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目には目を [中庸]

ネットを見たら、10万人のフォロワーがいるというMさんの記事がありました。

【引用】
『聖書の教え「目には目を、歯には歯を」、誤解されやすいフレーズの「意外な真意」 「復讐の連鎖」を望んではいない』

《目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。》(出エジプト記21:24~25)

「目には目を、歯には歯を」と言うと、「相手にされたことを、同じだけやりかえしてやれ」と、復讐を肯定し推奨するフレーズだと思っている方が少なくありません。
しかし実は聖書が意図しているのはこれとは正反対に、過剰な復讐を抑制することなんです。
このフレーズが真に意図することは「目をつぶされたとしても、相手の目をつぶすだけにとどめなさい。歯を折られたとしても、相手の歯を折るだけにとどめておきなさい」ということです。
一昔前に「倍返しだ!」なんて言葉が流行しましたけれど、この言葉が象徴するように人間というのはついつい、人に何か嫌なことをされると、相手にはそれ以上に嫌な目にあってもらわないと気が済まない、と思ってしまう性質を持っています。
それは聖書の時代から同じだったようで、当時は「片目をつぶされて頭にきたから両目ともつぶしてやった」とか「歯を折られて頭にきたから殺してやった」とか、過剰な復讐が横行していました。
これをやってしまうと、復讐から復讐の復讐、さらに復讐の復讐の復讐……と復讐の連鎖が止まりませんし、連鎖するたびに行為はエスカレートしていきます。
現代の刑法にも通じる聖書の教え
「倍返しだ!」の例で計算すれば復讐で2倍、復讐の復讐は4倍、復讐の復讐の復讐は8倍……と、雪だるま式に、難しい言葉で言えば指数関数的に行為がエスカレートしてしまいます。
あのアインシュタインさんは「人類の最大の発見は複利だ」と言ったとか言わなかったとか言われていますが、こんな調子で復讐がエスカレートしたら「一人殺されたから家族を皆殺しだ」「家族を殺されたから村ごと皆殺しだ」「村を滅ぼされたから国ごと滅ぼしてやる」と、あっという間に世界が滅亡しかねません。
だから神様はそんな人間を見かねて「目をつぶされたら目だけにしておけ。歯を折られたら歯だけにしておけ」と、復讐のエスカレートを止めたわけです。
そして神様は別の箇所では「復讐はしてはならない」とも言っています。ですから聖書全体のニュアンスで言うならば「復讐はダメ。でもどうしてもというのなら、目には目を歯には歯をくらいで止めておきなさい」くらいです。

神様は「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」とか「自分で復讐してはいけません」とも言います。これは現代の刑法の理論にも通じるものです。
少なくとも現代日本の刑法ではいわゆる「仇討ち」を禁止しています。これは自分で復讐する代わりに、国や社会がその悪者に罰を下すから自分でやってはいけません、ということですが、これと同じことを刑法が確立するずっと前から神様は言っているんです。
せめて「倍返し」はやめませんか
つまり「悪い奴には私がちゃんとお仕置きをするから、君が自分でそいつにお仕置きしなくてもいいんだよ。君の時間と労力はもっと他のことに使うべきだよ」ということです。
「復讐は何も生み出さない」なんてよく言われます。それに同意する方も多いかと思います。しかし実際に自分が被害者になると、たとえ頭では「復讐はいけない」とわかっていても、心がそれを許さなかったりします。
そして社会や刑法による処罰も、「被害者はひどい目にあって死んでしまったのに加害者はのうのうと生きている」とか「詐欺で逮捕されて服役したけれど、出所した後は裕福に暮らしている」とか、必ずしも加害者をちゃんと懲らしめていると言えないことが多々あります。
そんな時には「やっぱり復讐は自分で」と思ってしまうかもしれません。
人の作った法では被害者に寄り添うことはできません。しかし神様は「最終的に私がすべてを完全に裁くから安心しなさい」と、被害者心理に寄り添ってくれます。
それは必ずしも目には見えないものですから、被害者たる僕たちは理不尽を感じることもあるかもしれません。だからこそ僕たちは往々にして復讐を自分でしてしまうものです。
だからこそ「倍返し」なんて言葉が流行したりもするんです。しかしだからこそ、せめて「倍返し」はやめませんか、と思うんです。
【終】

それに対して、何名かのコメントがありました。
【Aさん】
『聖書は、キリスト教の布教を理由に他民族を征服して植民地化するために造られたバイブルなのではないか?〇〇キリスト教会は日本人のお金を奪って韓国を豊かにする為に考えたと教祖(韓国人)が言っています。』

【Bさん】
聖書とかって他人を不幸にさせるための書物でしょ。
だから、争いが絶えないと感じます。そんなの捨てて人が喜ぶ事を考え、尽くす。その考えだけが真の姿かと。

【Cさん】
イエスに騙されての他国侵略の例は枚挙に厭いません。それを「神が最終的に…」などと言うのは詭弁そのもの。神の詭弁・駄弁によってどれだけの人間がこの2千年の間どん底に落とされてきたか、この人知っている…?

もうわかりますね。
Mさんの見解はとても聖職者のものとは思えません。
それに対する他の方たちも、ピントがズレていて、話になりません。
昨今の宗教団体の金銭や癒着の問題に目がくらんで、本来の宗教はどうかという肝心なことが何も見えなくなっています。
そのためか、「宗教」と聞いただけで、拒絶する人がほとんどになりました。
組織の腐敗をイエスのせいにするなどは、戦争を天皇のせいにするのと同じ思考です。
概して思考があまりにも「地上的」です。
(それでも賛同する人が多いのですから呆れます)

私はたまらずコメントしました。
もっとも、理解していただけるとは思いませんが。

【私】
イエスの教えと、キリスト教の教義は別物です。
後世の教会(組織)が信者を手懐けて教会の権威を保つために都合よく作り替えただけです。
イエスは聖人であって、地上の法(善悪)に関しては、具体的には言及しません。
(カエサルのものはカエサルに)
聖書は比喩で表されていますから、解る人にだけ解かるようにできています。
「特定の竿で測る者は、自らがその竿で測られる」
「人を裁くものは、自分も裁かれる」
わかりやすく言えば、
「1円を笑う者は、1円に泣く」
ということです。
お金が多いか少ないかを気にする人は、お金に「執著」があるということです。
ダンテの神曲の地獄篇に、「浪費家と吝嗇家」がいがみ合っている場面がありますが、同じ穴の狢であり、どちらも「自分自身を攻撃している」ということです。
イエスは、こういった「執著」や「地上の攻防」を超越すること(中庸)を説いているのです。
それを後世の〈地上の住人〉たちは理解できずに、曲解して、別のものを作り上げたのです。
【終】

コメントを書き込んでからすぐに食事と買い物のために私は外出し、お隣の市川へ行きました。
駅ビルを出たところで、あるキリスト教会の女性から一枚の印刷物をもらいました。
https://photos.app.goo.gl/zpyPbRtXfGqU9ABTA
宗教にとって逆風の中、果敢に活動しているのですから感心します。
でも内容は、相変わらず、「信じるか信じないか」という〈賭け事〉になっています。
(盲信だからかえって挫けないのかもしれません)
何が天国で、何が地獄か。
賭け事ではなく、上記の〈浪費家と吝嗇家のいがみ合い〉からもわかるように、自らの省察という実践によって覚ることなのです。
イエスはそれを促すように「道」を与えているだけなのです。
また、「永遠の命を与えた」というのは本来は、「自分=自分の肉体」ではなく霊的存在だという『霊的自覚』を意味しているのですが、この文章では、イエスの超能力者ぶりがかえって邪魔して、《永遠の命》を〈肉体の永遠〉と曲解させてしまいます。

私はもう失望のどん底です。
私の活動がどれだけ無力か、痛感させられます。
地上の経験もせいぜいあと20年。
母親もすっかり老いてしまいましたし、送る責務を終えた後は、残りの人生に何の意味があるというのでしょうか。
早く『故郷?』に帰りたいという気持ちです。

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