏や霊的な存在を「信じるか信じないか」の域を超えず、「信じない」というだけなのです。

*もっとも、何を言っても解らない〈地上の住人〉たちは、この『放蕩息子の帰宅』でさえ〈敗者〉だと言うでしょう。
*〈地上の住人〉の支配者は、魂を売らないで権力に媚びない人に対しても、「逃げ口上」だとか「自己弁護」だとか言って、唆して奮い立たせようとします。
*概して、状況にアジャストして自己保身で解決するだけの〈地上の住民〉は、道を説く人の《逃避》を、盲信者の〈苦しさから逃げること〉(アヘン)と一緒くたにして、宗教全体を排除してしまいます。
*良心のある人は、自分や周囲の人々の首を絞めることに助力するだけで、媚びるのが馬鹿馬鹿しいから、(給料をもらえるという)執著から離れるのです。〔天山遯〕
〔⁂保健所の職員は、保証金目当てで『陽性』を装う人たちに健康を気遣うのがバカらしくなって辞める人が続出しているそうです〕

まとめるとこうなります。
今のほとんどの組織宗教と共産主義は、いずれも唯物論(実在論)を前提とする地上的思考法であり、
「信じるか信じないか」
「神盲信か無神論か」
の違いに尽きます。
どちらも、自らの省察による霊的自覚から神仏を「知る」ことはしません。
よって、現在目にするような地上の攻防に終始することになるわけです。
いずれもそこから生まれた統率者は、あくまでも地上的であり、霊的指導者ではあり得ないので、過去の事実を見れば明らかなように、一般の民衆は人間性を阻害されることになります。

みなさんどうでしょう。
地上的観点で、一方を立ててもう一方を排除するということが、いかに地獄的かがわかると思います。
それよりも、良心で生きる私たちは霊的視点に立って、たとえ小規模であっても、《義》をもって責任ある充実した行動をとろうではありませんか。
今回も長くなりました。

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