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コーランについて [霊的存在]

ここのところ肉体の劣化に悩まされた私も、ようやく術後の出血がほぼ止まり、自由に行動できるようになりました。
これも、自我を超えた存在の働きなのでしょう。

今年になって私が購入した書物と言えば、「コーラン」の文庫本とフリーメイソンの本と五井昌久の40年~50年前の講演をまとめた「永遠のいのち」ぐらいで、しかもどれもまともに全部を読んでいません。
というのも、特に新鮮なことがないからです。

「コーラン」はもっと格調高い内容なのかと思っていたのですが、意外と人間臭く、信仰が半端な信者や頭の固い他教徒に対する批判が半分近く占めている感じです。

〔抜粋〕「彼ら(異教徒)に向かって、『アッラーの下し給うたものを信奉せよ』と言えば、『いや、わしらは御先祖様たちのやっていた通りの道を取る』などと言う。何たることか、その後先祖たちが、何にもわけのわからぬ馬鹿者で、迷いの道をうろついていた連中だったとしてもか。神を信ぜぬ者どもをものの譬えで説こうなら、まず何と呼びかけても(ただ意味のない)喚声や叫声としか聞いてくれない(動物)のようなもの。つんぼで唖で目くらだから、何が何だかわかりはしない。」

もちろん、〔抜粋〕
「本当の宗教心とは、汝らが顔を東に向けたり西に向けたりすることではない。」
「本当の敬虔とは、家に後側から入るというようなことではないこともな。本当の敬虔とは神を畏れかしこむ気持ちのみ。」
というように、本質をとらえ形式にとらわれない真の信仰を説いています。

まあ、これは形骸化しつつある既成の宗教に対して、新しい聖人が新たに神から啓示を受けてそれを人間の言葉で表現して、浄化を図ろうという動きであって、「ユダヤ教に対するキリスト教」や「すべての形骸化した宗教に対するスピリチュアリズム」と同じことでしょう。
再三言うように、スピリチュアリズムの普及に尽力する私も、組織化し形骸化した既成の宗教にしがみ付いて受け売りと他宗教批判に終始する信者たちの思考や行動にはイライラして、「本質」ではなくお互いの「末端の揚げ足取り」に対して批判したくなります。
しかし、アッラーの啓示が新鮮だったイスラム教も、組織化形骸化した今となってはどうでしょう?
言うまでもありません。

実はスピリチュアリズムに関してもその傾向が表れていると思うのです。
私はそれを正して原点に帰ろうと訴えているわけですが、今のところ思うようには行っていないようです。

五井先生の本については、次回にします。


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